第1話「閣下、それは俺の仕事です」
結論から言う。昨日の夕食を最後に、俺は一度も毒見をしていない。
毒見役として雇われ、銀の毒見皿を持ち、決まった時刻に決まった椅子へ座っている。ここまでは完璧だ。問題はその先にあって、俺が皿へ手を伸ばすより早く、雇い主の手が伸びてくる。
朝食で二度。昼食で二度。そして今、夕食で五度目が起ころうとしている。
ヴァルドレイ邸の長卓には、20人ぶんの椅子を並べられる長さがある。実際に使われているのは端の2脚だけで、残りは布をかぶって壁ぎわに寄せられていた。屋敷が広いというより、人の減った家なのだと分かる眺めだ。
その2脚の片方に俺が座り、もう片方に雇い主が座る。
今日の献立は干し鱈と豆の煮込み、麦のパン、青菜の塩もみ。毒見役の目で見ても、匂いにも色にも引っかかるところがない。つまり今日は平和な日だ。平和な日ほど、仕事はきれいに片づけたい。
銀の毒見皿を構える。手を伸ばす。
「よせ」
伸ばした指が途中で止まった。
「閣下。俺はまだ何も申し上げていませんが」
「先に食う」
「それは昨日うかがいました」
「なら話が早い」
早くない。何一つ早くない。
この人の言葉は短い。短いうえに、こちらの言い分を検討した形跡がない。命令だけがぽんと置かれて、理由の欄は空白のまま提出されてくる。前世の職場にもこの型の上司がいたけれど、あのときは黙って従えた。書類には毒が入っていなかったからだ。
「では、俺が先にいただきます。それが仕事ですので」
「お前は食うな」
「食べないと毒見になりません」
「では俺が毒見する」
いま、この人はなんと言った。
毒見役の座っている食卓で、公爵が毒見をすると言っている。職務の否定どころの話ではない。役職ごと消しにきている。
「閣下。毒見役が毒見をしないなら、俺はここへ何をしに来ていることになるんですか」
「座っていろ」
「座っているだけの人間に、公爵家は年俸を払うんですか」
「払う」
払うらしい。
助かる、と一瞬思ってしまった自分が情けない。前金の半分はもう故郷に送ってあって、妹はその金で冬の薪を買う。俺の給金には俺以外の生活がぶら下がっている。
でもそれとこれとは話が違う。働かない毒見役は、次の毒でいなくなる毒見役だ。
俺は椅子を拳一つぶん前に出した。距離を詰めれば、次は俺のほうが早い。逃げ足の速さだけで生きてきた男だぞ。手の速さだって鍛えれば追いつく。
次の鉢。青菜の塩もみ。
行く。
行った、と思った時にはもう、鉢は長卓の向こう側にあった。
「速すぎませんか」
「慣れている」
「何にですか」
返事はない。一度だけこちらへ目を向けて、それきり自分の鉢に戻る。
壁ぎわに立っているマレンさんは、まばたきもせずに一部始終を見ている。止めない。驚きもしない。つまりこの光景は、この屋敷にとって新しいものではないということだ。
クレイス・ヴァルドレイは干し鱈を口へ運んで噛んで飲み込んだ。美味いともまずいとも言わない。頬の動きだけを探して、それ以外の変化を何も見つけられなかった。食事というより、決められた分量を体に入れる作業の記録を眺めている気分になる。
「閣下。せめて、俺が匂いだけでも確かめてから——」
「下がっていい」
「まだ食事の途中です」
「俺の食事だ」
正論だ。腹が立つくらい正論だった。
立ち上がるとき、干し鱈の湯気が鼻先をかすめた。塩の抜き方が丁寧で、生臭みが一切残っていない。この屋敷の料理長は腕がいい。腕のいい料理人の皿を、俺は毎食かたわらで眺めては下がるだけの生き物になる。
拷問だな、と思う。
食堂を出たところで俺の腹が鳴った。当たり前の話だ。毒見役の食事は『主人と同じものを先に少量』という形でしか存在しない。先に食えなければ、俺の夕食もこの世に生まれてこない。
働かせてもらえず、飯も食えず、それでも給金だけは出る。字面は天国だが中身は詰んでいる。
