第6話 存在しない援軍
「工房へ戻ります」
俺が告げると、ガルドは即座に立ち上がった。
灰鼠団の首領。
ドス。
会計役のレム。
血まみれで知らせに来た男。
そして、存在しない商会の監査役を演じる俺。
五人で冒険者ギルドを出る。
日が沈み、王都の通りには魔法灯がともり始めていた。
俺は長い黒外套を揺らしながら歩く。
外から見れば、長身の男。
実際には、その輪郭の内側で五歳児が必死に小走りしている。
かなりつらい。
歩幅を合わせるだけで、足がもつれそうになる。
黒冠商会の監査役が道の真ん中で転べば、全てが終わる。
戦いへ向かう前に、歩行で敗北するわけにはいかない。
頭の中へ赤い文字が浮かぶ。
――《虚王顕現》維持可能時間。
――残り37分。
短い。
会談に時間を使いすぎた。
工房まで、およそ10分。
現場の確認と作戦に10分。
戦闘が長引けば、成人男性の虚像が消える。
その瞬間。
黒い外套の中から、五歳児が現れる。
想像するだけで胃が痛い。
「工房に残っていた人数は」
俺は歩きながら尋ねた。
「16人」
ガルドが答える。
「戦える者は?」
「12人。残りは帳簿と倉庫の管理だ」
「赤蛇会の襲撃人数」
血まみれの男が息を整えながら言う。
「見えただけで15。外にもいるかもしれません」
「赤蛇会の頭領は?」
「来ていません。襲撃を仕切っていたのは、バルクです」
「知っている男か」
俺が聞くと、ガルドがうなずいた。
「赤蛇会の副頭目だ。腕は立つが、短気だ」
短気。
利用できる。
「工房の出入口は」
「正面と裏口。屋根。地下の染料排水路」
レムが答える。
「排水路は、外から見つかりますか?」
「知らなければ無理だ。古い井戸の底につながっている」
「工房に残った者は知っている?」
「古参だけだ」
「襲撃の前、排水路は使われましたか?」
血まみれの男が首を横へ振る。
「裏口から逃げようとして、待ち伏せされました。だから俺は屋根を使って……」
正面。
裏口。
屋根。
全て押さえられている。
それなのに、排水路は使われていない。
赤蛇会は、排水路の存在を知らない。
使える。
「今夜の会談時間を知っていた者は?」
ガルドの目が細くなった。
「ここにいる3人と、拠点に残した副頭目が2人」
「5人だけ?」
「ああ」
襲撃者は、ガルドが不在になる正確な時間を知っていた。
情報源は5人の中にいる。
ここにいる3人が裏切り者なら、わざわざ俺と一緒に工房へ戻る必要は薄い。
残った副頭目2人のどちらか。
あるいは2人とも。
断定はできない。
だが、候補は絞れた。
「監査役」
ガルドが俺を見る。
「もう一つ、言っておく」
「何でしょう」
「赤蛇会は、俺を殺すためだけなら工房を燃やさない」
同感だ。
灰鼠団の拠点を奪いたいなら、建物は残した方がいい。
物資を奪いたいなら、倉庫へ火はつけない。
燃やすこと自体が目的。
灰鼠団から、戦う力と逃げる力を同時に奪う。
「灰鼠団を、この場所から追い出したい者がいる」
「赤蛇会以外に?」
「おそらくな」
印のない黒い馬車。
白い手袋。
赤い石の指輪。
赤蛇会は、誰かの道具として動いている。
黒冠商会の最初の顧客は、予想より大きな問題を抱えていた。
金貨一枚では安かったかもしれない。
今さら値上げはできないが。
◇
古い染物工房が見えた。
夜空へ黒煙が上がっている。
裏手の倉庫から炎。
正面には赤い布を腕へ巻いた男たちがいる。
赤蛇会。
数は11。
工房内部にもいるだろう。
灰鼠団の男が2人、入口近くで倒れていた。
生きているかは分からない。
ガルドが前へ出ようとする。
「止まってください」
俺は言った。
「部下が中にいる」
「だからです」
工房を観察する。
襲撃者たちは、建物全体へ火を広げていない。
燃やしているのは倉庫だけ。
正面の広場には、武装した男が集まっている。
ガルドの帰還を待っている。
「罠です」
「分かっている」
ガルドの声には怒りがある。
「分かっていて入るのは、罠にかかる人間の特徴です」
「見捨てろと言うのか」
「助けます」
魔眼がなくても分かる。
