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詐欺転生〜詐欺師は禁術で世界を騙す〜  作者: キラーダミズハ
第一章 詐欺師の第一歩
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8/31

第8話 第二の悪魔は、道を食べる

屋根の上に、白い鳥が三羽。


赤い目が、窓の隙間から共同寝床を見ている。


神殿の使い魔。


審問官の目。


俺はノアの手を握ったまま、しばらく鳥たちを観察した。


逃げるべきか。


追い払うべきか。


どちらも悪手だ。


逃げれば、見られて困る理由があると教える。


追い払えば、使い魔へ気づける人間だと教える。


ならば。


見せたいものだけを見せればいい。


「ヴェルゴラ」


俺は、ノアを起こさないよう小声で呼んだ。


服の影から、小さな悪魔が顔を出す。


『鳥を焼くか?』


「どうして、あなたはすぐ暴力で解決しようとするんです?」


『悪魔だからだ』


潔い。


「焼きません。道案内を頼みます」


『鳥にか?』


「ええ」


白い鳥たちは、俺を監視している。


ならば俺が向かった場所を、審問官へ報告する。


問題は。


これから向かう本当の目的地が、禁術の大百科が置かれた地下遺跡だということだ。


神殿に知られるわけにはいかない。


「鳥には、別の場所へ行ったと思わせます」


『《虚王顕現》を使うのか』


「今の生命力では、大きな虚像は作れません」


胸に残された生命力は、人間寿命換算で一時間にも満たない。


鳥三羽へ、長時間別の俺を見せるには足りない可能性がある。


自分の寿命を担保へ入れる手もある。


だが、返済用の生命力を確保できる保証はない。


できれば使いたくない。


「普通の方法で騙します」


◇


夜が明ける少し前。


俺は共同寝床を出た。


ノアには、危険のない範囲で行き先を伝えると約束した。


だから枕元へ紙を置いてきた。


――黒冠商会の仕事で、東市場の倉庫へ行く。昼までには戻る。


嘘ではない。


東市場を経由する。


倉庫の前も通る。


ただし、そこが最終目的地ではない。


約束の穴を使っているようで、少し罪悪感がある。


次からは、もう少し正直に伝えるべきだろうか。


だが、悪魔との契約へ向かうと話せるはずもない。


共同寝床を出ると、白い鳥が一羽飛び立った。


残り二羽は屋根に残る。


交代で監視しているらしい。


俺は何も気づいていない顔で歩く。


東市場へ入り。


露店の間を抜け。


黒冠商会が最初の仕事を仲介した冒険者たちの宿の前を通る。


素材屋バグスの店にも立ち寄った。


「早いな、坊主」


開店準備中のバグスが顔を上げる。


「質問があります」


「今度は何を売る」


「今日は買いに来ました」


俺は銀貨を一枚置く。


「人間と同じ大きさの外套。安物で構いません」


「誰が着る」


「質問への追加料金は払いません」


バグスは鼻を鳴らし、店の奥から古い灰色の外套を持ってきた。


「冒険者が置いていった物だ。血は落としてある」


「血がついていたことを、先に言わないでください」


「気にするのか?」


「少し」


着るわけではない。


それでも気分はよくない。


俺は外套へ、干し草を詰めた。


木の棒で骨組みを作り、頭の部分には袋を置く。


遠目なら、人間が座っているように見える。


それをバグスの店の荷車へ乗せる。


「何をするつもりだ」


店主が尋ねる。


「東倉庫へ荷物を運びたい」


「自分で運べ」


「銀貨一枚で」


「外套を買った金とは別だぞ」


「今置いた銀貨は、外套と運搬の両方です」


「勝手に決めるな」


交渉の末。


銅貨二十枚を追加し、荷車を出してもらった。


高い。


黒冠商会は利益が出るたびに金が消える。


いつか、まともな会計担当が必要だ。


