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詐欺転生〜詐欺師は禁術で世界を騙す〜  作者: キラーダミズハ
第一章 詐欺師の第一歩
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7/31

第7話 裏切り者には、別々の嘘を渡せ

翌朝。


目を覚ますと、ノアが俺の顔をのぞき込んでいた。


また近い。


「……昨日も同じことをしていませんでした?」


「今日は起こしに来たの」


「普通に声をかけてください」


「三回かけたわよ」


全く記憶にない。


身体が鉛のように重い。


洞窟喰らいの魔蜘蛛との戦い。


成人男性の虚像。


十二人の執行役。


ここ最近の忙しさと、昨日だけで禁術を使いすぎた反動か。


寿命は削れていない。


代償は保存していた生命力から支払った。


それでも、精神的な疲労までは肩代わりしてくれないらしい。


「代表の人とのお仕事、そんなに大変だったの?」


ノアが心配そうに尋ねる。


「少し」


「顔色が悪いわ」


「元からです」


「クライは色白なだけ。今日は青いの」


失礼な観察力だ。


俺は起き上がる。


胸の奥へ意識を向ける。


保存していた生命力は、ほとんど残っていない。


人間の寿命に換算すれば一時間に満たない。


次に大きな禁術を使えば、自分の寿命を担保へ入れることになる。


一日以内に別の生命力を確保できれば問題はない。


だが、昨日のように都合よく魔物が現れるとは限らない。


しばらく禁術は節約する。


可能な限り、普通の嘘だけで片づける。


「甘い物を買いに行く約束、覚えてる?」


ノアが言った。


「覚えています」


「本当?」


「契約は守ります」


「指切りしただけだけど」


「俺にとっては、紙より重い契約です」


言った後で少し恥ずかしくなった。


ノアは目を丸くし、それから嬉しそうに笑う。


「じゃあ、今日のお昼ね」


「仕事が終われば」


「またお仕事?」


「黒冠商会の審査は始まったばかりです」


灰鼠団の再編。


赤蛇会の背後にいる白い手袋の男。


工房襲撃の情報を漏らした裏切り者。


問題は山積みだ。


そして昨夜。


印のない黒い馬車が、共同寝床の前を通った。


偶然とは思えない。


相手は、黒冠商会の案内役である俺へ関心を持った。


今のところ、それだけだ。


だが共同寝床を知られた以上、マナやノアが危険へ巻き込まれる可能性がある。


その考えが胸へ浮かぶたび、少し息苦しくなる。


俺一人ならいい。


自分で始めたことだ。


失敗すれば、自分で責任を取る。


だが、二人は違う。


黒冠商会を作る前から、俺のそばにいただけだ。


俺の嘘のせいで傷つけられるのは嫌だった。


「クライ?」


ノアが首をかしげる。


「何でもありません」


「嘘」


一瞬、心臓が跳ねた。


ノアは俺の正体を疑っているわけではない。


顔色を見て、何かを隠していると思っただけだ。


それでも反射的に警戒してしまう。


「疲れているだけです」


これは本当だ。


ノアは少し不満そうだったが、それ以上聞かなかった。


「無理しないでね」


無理をするな。


マナにも言われる。


前世では、そんなことを言う人間はいなかった。


俺がどれだけ危険な仕事をしても、周囲が心配していたのは計画の失敗と、自分への損害だけだった。


今は。


ただ俺が疲れているだけで、心配してくれる人がいる。


嬉しい。


同時に、怖い。


失うものが増えるほど、人間は弱くなる。


俺も例外ではなかった。


「大丈夫です」


俺は言った。


今度は、半分だけ本当だった。


◇


朝食を終えた頃。


共同寝床の扉が叩かれた。


灰鼠団の男が一人、入口に立っていた。


昨夜、工房で負傷した男だ。


頭へ包帯を巻いている。


「クライ・マイト」


「何でしょう」


「首領からだ」


男は、小さな木箱を差し出した。


中には焼き菓子が四つ。


表面に砂糖がまぶされている。


共同寝床の子供たちが、一斉に箱を見る。


ノアも見ている。


俺も見ている。


甘い物を買いに行く必要がなくなった。


「これは?」


「昨夜の礼だとよ」


黒冠商会の監査役へ渡すべきではないのか。


そう尋ねかけて、やめる。


監査役の直接管理下にいる案内役へ礼を渡す。


不自然ではない。


それに、ガルドは監査役が俺を特別扱いしていると思っている。


