第9話 敵の家には、勝手口を作れ
白い鳥に呼びかけられた翌朝。
俺は、共同寝床の裏口にしゃがみ込んでいた。
古びた木の扉。
蝶番は錆び、下側には隙間がある。
蹴れば壊れそうな、何の価値もない扉だ。
だが。
俺にとっては、必ず帰ってきたい場所の境界だった。
指先で扉の端へ触れる。
胸の奥にある銀色の鍵へ意識を向けた。
「境界印を刻む」
木の表面に、小さな銀色の鍵穴が浮かび上がる。
一瞬だけ輝き、すぐに消えた。
普通の人間には見えない。
二つ目の境界印。
残り十一。
これで森の倒木と、共同寝床の裏口を《境界回廊》でつなげられる。
緊急時には、森から一瞬で戻れる。
逆に、共同寝床が襲われた場合は、子供たちを森へ逃がせる。
『ああ……』
耳元で、リゼフィアの甘い声が漏れた。
「何です?」
『何て素敵な扉なのかしら』
銀色の亀裂が宙に走る。
扉の隙間から覗くように、銀紫色の髪を持つ美女が顔を出した。
実体ではない。
俺にしか見えない、契約を通じた投影らしい。
リゼフィアは古びた裏口を見つめ、赤紫色の瞳を潤ませている。
『毎日、何人もの子供たちが通っている。泣きながら出ていった足。空腹で戻ってきた足。あなたが初めて自分の意思で外へ出た日も、この扉を越えたのでしょう?』
「おそらく」
『何年もの帰宅願望が木目に染み込んでいるわ。粗末な蝶番。隙間風。何度も補修された傷……ああ、たまりません』
リゼフィアが扉へ頬を寄せる。
「何をしているんです?」
『道の香りを味わっていますの』
「投影なのに、匂いが分かる?」
『道は鼻で嗅ぐものではありませんわ』
彼女は恍惚とした表情で目を閉じた。
『魂で吸うのです』
意味が分からない。
俺はヴェルゴラを見る。
小さな悪魔は俺の肩で、露骨に嫌そうな顔をしていた。
『だから、あの女と契約するなと言ったのだ』
「言われていません」
『今、言った』
遅い。
『この扉は、まだ若いけれど素質がありますわ』
リゼフィアが続ける。
『あと百年ほど、誰かの別れと帰還を吸わせて熟成させれば、さぞ濃厚な境界へ――』
「勝手に育成計画を立てないでください」
『安心なさって。わたくし、道を壊したりしませんわ』
リゼフィアは微笑んだ。
『壊れた道には、壊れた道にしか出せない味がありますもの』
安心できる要素が一つもない。
道を愛する悪魔。
そう聞いた時は、旅好きの女性を想像していた。
違った。
こいつは、道そのものへ異常な執着を持っている。
しかも新しい道より、恐怖や執着が染みついた複雑な経路を好むらしい。
美しい外見で隠れているが、中身はかなり変態だ。
ヴェルゴラの方が、まだ分かりやすい。
『我を見直したか』
「比較対象がひどいだけです」
『何か言いまして?』
リゼフィアが笑顔でこちらを見る。
「あなたは美しいと言いました」
『まあ!』
完全に信じた。
事実でもある。
俺は立ち上がった。
今日は神殿旧施療院へ入る。
《境界回廊》を使えば、境界印を置いた場所へ自由に出入りできる。
ただし。
最初に、その場所へ自分の足で行く必要がある。
一度も越えたことのない扉は、接続先へ指定できない。
便利な禁術だが、未知の場所へいきなり侵入できるわけではない。
だから今日は。
普通に潜り込み。
敵の家の中へ、こちらの勝手口を作る。
「クライ?」
ノアの声がした。
振り返る。
寝起きらしいノアが、薄い栗色の髪を片手で押さえながら立っていた。
片側の三つ編みも、少し崩れている。
「こんな朝早くから、扉に何してるの?」
「蝶番を確認していました」
「壊れてる?」
「今のところは」
境界印を刻んでいたとは言えない。
ノアは扉を何度か開閉する。
ぎい。
ぎい。
錆びた音が鳴る。
「油を差した方がいいかも」
「後で用意します」
「今日は、どこへ行くの?」
昨日の約束を覚えている。
危険のない範囲で、行き先を伝える。
今度は穴を使いすぎない。
「神殿旧施療院の周辺です」
ノアの顔が曇った。
「昨日言ってた、悪い人たちの場所?」
「赤蛇会が利用している可能性があります」
「中に入るの?」
「周辺を確認する予定です」
現時点では。
入るつもりではあるが、確定ではない。
いや。
これは少し苦しい。
俺は言い直した。
「機会があれば、中も調べます」
ノアは俺の顔を見る。
「危ないでしょう?」
「危険はあります」
「だったら、黒冠商会の代表の人に任せたら?」
監査役の成人男性を作るには、《虚王顕現》へ大量の生命力を支払わなければならない。
