第八話:寒月の祝宴と、グラスに揺れる猛毒①
山々の稜線が茜色から深い群青へと染まり始める頃、一行を乗せた馬車はついに目的地であるヴォルフラム辺境伯領の城郭へと吸い込まれていった。
車窓から覗く巨城は、王都の洗練された宮殿とは打って変わり、質実剛健を絵に描いたような石造りの要塞だった。日が沈むにつれ、城壁に掲げられた幾重もの松明が赤々と燃え上がり、暗闇の中に厳めしい城影を浮かび上がらせていく。
「うぅ……やっと……地面の上に立てる……」
馬車が止まるやいなや、ドアを押し開けて倒れ込むように降りてきたのはユリウスだ。青ざめた顔で口元を押さえる姿は、長旅の過酷さをこれ以上ないほど物語っている。
「大丈夫ですか、ユリウスお兄様。セシル、温かいお茶の準備を頼むわね」
「かしこまりました、アリシア様」
アリシアが車外へ足を踏み出すと、冷たく澄んだ辺境の夜風が頬を撫でた。
巨城の重厚な木造の門前には、すでに城の主たちが出迎えのために列をなしていた。
最前列で杖をつき、重厚な威厳を放っているのは、現・辺境伯のオズワルド・ヴォルフラム卿だ。
「王太子殿下、王太子妃殿下……お久しぶりでございます。長旅、さぞやお疲れでございましょう。本日はまず旅の疲れを癒やしていただき、明日、晴れて息子の就任式と祝宴を執り行いたく存じます」
「出迎え感謝する、ヴォルフラム卿。これまでの長年の義務、大義であった。明日からはギルバート殿がこの地を率いるのだな?」
エドワードが威厳と親愛の込もった声で労うと、オズワルド卿の後ろから一歩前へ出たのは、新辺境伯となる若いギルバートだった。
背筋をピンと伸ばし、恭しく頭を下げる。
「はっ、王太子殿下。未熟な身ではございますが、ヴォルフラムの名に恥じぬよう、明日より誠心誠意、この辺境を守護いたす所存です」
その頼もしい佇まいにエドワードが深く頷くと、隣のシャルロットも優しく微笑んだ。
「細やかなお気遣い、心より感謝いたしますわ、ヴォルフラム閣下。ロレーヌ夫人……」
シャルロットが感謝を述べると、その横から一歩前に踏み出したのはクラリスだった。
ドレスの裾をそっと持ち上げ、寸分の乱れもない完璧で美しいカーテシーを披露する。
「お久しぶりにございます、ヴォルフラム閣下、ロレーヌ夫人。このたびはギルバート様の晴れの門出、心よりお祝い申し上げます。未熟な身ではございますが、これからヴォルフラム家の一員として皆様のお役に立てるよう、誠心誠意努めてまいります」
凛としたクラリスの挨拶に、オズワルドは破顔し、目元を深く和ませた。
「ハハハ! これはこれは、完璧なご挨拶をいただき恐縮ですな、クラリス王女。ですが、数日後には息子の妻となるお方。どうかそんなに固くならず、父や母とお呼びくだされ!」
「え……? あ、あの……」
不意を突かれたクラリスは、ぽっと頬を朱に染め、恥ずかしそうに視線を泳がせた。指先をドレスの脇で小さくもじもじと動かしながら、意を決して上目遣いに二人を見つめる。
「ふ、不肖の娘ではございますが『お義父様』、『お義母様』よろしくお願いいたします…」
「うむ、うむ! よく言った!ハハハ!」
オズワルドは満足そうに豪快に頷き、隣のロレーヌも一瞬驚いたように目を丸くしたあと、ふっと口元を緩めた。
そして何より、すぐ後ろに立っていたギルバートは、クラリスの愛らしい「お義父様」という声を聞いた瞬間、顔を熟したトマトのように真っ赤にして卒倒せんばかりに呆然と立ち尽くしていた。
「ふふ、クラリスったら……。ロレーヌ様、うちの娘をどうぞよろしくお願いいたしますね」
少し後ろで見守っていたクラリスの母マーガレットが、優しく目を細めながらロレーヌ夫人へとしとやかに頭を下げた。
「ええ、マーガレット様。大切にお預かりいたしますわ」
ロレーヌ夫人が静かに頷く傍らで、クラリスの妹であるフェリシアは、真っ赤になっているギルバートと照れる姉の姿に「まぁまぁ!」と両手を頬に当て、楽しそうに目を輝かせていた。
さらにその背後では、ギルバートの妹である十七歳のロザリンドが、兄の前に立つクラリスをどこか面白くなさそうな、複雑な眼差しで見つめている。
(ふふ…クラリス姉様、すごく可愛らしかったわ。こんなに温かく迎え入れてもらえるなんて、本当に良かった…)
幸せそうなクラリスの姿にアリシアがほっこりと胸を撫で下ろしていると、隣でユリウスが「あぐっ…」と小さな悲鳴を上げた。
「……お兄様!?」
「いや、なんでもないよアリシア……。ちょっと胃が絞られるように痛むだけだ…。さ、案内された部屋で休もうか」
ユリウスは弱々しく笑いながら小さな薬瓶を取り出し、眉間にシワを寄せて苦そうな液体を喉の奥へ流し込んだ。
そのとき、独特の苦味の奥から、微かに甘い薬草の香りがふわりと風に乗ってアリシアの鼻腔をくすぐったが、アリシアは特に気にとめることもなく館の中へと足を運んだ。