俺を通して渡せば、商会へ好意を示せる。


「預かります」


「それと、首領が昼前に工房へ来いって」


「俺が?」


「ああ。監査役への報告を渡す」


ガルドは、俺を黒冠商会との連絡役として完全に認識している。


望んだ通りだ。


「分かりました」


男が帰る。


扉を閉めた瞬間、ノアが箱へ飛びついた。


「甘い物!」


「見れば分かります」


「四つもあるわ!」


「毒の確認が先です」


「こんなにいい匂いなのに?」


「毒は匂いで遠慮してくれません」


灰鼠団が俺を毒殺する理由は薄い。


それでも確認する。


ヴェルゴラへ小声で尋ねると、毒も呪いもないという。


箱には四つ。


ノア。


マナ。


共同寝床を管理する老婆。


そして俺。


他の子供たちの視線が痛い。


四つでは全員へ配れない。


俺は菓子を細かく切り分けることにした。


「クライの分が小さくなるわよ」


ノアが言う。


「もともと、食事一回と甘い物一つが報酬でした」


「わたしだけ食べるの?」


「仕事をしたのはノアです」


「でも」


ノアは周囲の子供たちを見る。


迷っている。


最後に、自分の菓子を俺へ差し出した。


「クライが切って」


「いいんですか?」


「みんなで食べた方がおいしいもの」


俺はその言葉を理解できなかった。


一人で全部食べるより、量は確実に減る。


味そのものも変わらない。


それでも。


マナと子供たちが少しずつ菓子を口へ入れ、笑う。


ノアも小さな欠片を大事そうに食べる。


その光景を見ていると、確かに一人で食べるより悪くない気がした。


「クライも」


ノアが俺の口元へ、菓子の欠片を差し出す。


「自分で食べられます」


「早く」


仕方なく口を開く。


甘い。


砂糖の味。


前世では、もっと高価な菓子を何度も食べた。


有名な職人。


希少な果物。


一つ数万円。


けれど今、口に入った小さな焼き菓子の方が、妙にうまかった。


「おいしい?」


ノアが尋ねる。


「悪くありません」


「素直じゃない〜」


ノアは笑う。


俺も少し笑った。


絶対に守ろう。


この場所を。


そのためなら、今日も人を騙す。


むしろ、得意分野だ。


◇


昼前。


灰鼠団の工房は、ひどい状態だった。


倉庫の半分が焼け落ちている。


正面の広場には、消火に使った黒い水が残っていた。


負傷者。


焦げた木材。


捕らえられた赤蛇会の男たち。


それでも、灰鼠団の構成員たちの顔は昨日より明るい。


一度は壊滅しかけた。


そこから反撃し、副頭目まで捕らえた。


黒冠商会の援軍によって。


全員が、そう信じている。


「案内役だ」


「監査役のところの」


「昨日の影、見たか?」


「屋根に十二人いた」


俺が工房へ入ると、男たちが道を空けた。


五歳児の俺へではない。


俺の後ろにいる黒冠商会へ敬意を払っている。


悪くない。


少し気持ちがいい。


ただ、調子に乗って偉そうに歩こうとすると、足元の木片につまずきそうになる。


五歳児の身体は、権威に配慮してくれない。


奥の部屋。


ガルドが卓の前へ座っていた。


右側に会計役のレム。


左側に、二人の男。


一人は太い首を持つ禿頭の男。


もう一人は細身で、長い黒髪を後ろへ束ねている。


「来たか」


ガルドが言う。


卓の上には書類が並んでいた。


帳簿。


構成員一覧。


取引先。


昨夜の契約に基づく、審査資料だ。


「監査役へ渡せばいいか」


「俺が確認した後、必要な物を届けます」


ガルドは疑わない。


俺が監査役本人であるとは、少しも考えていない。


「紹介する」


ガルドは左右の二人を見る。


「副頭目のザックと、ヨルンだ」


会談時間を知っていた五人。


ガルド。


ドス。


レム。


ザック。


ヨルン。


ここにいる二人のどちらかが、赤蛇会へ情報を流した可能性が高い。


ザックは禿頭。


筋肉質。


工房の戦闘員をまとめている。


ヨルンは細身。


帳簿や外部との交渉を担当しているらしい。


「昨日の襲撃時、この二人はどこに?」


俺は尋ねる。


「ザックは工房にいた」


ガルドが答える。


「ヨルンは物資の受け取りで市場へ」


「どちらも工房の外へ連絡できた」


「そうなる」


ザックが卓を叩く。


「俺を疑ってんのか、ガキ!」


「全員を疑っています」


俺は答えた。


「ガルドも含めて」


