第八話:寒月の祝宴と、グラスに揺れる猛毒②
──ジュッ……、ジュワワッ……!
不気味な異音と共に激しい白煙が立ち上り、ワインが触れた絨毯が一瞬にして黒く変色し、ドロドロに溶け落ちていく。
「なっ…!? 猛毒だと!? 床が溶けているぞ!!」
「敵襲ーッ! 宴を中止せよ! 刺客だ!!」
静まり返っていた大広間は、一瞬にして怒号と悲鳴が飛び交うパニックへと変貌した。
「騎士団、ただちに館を封鎖! 王太子殿下、王太子妃ならびにアリシアたちを急いで遠ざけろ! 毒気や飛沫に触れさせるな!」
床が溶け落ちる異音と怒号が響く中、真っ先に動いたのは三男のライアンだった。近衛騎士団長としての圧倒的な判断力で、何よりもまず王族とゲストの安全確保を優先する。
(……即効性の激しい強酸性の毒! ワイン自体か、それともグラスに塗られていたのか確認しないと……!)
アリシアが観察しようと踏み出そうとした瞬間、がっしりとした腕に肩を掴まれた。
長兄のエドワードだ。
「ダメだアリシア、下がっていなさい! どんな刺客や毒の飛沫が残っているかわからない!」
「お、お兄様! 私はただ、床の痕跡を……」
「アリシアちゃん、エドワード様の言う通りよ。こんな危険な場所に入ってはいけません」
王太子妃のシャルロットまでもが優しく、けれど絶対的な力加減でアリシアを後ろへ引き戻し、完璧にガードしてしまう。
(あぁもう! エドワードお兄様もシャルロットお義姉様も……これじゃ現場に近づけないじゃない!)
アリシアがヤキモキしていると、ライアンの厳格な指示が広間に飛んだ。
「セシル! 急いで空気中の毒気を抑え、床の毒を浄化魔法で無力化しろ! 会場全体の安全を確保するんだ!」
そう大声を張り上げながらも、ライアンの目は必死に妹たちの姿を追いかけていた。
(くそっ、何よりもまずアリシアたちの無事が最優先だ! 髪一本傷ついてみろ、絶対に許さん!)
「は、はいっ! ただちに!」
近衛騎士たちが現場を囲み、一般の給仕や客はもちろん、王女であるアリシアすら立ち入り禁止の壁が作られてしまった。
プロの近衛が完璧すぎる陣形を組んだせいで、逆にアリシアの捜査が完全に阻まれてしまう。
ライアンの絶対命令を受け、セシルが速やかに魔法の詠唱に入ろうとした、まさにその瞬間だった。
「うぐっ……あ、あだだだ……っ」
胃を押さえ、青ざめた顔でフラフラと歩いていたユリウスが、混乱する人混みの中で大きく体勢を崩した。
「ユリウス! 危険だ、下がっていろ!」
ライアンが制止の声を上げた時には、すでに遅かった。
ユリウスは激しく足をもつれさせ、手前のテーブルへと派手に倒れ込んだのだ。
──ガシャンッ!!
倒れ込んだユリウスの腕がテーブルの端を激しく叩き、そこに置かれていたワイングラスがぽーんと宙を舞う。
綺麗な弧を描いた小さなグラスは、警戒する騎士たちの肩の隙間を軽々とすり抜けていった。
ガシャーン……バシャッ!!
それはまさにライアンたちが慎重に囲んでいた現場の中心、床のグラス片と毒の液滴を直撃。
衝突の衝撃で元の破片はさらに細かく砕け散り、グラスから溢れ出たドリンクが毒の上へと容赦なく撒き散らされた。
──ジュワワワッ……!!
「なっ……!? 毒が、さらに激しく反応しているぞ!?」
新たな液体が混ざり合ったことで、再び白煙と不気味な泡が立ち上り、残されていた毒の成分もグラスの形状も、ドロドロと混ざり合い見る影もなく上書きされていく。
「ご、ごめんなさい、ライアン兄様! 胃が痛くて足元が狂っちゃって……! ああっ、セシル、早く! 早くその汚れた場所を魔法でーッ! アリシアたちに毒気が行っちゃうよ!」
必死すぎるユリウスの悲鳴に、慌てたセシルが放った強力な浄化魔法の光が広間を包み込んだ。
ボワッと眩しい光が床を包み、変色した絨毯も、混ざり合った毒の痕跡も、すべてがまるで最初から何もなかったかのように消し去られてしまった。
(ちょっと待って。待って待って待って!!)
アリシアの額に、ぶちっと青筋が浮かび上がった。
過保護な兄たちのガードをくぐり抜けられない間に、ユリウスのポンコツな暴走によって、証拠が文字通り完璧に消滅してしまったのだ。
(ライアンお兄様たちが厳重に封鎖してくれたおかげで、私は一歩も近づけなかったし…その隙にユリウスお兄様が完璧に証拠を全滅させたわよね!?)
