第5話 嘘を見抜く目には、嘘をつかない
冒険者ギルドの依頼掲示板には、他人の困り事が値札つきで並んでいる。
魔物討伐。
護衛。
薬草採取。
失せ物探し。
人間は自分で解決できない問題に金を払う。
ならば、問題を解決できる者へ売ればいい。
黒冠商会、最初の商売である。
「坊や、さっきから何を見てるの?」
隣から声をかけられた。
革鎧を着た若い女冒険者だ。
腰には細身の剣。
背後には、弓を持った少年と、小さな盾を背負った大男。
三人組の冒険者パーティーらしい。
「仕事を探しています」
「あなたが?」
女は冗談だと思ったらしく、少し笑った。
「俺が受けるわけではありません」
俺は掲示板の二枚の依頼書を指した。
一枚目。
王都西部の旧水路に発生した、岩顎鼠の駆除。
報酬は銀貨八枚。
二枚目。
同じ旧水路に生える、月白茸の採取。
報酬は銀貨十枚。
女冒険者が顔をしかめる。
「岩顎鼠は私たちでも倒せる。でも、月白茸なんて見分けられないわ」
「だから、まだ依頼が残っている」
月白茸は、見た目のよく似た毒茸と同じ場所に生える。
毒茸は不用意に触れると周囲に毒を撒くので、専門家に処理してもらわないと危険だ。
知識のない冒険者は手を出せないし、近寄らない。
一方で、薬草を専門にする採取人は、岩顎鼠が増えたせいで旧水路へ入れない。
「採取人を連れていけばいい」
「誰を?」
「既に見つけています」
俺は酒場の隅を指した。
二人の姉妹が座っている。
土で汚れた外套。
薬草を入れる籠。
姉は十八歳ほど。
妹はノアと同じくらいに見える。
二人は月白茸の採取依頼を受けようとしたが、護衛を雇う金がなく困っていた。
「彼女たちは月白茸を判別できる。あなた方は岩顎鼠を倒せる」
「一緒に行けってこと?」
「両方の依頼を同時に終わらせればいい」
別々に考えるから、どちらも動けない。
組み合わせれば、一度の移動で二つの報酬を得られる。
女冒険者は姉妹を見る。
姉妹も、こちらの会話に気づいていた。
「でも、報酬の分け方で揉めるわ」
「既に条件を作りました」
俺は自分で書いた契約書を卓へ置いた。
神殿公証書体ではない。
普通の商業契約書だ。
それくらいなら、俺にも書ける。
岩顎鼠の討伐報酬は冒険者三人。
月白茸の採取報酬は姉妹。
互いに相手の作業を補助する。
怪我をした場合は共同で撤退。
入手した依頼外の素材は、発見者が半分、残りを全員で分配。
「黒冠商会は、契約成立の仲介料として双方から銀貨三枚ずつ受け取ります」
「高くない?」
「では、自分たちだけで依頼を達成できますか?」
女冒険者は黙った。
採取人の姉も契約書を見る。
「私たちの報酬は銀貨十枚。三枚を払っても七枚残る」
「護衛を雇うより安いでしょう」
「あなたたちも、銀貨八枚から三枚を払って五枚」
女冒険者は仲間を見る。
三人で五枚。
大金とは言えない。
だが、仕事がないよりはいい。
さらに岩顎鼠の牙や皮を売れば追加収入になる。
「この商会、本当に信用できるの?」
女冒険者が俺の外套を見る。
まだ代表者の衣装は着ていない。
だが胸元には、黒い王冠の小さな印をつけている。
ノアが作った歪な刺繍ではない。
大きな牙から削り取った欠片へ、《虚王顕現》で刻んだ正式な紋章だ。
「信用する必要はありません」
俺は答えた。
「契約書に従えばいい」
「失敗した場合は?」
「仲介料はいただきません」
「成功した場合だけ?」
「黒冠商会は、存在しない利益から金を取りませんよ」
この商談では。
女冒険者は契約書を読み直した。
「分かった。受ける」
採取人の姉もうなずく。
「私たちも」
双方が署名する。
黒冠商会の初仕事が成立した。
俺が魔物を倒すわけではない。
茸を採るわけでもない。
困っている二組をつなげ、条件を文章にしただけだ。
それで銀貨六枚。
人の労働を奪っているわけではない。
双方だけでは得られなかった利益の一部を受け取る。
立派な商売だ。
たぶん。
◇
一行は昼前に旧水路へ入り、夕方には戻ってきた。