俺とバグスは、東市場の倉庫へ向かう。


白い鳥が、屋根から追っている。


荷車の上には、灰色の外套を着た人影。


俺は荷車の横を歩く。


東倉庫の前へ到着すると、俺は裏口へ回った。


倉庫は黒冠商会の所有ではない。


市場の商人が共同で使う建物だ。


朝は荷物の出入りが多い。


人も多い。


俺は外套の人形を、倉庫裏の窓際へ座らせた。


窓から見えるのは、灰色の背中だけ。


その横へ、黒い王冠の印がついた鞄を置く。


俺自身は倉庫内へ入る。


そして。


積み荷の反対側にある出口から出た。


外套を裏返す。


髪を布で隠す。


顔と腕へ、荷袋から取った煤を塗る。


市場で働く、汚れた子供。


黒髪と金色の目は珍しい。


目を伏せる。


荷箱を抱える。


俺はそのまま、別の商人の荷車へ紛れ込んだ。


白い鳥は、倉庫の窓際に残された人影を見ている。


俺が黒冠商会の人間と会い、倉庫へ残った。


そう判断する。


鳥は人間ほど賢くない。


使い魔を操る審問官も、鳥の目から見える情報しか得られない。


「禁術を使わずに済みましたね」


俺は荷車の陰で呟いた。


『貧相な手口だ』


ヴェルゴラが答える。


「効果があれば十分です」


『我が権能を使えば、一瞬であったぞ』


「使用料が高いんですよ」


『我が力へ金銭のような言い方をするな』


悪魔の権能。


生命力を支払う。


使用前に価格が示される。


どう考えても、有料のサービスである。


◇


森へ入る。


昨日とは別の道を選ぶ。


白い鳥が追っていないことを、何度も確認する。


それでも、完全には安心できない。


神殿の審問官。


白い手袋。


赤い石の指輪。


相手が禁術の専門家なら、使い魔以外の監視方法も持っているかもしれない。


地面に魔力の痕跡を残している可能性。


髪や衣服に追跡の術をつけられている可能性。


俺自身には、魔法を見抜く力がない。


「何かついています?」


俺はヴェルゴラへ尋ねた。


『何がだ』


「神殿の追跡術」


『最初に聞け』


「聞かれなくても教えてください」


『契約にない』


この悪魔、本当に使いにくい。


「俺が神殿に捕まれば、あなたも困るでしょう」


『我は本へ戻るだけだ』


「再び数百年封印されても?」


『……』


ヴェルゴラが俺の周囲を飛ぶ。


黒い鼻をひくつかせる。


『神聖力の糸が一本ついておる』


「どこに?」


『右の靴底』


俺は靴を脱ぐ。


靴底に、小さな白い羽毛が貼りついていた。


昨夜、屋根の白い鳥から落ちた物だろう。


触れずに、木の枝で剥がす。


「壊せます?」


『容易い』


「やっぱり…、壊しません」


俺は羽毛を、森の入口近くにいた野兎の巣へ落とした。


追跡術が位置だけを伝えるなら。


審問官は、俺が森の中を駆け回っていると思う。


運が悪ければ、兎を黒冠商会の使者だと勘違いするかもしれない。


『性格が悪いな』


「褒め言葉ですか?」


『我が言う場合はな』


少しも嬉しくない。


◇


遺跡の穴へ到着した。


蔦をどける。


狭い入口。


前回、この穴へ入った時は一人だった。


何があるか分からない。


魔物がいるかもしれない。


戻れなくなるかもしれない。


かなり迷った。


今は、内部に悪魔がいると分かっている。


それはそれで、入りたくない。


「ヴェルゴラ」


『何だ』


「背神契約大典には、七十二体の悪魔が封印されているんですよね」


『正確には七十二の座だ。既に滅びた者、空席となった者もおる』


「今、契約できる悪魔は何体?」


『知らぬ』


「背神契約大典の管理者では?」


『我は第一頁に封じられていただけだ』


役職順ではないらしい。


「危険な悪魔は?」


『全員だ』


「あなたを基準にして?」


『無礼な!』


つまり全員危険。


