第七話:霧深い境界線と、虚構に消えた騎士団
──パカッ、パカッ……
と規則正しい蹄の音を響かせ、ガタゴトと揺れる馬車の窓から、アリシアは外の景色を眺めていた。
王都の洗練された街並みは遠く過ぎ去り、辺境伯領へと近づくにつれて、車窓の風景は急速に荒々しく険しい山林へと姿を変えていく。
「……ふふっ」
ふと思い出した光景に、アリシアの口元から小さく笑みがこぼれた。
出発の日の朝、王宮の正門前はまさに大惨事と言うべき大騒ぎだったのだ。
『アリシアぁ! クラリスのハレの日に付き添ってやりたいお前の優しい気持ちはよく分かる! だが…しかし、なにもお前まで遠い山道を越えることはないではないか! 寂しくてパパは……パパは…!』
国王アルフォンスが、幼子のようにボロボロと涙を流しながらアリシアのドレスの裾に縋り付いていた。
それを冷ややかな目で見下ろしていた正妃イザベラが、
『いい加減になさい、陛下。一生懸命決意を固めたクラリスの気持ちも考えず、見苦しいですよ』と、
アリシアのドレスの裾を掴む王の手に、扇子で容赦なくパシッと叩き落とした。
『あいたたっ!?』
さらにそこへ、魔術研究所の所長である次男のシオンが、目を血走らせて飛び込んできたのだった。
『アリシア! これを持って行きなさい! 私が徹夜で開発した「超広範囲・自動迎撃術式展開型魔導障壁(アリシア専用スペシャル)」だ! これさえあれば、たとえ竜の群れが襲ってきても──』
『シオン様、長くなりますからおやめなさい。アリシアが困っているでしょう?』
おっとりとしたアリシアの母ソフィア妃が、ふんわりとした笑顔でシオンの手から危険そうな魔道具をすっと取り上げ、事もなげに回収してしまった。
(あの時のシオンお兄様の絶望した顔といったら! お父様もシオンお兄様も、相変わらず過保護なんだから……)
『父上、ご安心ください。国王の名代として、この私が責任を持って同行いたしますから!』
鼻が高々なエドワードが胸を張ると、その隣でシャルロットは静かに背筋を伸ばし、気品に満ちた笑みを浮かべた。
『幼いアルフレッドとオリヴィアにも、王家の義務と叔母様の晴れ姿について言いきかせてまいりました。長旅の道中、王太子妃として不備のないよう支えてまいりますわ…』
凛としたシャルロットの言葉に、イザベラ王妃は満足そうに深く頷く。そして、自らの足元に身を寄せる幼い孫たちの頭へ優しく手を添え、静かな声で言葉を授けた。
『よく言い聞かせましたね、シャルロット。アルフレッド、オリヴィア。母上が無事にお勤めを果たして戻られるまで、王家の子として誇り高く過ごすのですよ』
『はい、おばあ様』
と幼い二人が凛と背筋を正すと、それまで寂しさに顔を歪めていたアルフォンス国王も、「コホン!」とひとつ大きな咳払いをし、深く息を吐いて王としての威厳を取り戻した。
『…うむ。名代としてエドワードとシャルロットが赴くのであれば、我らも安心して送り出せるというもの。王家の代表として誇り高く行きなさい』
そう言って背筋を伸ばしたアルフォンスは、そっとクラリスのもとへ歩み寄ると、その肩に優しく手を置いた。
『…クラリス。アステリアの王女として、立派に務めを果たしておいで。お前の門出を、父として心から誇りに思っているよ』
『はい、お父様。これまで長い間、大切に育てていただき…本当にありがとうございました。行ってまいります』
誇らしげに深く微笑むクラリスの姿に、アルフォンスは万感の思いを込めて力強く頷いた。
王宮のいつもの賑やかな日常を思い出して胸を暖かくしていると、向かいの席から弱々しい情けない声が聞こえてきた。
「うぅ……アリシア、よくそんなにケロッとしていられるね……。僕はもう、世界がぐるぐる回っているよ……」
いつものように、青ざめた顔で胃のあたりを押さえているのはユリウスだ。
彼は弱々しい手つきで小さな薬瓶を取り出すと、苦そうに胃薬を喉の奥へ流し込んだ。
「大丈夫ですか、ユリウスお兄様? 膝掛けをもう一枚使いましょうか?」