ザックの顔が怒りで赤くなる。


ガルドは笑った。


「俺までか」


「審査ですから」


本人が自分の組織を売る可能性も、理論上はある。


実際には低い。


だが最初から除外すれば、その思い込みが穴になる。


「バルクは何と?」


俺が尋ねると、ガルドが一枚の紙を渡した。


「会談の時間は、白い手袋の男から聞いた」


「直接?」


「赤蛇会の頭領を通してだ」


「名は」


「知らされていない。赤蛇会では“先生”と呼ばれている」


先生。


随分と曖昧な呼び名だ。


「目的は?」


「灰鼠団を西部から追い出す。若い構成員と、共同寝床の子供を生け捕りにする」


胸の奥が冷える。


共同寝床。


やはり狙われていた。


昨夜、黒い馬車が通ったのは下見だった可能性がある。


マナ。


ノア。


子供たち。


俺の知らない間に、商品として見られていた。


怒りが湧いた。


冷静に考えろ。


怒っている時ほど、判断を間違える。


前世で散々利用した心理だ。


分かっている。


それでも腹が立つ。


「運び先は」


「神殿旧施療院」


俺は顔を上げた。


「神殿?」


「十年前に閉鎖された施設だ。今は倉庫として登録されている」


ガルドは白い左目へ触れる。


「バルクは、そう信じていた。嘘ではない」


エドムが公文書管理所で働いている。


旧施療院の記録を調べさせる必要がある。


ただし、その前に裏切り者だ。


内部から会談時間が漏れ続ける状態では、何をしても敵へ伝わる。


「ザックとヨルンへ、個別に話があります」


俺は言った。


「ここで話せ」


ザックが答える。


「別々に」


「なぜだ」


「同じ質問へ、同じ場所で答えさせれば、後の者が前の答えに合わせるからです」


ガルドがうなずく。


「ザックからだ」


◇


焼け残った小部屋。


卓を挟み、ザックと向かい合う。


扉の外にはガルドがいる。


内容は聞こえない距離。


「会談の時間を誰かへ話しましたか?」


「話してねえ」


即答。


魔眼がないため、真偽は分からない。


だが、今は問い詰めることが目的ではない。


「分かりました」


「それだけか?」


「ええ」


俺は紙を一枚差し出した。


「明日の夜、灰鼠団の物資を北門近くの廃製粉所へ移します」


ザックが紙を見る。


「何で俺に言う」


「戦闘員を三人選び、護衛へ出してください」


「赤蛇会に狙われてるのに、外へ運ぶのか」


「だからです」


俺は声を落とす。


「工房は既に場所を知られている。黒冠商会は、北側に臨時倉庫を持っています」


もちろん持っていない。


だが、この情報は実行するためではない。


漏らすために作った。


「時間は?」


「日没の鐘から半刻後」


「分かった」


ザックは紙を折り、服の内側へ入れた。


「この件は、ガルドを除き誰にも話さないでください」


「レムにも?」


「誰にも」


ザックはうなずいた。


完全に信じている。


自分が重要な任務を任されたと思っている。


次。


ヨルン。


同じ部屋。


同じ質問。


「会談の時間を誰かへ話しましたか?」


「いいえ」


落ち着いた声。


表情も変わらない。


「分かりました」


俺は別の紙を渡す。


「明日の夜、灰鼠団の帳簿と資金を南区の廃礼拝堂へ移します」


ザックへ渡した情報とは異なる。


「なぜ私に?」


「金と帳簿の扱いに慣れているからです」


ヨルンは紙を読む。


「護衛は」


「必要ありません。黒冠商会が用意します」


「何時に?」


「日没の鐘から一刻後」


「分かりました」


「ガルドを除き、誰にも話さないでください」


「承知しました」


疑わない。


二人とも、黒冠商会の安全な拠点へ資産を移す計画だと信じた。


最後に、レム。


彼には三つ目の情報を渡す。


「明日の深夜、負傷者を東区の閉鎖診療所へ移します」


「治療できるのか?」


「黒冠商会の医師が待機しています」


存在しない医師。


必要になれば、後で作る。


「誰にも話さないでください」


レムもうなずく。


ドスには、午後に別の場所で伝える。


「明朝、捕虜の一部を西門の衛兵詰所へ引き渡す」


北。


南。


東。


西。


時間も内容も違う。


誰の情報が敵へ渡るか。


それを見れば、裏切り者が分かる。


古典的な方法だ。


だが、単純な方法ほど強い。


問題は、相手が情報を漏らした時、こちらがどうやって把握するか。