岩顎鼠十二匹。
月白茸二籠。
依頼は両方とも達成。
女冒険者は上機嫌だった。
「あなたの言った通りだったわ」
「何がです?」
「採取人が岩顎鼠の巣を知っていて、私たちが道を開いたら、すぐ終わった」
採取人の姉も笑っている。
「岩顎鼠の糞がある場所には、月白茸が生えやすいの。今までは近づけなかったけど」
互いの知識と能力が補い合った。
俺が予想していた以上の成果だ。
「次も仕事があったら、声をかけて」
女冒険者が銀貨三枚を置く。
採取人の姉も三枚。
銀貨六枚。
契約通りだ。
「黒冠商会は、どこに店があるの?」
採取人の妹が尋ねた。
「必要な時に、必要な場所へ現れます」
俺は答えた。
二人は、それを秘密商会らしい言葉だと受け取った。
疑わない。
成功した仕事という事実が、俺の言葉を本物にする。
この五人は今後、酒場で話すだろう。
黒冠商会へ仕事をまとめてもらった。
神殿公証書体の招待状。
百年物の洞窟喰らい。
灰鼠団との商談。
そして、実際に利益を出した仲介業。
黒冠商会はもう、魔術と噂だけの存在ではない。
小さいが、実績を持った。
「本当に銀貨を六枚も稼いだのか」
服の影からヴェルゴラが言う。
「俺は魔物一匹倒していません」
『詐欺ではないのか』
「全員が得をしています」
『貴様も得をした』
「だから商売なんです」
銀貨四枚をエドムへ支払う。
これで神殿公証書体の招待状に対する報酬は完済。
残り二枚は、冒険者ギルドの卓と警備費。
見事に残金はゼロになった。
黒冠商会は初めて利益を出し、その日のうちに全額を使い切った。
経営とは、思っていたより忙しい。
◇
翌日の日没。
灰鼠団との会談当日。
俺は共同寝床を出る前に、マナへ言った。
「今日は黒冠商会の代表が、灰鼠団と会うそうです」
「クライも行くの?」
「案内役として、近くにはいます」
これは本当だ。
代表者の外見の内側にいる。
マナは俺の襟元を直す。
「危ないと思ったら、すぐ逃げるのよ」
「冒険者ギルドの中です。警備もいます」
「それでも」
マナの顔は心配そうだった。
俺は少し迷い、彼女の手を握る。
赤ん坊の頃と比べれば、随分と大きくなった。
それでも、まだ簡単に包まれてしまう。
「大丈夫です」
自信はない。
だが、無事に戻るつもりで言った。
マナは安心したように笑う。
俺の言葉を完全に信じている。
「ノアは?」
「先に市場へ行きました」
王都臨時調査員として、会談直前の噂を確認している。
黒冠商会の代表者が、顔のない黒い魔術師だという噂は、既に市場と酒場へ広がっていた。
ノア自身も信じている。
今夜、俺が作る姿を見たとしても、正体を疑うことはない。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
その言葉が、少し嬉しかった。
帰る場所がある。
だから絶対に失敗できない。
◇
冒険者ギルドの裏路地。
俺は黒い外套を羽織った。
胸元には、ノアが縫った王冠の印。
歪んでいる。
だが、それがいい。
魔法で作られた完璧な印より、誰かが自分の手で作った物の方が強い。
黒い木の仮面を顔へ当てる。
「ヴェルゴラ」
『分かっておる』
胸の奥に残る生命力へ意識を向ける。
洞窟喰らいの魔蜘蛛から保存した分。
最初に二十四時間。
これまでの使用と練習で、残りは十二時間ほど。
今から作る成人男性の虚像には、十一時間分が必要になる。
失敗しても、もう一度試す余裕はない。
――禁術《虚王顕現》。
――顕現対象。
――黒冠商会王都監査役。
――成人男性の外形、声、足音および気配を顕現。
――既存の認識を土台として維持。
――必要生命力、人間寿命換算十一時間。
「承認する」
胸に蓄えていた生命力が大きく抜ける。
身体の周囲で、黒い空気が揺らいだ。
視点が高くなる。
長い黒衣。
大きな手。
成人男性の輪郭。
低い声。
実際の俺は外套の中で小さな歩幅を刻んでいる。
だが外から見れば、長身の男が静かに立っている。
『残った生命力は少ないぞ』