今の言葉を、俺は本気で言っている。
黒冠商会の審査対象を、契約直後に失うわけにはいかない。
それに。
工房の中には、子供の売買を嫌っていた男たちもいる。
全員が善人ではない。
むしろ悪人の方が多いだろう。
それでも、赤蛇会へ焼かれるままにしていいとは思わない。
「ただし」
俺はガルドを見る。
「10分間、俺の命令に従ってください」
「俺に命令するつもりか」
「契約相手の助言を聞けないなら、金貨一枚を払った意味がありませんよ?」
ガルドの白い目が俺を見つめる。
俺の言葉に嘘はない。
「……分かった」
「首領!」
ドスが声を上げる。
ガルドは手で止めた。
「10分だ」
「10分で足ります」
本当は自信がない。
虚像の残り時間が、それしかないだけだ。
俺は工房裏手を指す。
「ガルドとレムは、排水路から中へ」
「2人で?」
「中の人間を集めてください。正面へ出ず、染料槽の水門付近で待機」
工房には、布を染めるための巨大な水槽がある。
現在は廃業しているが、水路そのものは残っている。
「ドスは俺と正面へ」
ドスが顔をしかめる。
「2人で11人を相手にするのか」
「戦うのは俺たちではありません」
「誰が戦う」
俺は煙の向こうを見る。
「黒冠商会です」
ドスが黙った。
完全に信じている。
実際には、黒冠商会の戦力は五歳児1人と小型の悪魔1体。
かなり心細い。
『誰が小型だ』
ヴェルゴラの声が服の影から響く。
無視した。
ガルドとレムが暗闇へ消える。
排水路へ回る。
俺はドスへ言った。
「工房の正面まで歩きます」
「襲われたら?」
「堂々としていてください」
「それだけか?」
「恐怖を見せれば、相手は自分が強いと確信する」
俺は仮面越しにドスを見る。
「黒冠商会の隣に立つ人間として、相応しい態度を」
ドスの背筋が伸びた。
単純だ。
だが、悪くない。
褒められ、役割を与えられた人間は、普段より少しだけ勇敢になる。
俺とドスは、正面の道へ出た。
すぐに赤蛇会の男たちが気づく。
「誰だ!」
「止まれ!」
武器がこちらへ向く。
俺は止まらない。
成人男性の虚像へ、ゆっくり歩かせる。
内側の俺は小走り。
外から見れば、炎の中を静かに進む黒い男だ。
「黒冠商会……」
赤蛇会の一人が、胸の紋章を見てつぶやいた。
名前を知っている。
噂が、既に赤蛇会へも届いている。
助かる。
説明の手間が省ける。
「止まれと言っている!」
襲撃隊の中央。
坊主頭の大男が怒鳴る。
左頬に蛇の刺青。
バルク。
赤蛇会の副頭目。
手には大きな曲刀。
怒鳴っているが、こちらへ近づいてはこない。
黒冠商会を警戒している。
「赤蛇会副頭目、バルク」
俺は低い声で呼んだ。
男の顔が変わる。
名乗っていない。
それだけで、こちらが情報を持っていると信じる。
「黒冠商会による審査対象への無断攻撃を確認しました」
「審査対象?」
バルクが工房を見る。
「灰鼠団が黒冠商会へ入ったって噂は本当か」
「加入はまだ認めていません」
真実。
「現在は、契約に基づく審査期間中です」
これも真実。
「つまり何だ」
「この工房と、内部にいる人間は、現在黒冠商会が価値を査定している商品です」
灰鼠団の男たちから後で怒られそうな表現だ。
だが、今は効く。
「他人の商品を勝手に燃やさないでいただきたい」
バルクの顔が引きつった。
怒りか、恐怖か。
両方だろう。
「ふざけるな」
バルクは曲刀を持ち上げる。
「黒冠商会だか何だか知らねえが、ここは赤蛇会の仕事だ」
「依頼人は」
男の目が動いた。
「何?」
「灰鼠団の工房を焼き、ガルド不在の時間に襲撃するよう依頼した人物です」
「そんな奴はいねえ」
言葉が速い。
嘘だ。
俺に魔眼はない。
だが、人間は急いで否定する時ほど、答えを隠している。
「依頼人の存在は否定しなくて構いません」
俺は淡々と言う。
「既に確認しています」
確認しているのは、存在する可能性が高いということだけ。
だがバルクは、黒冠商会が依頼人の正体まで把握していると受け取った。
顔から余裕が消える。
「白い手袋の男は、あなた方を守りませんよ?」