今は余裕がない。
それに大人の姿では、荷車の下や壁の隙間へ隠れられない。
五歳児の身体だからこそできる侵入もある。
「監査役は別の仕事があります」
自分で別の仕事をさせる予定はない。
だが黒冠商会の監査役という役割には、灰鼠団の再編を監督する仕事がある。
嘘ではない。
「ノアには、共同寝床にいてほしい」
「また、わたしだけ待つの?」
少し不満そうだ。
昨夜の約束。
一人で何もかも抱えない。
俺は考える。
ノアを旧施療院へ連れていくことはできない。
だが、何も任せないのも違う。
「白い鳥を見張ってください」
「赤い目の?」
「ええ。鳥が共同寝床を離れた時刻と、戻った時刻を記録する」
「どこへ飛んだかは?」
「追わない」
先に言う。
「屋根から見える範囲だけです」
ノアは少し考え、うなずいた。
「分かったわ」
「もう一つ」
俺はノアへ、小さな黒い封筒を渡す。
中身は、何も書かれていない紙だ。
ただし黒冠商会の紋章を入れてある。
「正午までに俺が戻らなければ、灰鼠団の工房へ持っていってください」
「何て言えばいいの?」
「クライ補佐から、ガルド・ロウへ」
「中は?」
「監査役だけが読める暗号です」
何も書いていない。
だが、俺が正午までに戻らなかった場合。
ノアが封筒を届けたという事実が、ガルドへ異常を知らせる。
中身は必要ない。
「開けちゃ駄目?」
「商会の機密です」
「絶対?」
「絶対です」
ノアは封筒を胸へ抱えた。
完全に信じている。
「分かった。ちゃんと届ける」
「できれば、届ける必要がないように戻ります」
「約束ね」
ノアが小指を出す。
俺も指を絡める。
「正午までに戻る」
今回は、守るつもりだ。
◇
灰鼠団の工房。
裏切り者のヨルンは、何も知らない顔で帳簿を整理していた。
自分が流した情報によって赤蛇会の使者が動き、尾行されたことを知らない。
こちらが裏切りへ気づいたことも。
神殿旧施療院が特定されたことも。
「クライ」
ヨルンは俺を見ると、穏やかな顔で笑った。
「昨日渡された移送計画だが」
「中止です」
「何?」
「敵に知られた可能性があります」
ヨルンの指が、一瞬だけ止まった。
本当に一瞬。
見逃さない。
「誰かが情報を漏らした?」
彼は心配そうな顔を作る。
上手い。
普通の人間なら信じる。
俺も、裏切りの証拠を持っていなければ疑いきれなかったかもしれない。
「その可能性を監査役が調べています」
「私は何をすれば?」
「新しい計画を伝えます」
俺は声を落とした。
「今夜、監査役が旧施療院の西側地下水路を調査します」
存在しない計画。
「神殿旧施療院?」
ヨルンは驚いたふりをする。
「なぜ、そんな場所を」
「赤蛇会が捕虜の搬送先に使っている可能性がある」
「危険では?」
「だから監査役が直接行きます」
ヨルンの目がわずかに動く。
食いついた。
「時間は?」
「日没後」
俺は嘘の印がついた地図を渡す。
「西側の地下水路から入る予定です。ガルドにも、まだ話していません」
「なぜ私へ?」
「外部取引の担当者だからです」
俺はヨルンを見る。
「旧施療院に関する取引記録を探してください」
「分かった」
完全に信じている。
俺を騙していると思っている人間ほど、自分が騙されている可能性を考えない。
ヨルンは、俺が黒冠商会の秘密を話してしまったと思っている。
違う。
伝えたい情報だけを渡した。
今夜。
旧施療院の西側には、審問官の兵が集まる。
俺は反対側から入る。
「それから」
俺は付け加える。
「この情報を知っているのは、あなたと監査役だけです」
ヨルンの表情が少し硬くなる。
情報が漏れれば自分が疑われる。
そう思ったはずだ。
それでも伝えるだろう。
既に裏切っている人間にとって。
次の情報を渡さないことの方が危険だからだ。
「任せてくれ」
ヨルンは力強くうなずいた。
哀れだとは思わない。
まだ理由を聞いていない。
脅されているのか。
金か。
家族か。
信念か。
その事情によっては、助ける余地もある。
だが今は利用する。
彼も俺たちを利用している。
お互い様だ。
工房を出る時、ガルドとすれ違った。
「話したか」
「ええ」
「西側地下水路?」
ヨルンへ聞こえない場所で、俺はうなずく。
「今夜、敵がそちらへ動けば確定です」
「ヨルンはどうする」
「まだ捕らえません」
ガルドの顔が険しくなる。
「いつまで泳がせる」
「必要な情報を持って帰ってくるまで」