参考にならない。


俺は穴へ身体を滑り込ませた。


狭い土の中を進む。


途中で背後が崩れないか。


前から魔物が来ないか。


また心臓が速くなる。


慣れない。


危険な場所へ何度入っても、怖いものは怖い。


怖くなくなる方が危険だ。


恐怖は、考える時間をくれる。


少し多すぎる時もあるが。


地下空間へ出る。


石柱。


崩れた像。


古代文字。


中央には巨大な黒い本。


洞窟喰らいの魔蜘蛛の死体も残っている。


すで腐っていた。


臭い。


「先に言っておきます」


俺は本へ近づく。


「次の悪魔を出しても、あなたとの契約を切るつもりはありません」


『当然だ』


「嫉妬しないでください」


『誰がするか!』


ヴェルゴラは怒鳴った。


かなり気にしている。


第一の悪魔としての立場を守りたいらしい。


「次の頁は、どうやって開く?」


『表紙へ血を与えよ』


「また切るんですか?」


『血の契約書だ。唾液で開くと思うか?』


痛い。


嫌だ。


前回切った指先は、まだ少し傷が残っている。


同じ場所を使う。


尖った石を当てる。


「……痛っ」


一滴の血が、黒い表紙へ落ちた。


金色の目が開く。


本を縛っていた七十二個の金具。


そのうち一つが外れる。


重い表紙が、ひとりでに開いた。


頁が勢いよくめくれる。


一枚。


二枚。


十枚。


最後に、深い青色の頁で止まった。


描かれているのは。


一人の女。


長い銀紫色の髪。


黒い角。


薄い衣をまとった美しい身体。


背後には、無数の扉。


開いた扉の向こうに。


森。


海。


城。


砂漠。


知らない星空。


頁の上に、古代文字が浮かび上がる。


――第十三座。


――迷界と境界を司る悪魔。


――万門侯リゼフィア。


名前を読んだ瞬間。


周囲の景色が変わった。


遺跡ではない。


無限に続く白い廊下。


左右には、数え切れないほどの扉。


木。


鉄。


骨。


金。


石。


人間の家の扉。


牢獄の扉。


棺の蓋。


何か巨大な生物の口のような物まである。


俺は一人で廊下に立っていた。


ヴェルゴラの姿もない。


「勝手に場所を変えられてしまいましたね」


『勝手とは、心外ですわ』


女の声が背後から聞こえた。


振り返る。


頁に描かれていた悪魔が立っている。


長い銀紫色の髪が、床へ届くほど流れている。


二本の黒い角。


赤紫色の瞳。


白い肌。


薄い黒衣。


人間離れした美貌。


前世を含めても、これほど整った女性は見たことがない。


少し見とれた。


本当に少しだけ。


五歳児の身体が、どう反応すればいいのか分からない。


中身は二十九歳。


外見は幼児。


非常に気まずい。


「小さなお客様」


女は微笑む。


『わたくしの回廊へ、ようこそ』


声も美しい。


甘く。


落ち着いている。


ヴェルゴラとは大違いだ。


『失礼なことを考えましたか?』


「いいえ」


今のは普通の嘘だ。


魔眼はない。


問題ない。


「クライ・マイトと申します」


俺は頭を下げる。


「あなたがリゼフィア?」


『ええ。道を愛し、扉を集め、境界の狭間に宮殿を持つ者』


リゼフィアは優雅に手を広げた。


『万門侯リゼフィア。あなたの行きたい場所を、全てつなげて差し上げます』


全て。


随分と大きく出た。


ヴェルゴラと同じ匂いがする。


『あの虚飾屋と同じにしないでくださる?』


心を読まれた?


リゼフィアは楽しそうに笑う。


『表情へ出ていますわ』


気をつけよう。


「能力の説明を」


『せっかちな殿方は嫌われますわよ』


「五歳児に女性関係の助言をされても困ります」


『中身は、もう少し老いていらっしゃるようですけれど』


心臓が跳ねた。


転生者だと見抜いた?