「理解しています」
低い声が仮面の奥から響く。
『虚像を解けば、残りを別の術へ使える』
「今夜は、これ以外に禁術を使いません」
使わずに勝つ。
俺の言葉と、相手自身の認識だけで。
俺は冒険者ギルドへ入った。
酒場にいた者たちの声が、一瞬だけ小さくなる。
黒い仮面。
金色の目。
長い外套。
胸元の王冠。
噂通りの姿。
誰かが囁いた。
「黒冠商会だ」
その一言で、虚像が安定する。
別の男が言う。
「本当に顔を見せないんだな」
俺が説明する必要はない。
彼らが勝手に、黒冠商会の監査役を完成させてくれる。
東奥の卓へ向かう。
警備の冒険者が二人。
受付主任のバルザが、少し離れた位置に立っている。
「依頼人か」
バルザが尋ねる。
「王都監査役です」
「名前は?」
「役職で十分でしょう」
「規則上、依頼人の名が必要だ」
「既にクライ・マイトの名で席を借りています」
これは事実だ。
「彼の代理として使用します」
これも事実。
俺自身がクライ・マイトであるため、代理という表現は少し奇妙だ。
だが、黒冠商会の監査役という役割が、子供のクライに代わって会談する。
俺の中では矛盾していない。
「問題が起きたら、両方とも追い出す」
「承知しました」
バルザは仮面を眺めた。
「クライは?」
「必要な場所にいます」
今も外套の中にいる。
嘘ではない。
バルザはそれ以上聞かなかった。
俺は卓へ座る。
実際の身体は椅子の上に立つような姿勢になる。
苦しい。
長時間は持たない。
予定の一刻以内で終わらせる。
酒場の扉が開いた。
灰鼠団の首領ガルド・ロウが入ってきた。
灰色の髪。
傷だらけの右腕。
白く濁った左目。
同行者は二人。
森で会ったドス。
もう一人は、痩せた中年の男。
灰鼠団の会計役だろう。
三人は入口で武器を預け、こちらへ来る。
ガルドが正面へ座った。
ドスと中年の男は、その左右。
白い左目が、俺を見つめる。
目の奥で、淡い光が動いた。
魔眼。
発言者が、自分の言葉を嘘だと認識している時に反応する目。
心を読むわけではない。
幻術を見破るわけでもない。
ノアが調べた情報が正しければ。
「黒冠商会の代表か」
最初の質問。
「王都西部における審査の最終決定権を預かっています」
真実だ。
俺が作った組織で、俺が決める。
ガルドの左目は反応しない。
「代表ではない?」
「肩書きが重要ですか?」
「取引相手の立場は重要だ」
「今夜の取引を決められる。それ以上の立場が必要でしょうか」
真実。
魔眼は静かなまま。
ガルドは俺の仮面を見る。
「名前は」
「黒冠商会の使者は、取引の場で個人名を用いません」
今、決めた規則ではない。
既に市場で広まった噂を、黒冠商会の規則として採用した。
俺自身も、その規則に従っている。
「では、監査役と呼べばいいか」
「ご自由に」
ガルドは卓へ肘を置く。
「案内役の子供はどこだ」
「クライ・マイトは、私の直接管理下にいます」
これ以上ないほど近い。
外套の中で同じ身体を共有している。
左目は反応しない。
「黒冠商会の構成員なのか」
「彼は商会の業務を行い、対価を受け取る立場にあります」
まだ対価は受け取っていない。
しかし洞窟喰らいの牙を売り、黒冠商会の資金として使った。
商会を通じて、食料や安全を得る予定もある。
俺は、それを対価だと認識している。
魔眼は動かない。
「五歳の子供を使う組織か」
「年齢ではなく、結果で人材を評価します」
本心だ。
ガルドの右隣に座る中年の男が、眉をひそめる。
「随分と都合のいい話だ」
「灰鼠団は、年齢だけで人間を評価するのですか?」
「子供は子供だ」
「その子供に森で警告され、あなた方は牙へ触れなかった」
ドスの顔が赤くなる。
「それは、回収役が――」
「彼は状況を正しく判断した」
俺はドスを見る。
「知らない相手へ手を出さなかった。慎重さは、犯罪組織にも必要です」
森で騙した相手を、あえて褒める。
ドスの怒りが少し薄れる。
人間は、自分の判断を肯定してくれる相手を完全には嫌いにくい。