「敵から?」
「そうです」
裏切り者は、敵とこちらをつなぐ道。
今、その道を切るのはもったいない。
リゼフィアに聞かれれば、さぞ喜ぶ表現だろう。
『裏切り者の道……!』
案の定、扉の隙間から銀紫色の頭が現れた。
『信頼と罪悪感が何度も往復している、ねじれた獣道ですわね。素晴らしい』
「出てこないでください」
ガルドには見えていない。
俺が独り言を言ったように見える。
「何だ?」
「何でもありません」
『いつかわたくしにも歩かせてくださいませ』
「嫌です」
『ケチ』
道の悪魔に、裏切り者の心理経路まで収集されてはたまらない。
◇
神殿旧施療院の搬入口へ、昼前に荷車が到着した。
積み荷は、洗浄済みの白布。
灯油。
薬草。
建物は倉庫として登録されている。
だが、搬入量が多すぎる。
エドムが調べた公開記録では。
三日に一度、大量の清潔な布が入る。
週に一度、薬品。
月に二度、神聖儀式用の塩と銀。
ただの倉庫ではない。
内部で人間か魔物を扱っている。
俺は荷車の下にいた。
車軸と荷台の間。
五歳児だから、どうにか身体が入る。
腕と足で木枠へしがみつく。
落ちれば荷車に轢かれる。
かなり怖い。
「これ、絶対に子供がする侵入方法ではないですね」
『大人は身体が入らぬだろう』
ヴェルゴラが影の中から答える。
「だから俺がやっているんです」
『嫌なら戻ればよい』
「戻りません」
『なら黙ってつかまっておれ』
正論なのが腹立たしい。
荷車が止まる。
門番の声。
「通行証を」
御者が紙を渡す。
エドムが公開記録から教えてくれた、正規の納入業者だ。
偽造はしていない。
俺が勝手に荷車の下へついてきただけである。
「西側で異常があったそうだ」
門番が言う。
「審問官殿の命令で、警備が増えている」
ヨルンが情報を流した。
既に動いている。
「倉庫へ布を運ぶだけだ。早く通してくれ」
御者は事情を知らない。
門が開く。
荷車が進む。
石造りの境界を越える。
その瞬間。
胸の銀色の鍵が、小さく震えた。
旧施療院の外と内。
自分の身体で、確かに通過した。
これで、この門を《境界回廊》の対象にできる。
『あっ』
リゼフィアが、妙な声を出した。
「何です?」
『今の境界……』
銀色の亀裂から、彼女の上半身が現れる。
赤紫色の瞳が興奮で見開かれている。
『百年以上も、病人と死者と、秘密を抱えた神官が通り続けている!』
「声を抑えてください」
『表では施療院。裏では別の役割。閉鎖されても、人の出入りだけは続いている。建物の肩書きと実態が違うのですわ!』
リゼフィアが唇を震わせる。
『二重境界……! 表裏が重なった熟成門……!』
「何ですか、その言い方」
『クライ、お願いです』
「嫌です」
まだ何も頼まれていないが、断る。
『この門を提供してくださいませ!』
「契約の代償以外では渡しません」
『では次の使用料に!』
「もっとどうでもいい道を渡します」
『どうでもいい道ばかりでは、回廊の栄養が偏ってしまいますわ!』
「悪魔の宮殿に栄養管理が必要なんですか?」
『当然でしょう!』
知らない。
『美しい道。悲しい道。秘密の道。無意味に遠回りする道。二度と帰れない道。全てを均等に摂取しなければ、立派な回廊は育ちませんのよ!』
「好き嫌いせず食べてください」
『道を食事扱いしたのは、あなたでしょう!』
リゼフィアは本気で怒っている。
この女。
かなり面倒だ。
荷車が建物の裏へ回る。
倉庫前で止まった。
作業員たちが荷物を下ろし始める。
俺は視線が外れた瞬間、荷車の下から転がり出た。
地面へ着地。
膝が痛い。
声を出さず、積み上げられた木箱の陰へ隠れる。
誰にも見られていない。
「侵入成功です」
『門をもう一度越えてみません?』
「何のために?」
『往復した時の味も確かめたいので』
「却下」
『一回だけ』
「嫌です」
『半分だけでも』
境界を半分越えるとは何だ。
俺はリゼフィアを無視し、建物を観察する。
旧施療院は二階建て。
表側は閉鎖されている。
裏の搬入口だけが使われている。
窓には板。
周囲の壁は高い。
警備は六人。
ただし四人が西側へ集まっている。
俺が流した偽情報の効果だ。
残り二人も、搬入作業を確認している。
今なら内部へ入れる。
一階の小さな換気窓。
大人には無理だが、俺なら通れる。
板の一部が腐っている。
石で釘の周囲を削る。
音を立てないように。
少しずつ。
「ヴェルゴラ」
『何だ』
