第六話:湖畔の静寂(しじま)と、精霊の処刑①
(数年前の回想)
その夜、アステリア王家が所有する湖畔の別荘は、荒れ狂う嵐の咆哮に包まれていた。
「……はぁ、はぁ……っ、エルザ、待っていろ。今、薬を……」
下働きの少年フィリップは、激しい雨に打たれながら、重い倉庫の扉をこじ開けた。
背後では、高熱にうなされる妹エルザの苦しげな呼吸が、嵐の音に消されそうになっている。
高い薬を買う金などない。
だが、ここには掃いて捨てるほど宝がある。
震える手で彼が掴んだのは、一本の「銀の蝋燭台」だった。
これさえあれば、町で薬が買える。
妹を救える。
「……何をしているんだ? フィリップ」
背後からかけられた冷徹な声に、フィリップの心臓が跳ね上がった。
そこに立っていたのは、管理人の息子であるバルトロメオだった。
フィリップよりわずかに年上のその少年は、嵐の中でも乱れぬ姿勢で、自分と同じ下働きの服を着ているはずなのに、どこか貴族のような気品を漂わせていた。
「バ、バルトロメオ様……! これは、その、エルザの薬のために……っ」
フィリップは床に膝をつき、額を石畳に擦りつけた。
すぐに、バルトロメオの両親で、この邸の管理人のアーサーとマルタが駆けつけ、息子の背後で絶句した。
彼らは慈悲深い夫婦だった。
「フィリップ……。事情はわかった。このことは、私たちが預かろう。王宮には報告しない。だから、その蝋燭台を戻しなさい。薬は私たちが手配しよう」
アーサーの言葉に、フィリップは涙を流して感謝した。
だが。
フィリップを見下ろすバルトロメオの瞳だけは、凍てつく湖のように冷ややかだった。
(……僕の許可なく、僕の家の物を勝手に……)
両親がフィリップを許しても、バルトロメオの心は許さなかった。
彼は自分を、この邸の、そしてこの国の王族の一人だと信じている。
この屋敷にあるすべての塵一つまでが、自分の所有物なのだ。
(許さない。……お前たちは、一生僕の所有物だ。僕の「慈悲」という名の鎖で、死ぬまで繋ぎ止めてやる)
稲光が、バルトロメオの顔を白く照らし出す。
その唇には、獲物を追い詰めた捕食者のような、完璧で歪んだ微笑が刻まれていた。
──初夏の陽光が降り注ぐ王宮の正門前
避暑地へと向かう白亜の馬車を囲むのは、これから始まる平穏な休暇には似つかわしくない、軍服姿の騎士たちと、悲壮な決意を固めた二人の兄だった。
「母上、くれぐれも……くれぐれもアリシアをお願いしますよ。あの子は放っておくと、すぐに森の奥まで行ってしまいますから……」
王太子エドワードが、正妃イザベラの手を握りしめ、まるで戦場へ送り出すかのような顔で訴える。
「エドワード、あなたは執務に戻りなさい。アリシアは私がしっかり見ていますから」
イザベラが苦笑しながらエドワードが握りしめる手を離した。
「アリシア、おいで。」
ライアンは懐から、透き通った青い石が揺れるペンダントを取り出す。
「ライアン兄様、それは……?」
「私からの贈り物だよ。これには全方位の物理防御魔法を付与してあるからね。」
「ライアン兄様……。ありがとうございます。でも、これは、団長である兄様が自分を守るために使うべきものではなくて?」
アリシアが微笑み、首にかけてもらったペンダントを指先で弄る。
「私のもあるよ。ただ、私の可愛い妹のために、もう一つ作らせたんだ…」
アリシアの手にそっと口づけを落とし、ライアンは満足げに目を細めた。
その光景を、荷物を抱えた専属メイドのセシルが、感情を一切排した瞳で見つめている。
「さあ、アリシア様。出発のお時間です」
「ええ。行ってまいります、お兄様方!」
馬車がゆっくりと動き出す。
窓から顔を出して、手を振るアリシアの隣で、ユリウスが窓から落ちないように押さえていた。
──馬車に揺られること数日
アリシアたちの目の前に、鏡のように静かな湖と、それを抱くように建つ重厚な石造りの別荘が現れた。
湖面は初夏の光を浴びて青く輝いているが、どこか息をひそめているかのような静寂が漂っている。
「ようこそおいでくださいました、アステリアの至宝たる皆様」
馬車の扉が開くと同時に、一糸乱れぬ所作で深々と頭を下げる男がいた。
管理人、バルトロメオである。
今の彼は、非の打ち所がない洗練された身のこなしと、誰に対しても等しく向けられる穏やかな微笑みを身に着けていた。