城館の手厚いもてなしを受け、その夜は静かに更けていった。
──翌日
新辺境伯ギルバートの就任式が無事に終わり、陽が傾く頃には大広間で盛大な祝宴が催されていた。
幾重もの松明と豪華な燭台が照らし出す大広間は、辺境の武骨な騎士たちや近隣の貴族たちの熱気で溢れかえっている。
「クラリス殿下、我が領地へようこそ。至らぬ身ではございますが、命を賭して貴女をお守りいたします!」
「ふふ、ギルバート様。そんなに肩肘を張らなくても大丈夫ですよ…」
クラリスはすっと手を伸ばすと、緊張で少し強張っていたギルバートの襟元にそっと触れ、優しく身だしなみを整えた。
予期せぬ距離の近さに、ギルバートの背筋が跳ね上がる。
クラリスが少し首を傾げて、上目遣いにギルバートを見つめた。
「私たちは、夫婦になるのですから……『殿下』だなんて、そんなによそよそしく呼ばないでください。『クラリス』と……そう呼んでくださると嬉しいです…」
「っ……!!」
ギルバートは一瞬で耳の先まで真っ赤になり、慌てて視線を泳がせた。
「し、しかし、王女殿下に対してそのような気安い呼び方は──」
「もう、また『殿下』とおっしゃいましたね? 二人きりの時や、こうして近くにいる時くらい……ダメでしょうか?」
ほんの少しだけ悪戯っぽく唇を尖らせるクラリスの愛らしさに、ギルバートは完全にノックアウトされたように降参の息を吐いた。
「あ、う…わ、わかりました。…ク、クラリス」
「はい、ギルバート様」
満足そうに微笑むクラリスに、ギルバートは意を決したように、照れくさそうに口を開いた。
「では…その、クラリス。私のことも、『ギルバート様』ではなく…ただ『ギルバート』と呼んでいただけますか? そのほうが、私も…貴女の夫になれるのだと、実感できますから」
今度はクラリスのほうが「ぽっ」と頬を朱に染める番だった。恥ずかしそうに胸元で手をぎゅっと握りしめ、小さな声で呟くように呼ぶ。
「……はい。……ギルバート」
お互いに顔を真っ赤にして視線を交わし合う二人の周りだけ、武骨な大広間の熱気とは違う、甘くて温かな空気が漂っていた。
その仲睦まじい姿に、エドワードもシャルロットも満足そうに頷いている。
アリシアもまた、カイルやセシルと共に豪華な料理を楽しんでいた。
しかし、アリシアの胸の奥には、昨日から払いきれない小さな「引っかかり」が燻っていた。
(……あの霧の中で見た騎士の影…そして、あの不完全な事件の決着…。今日は、何も起こらないといいけど……)
その胸騒ぎを証明するかのように、宴が最高潮に達したその時、給仕の手によって「至高の一杯」がギルバートの元へと運ばれてきた。
先代オズワルドから譲り受けたという、ヴォルフラム家宝の黄金色のワイン。
「新辺境伯ギルバート様に、栄光あれ!」
家臣たちの歓声が湧き起こり、ギルバートが繊細なカットが施されたガラスのグラスを掲げた。
ギルバートがそのグラスを口元へと運ぼうとした―まさに、その瞬間だった。
「あ、危ない……っ!?」
突然、悲鳴のような声が響いた。
見れば、顔を真っ青にしたユリウスが激しくよろめき、吸い寄せられるようにギルバートの肘へと強く衝突したのだ。
──ガシャンッ!!
悲鳴と共にガラスのグラスが床に激突して砕け散り、なみなみと注がれていた黄金色のワインが豪快に飛び散った。
次の瞬間─
──ジュッ……、ジュワワッ……!
不気味な異音と共に激しい白煙が立ち上り、ワインが触れた絨毯が一瞬にして黒く変色し、ドロドロに溶け落ちていく。
「なっ…!? 猛毒だと!? 床が溶けているぞ!!」
「敵襲ーッ! 宴を中止せよ! 刺客だ!!」
静まり返っていた大広間は、一瞬にして怒号と悲鳴が飛び交うパニックへと変貌した──
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【ヴォルフラム家】
◆新辺境伯 (24歳):ギルバート・ヴォルフラム
誠実で武骨。幼い頃、王宮の庭園で迷子になっていたクラリスを助け、その微笑みに一目惚れした。以来、彼女に相応しい男になろうと剣と学問に励んできた。
◆先代辺境伯 (父):オズワルド・ヴォルフラム
かつての猛将。数年前の魔物討伐で足を負傷し、杖が手放せなくなったため、息子に辺境伯を任せ隠居を決意。
◆先代辺境伯夫人 (母):ロレーヌ・ヴォルフラム
厳格だが公正な女性。辺境の厳しい冬を乗り切るための采配を振るう。
◆辺境伯の妹 (17歳):ロザリンド・ヴォルフラム
兄が大好き。都会から来るクラリスに対して、少し反抗心や嫉妬心を持っている。
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つづきは、また明日。
ここまで読んでいただきありがとうございました。