そのための手も打つ。


俺は四枚の紙へ、それぞれ違う黒冠商会の印を入れた。


見た目はほぼ同じ。


ザックの紙には、王冠の尖りが四つ。


ヨルンは五つ。


レムは六つ。


ドスは七つ。


本人たちは気づかない。


だが、敵が持っていれば見分けられる。


さらにもう一つ。


紙の繊維へ、素材屋バグスから買った魔蛾の鱗粉を少量つけた。


夜になると、特定の薬草液へ触れた時だけ淡く光る。


魔法ではない。


普通の素材だ。


敵の使者が紙へ触れれば、鱗粉が手や服へ移る。


市場の薬屋に協力させ、指定の路地へ紫灯草の煙を流してもらう。


通った者だけが淡く光る。


嘘を流し。


物的証拠を残す。


裏切り者がどれほど上手く言い訳しても、紙と光は残る。


「ずるい方法だな」


ヴェルゴラが服の影から言う。


「正面から聞いて、正直に答えると思います?」


『拷問すればよい』


「人間は拷問されれば、知っていることだけでなく、相手が聞きたいことまで話します」


苦痛を止めるためなら、無実の人間でも自白する。


真実を得る方法としては雑すぎる。


「自分から動いてもらう方が確実です」


◇


工房を出る前。


ガルドが俺を呼び止めた。


「今の話、全員に違う内容を渡したな」


さすがに気づいたか。


「なぜそう思うんです?」


「俺に計画を伝えず、副頭目へだけ移送を任せるはずがない」


「内容までは?」


「聞いていない」


ガルドは白い目で俺を見る。


「裏切り者を炙り出す気か」


ここで隠す理由はない。


「ええ」


「俺には、どの情報を渡した」


「何も」


「なぜだ」


「あなたが裏切り者だった場合、誰の情報を敵へ渡すか選べるからです」


ガルドは数秒黙った後、笑った。


「本当に全員を疑ってるんだな」


「疑わなかった結果、俺は一度死んでいますので」


口から出た。


前世の話。


ガルドの笑みが消える。


「一度?」


しまった。


五歳児が言うには不自然だ。


俺はすぐに言葉を足す。


「森で、洞窟喰らいに襲われた時です」


死にかけた。


一度死んだようなもの。


そういう意味だと受け取れる。


ガルドは納得した。


疑わない。


「監査役は聞いたのか」


「何を?」


「お前が森で死にかけたことを」


「俺が報告しました」


真実。


ガルドの中では、案内役の俺が監査役へ報告した形になる。


「監査役は、お前を随分買っている」


「結果で評価する人ですから」


自分のことだ。


ガルドは少しだけ羨ましそうに見えた。


気のせいかもしれない。


「裏切り者が分かったら、どうする」


「まず理由を聞きます」


「処罰は俺が決める」


「灰鼠団の内部規則については」


俺は答えた。


「ただし、黒冠商会の審査に必要な人間なら、殺す前に相談してください」


「利用価値があれば残せと?」


「死体は働きません」


ガルドは低く笑った。


「お前、本当に五歳か」


「年齢確認が必要です?」


「いや」


ガルドの白い目が俺を見る。


「今の言葉も嘘じゃねえらしい」


危ない。


俺は表情を変えない。


「俺は五歳です」


これは紛れもない事実だ。


ガルドの魔眼は反応しない。


「そうかよ」


完全に納得したわけではなさそうだ。


だが疑いの方向は、黒冠商会の教育を受けた異常に賢い子供へ向いている。


転生者だとは考えない。


当然だ。


そんな存在がいるという前提を持っていない。


◇


午後。


俺はエドムと会った。


場所は以前と同じ廃教会。


エドムは俺の顔を見るなり、ため息をつく。


「また面倒事か」


「挨拶より先に失礼ですね」


「お前が普通の仕事を持ってきたことがあるか?」


「招待状だけです」


「犯罪組織の首領へ送る神殿公証書体の招待状を、普通とは言わない」


正論。


俺は一枚の銀貨を渡す。


ガルドから受け取った保証金の一部を、冒険者ギルドで両替したものだ。


「娘さんの薬代です」


エドムの表情が少し和らぐ。


「約束通りだな」


「契約ですから」


「今日は何を調べろと?」


「神殿旧施療院」


エドムの顔が固まった。


「どこでその名を知った」


「赤蛇会が、人間の搬送先として使っている」


「馬鹿な」


「記録上は倉庫になっているそうですね」


エドムは黙る。


知っている。


「現在の管理者は?」


「答えられない」


「神殿の守秘義務?」


「ああ」