バルクの後ろにいた男が、一歩下がった。
当たり。
黒い馬車から降りた、白い手袋の男。
赤蛇会の襲撃にも関わっている。
「黒冠商会は、どこまで……」
誰かが小さく言った。
その恐怖を使う。
「ヴェルゴラ」
俺は聞こえない声で呼ぶ。
『何を作る』
「人影。12人。」
『残った生命力では、形だけだぞ』
「形だけでいい」
工房から煙が上がっている。
炎が影を作っている。
ゼロから人間を顕現する必要はない。
煙と影へ、黒い仮面と金色の目を加える。
――禁術《虚王顕現》。
――顕現対象。
――黒冠商会執行役12名の影。
――既存の煙、炎、噂および観測者の認識を利用。
――必要生命力、人間寿命換算22分。
残り1時間ほどの生命力から支払える。
「承認」
胸の奥から生命力が抜けた。
工房の屋根。
煙の中。
周囲の壁。
黒い影が一つずつ立ち上がる。
黒い外套。
顔を覆う仮面。
中央に輝く金色の目。
1人。
2人。
5人。
10人。
…12人。
実体はない。
攻撃力もない。
ただ立っているだけ。
それでも、赤蛇会の男たちは武器を向けた。
「いつからいた……」
「気配がなかったぞ」
「顔がない……噂の……」
全員が信じた。
黒冠商会の使者は顔を持たない。
必要な場所へ、必要な人数が現れる。
ノアが集めた噂。
市場の人間が勝手に作った物語。
今、その物語が煙の中へ形を持った。
虚像が安定する。
影の足元で、屋根板が軋んだ。
本当は風だ。
だが赤蛇会の男たちは、影の重みだと思った。
それだけで現実が少し近づく。
バルクが周囲を見回す。
「怯えるな!」
部下へ怒鳴った。
「ただの幻術だ!」
疑っているのではない。
信じているからこそ、部下へ否定させようとしている。
自分自身にも言い聞かせている。
俺は答えない。
屋根の影の一体が、ゆっくり首を傾ける。
俺が動かしたのではない。
それを見ている赤蛇会の誰かが、動くと思った。
認識が虚像を補っている。
「武器を置いてください」
俺は言った。
「撤退する者は追いません」
本気だ。
ここで退くなら追わない。
「断る!」
バルクが叫んだ。
予想通り。
副頭目の立場で、部下の前で逃げられない。
本人が逃げたくても、選べない。
ならば。
逃げる理由ではなく、負ける理由を与える。
「ドス」
「何だ」
「三歩下がってください」
ドスが従う。
俺も黒外套を揺らし、半歩だけ横へ移動した。
バルクたちの視線が、俺たちへ集中する。
その時。
工房の奥で、低い金属音が響いた。
ガルドが水門を開いた合図。
「黒冠商会は」
俺は低い声で告げた。
「同じ警告を二度行いません」
次の瞬間。
工房の染料槽から、大量の水が放出された。
黒い水。
長年溜まっていた泥と染料を含んだ水が、正面の広場へ押し寄せる。
赤蛇会の男たちの足をすくう。
「何だ!」
「水が!」
炎の一部が消える。
蒸気と黒煙が一気に広がる。
視界が奪われた。
その煙の中を、黒冠商会の影が降りてくる。
もちろん、実際には動いていない。
だが。
赤蛇会の男たちが、煙の中から迫ってくると信じた。
黒い手。
金色の目。
音のない足取り。
一人が悲鳴を上げ、武器を捨てた。
その音が引き金になった。
二人目。
三人目。
恐怖は感染する。
「来るな!」
「武器を置け!」
「俺は関係ねえ!」
赤蛇会の隊列が崩れる。
そこへ。
工房内部から、ガルドと灰鼠団の男たちが飛び出した。
水路から中へ入り、閉じ込められていた構成員を集めていた。
敵は足元を取られている。
視界も悪い。
灰鼠団の反撃は一方的だった。
殴る。
蹴る。
武器を奪う。
必要以上に殺すなと指示する時間はなかった。
それでもガルドは、できる限り敵を生かして捕らえている。
情報を得るためだ。
頭に血が上っていても、目的を忘れていない。
やはり単純な暴力馬鹿ではない。
「バルク!」
ガルドが叫ぶ。
黒煙の中。
二人の大男が向かい合う。
バルクが曲刀を振るう。
ガルドは水に濡れた床を滑るように避け、傷だらけの右腕で相手の手首をつかんだ。
骨が鳴る。
曲刀が落ちる。
そのまま拳がバルクの腹へ入った。