「どういう意味です?」


俺は表情を変えない。


『魂へ刻まれた道が多いという意味です』


リゼフィアは俺の周囲を歩く。


指先が空中をなぞる。


そのたびに扉が浮かぶ。


前世の家。


学校。


駅。


ホテル。


倉庫。


俺が死んだ場所。


映像が一瞬だけ見えた。


『随分と多くの場所を歩いてきた魂』


彼女が見ているのは記憶の内容ではない。


俺の魂に残された、道の履歴。


「それが、あなたの欲しいものですか?」


『話が早くて助かりますわ』


リゼフィアは一枚の契約書を取り出した。


青白い羊皮紙。


銀色の文字。


『わたくしが授ける禁術は、《境界回廊》』


左右の扉が一斉に開く。


一つの扉の向こうには地下遺跡。


別の扉の向こうには、王都の市場。


さらに別の扉には、共同寝床。


実物ではない。


能力を説明するための映像だろう。


『術者が一度触れ、境界として記憶した二つの入口を、短時間だけ接続する禁術です』


「入口とは?」


『扉。窓。門。洞窟の穴。橋の始まりと終わり。影と光の境目。こちらと向こうを分けるものなら、何でも』


「距離制限は?」


『契約者の認識と、支払われた対価によります』


「王都と、この遺跡は?」


『可能ですわ』


「別の国は?」


『あなたが双方へ行き、境界を記憶しているなら』


「見たことがあるだけでは?」


『足りません。自ら通過し、こちら側と向こう側を魂へ刻む必要があります』


強力だ。


非常に強力。


一度行った場所なら。


離れた扉同士をつなげる。


移動。


逃走。


侵入。


物資の輸送。


救出。


監視。


使い道はいくらでもある。


《虚王顕現》とは完全に異なる。


あちらは認識を現実へ近づける。


こちらは空間の境界そのものを接続する。


欲しい。


かなり欲しい。


今すぐ契約したい。


だが、顔には出さない。


「代償は?」


リゼフィアの笑みが深くなる。


『あなたが歩いた道を、一つ』


「道?」


『誰にも教えていない道。あなた自身の足で歩き、見つけ、記憶した経路を、わたくしへ捧げていただきます』


「捧げた場合、俺はその道を忘れる?」


『いいえ』


「歩けなくなる?」


『いいえ』


「その道の所有権が、あなたへ移る?」


『わたくしの回廊へ、その道の写しが加わります』


俺は黙った。


意味を整理する。


俺が歩いた道の記憶を。


リゼフィアへ複製して渡す。


俺自身は忘れない。


使えなくならない。


ただ彼女の回廊に、新しい道が増える。


俺に実害がない。


ほぼ完全な無償である。


それだけ?