苛立ちを押し殺し、アリシアは深呼吸をして、せめて関係者の状況だけでも探ろうと視線を巡らせた。
宴の最中、ずっとボトルを不自然に見つめていた妹のロザリンド。
給仕に執拗に声をかけて注意を逸らしていた古参の騎士たち。
直前にテイスティングと称してワインを下げる指示を出していたロレーヌ夫人。
(容疑者はたくさんいる……事情聴取を……)
アリシアが意を決して歩み出そうとした、まさにその時だった。
「アリシア、顔色が悪いぞ。ショックも大きかっただろう、あちらで温かいお茶でも飲んで休んでいなさい」
長兄のエドワードが優しく肩を抱き寄せ、当然のようにアリシアを現場から遠ざける。
さらに三男のライアンが厳格な面持ちで続いた。
「ああ、アリシアの身の安全が第一だ。皆様、動揺なさっているでしょう。騎士の誘導に従い、別室でお休みください」
「待っ……! お兄様がた、私は……」
アリシアの反論も虚しく、騎士たちの迅速な誘導によって、容疑者たちはあっという間に別室へと散っていってしまった。完全に手詰まりとなった現場で佇んでいると……
「アリシア?顔がすごく怖いけれど…大丈夫かい? 胃薬、飲む……?」
弱々しく小瓶を差し出してくるユリウスに対し、アリシアは限界ギリギリの笑顔を貼り付けた。
「結構ですわ!ユリウスお兄様。お構いなくッ!!」
祝宴の最中、不自然にワインのボトルを睨みつけ、兄を奪われる焦燥感を覗かせていた妹のロザリンド。
グラスが運ばれる直前、テイスティングと称して一度ボトルを下げさせ、不気味な沈黙を守り続けるロレーヌ夫人。
新辺境伯の若さに懐疑的で、給仕に執拗に話しかけて注意を逸らしていた古参の騎士たち。
さらには、祝宴の喧騒に紛れ込んでいた近隣領主や不審な従者たちまで。
誰もが毒を仕込む機会を持っていた。
しかし、肝心のワインも、グラスも、床の毒の成分すら跡形もなく消え去ってしまった以上、誰一人として犯人と断定することはできない。
「全員が『白』であり、全員が『黒』……か」
近衛騎士団を率いて館内を徹底的に調べ尽くしたライアンが、苦々しい表情で低く呟いた。
犯人を特定できないまま祝宴は強制終了となり、大広間には重苦しい疑心暗鬼の余韻だけが残された。
「あ、あの…ユリウス殿下。殿下がよろめいてくださったおかげで、私は命を拾いました。心より感謝申し上げます」
「や、やだなぁ、ギルバート卿…感謝なんてそんな…。僕はただ、胃が痛くて足元が狂っただけなんだから…。それに、アリシアには申し訳なく…証拠を浄化させてしまって…ごめんね……」
自分を責めるように弱々しく笑うユリウスに、アリシアはフッと肩の力を抜いて微笑みを返した。
「いいえ、お兄様が無事でよかったですわ…」
アリシアはそう言ってユリウスを安心させると、静かに大広間を見渡した。
(ロザリンド様も、ロレーヌ夫人も、古参の騎士の方々も……全員が怪しくて、全員の手がかりが消えてしまった……)
芽生えたのは、どこか不気味で冷たい焦燥感だけだった。
(あの霧の中で起きた不自然な事件…そして今回も、私の目の前で完璧に痕跡が消えてしまった…)
アリシアは、自分自身の指先が微かに震えていることに気づく。
二度続いた、不完全で後味の悪い未解決。
まるで、目に見えない何者かが盤上の上から嘲笑いながら、アリシアが真実に手を伸ばす前に、わざと事件を煙に巻いているかのような、得体の知れない敗北感。
(誰かが…… 私の動きを、見透かしている…!?)
暗闇の中から自分をじっと見つめている正体不明の「影」を感じ取り、アリシアは背筋を氷でなぞられたような寒気に襲われるのだった。
数日後には、いよいよクラリス姉様とギルバート卿の結婚式が控えている。
もし、その晴れ舞台で再び何かが起きたら……。
(…いいえ。絶対に、何も起こさせはしないわ)
アリシアはギュッと拳を握りしめ、冷えた胸の奥に小さな決意の火を灯した。
(次の挙式では、二度と失態を繰り返さない。どんな小さな違和感も見逃さず…クラリス姉様の幸せを、私が守ってみせる……!)
館の窓の外には、重々しい辺境の夜が広がっている。
解けない謎と見えない敵への恐怖を胸に秘めたまま、アリシアは静かに決意を新たにするのだった。
第八話【完】
いかがでしたか?
第九話は、明日公開します。
ここまで読んでいただきありがとうございました。