一発。
二発。
三発目で、巨体が膝をつく。
バルクはまだ倒れない。
「ガルド!」
男は血を吐きながら笑った。
「お前らは終わりだ!」
「誰に言われた」
「王都の西側は、もう――」
バルクの視線が、俺へ向いた。
正確には。
俺の背後に並ぶ黒い影へ。
笑みが消える。
「……黒冠商会がいるなんて、聞いてねえよ…」
完全に信じている。
依頼人は、黒冠商会の存在を赤蛇会へ伝えていなかった。
それは当然だ。
依頼を出した時点では、存在していなかったのだから。
「だから負けた」
ガルドの拳が、バルクの顎を打ち抜く。
副頭目は、その場へ崩れ落ちた。
戦いは終わった。
開始から、五分も経っていない。
◇
工房前の広場には、縛られた赤蛇会の男たちが並べられた。
逃げた者もいる。
だが半数以上を捕らえた。
灰鼠団側の死者は2人。
重傷者は4人。
俺が到着する前に受けた被害だ。
黒冠商会の影が現れた後は、ほとんど大きな怪我をしていない。
ガルドが倒れた部下の前へ膝をつく。
目を閉じさせる。
その顔に、言葉はない。
悪党でも仲間の死は悲しいらしい。
当たり前だ。
悪人は、全ての人間を憎んでいるわけではない。
自分の側にいる者へは笑い、守り、悲しむ。
だから面倒だ。
完全な怪物なら、迷わず殺せる。
人間には、そうできない部分が必ず混ざっている。
俺は少し離れた場所から見ていた。
頭の中へ赤い文字が浮かぶ。
――成人男性の虚像。
――維持可能時間、残り7分。
まずい。
黒冠商会の影は、俺が解除すれば消せる。
成人男性の姿も、もう持たない。
ここで五歳児へ戻るわけにはいかない。
「ガルド・ロウ」
俺は声をかける。
ガルドが立ち上がった。
「10分だ」
「まだ8分だ」
「残りは、捕虜の確保へ使ってください」
「お前は?」
「周囲を確認します」
嘘ではない。
工房の周囲を確認しながら、そのまま姿を消す予定だ。
「バルクを尋問する」
ガルドが言う。
「監査役も聞け」
聞きたい。
ものすごく聞きたい。
だが、7分以内に尋問を終える保証はない。
「あなたの魔眼で十分です」
俺はバルクを見る。
「質問は三つ」
指を立てる。
一つ目。
「会談の時間を誰から聞いたか」
二つ目。
「白い手袋の男は誰か」
三つ目。
「工房を燃やした後、灰鼠団の人間をどこへ運ぶ予定だったか」
ガルドの表情が変わる。
「運ぶ?」
「殺すだけなら、捕縛用の縄を大量に持ち込む必要はありません」
地面には、赤蛇会が持ち込んだ縄が落ちている。
工房にいる16人より多い。
戦闘用ではない。
人間を運ぶため。
「子供や、若い構成員を生きたまま連れていく予定だった」
奴隷。
労働力。
あるいは神殿の何か。
ガルドの顔から血の気が引く。
怒りへ変わる。
「必ず吐かせる」
「その情報を、明日の正午までにクライ・マイトへ」
「案内役のガキへ?」
「俺の直接管理下にいると伝えたはずです」
ガルドはうなずく。
疑わない。
「分かった」
俺は煙の残る工房裏手へ向かう。
ドスが追おうとする。
「監査役!」
「何でしょう」
「今日の借りは、返す」
俺は立ち止まった。
「契約に含まれています」
「それでもだ」
ドスは真剣な顔をしている。
森で最初に騙した男。
今では、黒冠商会の援軍を本物だと信じている。
「では、覚えておきます」
俺は再び歩き出した。
煙へ入る。
視界から消れた瞬間。
黒冠商会の影を解除。
屋根と壁に並んでいた12人が、煙へ溶ける。
成人男性の虚像も消す。
長身の輪郭が縮み。
黒い外套の内側から、五歳児の身体が現れた。
「……っ」
一気に疲労が来る。
膝をつく。
吐きそうだ。
生命力は代償として支払った。
寿命は減っていない。
それでも禁術を続けて使えば、精神は消耗する。
頭が痛い。
足も限界だ。
『派手にやったな』
ヴェルゴラが肩へ現れる。
「必要最低限です」
『12人もの影を出してか?』
「1名では、あまり怖くないでしょう?」
『実際には一人であったがな』
「言わなければ分かりません」
俺は子供用の古い外套を取り出した。
事前に裏路地へ隠していたものだ。