「ありがとう、アリシア……。優しい妹を持って、僕は幸せだよ……」
ユリウスが弱々しく微笑む隣では、クラリスが期待と不安が入り混じった複雑な表情で、固く手を握りしめている。
彼女にとって、今回の旅は「嫁入り」という人生の大一番なのだ。緊張するのも無理はない。
「クラリスお姉様、大丈夫ですよ。ライアンお兄様が率いる近衛騎士団が前後についてくださっていますし、皆いますわ」
アリシアが励ますように手を重ねると、クラリスは「ええ、ありがとうアリシア」と、少しだけ緊張をほぐしたように微笑んだ。
だが―その平穏は、唐突に破られた。
馬車が深く険しい山道の急カーブに差し掛かった、その瞬間。
『──総員、停止ッ!!』
外から、騎士団長であるライアンの緊迫した怒号が響き渡った。
馬車が急ブレーキをかけ、激しい揺れとともに停止する。
「きゃ……っ!? どうしたのですか、ライアンお兄様!?」
アリシアが即座に窓から顔を出すと、前方を馬で走っていたライアンが、凄まじい眼光で前方の霧を見つめていた。
「アリシア、馬車から出るなッ! ……カインの分隊が、消えた」
「え…? 消えた……!?」
アリシアは目を見開いた。
ほんの数十メートル先、角を曲がって先行していたはずの副団長カインやボリスたちが率いる先鋒隊。
「フェリシア、カインたちの魔力痕跡が残っていないか一緒に来てくれ!」
「ええ、分かったわライアンお兄様! アリシア、絶対に馬車の中で待っていてね!」
ライアンとフェリシアが数名の騎士を引き連れ、消えた隊の足跡と魔力を追って別方向の山林へと急行する。
だが、崖の異質さに気づいたアリシアの直感は、別の答えを示していた。
(ライアンお兄様たちが探しているのは『消えた人影』……でも、この崖の境界線そのものが怪しいわ!)
フェリシアたちが去り、カイルがクラリスの乗る馬車の周囲を警戒して一瞬視線を外した隙を突き、アリシアはそっと馬車を飛び出した。
「アリシア様、危険です!」
セシルの制止の声に引き寄せられるように、カイルも青ざめて即座にアリシアの背後を追う。
しかし、二人がその場所に踏み込んだ瞬間、周囲の音が一斉に消え失せた。
急勾配の山道に立ち込める霧は、まるで生き物のように渦を巻いている。
目の前には、数メートル前まで続いていたはずの街道がすっぽりと抜け落ち、底知れぬ漆黒の崖が広がっていた。
(……おかしいわ。完璧すぎる……)
アリシアはひざまずき、泥で汚れるのも構わずに地面へ視線を落とした。
「アリシア様、そこは危険です! ライアン様に叱られますから、早く引き返しましょう!」
追いついたカイルが剣の柄に手をかけたまま、警戒を怠らずにアリシアの背後を固める。
セシルもまた、素早く周囲の木々に視線を走らせていた。
「セシルとカイル、見て。崖のキワなのに、土が崩れた痕跡が一切ないわ。さっきまでカイン副団長たちの馬が踏みしめていたはずの踏圧の痕が、この不自然な『境界線』の手前でバッサリと切れている」
アリシアの指先が、路傍に立つ古い大木の幹に触れた。
「…?これは、何かしら?…」
その皮を剥いだ樹皮の表面に、極めて精緻な、だが歪な幾何学模様が刻まれていた。
光を放つわけでもなく、一見するとただの傷のように見せかけられている。だが、アリシアの脳裏に過去に読んだ魔術書データが駆け巡る。
(これは……空間の光折射と音波を同時に偽装する、高度な"広域風景書き換え術式"の起点! これがあるから、みんなの目には存在しない崖が見えて、カインたちの姿も音も消えたように錯覚させられているんだわ!)
「この模様の術式を結びつけている核を遮断すれば……!」
アリシアが確信を得て、指先でその刻印に触れようとした、その瞬間──
「アリシア、危ないよ!!」
緊迫した声とともに、強い力で肩を引かれた。
「きゃっ……!?」
バランスを崩したアリシアを庇うように、ユリウスが勢いよく割り込んでくる。
だが、勢い余ったユリウスは足を滑らせ、大木の幹へ激しく手をつくように倒れ込んでしまった。
バリバリバリッ……!!