ガルドが卓へ、小さな黒い箱を置いた。
開ける。
中には、素材屋へ売った洞窟喰らいの牙の破片が入っていた。
「これを処理したのは、黒冠商会か」
「黒冠商会の管理下で処理されました」
俺が黒冠商会を管理し、俺が倒した。
真実。
魔眼は反応しない。
「誰が倒した」
「その情報は、今夜の審査に必要ですか?」
「必要かどうかを決めるのは俺だ」
「では、質問を変えてください」
答えない。
嘘をつく必要もない。
ガルドの白い目が細くなる。
「お前の正体は、あの子供ではないのか」
来た。
酒場の空気が静まった気がした。
実際には、周囲の者は普通に酒を飲んでいる。
俺の緊張が、音を遠く感じさせているだけだ。
正面から否定すれば嘘になる。
肯定すれば終わる。
俺は仮面の奥で呼吸を整えた。
「あなたが今、取引している相手は黒冠商会王都監査役です」
真実。
「答えになっていない」
「あなたが求めているのは、名前ですか。役割ですか。それとも、この仮面の内側にある顔ですか」
「全部だ」
「黒冠商会との契約に、顔は必要ありません」
「魔眼で嘘を見抜かれるのが怖いか」
怖い。
かなり怖い。
それでも、俺が口にする言葉は全て本当だ。
「あなたの魔眼が、取引を成立させる助けになるなら歓迎します」
本当だ。
俺の言葉が嘘でないと証明してくれる。
ガルドの左目は反応しない。
彼の表情から、疑いが少しずつ消えていく。
魔眼でも嘘と判定できない。
ならば、仮面の男は本当に黒冠商会の監査役。
そう結論づける。
俺が別の存在へ化けている可能性は、彼の頭から外れていく。
ガルドは椅子へ深く座った。
「いいだろう」
最初の関門を越えた。
心の中で息を吐く。
表には出さない。
「黒冠商会は、いつ王都へ来た」
「あなた方が我々の存在を認識する以前から、必要な準備を進めていました」
黒冠商会という名前を作る前から、俺は街を調べていた。
ガルド。
灰鼠団。
市場。
神殿。
全て、組織の準備になった。
俺は本気でそう認識している。
魔眼は反応しない。
「王都に何人いる」
「必要な役割は、既に全て配置されています」
ノア。
エドム。
素材屋バグス。
俺。
ヴェルゴラ。
正式な構成員でない者もいる。
しかし必要な役割を担っていることは事実だ。
「人数を答えろ」
「人数を知れば、取引内容が変わりますか?」
「少ない組織と、多い組織では信用が違う」
「では、今日までに黒冠商会が動かした人間の数で判断してください」
冒険者三人。
採取人二人。
エドム。
使い走りの少年。
素材屋。
ノア。
灰鼠団の男たち。
既に十人を超える。
俺は具体的な数を言わない。
ガルド自身に、大きな組織を想像させる。
「話を進めよう」
ガルドが言った。
騙し切った。
少なくとも今は。
俺は卓の上へ、ノアが集めた情報をまとめた紙を置く。
「灰鼠団は、三十足の丈夫な靴、保存食、傷薬、矢、剣油を急いで購入している」
ドスの顔が変わる。
会計役の男も俺を見る。
「支払いは、通常の後払いではなく銀貨で先払い」
ガルドは動かない。
「戦争の準備か」
「違う」
ガルドが答えた。
左目を使う相手に、こちらから嘘を見抜く必要はない。
表情を見るだけでいい。
「では、撤退の準備ですか?」
会計役の指が、わずかに動いた。
「図星ですね」
「根拠は」
ガルドが尋ねる。
「靴です」
俺は言った。
「拠点を守るだけなら、構成員全員へ新しい靴は必要ない。長距離を移動する予定がある」
ガルドの白い目が俺を見つめる。
魔眼は反応しない。
俺は本気でそう考えている。
「赤蛇会に負けると?」
「まだ負けていない」
「勝てるとも思っていない」
ガルドは黙った。
「三日前、印のない黒い馬車が染物工房を訪れた」
会計役の男が息を呑む。
「御者は貴族街で使われる制服。降りた男は白い手袋をつけ、右手に赤い石の指輪」
「どこで知った」
「街の人間は、あなた方が思っているより周囲を見ていますよ」
ノアが集めた。
