第0話「はじめての毒見、はじめての遺言」
今日、俺は死ぬ日らしい。
前世で妹が実況していたゲームの中で、俺は今日この時刻に毒を食って死ぬ。それが俺の役どころだ。名前も出ない毒見役で、台詞は「お待ちください」の一言きり。言い終える前に喉を押さえて倒れる。画面の前で妹は笑っていた。うわモブ死んだ、と。笑うな。それは俺だ。
というわけで遺言を考えている。
まず妹へ。俺の部屋の漫画は捨てずに売れ。全巻そろっているやつは箱ごと持っていけば値がつく。冷蔵庫の奥のプリンは俺のだったけど、もういい、食え。それから前の職場の同期へ。月末の棚卸しを俺に押しつけて先に帰った件、忘れていないからな。呪う。
……遺す言葉の格が我ながら低い。
27年生きて残せたものが、途中まで読んだ漫画と他人への恨みだけ。異臭と変色を見つけるのが仕事だったのに、自分の体の異常にだけは気づけないまま床に伸びた男。それが俺の前世の総括になる。
だから今世では絶対に無理をしないと決めていた。逃げ足には自信がある。危なくなったら真っ先に逃げる、そういう生き方でいくつもりだった。
その方針が今まさに詰んでいる。
ヴァルドレイ公爵邸の食堂は、夕食どきでも明かりを絞る。長卓の奥の壁に三本の月桂樹を組んだ家紋の織物が掛かっていて、火が少ないせいで銀糸の部分だけが暗がりに浮いている。
その下に、雇い主が座っていた。
クレイス・ヴァルドレイ。20歳の公爵当主。3歳のころから毒を盛られ続けて、それでも生きているから「死なない公爵」と呼ばれている人。
黒い髪を耳の下で切ってあるのに、後ろのほうだけ長さが揃っていない。自分で鋏を入れる人の頭だ。
俺の席は長卓の右手前で、主人の皿までは腕一本ぶんの距離しかない。近い。近すぎる。この距離が仕事の条件だと説明されても、俺の心臓には別の意見がある。
「毒見役」
背中にマレンさんの声が落ちてきた。侍女頭で、この屋敷の采配を全部握っている人だ。53歳と聞いているが背筋がまっすぐで、声だけで人を立たせる技術を持っている。
「お始めなさい」
「……はい」
銀の毒見皿を手に取る。公爵家の備品で、毒見役以外は触れない。手のひらに乗せると、見た目より重かった。
手順は決まっている。主人の皿から取り分けたら、匂いと色を見て、それから銀器の曇りを確かめる。最後にひと匙。全部で1分もかからない。
1皿目、鴨の炙り焼き。焼き目の匂いに角がない。皿に落ちた脂も澄んでいる。銀の縁は白いまま。ひと匙。しょっぱい。ちゃんとしょっぱい。生きている。
2皿目、麦のパンと乳の和え物。異常なし。
3皿目に手を伸ばしたところで指が止まった。
杏のコンポート。琥珀色の実が3つ、汁の中に沈んでいる。
匂いを取る。杏の匂いがする。当たり前だ、杏なんだから。でもその奥から、もう一つ別の匂いが立ちのぼってくる。
種を割ったときの匂いだ。
前世の職場で何度も嗅いだ。杏の種、桃の種、梅の未熟果。あの系統の香りがはっきり出ている原料は、加工の工程で必ず弾く。理由は一つ、その匂いの正体が毒だからだ。
汁を傾ける。底のほうがわずかに濁っていて、沈殿が動いた。銀の縁は曇っていない。塩に混ぜる系のやつではない。
植物毒。俺の知識で分かる側の毒。
背中を汗が伝う。ここで俺が「異常ありません」と言えば、原作どおりに俺が死ぬ。
喉の奥が乾いて、声の出し方を一瞬忘れた。それでも仕事だ。息を吸って、匙を皿の縁に戻す。
「閣下。こちらの杏は、お召し上がりにならないでください」
長卓の端で、灰色の目がこちらを向いた。
「理由は」
「匂いです。杏の種を割ったときの匂いが立っています。汁の底にも沈殿があります。おそらく毒が」
「毒見は済んだのか」
「いえ、まだ——」
言い終える前に皿が消えた。
消えた、としか言いようがない。腕一本ぶんの距離を、この人の手が一瞬で越えてきた。気づいたときには杏のコンポートは長卓の向こう側にあって、俺の指は空をつかんでいる。
「お待ちください」
出た。原作の台詞だ。俺が死ぬ直前に言うやつだ。
やめろ。そこで匙を持つな。
「なぜですか。それは、俺の仕事です」
「知っている」
「じゃあなぜ」
「……先に食う」
理屈が一つも通っていない。毒見役のいる食卓で、毒入りだと分かっている皿に雇い主が先に手を伸ばす道理がどこの世界にある。
椅子を鳴らして立ち上がった。マレンさんが息を呑む音が、背中の側で聞こえる。
「閣下、それは毒です。今そう申し上げました」
「聞いた」
「聞いたのに食べるんですか」
「俺は死なない」