「では、一般公開されている範囲で」


俺は質問を変える。


「旧施療院が閉鎖された理由。現在の所有部署。物資の搬入記録。周辺で許可された馬車の通行」


「何をするつもりだ」


「子供が運ばれる前に止めます」


エドムの目が変わる。


娘を持つ父親。


子供の人身売買を見過ごせる人間ではない。


「共同寝床の子供も狙われていました」


「……」


「俺も」


これは本当だ。


エドムは目を閉じた。


神殿への忠誠。


規則。


子供の安全。


頭の中で比べている。


「公開記録だけだ」


「十分です」


「内部資料は渡さない」


「頼んでいません」


頼んでも断られる。


今は信頼を壊さない方が重要だ。


エドムは夕方までに調べると約束した。


「それから」


俺は言った。


「白い手袋と、赤い石の指輪をつけた男に心当たりは?」


エドムの顔から血の気が引いた。


明確な反応。


「知っているんですね」


「……神殿の人間は、赤い指輪を階位の証として使う」


「何位?」


「審問官」


神殿の審問官。


異端。


禁術。


魔族。


神殿の敵を調べ、裁く役職。


嫌な言葉だ。


俺は悪魔と契約した禁術使いである。


本来なら、最も会いたくない相手だ。


「白い手袋は?」


「魂や呪いへ直接触れるため、聖魔法の威力を高める聖具だ。審問官の中でも、特別な任務を持つ者しか使わない」


相手は貴族の商人ではない。


神殿。


それも禁術へ関わる専門家。


黒い馬車が共同寝床の前を通った。


俺を見た。


偶然ではない。


洞窟喰らいの魔蜘蛛。


黒冠商会の使者。


《虚王顕現》の痕跡。


どれかを追っている。


あるいは。


ガルドの魔眼。


神殿を逃げた子供。


審問官の狙いは、最初からガルドだった可能性もある。


「エドム」


「何だ」


「俺について、神殿から聞かれたことは?」


エドムはすぐに首を横へ振った。


「ない」


その答えを信じる。


少なくとも今は。


エドムは俺が黒冠商会の案内役以上の存在だとは知らない。


悪魔との契約も。


禁術も。


遺跡も。


知らないものは話せない。


「もし聞かれたら?」


「何も知らないと答える」


「それは嘘になります」


「実際、何も知らない」


エドムは少し苛立ったように言った。


「お前が何者で、黒冠商会が何をしているか、俺は何一つ説明されていない」


素晴らしい。


秘密を守る最も確実な方法は、教えないことだ。


「今後も、その状態を維持しましょう」


「信用されていないと、喜ぶべきか?」


「あなたを守っています」


「五歳児に守られるほど落ちぶれてはいない」


そう言いながら、エドムは少し笑った。


◇


夕方。


ノアと約束していた甘い物を買った。


昨日の菓子を分けたため、正式な報酬はまだ渡していない。


市場の露店で、蜂蜜を薄く塗った焼きパンを一つ。


ノアは両手で受け取った。


「一人で全部食べていいの?」


「報酬ですから」


「クライは?」


「必要ありません」


腹は減っている。


甘い物も食べたい。


だが金は有限だ。


ノアは焼きパンと俺を交互に見る。


少し悩み。


半分に割った。


大きい方を俺へ差し出す。


「どうぞ!」


「俺の分ではありません」


「わたしが、クライにあげたいの!」


「報酬が減りますよ」


「減らないわ。わたしがもらった後で、半分をあげるんだもの!」


所有権が移った後の処分。


理屈として正しい。


「契約の穴を使いましたね」


「クライの真似〜」


少し得意そうだ。


俺は焼きパンを受け取った。


温かい。


蜂蜜の匂い。


「ノア」


「なあに?」


「今日、共同寝床の近くで怪しい人を見ましたか?」


ノアの表情が真剣になる。


「黒い馬車?」


「知っているんですか?」


「昨夜、見たわ」


窓から。


俺だけではなかった。


「御者の顔は?」


「見えなかった。でも、馬車が通った後、白い鳥が屋根に止まったの」


「鳥?」


「真っ白で、目だけ赤い鳥。今朝までいたわ」


監視用の魔法生物か。


神殿の使い魔。


可能性が高い。


「今は?」


「朝のお祈りの鐘が鳴ったら、飛んでいった」


俺は周囲を見る。


市場の屋根。


鐘楼。


建物の縁。


白い鳥はいない。


「どうして教えてくれなかったんです?」


「珍しい鳥だと思っただけだもの」


責めても仕方がない。