「火で切れます?」
『契約外だ』
「後で、旧施療院に残る生命力があれば少し分けます」
『先に言え』
黒い炎が細い糸になり、釘の先を焼く。
板が外れる。
俺は換気窓へ身体を入れた。
埃。
薬品の臭い。
古い血。
内部は暗い。
床へ下りる。
ここも境界を越えた。
外壁の向こうと、建物の内側。
魂へ記憶する。
『……ああ』
リゼフィアの声が震えた。
「今度は何です?」
『正規の入口ではない、秘密の穴』
「換気窓です」
『本来、人が通るために作られていない境界を、あなたが道へ変えた』
彼女は頬を赤らめている。
『道でなかったものが、今この瞬間、初めて道になったのですわ』
「それが?」
『初道です!』
「はつみち?」
『誰も歩いたことのない経路を、最初に踏み抜く行為!』
リゼフィアは両腕で自分の身体を抱き、震えた。
『ああ……生まれたての道……まだ誰の足にも汚されていない……』
「黙ってもらえます?」
『もう一度、外へ出て入り直していただけません?』
「絶対に嫌です」
『足跡を重ねるのも、それはそれで――』
「リゼフィア」
『何でしょう』
「敵に見つかったら、あなたを置いて逃げます」
『わたくしは魂へ戻るだけですわ』
脅しにならない。
俺は諦めて進む。
◇
建物内部は、倉庫ではなかった。
廊下。
診察室。
病室。
古い施療院の設備が、そのまま残っている。
だが、清掃されている。
床には新しい足跡。
壁の魔法灯も使われている。
一階の奥から、人の声が聞こえた。
俺は扉の陰へ隠れる。
白い法衣の神官が二人、木箱を運んでいる。
箱の側面には、神殿の印。
中から、小さな金属音がした。
鎖。
子供用らしい細い拘束具。
胸の奥が冷える。
神官たちが離れた後、廊下を進む。
扉の一つに鍵。
内側から、かすかな咳が聞こえた。
俺は隠れながら覗いた。
暗い部屋。
小さな寝台が五つ。
子供がいる。
年齢は六歳から十二歳ほど。
全員、粗末な服。
手首には白い布。
眠っているのか。
薬で意識を失っているのか。
一人だけ目を開けた。
痩せた獣人の少年。
狼に似た耳。
少年と目が合う。
声を出されれば終わる。
俺は唇へ指を当てた。
静かに。
少年は俺を見る。
黒髪。
金色の目。
同じくらいの子供。
警戒している。
俺は黒冠商会の小さな紋章を見せた。
少年は知らない。
当然だ。
それでも。
「(助けに来た)」
声を出さず、口の動きだけで伝える。
本当だ。
今すぐ全員を連れて出ることはできない。
それでも、助けるつもりはある。
少年はしばらく俺を見つめ。
ゆっくりうなずいた。
信じた。
胸が痛い。
何の根拠もない。
それでも他に頼れる相手がいないから、信じるしかない。
この期待を裏切るわけにはいかない。
俺は扉の位置を覚える。
後で《境界回廊》を開けば、外から直接この部屋へ来られる。
ただし境界印が必要だ。
扉へ触れるには、廊下をもう少し進まなければならない。
足音。
誰かが来る。
俺は扉の横にあった布運搬用の籠へ入った。
白い布を被る。
近づいてきたのは、神官ではなかった。
黒い髪を後ろへ束ねた男。
灰鼠団の副頭目。
ヨルン。
思ったより早い。
俺が渡した情報を、直接報告しに来たらしい。
隣には、灰色の外套を着た神殿兵。
二人は廊下の奥へ進む。
俺は籠から出て、距離を空けて追う。
大きな扉。
ヨルンが三度叩く。
「入れ」
男の声。
聞き覚えがある。
白い鳥を通じて、俺へ語りかけた声だ。
扉が開く。
ヨルンが中へ入る。
閉まる前に、俺は壁際へ移動した。
扉の下には、わずかな隙間。
声が聞こえる。
「先生」
ヨルンが言った。
「黒冠商会の監査役が、今夜動きます」
「場所は」
「西側地下水路。日没後です」
完全に信じている。
俺の嘘が、そのまま敵へ渡った。
「よくやった」
白い手袋の男。
赤い指輪。
神殿の審問官。
先生と呼ばれている人物。
「妹は」
ヨルンが尋ねた。
声が少し震えている。
「エナの治療は続けている」
「会わせてください」
「黒冠商会の正体が分かればな」
「約束が違う!」
ヨルンの声が大きくなる。
扉の外にいる神殿兵が振り返る。
俺は柱の陰へ隠れる。
「声を抑えなさい」
審問官は穏やかに言った。
「妹の魂には、魔力路の欠損がある。普通の治療では助からない」
「だから、あなたに協力した!」
「分かっている。灰鼠団の情報は役に立っているよ」
「では――」
「次は、黒冠商会だ」
ヨルンは黙った。