言い方が平坦すぎて、強がりにすら聞こえない。自分の体温を報告しているみたいな声だった。
匙が動く。止める間もなく、琥珀色の実がひと匙、この人の口に消えていく。
頭の中が白くなった。人が毒を口に入れる音を、俺はこれまで聞いたことがない。
「吐いてください。今すぐ。桶を——マレンさん、桶を!」
「うるさい」
叱られた。毒を食った人間に叱られている。
「味がしない」
「え」
「泥の味しかしない。毒でも同じだ」
この人は皿を押しやって、口もとを布で拭いた。震えもしないし、顔色も動かない。
俺のほうが震えていた。指先が勝手に鳴って、銀の毒見皿の縁が卓に当たってかたかた言う。
「厨房を調べろ」
マレンさんが頭を下げて出ていく。廊下を走る足音がいくつも重なって、遠ざかっていった。
結果を言うと犯人は出なかった。杏を煮たのは厨房で、その日の厨房には7人が出入りしていて、誰が何をしたのかは誰にも証明できない。「厨房の誰か」で話は止まる。
止まったまま、俺は生きている。
原作で死ぬはずだった日の夜に、俺はまだ息をしていて、死ぬはずのない人のほうが毒を食っている。
——ヴァルドレイ邸に来て、3日が経っていた。
雇われた経緯は単純だ。故郷の口入れ屋に「公爵家が毒見役を探している」という札が出ていて、年俸の額を見た瞬間、俺の手は勝手に応募していた。平民が2年働いて稼ぐ額を1年でもらえる。危険については札の隅に小さく書いてあった。死亡の可能性を含む、と。
前金の半分はもう妹に送ってある。今世の妹だ。前世のやつと同じで、生意気で金がかかる。つまり俺は辞められない。逃げ足が取り柄の男の足が、金で地面に縫いつけられている。
使用人棟の相部屋に戻ったのは、屋敷の鐘が2つ鳴ったあとだった。
寝台が2つと洗面用の桶が1つ。窓は手のひら2枚ぶんしかなくて、光より外の匂いのほうがよく入ってくる。海が近いので、夜になると塩の匂いが濃くなる。ヴァルドレイ領は塩と保存食の産地なのだと来た日に教わった。
「ユエル! 生きてる!」
扉を開けた瞬間、寝台の上でトビが跳ねた。
「生きてるよ」
腰を下ろすと、藁を詰めた敷布がぐしゃりと鳴る。トビは15歳で俺より2つ下だ。口を閉じている時間が1日のうち何分あるのか、まだ確認できていない。
「今日で3日目だよね。数えてるんだ、僕」
「なにを」
「毒見役が何日もつか。前の人は4日で辞めた。その前の人は薬をもらって寝込んで、そのまま実家に帰ったって。だからユエルが4日目の朝ごはんを食べたら、記録更新」
「記録更新の景品は」
「4日目の昼ごはん」
ひどい話だ。ひどいのに笑ってしまった。
「なあトビ。閣下って、いつもああなのか」
「ああって?」
「毒が入ってるって俺が言った皿を、自分で食う」
トビの動きが止まった。膝を抱えた姿勢のまま、目だけがまるくなっていく。
「……食べたの。閣下が」
「食べた。ひと匙。俺の目の前で」
「うわあ」
うわあ、で片づけていい話ではない。
「閣下はね、死なないんだよ。ほんとに。僕がここに来る前から何回も毒を盛られてるけど、一度も寝込んでない」
「体が慣れてるんだ。少しずつ盛られ続けると、そうなる」
「じゃあ毒見役いらないじゃん」
いらない、と真顔で言われると立つ瀬がない。
でも違う。今日それを見た。あの人は毒に強いだけで、毒が効かないわけじゃない。効かないなら、皿を取り上げる必要がそもそもない。
取り上げたということは、俺に食わせたくなかったということだ。
……いや、まさか。来て3日目の平民に、そんな理由があってたまるか。
「トビ。ここの料理長って、どんな人」
「ドランさん? 怖いよ。厨房で笑ってるとこ見たことない。あと、毒見役のことめちゃくちゃ嫌ってる」
「嫌われてるのか、俺」
「役目がだよ。自分の料理を疑う仕事だからさ。前の毒見役の人、包丁の柄で頭こつんってやられてた」
「明日からの俺の職場、そこなんだけど」
油皿の火を吹き消して、寝台に転がる。天井の梁が暗がりに浮いていて、木の節がまだ見分けられるくらいには夜が浅い。
「ユエル、まだ起きてる?」
「起きてる」
「明日の朝ごはん、記録更新だからね」
「寝ろ」
枕を投げてやると、トビは笑いながらそれを抱えて壁のほうを向いた。
俺は暗い天井を見上げて、明日の夕食のことを考える。あの人はまた、俺より先に手を伸ばすんだろうか。
遺言なら、もう用意がある。問題はそれを言い残しそうな顔をしていたのが俺ではなく、長卓の端に座っていたあの人のほうだったことだ。