「ああっ……痛たっ……! ごめんねアリシア、足をとられてしまって……大丈夫かい!?」
ユリウスは自分の手のひらをすりむきながらも、真っ先にアリシアの身体を抱き起こし、心底心配そうに顔を覗き込んでくる。
アリシアが慌てて大木の幹に視線を戻すと、そこにあったはずの幾何学模様は、ユリウスが派手に手を滑らせた拍子に無残にも削れてしまい、ただの傷ついた木肌へと変わり果てていた。
(……刻印が、壊れてしまったわ……)
アリシアはせっかく見つけた手がかりが失われたことに、小さな溜息をついた。
(お兄様は私を助けようとして転んでしまったのだから、責められないわよね…。それにしても、もう少し落ち着いて行動してくださればいいのに……)
「うぅ…手首少し捻ったかも…それに急に動いたから胃が……」
と情けない顔で痛む手を押さえる兄を見て、アリシアは「もう、お兄様ったら……」と呆れつつも、差し出された手を優しく取ったのだった。
──その時
すうっと、まるで何事もなかったかのように山道を覆っていた深い霧が引き始めていく。
「あ…! 崖が……消えていくわ…」
クラリスは驚き、馬車から顔を覗かせた。
視界を覆っていた不自然な崖が薄れ、その向こうから街道の風景がヌッと姿を現す。
そして、その道の真ん中には──
「……あれ? 俺たち、なんでこんなところで立ち止まってるんだ……?」
副団長のカインをはじめとする騎士団の分隊が、ぽかんとした顔で全員呆然と馬上に揺られていた。
「カイン! 無事か!?」
ライアンが馬を駆け寄せ、怒鳴りつける。
「は、はい! 団長? 一体どうされたのですか? 俺たちはただ、いつものように先行して…いましたよね?」
騎士たちの怪我人、ゼロ。
奪われた荷物、ゼロ。
馬も、武具も、記憶すらも"何事もなかった"かのように正常だった。
(……まあ、私を助けようとして足を滑らせ、すり傷を作ったユリウスお兄様は例外として、だけど)
「痛たた…。ごめんねアリシア、せっかくの手がかりを台無しにしてしまって……」
「いいえ、お兄様。私を助けようとしてくださったのですから。でも、じっとしていてくださいね」
アリシアが呆れ半分、感謝半分といった風に小さく息をつくと、すぐ脇に控えていたセシルが、予見していたかのように手際よく小さな小瓶をアリシアの手元へ差し出した。
「アリシア様、高品質の治癒ポーションでございます…」
「ありがとう、セシル」
受け取ったアリシアがユリウスの手のひらへ透き通ったポーションを垂らすと、ひんやりとした心地よい感覚とともに柔らかな淡い光が傷口を包み込んだ。
ほんの一瞬で血の滲みは消え去り、何事もなかったかのように綺麗な素肌へと戻っていく。
仮にも王家の王子が怪我をしたとなれば大ごとだ。王宮なら侍医が大慌てで飛んでくるところだが、今は緊急事態の真っ只中。
大事に至らなくてよかったと胸を撫でおろした。
(…もう少し身の安全に気を配ってほしいわ…って…私も人の事言えないわね…)
「ふふ、ありがとうアリシア。やっぱり君は優しいね」
手当てしてもらった手のひらを愛おしそうに見つめながら、ユリウスは胃薬の小瓶をポケットにしまい、どこか楽しげにふわりと微笑んだ。
「……単なる森の精霊のいたずらだよ。辺境の山道ではよくあることさ。では、行こうか。ヴォルフラム辺境伯領への到着時間が遅れてしまうからね」
「……ええ」
アリシアは呆然と佇む騎士たちを見つめながら、捜査を途中で打ち切らざるを得ない歯がゆさに、小さく唇を噛んだ。
死者も出ず、被害もない。
だが、「誰が」「何のために」こんな大掛かりな仕掛けを施したのか。
馬車へと乗り込み、窓の外へふと視線を向けたその時─解けゆく薄霧の深い奥、誰も踏み入れないはずの原生林の深部に、アリシアの目が留まる。
(……っ!?)
木々の隙間、光の届かない暗がりに。
じっとこちらを見つめる、人影があった。
漆黒の騎士服のようなものを身に纏った、背の高いシルエット。
男…だろうか? 佇むその影から、どこか禍々しい威圧感が伝わってくる。
アリシアが息をのんで瞬きをした一瞬の隙に、その影は霧の残滓とともに影も形も消え失せていた。
(今の人は……一体……?)
解けない謎。
残された違和感。
まるで何者かが暗闇から嘲笑い、自分たちの行く末をじっと見つめているような、冷たいモヤモヤだけを胸に残し、馬車は再び辺境伯領へと向かって走り出したのだった──
○△□●▲■○△□●▲■○△□●▲■○△□
◆王太子妃 シャルロット(28)
立ち振る舞い、教養、気品、どれをとっても完璧な「未来の王妃」だか、アリシアと二人きりになると甘々なお義姉様となる。
◆アルフレッド王子(5)
エドワード王太子とシャルロット王太子妃の第1子
◆オリヴィア王女(3)
エドワード王太子とシャルロット王太子妃の第2子
第七話【完】
今回は、一話完結になります。
未解決ですが(笑)
第八話は、明日公開します。
ここまで読んでいただきありがとうございました。