裏切りの理由。
妹。
治療。
人質に近い。
完全な悪意ではない。
だが、そのために灰鼠団の仲間を売った。
工房を襲わせた。
共同寝床の子供まで連れ去らせようとした。
事情があれば、何をしても許されるわけではない。
前世の親友も。
家族を守るためだと言った。
俺を二億円で売った。
ヨルンと重なる。
胸の奥に、嫌な感情が湧く。
同情。
怒り。
理解したくない気持ち。
理解してしまう部分。
今すぐ答えを出す必要はない。
「黒冠商会の監査役は、境界術を使う可能性がある」
審問官が言った。
俺は意識を会話へ戻す。
「境界術?」
「昨夜、王都に新しい扉が生まれた」
知っている。
リゼフィアとの契約を感知したのだ。
「黒冠商会は禁術使いなのですか」
ヨルンの声に恐怖が混じる。
「それを調べる」
「案内役の子供は?」
「クライ・マイト」
自分の名を呼ばれ、背筋が冷えた。
「魔力を持たない。神殿の測定記録にも、そう残っている」
調べられている。
「なら、関係ないのでは?」
「通常魔法ならね」
審問官の声が楽しそうになる。
「禁術は、術者自身の魔力を必要としない場合がある」
ヴェルゴラから聞いた説明と同じ。
「悪魔や呪物、外部の存在と接続し、その権能を借りる。代わりに契約者は別の対価を支払う」
完全に理解している。
危険だ。
「魔力を持たない者ほど、神や精霊の監視を受けにくい」
審問官は続ける。
「禁術の器としては、むしろ都合がいい」
ヨルンが息を呑む。
「まさか、あの子供が」
「まだ分からない」
審問官は笑った。
「だが、五歳児にしては賢すぎる」
耳が痛い。
少し隠すべきだったかもしれない。
今さら遅い。
「それに、黒髪と金色の目」
「珍しいだけでは?」
「七十二禁書の契約者には、魂の接続によって身体へ特徴が現れることがある」
七十二禁書。
背神契約大典を知っている。
「ガルド・ロウの左目も、ここで作られたものですか」
ヨルンが尋ねる。
沈黙。
数秒後。
審問官は答えた。
「あれは失敗作だ」
声から笑みが消えている。
「真偽を完全に見抜く神眼を作る予定だった。だが、本人が嘘だと思っている言葉しか判別できない」
ガルドは、この旧施療院で魔眼を与えられた。
神殿に引き取られた孤児。
実験。
逃亡。
全てがつながる。
「ガルドを生け捕りにする理由は、その目を回収するため?」
「回収ではない」
審問官は穏やかに訂正する。
「完成させるためだ」
扉の向こうで、何か金属が動いた。
「灰鼠団の首領として得た経験。疑念。裏切り。人間を見る力。全てが眼に蓄積されている」
「目を取れば、ガルドは」
「死ぬだろうね」
平然とした声。
「共同寝床の子供は?」
ヨルンが尋ねた。
「適性検査だ」
「売るためでは?」
「赤蛇会は、そう思っている」
審問官が小さく笑う。
「犯罪者へ真の目的を教える必要はない」
胸の中の怒りが、冷たくなる。
子供を使う。
ガルドの目を奪う。
赤蛇会も灰鼠団も、道具として扱う。
白い手袋の男は、全てを神殿の正義だと思っている。
だから厄介だ。
悪人だという自覚がある者は、利益で動かせる。
正義だと思っている人間は、自分が間違っている可能性を考えない。
「今夜、西側へ聖鍵兵を配置する」
審問官が言った。
「聖鍵兵には先ほど西側の守備を強化するよう伝えておきました」
「うむ。監査役を捕らえる。境界術を使うなら、こちらの《聖鍵》で出口を封じる」
銀の鍵。
白い鳥が使った術。
リゼフィアの《境界回廊》ほど自由ではない。
神殿が印を刻んだ扉同士を、聖具で接続する技術らしい。
「クライ・マイトは?」
「案内役が一人になったところを確保する」
ヨルンがためらう。
「子供です」
「妹を助けたいのだろう?」
「……はい」
「なら、余計な情は捨てなさい」
前世の倉庫が、一瞬だけ浮かんだ。
仕方なかった。
俺にだって家族がいる。
同じだ。
本当に。
嫌になるほど。
「今日中に、クライを工房から外へ呼び出せ」
審問官が命じる。
「黒冠商会の監査役が西へ向かった後、案内役をこちらへ」
「どうやって」
「信頼されているのだろう?」
「完全には」
「なら、信頼させなさい」
足音。
会話が終わる。
まずい。
俺は廊下の柱から離れる。
戻る時間がない。
前方には神殿兵。
後ろからヨルンと審問官が出てくる。
左の扉は鍵。
右側は窓。
板で塞がれている。
《境界回廊》を使う。
だが、まだ建物内部へ境界印を置いていない。