思わず聞きそうになった。


危ない。


驚くべきところではない。


むしろ、非常に重い代償のように振る舞わなければならない。


リゼフィアにとって、道の記憶は価値がある。


俺が簡単に渡せると知られれば、追加条件をつけられる。


俺は表情を曇らせた。


「難しいですね」


『あら』


リゼフィアが首を傾げる。


『あなたにとって、道の記憶はそれほど大切?』


「当然です」


これは半分本当。


道の知識は、俺の財産だ。


前世でも、逃走経路や建物の構造を記憶していた。


この世界でも。


スラムの抜け道。


市場の裏口。


灰鼠団の排水路。


遺跡への道。


知らない方が命を落とす。


「道は、逃げ道であり、取引経路であり、情報です」


俺は続ける。


「誰にも知られていない道ほど価値がある」


『ええ』


リゼフィアの瞳が輝く。


彼女も同じ価値を感じている。


「俺が道を渡せば、あなたは自由に使える?」


『わたくしの回廊の一部として』


「他の契約者を、その道へ通せる?」


『契約内容次第では』


これは少し危険だ。


俺の秘密の道を、別の契約者に使われる可能性。


完全なノーダメージではない。


塞ぐ必要がある。


「渡した道を、俺の許可なく第三者へ開放しない」


『それでは、わたくしが道を得る意味が薄れますわ』


「観賞用として楽しめばいい」


『道は歩いてこそ道です』


「あなた自身が使うのは構いません」


リゼフィアは少し考える。


『わたくし自身と、わたくしの眷属のみ』


「眷属の定義は?」


『わたくしが直接生み出した者』


「他の契約者は含めない」


『ええ』


「俺へ敵対する目的では使わない」


『慎重ですのね』


「一度死んでいますので」


リゼフィアの目が少し細くなる。


また余計なことを言った。


だが彼女は追及しなかった。


『では、その条件を認めましょう』


銀色の文字が加わる。


簡単すぎる。


もっと警戒されるかと思った。


いや。


彼女は自分が得をしていると思っている。


俺にとって道がどれほど価値あるものか。


俺自身が説明した。


秘密の逃走経路。


情報。


命を守る財産。


それを、禁術を使うたびに一つ渡す。


リゼフィアから見れば。


俺は大切な資産を切り売りする。


彼女は何も失わず、未知の道を得る。


非常に都合がいい。


実際には、俺の記憶は残る。


第三者へも使われない。


ほぼ損はない。


「一回の使用で、道を一つ?」


『短い接続なら一つ』


「長時間の接続は?」


『複数』


「人間一人が通るだけなら?」


『一つで十分ですわ』


「十人は?」


『二つ』


「荷車は?」


『道の幅によります』


料金体系は、渡す道の数。


道の記憶は、俺に大量にある。


前世だけでも。


世界中の都市。


建物。


ホテル。


抜け道。


駅。


数千はある。


しかもリゼフィアは、異世界の道を特に好むだろう。


彼女にとっては希少。


俺にとっては、もう二度と歩けない前世の記憶。


活用する方法もなかった。


それを複製して渡すだけで、空間移動の禁術を使える。


あまりにお得だ。


笑いそうになる。


堪える。


「代償が重すぎます」


俺は低い声で言った。


『ですが、わたくしの力にも価値があります』


「道を一つ渡すごとに、その道が悪用される危険を負う」


第三者には開放しない条件を入れた。


実際の危険はほぼない。


『わたくしを信用できない?』


「初対面ですので」


『正直ですこと』


「契約は、信用しなくても成立する形にするべきです」


リゼフィアは楽しそうに微笑む。


『あなた、気に入りましたわ』


美しい女性から言われると、少し嬉しい。


相手は悪魔だ。


浮かれるな。


『では、最初の十回に限り、一度の使用につき一つの道』


リゼフィアは提案した。


『十一回目以降は、効果に応じて再交渉』


再交渉。


将来値上げされる可能性がある。


避けたい。


「百回」


『欲張りですわね』


「俺の道は、それだけ価値がある」


『二十回』


「八十回」


『三十回』


「六十回」


『四十回』


「五十回」


リゼフィアが笑う。


『四十五回。それ以上は認めません』


「四十八回」


『細かい殿方は嫌われますわよ』


「契約は細かい方がいい」


『四十六回』


「成立です」


四十六回。


十分だ。


それまでに、リゼフィアとの関係を変える。


新たな条件を作る。


あるいは、この能力でさらに価値ある物を得る。


「次に、接続先の安全確認」