十歳の少女が洗濯場で聞いただけだ。
それでも、灰鼠団には黒冠商会の巨大な情報網に見える。
「その男との交渉は、成立しなかった」
「なぜ分かる」
「成立したなら、あなた方が自費で物資を買い集める必要はない」
推測。
だが俺は正しいと信じている。
魔眼は静かだ。
ガルドの顔が険しくなる。
当たっている。
「相手は誰だと考えてる」
「それを調べるためにも、灰鼠団を審査します」
「知らないのか」
「知っている情報と、証明できる情報は違う」
これも真実だ。
俺は候補すら知らない。
だが黒い馬車の主が、赤蛇会の背後にいる者と関係している可能性は高い。
「赤蛇会は単独で動いていません」
これは推測。
それでも俺は、ほぼ確信している。
「資金と身分を持つ者が後ろにいる。灰鼠団を王都西部から追い出し、スラムの流通と人間をまとめて手に入れようとしている」
人間。
子供。
奴隷。
ガルドの右手に力が入る。
「ガルド・ロウ」
俺は彼の名を呼ぶ。
「あなたは、子供の売買を好んでいない」
ドスが驚いた顔をする。
「それでも止められていない」
ガルドの白い目が強く光る。
「灰鼠団が金と人手を失っているからです」
「何が言いたい!」
「あなたは、自分の理想を守るために作った組織へ、理想を食われている」
一瞬。
酒場の喧騒が、本当に止まったように感じた。
ガルドの顔から、感情が消える。
「俺の何を知っている」
「スラムの孤児だった」
これは街で知られている。
「魔眼を理由に神殿へ連れていかれ、逃げ出した」
ノアが集めた噂の中にあった。
確証はない。
だがエドムが魔眼の話に反応したこととも一致する。
俺は、その噂を事実に近いと判断している。
魔眼は反応しない。
ガルドの右手が動いた。
白い左目へ触れる。
図星だ。
「それ以上、口にするな」
声が低い。
怒っている。
同時に、俺を恐れ始めている。
黒冠商会は、自分が隠してきた過去まで知っている。
そう信じた。
「ならば、取引の話を」
俺は神殿公証書体で作らせた契約書を卓へ置く。
「審査期間は十日」
ガルドが契約書へ目を落とす。
「期間中、灰鼠団は黒冠商会へ帳簿、人員一覧、最近の取引相手を開示する」
「組織の中身を全部見せろと?」
「全てではありません。黒冠商会が必要と判断した範囲です」
「違いが分からんな」
「審査を拒否する権利はあります」
俺は淡々と続ける。
「ただし、黒冠商会は灰鼠団を取引先候補から外し、王都西部で別の協力者を探します」
「赤蛇会か」
「候補を一つに限定していません」
赤蛇会と取引するつもりはない。
だが別の協力者を探す可能性はある。
嘘ではない。
「審査期間中、灰鼠団は子供の売買を全面停止」
ガルドは反論しない。
「共同寝床および孤児からの徴収を停止」
ドスが声を上げる。
「それじゃあ、俺たちの取り分が――」
ガルドが手を上げ、黙らせる。
「続けろ」
「黒冠商会は、赤蛇会とその支援者に関する調査を行う。灰鼠団が生き残るための再編案を提示する」
「勝たせるとは言わないのか」
「結果を保証する者は詐欺師ですよ?」
俺は内心で少し笑った。
俺が言うと、かなり説得力がない。
だがガルドには分からない。
「ただし」
俺は続ける。
「審査を受けない場合より、生存の可能性を高くする」
これは本気だ。
情報を渡さず、今の灰鼠団だけで戦えば負ける。
俺が加われば、少なくとも策は増える。
魔眼は反応しない。
ガルドが契約書を読む。
「対価は」
「審査保証金として金貨一枚」
ドスが立ち上がりかけた。
警備の冒険者が動く。
「座れ」
ガルドが命じる。
ドスは歯を食いしばり、椅子へ戻った。
「高いな」
ガルドは言った。
「返還条件は契約書にあります」
審査を黒冠商会側の都合で中止した場合、全額返還。
灰鼠団が情報を隠した場合は返還しない。
審査を完了した場合、保証金は今後の契約料へ充当。
金だけを奪って逃げる内容にはしていない。
「黒冠商会に、それだけの価値があると?」
「価値を決めるのは、あなたです」