執務室へ続く廊下は、屋敷でいちばん床のすり減った場所だ。先代の代からここを行き来した人間の数が、木目の凹みになって残っているのだと、来た日にトビが自慢げに教えてくれた。
そこで俺はマレンさんを待ち伏せした。
「マレンさん」
「毒見役。廊下で人を待つのは行儀が悪うございます」
「行儀を気にしている場合じゃないんです。毒見役の職務規定って、どこに書いてあるんですか」
マレンさんの眉が、ほんの少しだけ上がった。53歳の侍女頭は驚き方まで節約する。
「契約の写しは執務室の書棚に。お読みになりますか」
「読みます」
「平民で字が読めるのですね」
「前の仕事で、書類ばかり見ていたので」
嘘ではない。品質管理という仕事は9割が書類だ。異臭を嗅ぐ時間より、嗅いだ結果を記録する時間のほうが長い。
マレンさんは書棚まで取りに行かず、その場で暗唱を始めた。声に迷いがない。この人の頭の中には、この家の書式が丸ごと入っている。
「毒見役。主人の食事、飲料、および口に触れるいっさいの物について、主人より先にこれを検める者。作法は取り分け、匂い、色、銀器の曇り、少量の摂取の順とし、所要は一分を目安とする」
「……そこまで決まってるんですね」
「決まっております。書式を持たない家は、いずれ毒で潰れますので」
「じゃあ、その順番を主人が全部横取りする場合の規定は」
「ございません」
「ないんですか」
「そのような事態を、書いた者が想定しなかったのでしょう」
書式の世界にも穴はある。前世でもそうだった。手順書が役に立たなくなるのは決まって、書いた人間が「まさかそんなことをする奴はいない」と思った場面だ。
「もう一つ聞かせてください。毒見役の解任って、どうやるんですか」
「公爵家の書式に、解任状というものがございます。理由と日付を記し、雇い主の署名を入れて本人へ渡す。署名のないものは紙切れにすぎません」
紙切れ。覚えておこう。この屋敷で自分の首がどう飛ぶのかを知っておいて、損をすることはない。
「その解任状って、今どこにあるんですか」
「必要になったときに、執務室で書かれます。この家に、書かれたものはございません」
書かれる日が来る前提の言い方だな、と思った。
「マレンさん。前の毒見役の人たちも、こんな感じだったんですか」
「こんな、とは」
「毒見をさせてもらえない」
マレンさんの手が、腰の鍵束を握り直した。金属のこすれる音が短く鳴って、すぐ止む。
「若様が毒見役の皿に手をつけさせたことは、一度もございません」
「……一度も」
「一度も」
だとしたら、俺だけが特別なわけじゃない。昨日、あの人が皿を取り上げた手の速さも、俺個人に向けられたものではないことになる。
なんだ。そうか。
そう思ったのに、胸のあたりの据わりが悪い。安心していいはずの情報を受け取って、安心しきれていない。
「では、なぜ毒見役を雇うんですか。使わないなら、いないほうが安上がりでしょう」
「家の体面でございます。公爵家の食卓に毒見役がいないと知れれば、外は好きなように読みますから。あの家はもう毒を恐れていない、と」
「恐れてないんですかね、あの人」
マレンさんは答えなかった。鍵束を腰に戻し、そのまま歩き出す。数歩進んでから、振り返らずに言葉だけをよこした。
「毒見役。あなたの仕事は、若様に毒を口へ入れさせないことです。皿の順番ではありません」
そのまま、曲がり角の向こうへ消えていく。
俺は一人残されて、しばらく凹んだ床を見ていた。
皿の順番ではない。競走で勝てないなら、競走が始まる前に勝て、ということだ。
毒は皿に乗る前に入る。皿に乗る前の場所は厨房で、厨房には、前任者の頭を包丁の柄でこつんとやったという料理長がいる。
……明日、行くしかないか。
腹がもう一度鳴った。今日の夕食は俺にはない。