俺は言った。


『まだ条件が?』


「扉を開けた先が、岩の中や炎の中では困ります」


『あなたが記憶した境界へつなぐのですから、その心配は――』


「記憶した後に状況が変わる場合があります」


建物が壊れる。


火事。


敵の待ち伏せ。


「開く前に、接続先の景色と音を短時間確認できること」


『対価が増えます』


「扉を開かなければ、道は使用していない」


『覗くことも境界への干渉です』


「では、三回の確認で道一つ」


『二回』


「四回」


『増やさないでくださいませ』


「三回で」


『……よろしいでしょう』


追加。


「扉を開く場所は、俺が直接触れた境界だけ?」


『最初は』


「印を残せますか?」


『境界印を刻めば、離れていても接続先として指定できます』


「印の数」


『七つ』


「少ない」


『契約したばかりの人間には十分です』


「十三」


『なぜ十三ですの?』


「あなたが第十三座だから」


リゼフィアの表情が少し明るくなった。


虚栄心。


悪魔は、どいつもこれに弱い。


『仕方ありませんわね。特別に十三としましょう』


「ありがとうございます」


表面上は丁寧に。


内心で笑う。


印が十三。


最初の四十六回は、道一つで使用可能。


開く前に安全確認。


契約者以外へ道を使わせない。


非常に良い。


リゼフィアは、自分が大切な道を大量に得られると信じている。


それも間違いではない。


前世の道は、彼女にとって未知の世界の財宝だ。


双方が得をする。


ただし。


俺の方が、圧倒的に得をする。


『契約書を』


リゼフィアが手を差し出す。


銀色の文字が空中へ並ぶ。


---------------------------------


契約者クライ・マイトは、万門侯リゼフィアより、禁術《境界回廊》を行使する権利を与えられる。


《境界回廊》は、契約者が自ら通過し、魂へ記憶した二つの境界を、一時的に接続する。


境界とは、扉、窓、門、洞口、橋端、影と光の境目その他、契約者が「こちら側」と「向こう側」を区別するものと認識した場所を指す。


契約者は、禁術一回の行使につき、自ら歩いた未提供の道の記憶を一つ、複製してリゼフィアへ提供する。


提供された道の記憶は、契約者から失われず、契約者は引き続き当該経路を記憶し、利用できる。


リゼフィアは、提供された道を、自身および自身が直接生み出した眷属以外へ開放してはならない。


リゼフィアは、提供された道を、契約者クライ・マイトへ敵対し、害し、監視し、拘束する目的で使用してはならない。


本契約締結後、四十六回目までの禁術行使については、人間一名が短時間通過できる規模の回廊につき、道一つの提供を対価とする。


複数人、大型物品、長時間維持その他、規模を拡大する場合は、発動前に必要となる道の数を提示し、契約者の承認を得る。


契約者は最大十三か所へ境界印を刻み、遠隔地から接続先として指定できる。


境界回廊を開く前に、接続先の景色および音を確認できる。


安全確認三回につき、未提供の道一つを対価として提供する。


リゼフィアは、接続先の危険を認識しながら、故意にその情報を隠してはならない。


契約内容の解釈に争いが生じた場合、契約締結時に両者が共有した認識と明文化された条項に基づき、契約書そのものが裁定する。


---------------------------------


「確認しました」


『では、署名を』


また血か。


嫌だ。


悪魔ごとに契約方式を統一してほしい。


俺は傷の残る指を見た。


「別の指にします」


『ご自由に』


尖った銀色の針が、リゼフィアの手元へ現れる。


「最初から針があるなら、ヴェルゴラにも貸してください」


『あの方には、石で十分でしょう』


仲が悪いらしい。


指先を刺す。


「痛っ」


やはり痛い。


リゼフィアがくすりと笑う。


『可愛らしい契約者』


「今の発言も今後の取引の材料にさせてもらいますよ」


『恨み深い殿方』


俺は血で名を書く。


クライ・マイト。


リゼフィアも銀色の爪で署名する。


万門侯リゼフィア。


二つの名前がそろった瞬間。


無数の扉が一斉に開いた。


強い風。


森の匂い。


海の音。


街の喧騒。


雪。


砂。


雨。


数え切れない世界の気配が、廊下を駆け抜ける。


銀色の光が俺の胸へ入った。


ヴェルゴラの黒い火とは違う。


細い銀の鍵。


それが魂へ刺さる感覚。


頭の中に、新しい知識が流れ込む。


境界。


こちら側。


向こう側。


道。


扉。


接続。


俺は、世界が無数の部屋に分かれていることを理解した。