黒い仮面と代表者用の外套は、布袋へ入れる。
誰にも見られていないことを確認し、細い路地から工房を離れた。
五歳児の足へ戻る。
歩幅は短い。
視点も低い。
だが、少し安心する。
大人の姿は便利だ。
それでも、慣れた身体へ戻ると落ち着く。
「終わりましたね」
『始まったばかりであろう』
ヴェルゴラが言う。
その通りだ。
灰鼠団を救った。
赤蛇会の襲撃を退けた。
黒冠商会の信用も上がった。
だが、赤蛇会の背後にいる白い手袋の男は残っている。
内部の裏切り者も。
俺が作った嘘は、さらに大きな相手へ届いた。
◇
共同寝床へ戻ると、ノアが入口で待っていた。
俺を見つけると、ぱっと表情を明るくする。
「クライ!」
駆け寄ってくる。
「遅かったじゃない。商談はどうだったの?」
「無事に終わりました」
「代表の人、見た?」
「ええ」
自分で鏡代わりの水溜まりへ映した。
だから見たことはある。
「どんな人だった?」
ノアは目を輝かせる。
「噂通り、黒い仮面?」
「そうですね」
「背が高くて、声が低くて?」
「おおむね」
「怖い人だった?」
俺は少し考える。
「かなり無理をする人でした」
ノアが首をかしげる。
意味は分からないだろう。
「でも」
俺は続ける。
「ノアが作った印を気に入っていましたよ」
「本当!?」
一瞬で笑顔になる。
「褒めてた?」
「商会にとって、重要な印になるだろうと」
本気でそう思っている。
ノアの刺繍は、黒冠商会で最初に作られた現物の紋章だ。
いずれ、正式な旗にも使える。
「やった!」
ノアは飛び跳ねた。
可愛い。
疲れ切っていたはずなのに、少しだけ元気が戻る。
マナも共同寝床から出てきた。
「怪我はない?」
「ありません」
今回は本当にない。
マナは安心し、俺を抱きしめた。
「よかった」
温かい。
工房の炎とは違う温かさだ。
俺は抵抗しなかった。
少しだけ、抱かれたままでいた。
「灰鼠団との取引は?」
ノアが尋ねる。
「審査を続けることになりました」
「じゃあ、成功?」
「今のところは」
「クライ補佐のおかげね!」
「代表者の判断です」
「その代表者さんに、クライがいろいろ教えたんでしょう?」
ノアの中では。
クライが情報を集め。
黒冠商会の監査役へ伝え。
監査役が灰鼠団を救った。
全てが自然につながっている。
俺が両方を演じているとは、少しも疑っていない。
「少しだけ」
俺は答えた。
マナが俺の頭を撫でる。
「立派なお仕事をしたのね」
胸がむず痒い。
嘘を褒められている。
それでも。
誰かを救ったことまで嘘ではない。
少しくらい喜んでもいいだろう。
「明日は甘い物を買いましょう」
俺が言うと、ノアが目を丸くした。
「どうしたの、急に」
「王都臨時調査員への報酬です」
「情報の質がよかったから?」
「最高でした」
ノアは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、二つ食べてもいい?」
「一つです」
「商会は今日、すごく儲かったんでしょう?」
「経費が多いんです」
「けち」
「経営判断です」
マナが笑う。
ノアも笑う。
俺も少しだけ笑った。
こういう生活を守りたい。
そのためなら。
赤蛇会でも。
白い手袋の男でも。
灰鼠団の裏切り者でも。
全部、騙してやる。
その夜。
俺が眠りにつく少し前。
共同寝床の屋根の上を、車輪の音が通り過ぎた。
窓の隙間から外を見る。
黒い馬車。
印はない。
御者は、貴族街で使われる服。
小さな窓の奥。
白い手袋をした指が、赤い石の指輪を軽く叩いていた。
馬車は止まらない。
そのまま、夜の王都へ消えていく。
けれど。
窓の奥にいた人物が、こちらを見ていたことだけは分かった。
灰鼠団ではない。
共同寝床を。
俺を。
「……見つかりましたかね」
『おそらくな』
ヴェルゴラが笑う。
『黒冠商会の案内役としてか』
「今は、それで十分です」
敵は、俺が黒冠商会の監査役だとは知らない。
五歳児の案内役。
それだけ。
なら、まだ騙せる。
俺は窓を閉めた。
次に売る嘘を考えながら。