ノアは神殿の使い魔を知らない。


「次に見たら、すぐに教えてください」


「危ない鳥なの?」


「人を見て、誰かへ報告する鳥かもしれません」


「分かったわ!」


ノアはうなずき、焼きパンをかじる。


「クライ」


「何です?」


「黒冠商会って、悪い人たちと戦ってるの?」


返答に迷う。


黒冠商会は俺が作った。


善悪の方針など決めていない。


利益が出るなら悪人とも取引する。


必要なら、善人も騙すかもしれない。


ただし。


ノアやマナを売ろうとする者は敵だ。


それだけは明確だ。


「商会は、自分の商品を奪う人間と戦います」


「商品?」


「人。場所。約束。信用」


俺は少し考える。


「守ると決めたものです」


ノアは笑った。


「じゃあ、いい商会ね!」


違う。


そんなに綺麗ではない。


そう言おうとして、やめた。


ノアがそう信じてくれるなら。


いつか、本当にそういう組織になっても悪くない。


嘘を現実へ近づける。


それが俺の禁術だ。


ならば、自分の組織に関する嘘も。


いつか本当にすればいい。


◇


夜。


罠が動いた。


共同寝床の屋根へ、小石が三度当たる。


合図。


薬屋の店主へ頼んでいた少年が、路地の向こうから知らせている。


紫灯草の煙へ反応した者が現れた。


俺はノアとマナが眠ったことを確認し、窓から外へ出た。


「五歳児が夜中に出歩くものではないぞ」


ヴェルゴラが肩へ乗る。


「悪魔に常識を説かれるとは思いませんでした」


「我は悪魔であるからこそ、人間の愚かさを知っておる」


今回は禁術を使わない。


黒い服。


顔を隠す布。


小さな身体のまま、裏路地を進む。


指定した場所は四つ。


北の廃製粉所。


南の廃礼拝堂。


東の閉鎖診療所。


西門の衛兵詰所。


そのうち一つへ、赤蛇会か神殿の者が現れる。


薬屋の少年が指した方向は。


南。


ヨルンへ渡した情報だ。


灰鼠団の帳簿と資金を、南区の廃礼拝堂へ移す。


裏切り者はヨルン。


ほぼ確定。


俺は廃礼拝堂を見渡せる、空き家の二階へ入る。


既にガルドとドスが待っていた。


「誰の情報だった」


ガルドが尋ねる。


「ヨルン」


ガルドの顔が険しくなる。


「間違いないのか」


「まだ情報が漏れただけです。本人が直接流したとは限らない」


盗み見られた。


脅された。


家族を人質に取られた。


可能性は残る。


「来たぞ」


ドスが窓の外を指す。


廃礼拝堂の前へ、三人の男が現れた。


赤蛇会ではない。


灰色の外套。


顔を隠している。


一人の右手が、淡く光っていた。


紫灯草の煙へ反応した魔蛾の鱗粉。


ヨルンへ渡した紙に触れた証拠だ。


男たちは周囲を確認し、礼拝堂へ入る。


「捕らえる」


ガルドが動こうとする。


「待ってください」


「証拠は十分だろ」


「末端を捕らえても、白い手袋の男までは届かない」


「逃がすのか」


「案内してもらいます」


男たちは帳簿と金を奪うために来た。


何もなければ、依頼人へ報告へ戻る。


尾行すれば拠点か連絡役へつながる。


「どうやって追う」


「ドスが」


「俺か?」


ドスが自分を指す。


大柄。


顔も灰鼠団に知られている。


尾行には向かない。


「姿を見られない距離で」


俺は説明する。


「三人全員を追う必要はありません。別れた場合、一番歩き慣れている者を追う」


「歩き慣れてる?」


「道を何度も確認する者は、初めて来た人間。迷わず裏道へ入る者が連絡役です」


ドスはうなずく。


「分かった」


少しは考えて動けるようになってきた。


俺が全部指示し続ける組織は弱い。


構成員自身が判断できなければ、俺がいないだけで止まる。


灰鼠団を残すなら、そこも変える必要がある。


礼拝堂から男たちが出てきた。


帳簿も金もなかった。


苛立っている。


三人は南へ歩き始める。


途中で二手に分かれた。


二人は大通り。


一人だけ、細い裏道へ入る。


迷わない。


「一人の方です」


ドスが窓から離れる。


「無茶はしないでください」


「分かってる」


「見つかった場合は?」


「逃げる」


「戦わない?」


「相手を捕まえるより、情報を持ち帰る方が大事」


正解。


「行ってください」


ドスが裏口から消える。


残ったガルドは、廃礼拝堂を見ていた。


「ヨルンか」


声が低い。


怒り。