接続できるのは、俺が通った境界。
換気窓。
外門。
それだけ。
換気窓まで戻るには、神殿兵を越えなければならない。
なら。
今いる場所に境界を作る。
廊下の横に、布を保管する小部屋がある。
扉は開いている。
俺は中へ滑り込んだ。
扉を閉める。
こちら側。
向こう側。
境界。
指先を木へ置く。
「境界印を刻む」
銀色の鍵穴が浮かび。
すぐに消える。
三つ目。
これで、この小部屋の扉へ戻れる。
だが、今ここから逃げるには。
既に印を刻んだ森の倒木へつなぐ。
胸の銀色の鍵へ意識を向ける。
『お待ちになって!』
リゼフィアが、扉の中から身体を乗り出した。
「急いでいるんですが」
『この道を対価に!』
「どの道?」
『この小部屋から、森への逃走路ですわ!』
「今から作る道でしょう」
『ええ!』
リゼフィアの瞳は異常なほど輝いている。
『敵の拠点。追い詰められた契約者。扉一枚を隔てて迫る足音。そして、誰にも知られず森へ抜ける緊急逃走路!』
外から足音が聞こえる。
ヨルンが部屋を出た。
神殿兵も動く。
時間がない。
「契約では、既に歩いた道の記憶を渡すことになっています」
『では、完成後に!』
「代償の後払いは?」
『今回だけ特別に認めますわ!』
契約の裁定が頭へ浮かぶ。
リゼフィア側が自分の利益として猶予を認めるなら可能。
「本当に、この道が欲しいんです?」
『欲しいですわ!』
彼女は両頬へ手を当てた。
『追跡者の吐息が染みつく前の、できたて逃走路……! 秘密と恐怖が混ざった一番おいしい瞬間ですの!』
道をワインか何かだと思っている。
「分かりました」
『本当!?』
「ただし今回の使用料は、この道一つだけ」
本来なら未提供の道一つで足りる。
条件は変わらない。
リゼフィアは特別な道を得られる。
俺は、どうでもいい前世の道を減らさずに済む。
どちらでもよかったが。
彼女があまりに欲しがるため、恩を売る。
「さらに、今後一回だけ安全確認を無料に」
『えっ』
「嫌なら、前世の普通の道を渡します」
『それは困ります!』
リゼフィアは本気で悩み始めた。
扉の外で、別の足音が止まる。
「誰かいるのか」
神殿兵。
「早く」
『安全確認一回は高いですわ』
「では結構です」
『待って!』
扉の取っ手が動く。
『認めます! 今回限りですわよ!』
「成立」
銀色の契約文字が一瞬だけ光る。
俺は《境界回廊》を発動する。
――接続先、森の倒木。
――安全確認を実行。
銀色の小窓。
森。
人影なし。
白い鳥なし。
安全。
今回の確認は無料。
「開け」
小部屋の扉が銀色に輝く。
外から扉が開けられる。
同時に。
俺は内側から、別の方向へ扉を開いた。
向こうにあるのは廊下ではない。
朝の森。
俺は飛び込む。
背後から神殿兵の声。
「何だ!?」
扉を閉める。
銀色の境界が細くなる。
完全に消える直前。
向こう側から、白い手袋が隙間へ差し込まれた。
赤い石の指輪。
審問官。
白い手袋の指が、境界の縁をつかむ。
「見つけた」
落ち着いた男の声。
俺は反射的に扉を押す。
「リゼフィア!」
『閉じますわ!』
境界が一気に縮む。
白い手袋が引き抜かれる。
銀色の扉が消えた。
森。
静寂。
俺は地面へ座り込んだ。
心臓が速い。
あと少し遅ければ。
審問官も《境界回廊》へ入り込んでいたかもしれない。
「危なかった」
『最高でしたわ!』
リゼフィアが、倒木の穴から勢いよく現れた。
銀紫色の髪を振り乱し、頬を赤く染めている。
「何がです?」
『生まれました!』
「何が?」
『あの小部屋から、この森へ! 世界でたった一つの逃走路が!』
彼女は地面へ膝をつき、俺が通ってきた何もない空間を両手で撫で始めた。
『追われる恐怖。閉じる扉。最後に差し込まれた敵の手……ああ、何て濃い初走行記録……!』
「近づかないでもらえます?」
『契約者の足跡も新鮮ですわ』
「足を見ないでください」
『少しだけ触っても?』
「駄目です」
『道の起点として観察するだけですのに』
「絶対に嫌です」
ヴェルゴラが俺の肩へ現れた。
『だから言ったであろう』
「何を?」
『変態だと』
『虚飾しか能のない小悪魔は黙っていてくださる?』
『誰が小悪魔だ!』
『その大きさで?』
『これは仮初めの姿だ!』
二体の悪魔が言い争いを始める。
俺は無視し、立ち上がった。
戻らなければ。
正午までに共同寝床へ帰る。
ノアとの約束。
今なら間に合う。
ただし。
手ぶらで帰るわけにはいかない。