陽の光が差し込むたび、彼の濃い紺色の髪が、まるで王家の象徴であるロイヤルブルーのように微かに青く透けて眩む。
「久しぶりですね、バルトロメオ。相変わらず、ここは手入れが行き届いていて気持ちがいいわ」
正妃イザベラの言葉に、バルトロメオは「恐悦至極に存じます」と、うやうやしく手を胸に当てて優雅な礼を返す。
その指先の角度、洗練された背筋の伸ばし方は、宮廷の儀典官ですら舌を巻くほど完璧だった。…完璧すぎて、どこか空恐ろしいほどに。
(……不思議。管理人というより、まるでここが自分の城で、私たちが『招かれた客』であるかのような振る舞いね)
アリシアは、バルトロメオの恭しいお辞儀の隙間に、一瞬だけ見えた瞳の奥の奇妙な熱に気づいていた。
彼は王族に対して卑屈になるどころか、まるで「遅れてやってきた親族を迎える」かのような、不自然な親密さと――どこか上から見下ろして『値踏み』するような冷たい視線を向けていたのだ。
さらに、彼の背後に控える若き給仕・フィリップの姿も、アリシアの観察眼からは逃れなかった。
フィリップは終始俯き、バルトロメオが少し動くだけで肩を跳ね上がらせている。その手には、まるで不可視の重い鎖に繋がれているかのような、色濃い絶望と恐怖がへばりついていた。
「アリシア、どうかしたの?」
隣でユリウスが優しく声をかけてくる。
「…ううん、なんでもないわ、ユリウスお兄様」
アリシアは首を振り、微笑んでみせたものの、湖から吹き抜ける冷たい風にそっと身をすくませた。
この絵画のように美しい別荘の裏側に、どろりとした歪んだ悪意が潜んでいることを、彼女の直感が告げていた。
──その夜
王家を歓迎する晩餐会が開かれた。
一足先に別荘へ到着していた側妃マーガレットと、その娘たちであるクラリス、フェリシアも合流し、食卓はいつにも増して華やいでいた。
「アリシア、湖の魚料理はお口に合いますか? 新鮮で美味しいわよ」
「ええ、フェリシアお姉様! とても美味しいです」
正妃イザベラと側妃マーガレットが微笑ましく見守る中、ユリウスが手際よくアリシアの皿へ料理を取り分けていく。
そんな和やかな王族たちの傍らで、バルトロメオは一介の管理人として、一糸乱れぬ姿勢で壁際に控えていた。
その時、ほんの一瞬、アリシアは見てしまった。
シャンデリアの華やかな光が届かない影の中で、バルトロメオがユリウスやクラリス、フェリシア、そして自分を見つめる顔を。
それは、忠誠を誓う臣下の顔ではなかった。
豪華な銀食器も、給仕される極上のワインも、そしてその席に座る王族たちすらも「すべて本来は自分の所有物だ」と品定めするような視線。
「いつか自分もその席に座るべき人間だ」と確信している狂信者の、冷たく、それでいて傲慢な光を宿した瞳だった。
一方、グラスにワインを注ぐ給仕フィリップの手は、カチカチと音を立てるほど不自然に震えていた。
バルトロメオが影の中からフィリップへ冷ややかな視線を一瞥向けた瞬間、フィリップの顔から血の気が引いていく。
彼の視線は、バルトロメオへの過剰なまでの恐怖と、「真の王子」であると信じ込まされている恐ろしい主人への、歪んだ敬意に引き裂かれているようだった──
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【番外編:バルトロメオの過去と背景】
王家の避暑地で生まれ、周囲に「王子」と煽てられて育ったバルトロメオ。
光の加減で青く透ける己の髪色を「王家の血を引く何よりの証拠」と信じて疑わなかった。
成長して両親から真実を告げられてもその妄執は解けず、三年前、事故で両親を亡くして屋敷の管理人となってからは、いつまでも王宮へ招かれない現実に逆恨みを募らせていく。
「自分も王家の人間なのだから、何を使っても構わない」
その傲慢な特権意識は、公金の横領や、部下フィリップの妹エルザへの非道な行いへと繋がっていく。
歪んだ妄執が、静かな屋敷を悲劇へと導いた。
【登場人物】
─王族:アステリア
◆正妃:イザベラ(エドワード、エレオノーラ、ライアンの母)
◆側妃B:マーガレット(クラリス、フェリシアの母)
─別荘の使用人たち
◆バルトロメオ:別荘の管理人
◆フィリップ:別荘の副管理人
◆エルザ:フィリップの妹
つづきは、また明日
ここまで読んでいただきありがとうございました。