悲しみ。


どちらもある。


「長い付き合いです?」


「十二年だ」


「信用していた」


「ああ」


「それでも、理由を聞く前に殺しますか?」


ガルドは答えない。


「裏切り者を許せとは言いません」


俺は続ける。


「ただ、あなたが本当に欲しいのは復讐ですか。それとも、敵の情報ですか」


「両方だ」


「順番があります」


ガルドが俺を見る。


「お前は、裏切られたことがあるのか」


胸が詰まった。


前世の倉庫。


親友。


二億円。


悪いな。


家族がいる。


俺は息を吐く。


「あります」


「殺したか」


「殺されました」


ガルドの白い目が光る。


俺は今の言葉を真実だと思っている。


だから魔眼は反応しない。


ガルドの表情が固まった。


「どういう意味だ」


「比喩です」


今度は少しだけ嘘に近い。


だが俺の中では、前世の自分は実際に殺された。


説明する気はない。


「だから分かります」


俺は言った。


「裏切られた直後は、相手がなぜそうしたかより、自分が馬鹿にされたことの方が許せない」


ガルドは黙る。


「信用した自分が間違っていたと認めたくない。だから相手を殺して、全て相手が悪かったことにする」


「違うと言いたいのか」


「違いません」


俺も、親友を憎んだ。


死ぬ直前。


裏切った理由を理解しようとはしなかった。


二億で売ったことを馬鹿にし。


相手より上に立ったまま死のうとした。


傷ついていると認めたくなかった。


寂しかった。


怖かった。


それを隠した。


「ただ」


俺は続ける。


「理由を知ってから殺しても遅くはありません」


ガルドは鼻で笑った。


「結局殺すのか」


「あなたが決めることです」


俺なら。


前世の親友が目の前に現れたら。


殺すだろうか。


分からない。


一発は殴りたい。


かなり強く。


でも、話も聞きたい。


二億が欲しかっただけなのか。


本当に家族を守りたかったのか。


少しでも迷ったのか。


俺を友人だと思っていた時間は、本物だったのか。


聞けなかったことが残っている。


「クライ」


ガルドが初めて、監査役との連絡役ではなく、俺個人を見るような声で呼んだ。


「お前は、変なガキだな」


「よく言われます」


マナにも。


ノアにも。


悪魔にも。


「監査役に似ている」


「教育がいいので」


自分で自分を教育している。


ガルドは完全に信じた。


◇


半刻後。


ドスが戻ってきた。


息を切らしている。


「どこへ行った」


ガルドが尋ねる。


「神殿旧施療院」


やはり。


「一人で入ったのか」


「裏の門から。門番は、白い外套を着てた」


神殿関係者。


「他に見た物は?」


「黒い馬車」


俺とガルドが同時に反応する。


「印は?」


「なかった。御者は貴族街の服」


昨夜、共同寝床の前を通った馬車と同じ。


「白い手袋の男は?」


「見てない。だが、馬車の横に白い鳥がいた」


赤い目の鳥。


監視用の使い魔。


神殿旧施療院。


審問官。


人身売買。


ガルドの魔眼。


禁術を持つ俺。


全てが近づいている。


「ヨルンを捕らえる」


ガルドが言った。


「まだです」


「なぜだ」


「ヨルンは、こちらが裏切りに気づいたと知らない」


今なら、敵へ情報を流す経路として使える。


偽の情報を与え続ければ、審問官の動きを誘導できる。


「生かして泳がせろと?」


「監視下で」


「次の襲撃で部下が死んだら」


「漏らす情報を、こちらで決めます」


本当の計画は教えない。


敵に知ってほしい情報だけを渡す。


裏切り者は、最も信頼できる伝令になる。


自分が騙されていると知らない間は。


ガルドは不満そうだった。


だが、最後にはうなずく。


「監査役の判断か」


「俺が提案し、監査役が承認すると思います」


実際には、もう承認している。


「分かった」


ガルドは拳を握る。


「ただし、ヨルンがもう一人でも売ったら」


「その時は止めません」


ヨルンを守りたいわけではない。


利用できる間だけ利用する。


本人の事情を聞く余地は残す。


それだけだ。


◇


共同寝床へ戻ったのは、夜明け前だった。


窓から入り。


靴の泥を落とし。


誰にも気づかれないよう、毛布へ潜る。


つもりだった。


「おかえり」


暗闇から声がした。


ノア。


毛布の中で起きている。