旧施療院の中へ、三つ目の境界印を置いた。
捕らえられた子供たちの部屋も確認した。
ヨルンの裏切りの理由。
審問官の目的。
ガルドの魔眼の秘密。
全て聞いた。
次は救出だ。
◇
共同寝床へ戻ったのは、正午の鐘が鳴る少し前だった。
裏口を開ける。
ノアが椅子へ座り、黒い封筒を両手で握っていた。
俺を見る。
表情が一気に明るくなる。
「クライ!」
立ち上がり、駆け寄ってくる。
「あと少しで灰鼠団へ行くところだったのよ!」
「間に合いました」
「遅い!」
抱きしめられる。
ノアは十歳。
五歳の俺より身体が大きい。
勢いで後ろへ倒れそうになる。
「苦しいです」
「心配したんだから」
「約束の時間内です」
「ぎりぎりは駄目!」
契約条件を後から変えられた。
ただ。
今回は反論する気になれない。
「ごめんなさい」
俺が言うと、ノアの身体が止まった。
「今、謝った?」
「聞こえなかったことにしてください」
「初めて聞いたかも」
「それは言いすぎです」
「もう一回言って」
「嫌です」
ノアが笑う。
俺も少しだけ笑った。
帰ってきた。
白い鳥は。
屋根に二羽。
朝より一羽減っている。
「鳥の記録は?」
俺が尋ねると、ノアはすぐに調査員の顔になる。
「朝、三羽とも東市場の方へ飛んだわ。一羽は戻ってない。残り二羽は、途中で西の神殿通りへ行って戻ってきた」
審問官は。
東市場の人形を確認。
森を走る野兎の追跡反応。
西側地下水路の偽情報。
複数の情報を同時に追っていた。
それでも俺の侵入に気づいた。
どこで。
小部屋の扉を開ける直前か。
《境界回廊》の発動を感知したのか。
あるいは最初から、侵入者がいる可能性を考えていたのか。
「何か分かった?」
ノアが尋ねる。
「ええ」
俺は答えた。
「旧施療院に、子供が五人捕まっています」
ノアの顔から笑みが消えた。
「助けるの?」
「当然です」
「いつ?」
「今夜」
ヨルンへ流した偽情報により。
審問官の主力は西側地下水路へ集まる。
俺は内部へ置いた境界印から、子供部屋の近くへ入る。
問題は。
子供部屋の扉に鍵がある。
一人ずつ《境界回廊》で運べば、必要な道の数が増える。
人間一人の短時間通過で道一つ。
五人。
俺と救出役。
規模を広げれば、複数の道が必要になる。
払えないわけではない。
前世の道はいくらでもある。
だが、救出後の行き先。
追跡。
審問官の《聖鍵》。
考える必要がある。
「ノア」
「何?」
「灰鼠団の工房へ行って、ガルドに伝えてください」
「内容は?」
「裏切ったヨルンを捕らえないこと」
ノアが驚く。
「裏切り者なんでしょう?」
「ええ」
「どうして?」
「妹を人質に取られています」
正確には治療を人質にされている。
「それでも、今捕らえれば敵が警戒する」
俺は黒い紙へ短い文章を書く。
今夜。
監査役は予定通り西側へ向かう。
案内役クライは共同寝床に残る。
灰鼠団は動かない。
全て嘘。
この文書を。
ヨルンが見られる場所で、ガルドへ渡す。
「ヨルンに見せるの?」
「見えるようにしてください」
「何も知らないふりをして?」
「できます?」
ノアは少しむっとする。
「王都臨時調査員よ」
「失礼しました」
ノアならできる。
彼女は黒冠商会の計画を本物だと信じている。
演技ではない。
命令された文書を届けるだけ。
ヨルンも疑わない。
「それから」
俺はノアが持っていた黒い封筒を返す。
「今夜、別の仕事を頼みます」
「危険?」
「共同寝床から出ません」
「じゃあ、何をするの?」
「五人分の寝床と、温かい食事を用意してください」
ノアは一瞬だけ目を丸くし。
すぐに笑った。
「分かったわ」
疑わない。
俺が助けると言った。
だから助けられると信じている。
その信頼が、少し重い。
だが今は。
心地よい重さだった。
◇
ノアが工房へ向かった後。
俺は共同寝床の奥で、計画を組み立てる。
旧施療院。
一階小部屋の境界印。
子供部屋。
ヨルンの妹エナ。
ガルドの魔眼。
白い手袋の審問官。
敵は、今夜西側で黒冠商会の監査役を待つ。
ならば。
黒冠商会の監査役には。
予定通り西側へ現れてもらう。
「ヴェルゴラ」
『虚像か』
「ええ」
「ただし、俺が中へ入っている間も動き続ける必要があります」
『貴様が直接操作せぬ虚像は不安定だぞ』
「信じる人間が大勢いれば?」
『自分たちで補う』
灰鼠団。
神殿兵。
審問官。
全員が、黒冠商会の監査役が西側へ来ると思っている。