その壁へ。


一時的な扉を作る。


これが《境界回廊》。


「契約成立ですわ」


リゼフィアは満足そうに微笑む。


「早速、試します」


『対価となる道を』


来た。


俺は、渋る表情を作る。


「最初からですか?」


『当然ですわ』


「少し考えさせてください」


本当は、どの道を渡しても構わない。


前世で通った、どうでもいい道が大量にある。


コンビニまでの道。


駅の構内。


ホテルの廊下。


もう存在する世界へ戻れない以上。


それらをリゼフィアへ渡しても、俺には一切損がない。


だが、すぐに差し出せば価値が低いと気づかれる。


俺は目を閉じる。


長く迷うふりをする。


眉を寄せる。


息を吐く。


「……仕方ありません」


俺は重々しく言った。


「前世で、最も多く通った道を一つ」


『前世?』


「魂へ刻まれた、別世界の道です」


リゼフィアの赤紫色の瞳が大きくなる。


食いついた。


『異なる世界の道を?』


「貴重です」


本当に貴重ではある。


彼女にとっては。


俺にとっては、駅から家までの通勤路だ。


会社員ではなかったが、仕事用の事務所へ行く時に使っていた。


途中にコンビニ。


薬局。


飲食店。


何の変哲もない道。


それでも異世界の悪魔には、見たことのない建物や道路だ。


「この道を渡せば、今後二度と同じ物は出せません」


同じ道は一つしかない。


嘘ではない。


『ええ。大切にいたしますわ…!』


リゼフィアは、完全に自分が得をしたと思っている。


俺は道の記憶を思い浮かべる。


夜の東京。


舗装された道路。


信号機。


自動車。


高層建築。


自動販売機。


銀色の光が記憶をなぞる。


俺から何かが抜けた感覚はない。


記憶も残っている。


リゼフィアの背後に、新しい扉が生まれた。


ガラスと金属でできた、自動ドア。


こちらの世界には存在しない形。


扉が開く。


向こうには、夜の道路が映っている。


車の光。


人の声。


雨に濡れたアスファルト。


リゼフィアが、感嘆の息を漏らす。


『何と美しい道……!』


ただの通勤路である。


『光る鋼鉄の獣が、無数に走っている……!』


自動車。


『道そのものが、これほど滑らかに整えられているなんて……!』


舗装道路。


『クライ・マイト』


彼女は俺を見る。


『あなた、とても価値ある道をお持ちですのね』


「だから、簡単には渡したくありませんでした」


俺は苦しそうに言う。


内心。


あと数千本あります。


「では、《境界回廊》を」


接続する場所を決める。


遺跡の入口。


共同寝床ではない。


白い鳥が監視している可能性がある。


まずは森の入口にある、倒れた大木の空洞。


先ほど通った。


こちら側と向こう側の境界として記憶している。


「この遺跡の石門と、森の大木の空洞を接続」


頭の中に銀色の文字が浮かぶ。


――禁術《境界回廊》。


――接続先を確認しますか。


「確認する」


目の前に、小さな銀色の窓が開いた。


森の大木。


周囲に人はいない。


白い鳥も見えない。


音。


風。


木々。


安全。


確認一回目。


三回までは追加の道を支払う必要はない。


「開けます」


黒い本の隣。


崩れた石門の内側が、銀色に光る。


石門の向こうに。


地下遺跡ではなく、森が現れた。


数刻かけて進んだ土の穴を飛ばし。


一歩先に、地上がある。


すごい。


思わず声が出そうになる。


「……これは」


便利すぎる。


移動時間。


追跡。


封鎖。


全てを無視できる。


遺跡と森。


黒冠商会の拠点。


灰鼠団の工房。


神殿旧施療院。


境界印を置けば、好きな場所をつなげられる。


俺の行動範囲が、一気に広がる。


『気に入っていただけました?』


リゼフィアが尋ねる。


「悪くありません」


本当は最高だ。


表情を抑える。


『素直でないお方』


「契約ですから」


俺は扉を通る。


一歩。


地下遺跡から、森へ。


振り返る。


石門の向こうに、リゼフィアが立っている。


『また新しい道をお持ちくださいませ』


「代償が重いので、必要な時だけにします」


『ええ』


リゼフィアは楽しそうに笑う。


『あなたが大切な道を手放すたび、わたくしの宮殿は豊かになる』


銀の扉が閉じる。


石門は消え。


元の倒木の空洞へ戻る。


「成功ですね」


『貴様』


背後から、ヴェルゴラの声。


小さな悪魔が、不機嫌そうに腕を組んでいる。


「何でしょう」


『あの女へ渡した道』