「……なぜ起きているんです?」


「クライがいなかったから」


「水を飲みに行っていました」


「二刻も?」


まずい。


ノアは時間を把握している。


だが、黒冠商会の嘘を疑っているわけではない。


俺が危険な仕事を隠していると思っているだけだ。


「商会の仕事です」


俺は答えた。


「夜の?」


「時間を選べない仕事もあります」


ノアは頬を膨らませる。


「わたし、臨時調査員なのに何も聞いてない」


「ノアには別の仕事があります」


「危ないから?」


「ええ」


正直に答える。


「ノアへ任せる必要がない。だから連れていきませんでした」


「クライは危なくてもいいの?」


答えに詰まる。


良くない。


俺だって死にたくない。


ただ、危険を引き受けるのは自分であるべきだと思っている。


ノアやマナではなく。


「俺にしかできないので」


「そんなことない」


ノアの声が震える。


「クライ、いつも一人で何でもしようとするでしょう」


暗闇で顔ははっきり見えない。


それでも、泣きそうなのは分かった。


「わたしは調査員なのに。仲間なのに…」


仲間。


その言葉が胸へ刺さる。


俺はノアを、情報を集める人材として雇った。


共犯者ではない。


ましてや、完全に信用する仲間でもない。


黒冠商会の真実を教えていない。


危険な仕事から遠ざけている。


それが正しいと思っていた。


利用しているのに、守っているつもりになっている。


都合がいい。


「ノア」


「何?」


「怖いんです」


口から出た。


自分でも驚く。


「え?」


「誰かへ頼って、その人が傷つくのが」


前世で頼った唯一の友人には裏切られた。


今回は逆だ。


俺のために動いた人間が傷つくのが怖い。


ノアが傷つけば。


俺は自分を許せないだろう。


「だから、一人で行ったの?」


「はい」


「それなら」


ノアは毛布の中から手を伸ばした。


俺の手を握る。


「一緒に怖がればいいじゃない!」


意味が分からなかった。


怖いなら、危険から遠ざけるべきだ。


一緒に怖がったところで、危険は消えない。


「わたし、戦えないし、魔法も使えないけど」


ノアは続ける。


「クライが帰ってくるまで待つことはできるわ!」


小さな手。


俺より少し大きい。


温かい。


「どこへ行くか知ってたら、何かあった時にマナさんへ言えるし」


「心配をかけます」


「何も知らずにいなくなる方が、もっと心配するの」


それはそうだ。


昨日、森から帰らなかった俺を、マナは泣きながら待っていた。


俺は守るために情報を隠す。


だが、相手にとっては、何も分からないまま待つことも苦痛なのだ。


前世の俺には、それが分からなかった。


誰も待っていなかったからだ。


「次から」


俺は言った。


「危険のない範囲で、行き先を伝えます」


「本当?」


「約束します」


「指切り?」


「契約書でも構いません」


「指切りがいい!」


暗闇の中で、小指を絡める。


強制力のない契約。


それでも破りたくないと思える。


妙なものだ。


「寝ましょう」


「うん!」


ノアは俺の手を握ったまま目を閉じた。


しばらくして、寝息が聞こえる。


俺は眠れなかった。


共同寝床を狙う審問官。


裏切り者のヨルン。


神殿旧施療院。


白い鳥。


問題は増えている。


それなのに。


手を握られているだけで、少しだけ安心した。


前世の最期。


死ぬ時くらい、誰かに手を握ってもらいたいと思った。


今は死ぬ予定などない。


それでも。


あの時欲しかったものを、もう手に入れている。


それに気づくと、胸が温かくなる。


絶対に手放さない。


そのためには。


神殿の審問官だろうと、騙す。


俺は目を閉じた。


眠る直前。


屋根の上から、小さな羽音が聞こえた。


白い鳥が戻ってきた。


今度は一羽ではない。


二羽。


三羽。


赤い目が、窓の隙間から共同寝床を見ている。


俺はノアの手を離さないまま、静かに笑った。


監視されるのは嫌いだ。


だが。


こちらから探す手間が省ける。


「見つけたつもりですか」


小さく呟く。


白い鳥たちは動かない。


「では、次はあなた方を案内しましょう」


行き先は。


俺が用意した嘘の中だ。

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