その共通認識を利用する。
黒い仮面。
長い外套。
人影。
攻撃する必要はない。
西側に立ち。
注目を引きつけ。
しばらく存在しているだけでいい。
生命力の代償は必要になる。
今は保存分がない。
自分の寿命を担保へ入れるしかない。
一日以内に生命力を回収する。
旧施療院には、神聖力を持つ実験用の魔物か、魂を保存する器がある可能性が高い。
なければ。
市場の食肉処理場へ行く。
返済手段は作れる。
「リゼフィア」
『はい!』
返事が異常に速い。
銀色の扉から、美女が満面の笑みで現れた。
『救出路ですわね?』
「なぜ分かった」
『契約者の魂に、新しい道を作ろうとする感情が溢れていますもの』
彼女は興奮気味に身を乗り出す。
『閉じ込められた子供たち。秘密の実験施設。敵の目を盗み、一つの扉から脱出……!』
「落ち着いてください」
『複数人が、同じ道を初めて走るのでしょう?』
「その予定です」
『踏み荒らされる……!』
リゼフィアが両手で口元を押さえる。
赤紫色の瞳が潤む。
『生まれたての逃走路が、五人分の恐怖と安堵で一気に熟成される……!』
「人命救助です」
『分かっていますわ!』
彼女は真剣な顔でうなずく。
『だからこそ最高なのです!』
やはり分かっていない。
「必要な代償を確認します」
子供五人。
俺。
救出を手伝う者が一人。
合計七人。
短時間。
小部屋の扉から、共同寝床の裏口へ接続。
『道を三つ』
リゼフィアが答えた。
「二つ」
『七人ですのよ』
「子供は小さい」
『魂の大きさに、身体は関係ありません』
「同じ方向へ一度に通る」
『道へ残る足跡は七つです』
「あなたは、その新しい救出路も得る」
リゼフィアの表情が動く。
「今回作る道を、一つ分の代償として提供」
『それは先ほどの逃走路と同じく、完成後の後払いになりますわ』
「残り一つは、前世の道」
『どのような?』
「病院の裏口から、救急搬送用のエレベーターまで」
リゼフィアの瞳が大きくなる。
「多くの人間が、生きるか死ぬかの状態で通る道です」
『……』
「金属の寝台に乗せられ。血を流し。家族が泣きながら追いかける」
『……素敵』
声が震えている。
本当に変態だ。
「二つで」
『成立ですわ』
簡単に落ちた。
「安全確認は?」
『契約の無料分を一回使えます』
「帰還先の共同寝床へ使います」
内部の小部屋は、俺自身が入った場所だ。
危険がある可能性は高いが。
開く直前に物音を確認すればいい。
「それから」
俺はリゼフィアを見る。
「道を味わうのは、全員が安全に通過した後です」
『途中では駄目?』
「絶対に」
『邪魔はしませんわ』
「あなたの“観察”は信用できない」
『失礼ですわね』
「さっき、俺の足を触ろうとしましたよね」
『道の起点としてです』
「同じです」
リゼフィアは不満そうに頬を膨らませた。
見た目だけなら、美しいお姉さんだ。
中身を知ると全てが台無しになる。
「では」
俺は黒冠商会の仮面を手に取った。
「監査役には、西側で囮になってもらう」
「俺は東側の扉から内部へ入る」
「子供たちを救い」
「ヨルンの妹も探す」
「そして」
旧施療院の奥。
審問官の部屋で見た扉。
その先には。
ガルドの魔眼を完成させるための設備。
背神契約大典に関する情報。
神殿の犯罪を示す記録がある。
子供だけを助けて逃げることもできる。
それが最も安全だ。
だが。
証拠がなければ、神殿は別の場所で同じことを続ける。
審問官も逃げる。
共同寝床は、今後も狙われる。
「敵の秘密も、全部持ち帰ります」
ヴェルゴラが笑った。
『欲深いな』
「褒め言葉です」
リゼフィアも笑う。
『素晴らしいですわ』
彼女は無数の扉を背後へ浮かべる。
『人を救う道。秘密を盗む道。敵を欺く道。帰る道』
赤紫色の瞳が、狂気じみた喜びに輝く。
『今夜は、さぞ豊かな夜になりますわね』
俺は黒い仮面を見つめる。
正直。
怖い。
審問官は、俺が禁術使いである可能性へ近づいている。
境界術への対策も持つ。
一歩間違えれば捕まる。
神殿の実験材料になる。
ノアやマナへ、二度と会えなくなる。
それでも。
逃げる選択肢はない。
俺が始めた嘘のせいで、敵はこちらを見つけた。
なら俺が終わらせる。
「今夜」
俺は言った。
「神殿旧施療院を、黒冠商会が買い取ります」
『金を払うのか?』
ヴェルゴラが尋ねる。
「いいえ」
俺は微笑んだ。
「中身だけ、勝手にいただきます」