「ええ」


『大切な道だったのか』


「何度も歩きました」


『失って困るのか』


「記憶は残ります」


『では、何が減った』


「何も」


ヴェルゴラが黙る。


そして。


『騙したな?』


「契約内容は全て説明しました」


「道が大切だとも言いました」


「実際に大切ですよ」


前世の記憶の一部。


懐かしさはある。


だが複製を渡しても失わない。


「リゼフィアは、異世界の貴重な道を得た」


俺は言う。


「俺は、ほぼ負担なしで空間移動を得た」


「互いに得をしています」


『あの女は、自分だけが大きく得をしたと思っておるぞ』


「それも含めて、良い契約です」


ヴェルゴラは悔しそうな顔をした。


自分の契約時より、上手く騙したことが気に入らないらしい。


「嫉妬です?」


『違う!』


「安心してください」


俺は小さな悪魔を肩へ乗せる。


「あなたの《虚王顕現》がなければ、黒冠商会は作れませんでした」


『当然だ』


すぐ機嫌が直る。


本当に扱いやすい。



あ、契約者の安全保障の項目を作るのを忘れていた…。


◇


森を出る前。


俺は一つの木へ、銀色の境界印を刻んだ。


外見上は、薄い鍵穴のような印。


俺以外には、ほとんど見えない。


一つ目。


残り十二。


次は。


神殿旧施療院。


敵の拠点へ境界印を置ければ。


中へ自由に出入りできる。


捕らわれた子供がいるなら救出できる。


証拠も盗める。


白い手袋の審問官が何を企んでいるのか、直接確認できる。


ただし、正面から近づけば警戒される。


裏切り者のヨルンを利用する。


白い鳥も。


全て、こちらから道を見せる。


その道の先に。


俺が開いた扉を置く。


◇


昼前。


東市場へ戻った。


白い鳥は、まだ倉庫の窓際を見張っていた。


俺が残した人形。


灰色の外套の背中。


黒冠商会の鞄。


審問官は、俺が倉庫内にいると思っている。


俺は市場の荷運び少年の姿のまま、倉庫裏へ入る。


人形を回収。


煤を洗い落とす。


服を戻す。


そして正面から倉庫を出た。


白い鳥が一斉にこちらを見る。


俺は疲れたように歩く。


あたかも朝から黒冠商会の仕事をしていたように。


鳥たちは疑わない。


追跡の白い羽毛は、今頃森の野兎と一緒に走っている。


これで。


神殿の報告はこうなる。


クライ・マイトは東市場の倉庫を訪れ。


黒冠商会の人間と長時間接触。


森へは行っていない。


背神契約大典にも触れていない。


第二の悪魔と契約していない。


完璧だ。


たぶん。


完璧だと思った時ほど、何かを見落としている。


前世で学んだ。


だから確認する。


共同寝床へ戻る前に、屋根を見る。


白い鳥。


一羽。


二羽。


三羽。


そのうち一羽だけ。


足へ小さな銀色の鍵がついていた。


俺が《境界回廊》を使った時に生まれた銀の光と、よく似ている。


偶然か。


それとも。


リゼフィアとは別に、道の力を感じ取れる者がいるのか。


白い鳥が首を傾ける。


赤い目が、俺を見つめた。


その口が開く。


鳥の声ではない。


落ち着いた男の声が響いた。


『クライ・マイト』


市場の喧騒の中。


その声は、俺にだけ届いた。


『東倉庫でのお仕事は、楽しかったかね?』


背筋が冷える。


知っている。


俺が倉庫にいなかったことを。


少なくとも、疑っている。


白い鳥の赤い目が細くなる。


『次は、私のところへ遊びに来なさい』


鳥の足にある銀の鍵が光る。


空間が歪む。


鳥は飛び立つのではなく。


小さな扉の中へ消えた。


俺は、その場に立ち尽くした。


「ヴェルゴラ」


『見ておった』


「リゼフィアと同じ能力?」


『違う』


ヴェルゴラの声が低くなる。


『だが、境界へ触れる術ではある』


白い手袋。


赤い指輪。


神殿の審問官。


そして。


扉の力。


こちらが第二の悪魔と契約した直後。


相手もまた、道を使えることを見せてきた。


偶然ではない。


「完全に騙せたと思ったんですけどね」


俺は小さく息を吐く。


少し悔しい。


かなり悔しい。


だが。


同時に、胸が高鳴っていた。


相手も道を使う。


ならば。


どちらが先に、相手の出口へ罠を置くか。


勝負は単純だ。


俺は白い鳥が消えた空間を見る。


そして笑った。


「招待状、確かに受け取りました」


次はこちらから。


神殿旧施療院の扉を開ける。

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