俺は仮面越しにガルドを見る。
「ただし、今夜ここへ来た時点で、灰鼠団だけでは足りないと認めている」
ガルドの白い左目が輝く。
嘘はない。
彼は自分の意思で来た。
黒冠商会を無視できなかった。
ガルドが椅子へ背を預ける。
「一つ聞く」
「どうぞ」
「黒冠商会は、本当に存在するのか?」
ドスと会計役が息を止める。
ガルドは、俺の答えを魔眼で確かめるつもりだ。
俺は少し考えた。
ここで、存在すると言っても嘘ではない。
契約書。
実績。
構成員。
資金。
役割。
全てある。
だが、ただ答えるだけでは弱い。
「あなたの部下は、黒冠商会の名を聞いて牙へ触れるのをやめた」
俺は言う。
「素材屋は、黒冠商会との取引を客へ語った」
「冒険者と採取人は、黒冠商会の契約で利益を得た」
「神官書記は、黒冠商会の文書を作った」
「あなたは今、黒冠商会の招待状を受け取り、指定された場所へ来ている」
そして。
「この卓には、黒冠商会との契約書がある」
俺は契約書を指先で叩いた。
「これでも存在しないと思うなら、あなたにとって組織とは何です?」
魔眼は、一度も反応しなかった。
ガルドは長い間、俺を見ていた。
やがて。
低く笑う。
「いいだろう」
腰の袋を外し、卓へ置く。
中から金貨を一枚取り出す。
重い音を立てて、契約書の上へ置いた。
「審査保証金だ」
ドスが目を見開く。
会計役も驚いている。
俺も仮面の内側で驚いていた。
払うと思って条件を出した。
だが実際に金貨を見ると、胸が高鳴る。
前世では、もっと大きな金を動かした。
それでも今の俺は、昨日まで黒パン一つを大切に食べていた五歳児だ。
金貨一枚。
共同寝床の全員が、一年以上食べられるかもしれない金額。
やった。
本当に払わせた。
今すぐ笑いたい。
金貨を持って走って帰りたい。
マナへ食べ物を買える。
ノアへ甘い菓子を買える。
雨漏りのしない建物も借りられるかもしれない。
浮かれるな。
まだ契約は終わっていない。
「署名を」
俺は低い声を保つ。
ガルドが契約書へ目を通し、自分の名を書く。
俺も、黒冠商会王都監査役として署名する。
個人名ではない。
エドムの神殿公証書体が、双方の血へ反応して淡く光った。
正式な契約が成立する。
黒冠商会は、灰鼠団から金貨一枚を受け取った。
もう誰にも、存在しないとは言わせない。
少なくとも。
今、この王都では。
「十日だ」
ガルドが立ち上がる。
「十日で、灰鼠団が生き残る方法を見せろ」
「契約の範囲で」
「子供の売買は、今日から止める」
ドスが驚く。
「首領」
「契約だ」
ガルドは俺を見る。
「ただし、監査役」
「何でしょう」
「俺たちを利用するだけなら、必ず見抜く」
魔眼が白く光る。
俺は穏やかに答えた。
「利用しないとは言いません」
ガルドの眉が動く。
「灰鼠団も黒冠商会を利用する。そのための契約でしょう」
魔眼は反応しない。
ガルドはしばらく黙り、最後に小さく笑った。
「気に入らねえが、嫌いじゃない」
完全に信じた。
俺が五歳のクライであることも。
黒冠商会が数日前に俺の頭から生まれたことも。
彼は何一つ気づいていない。
嘘を見抜く魔眼を持つ男を。
一度も嘘をつかずに、騙し切った。
◇
ガルドたちが席を立った直後。
冒険者ギルドの扉が勢いよく開いた。
一人の男が転がり込んでくる。
灰鼠団の構成員。
服は裂け、顔から血を流していた。
「首領!」
ガルドが振り返る。
「何があった」
「工房が……!」
男は膝をつく。
「赤蛇会が襲ってきました!」
ドスが顔色を変える。
「見張りは何をしてた!」
「全員、会談の時間を知られてた! 首領がいない時を狙われたんだ!」
灰鼠団の内部に情報を流した者がいる。
俺の推測は正しかった。
ガルドの顔から、先ほどまでの余裕が消える。
「被害は」
「倉庫に火をつけられました。保存食と薬が……!」
撤退のために集めていた物資。
全て失えば、灰鼠団は戦うことも逃げることもできなくなる。
ガルドが俺を見る。
白い左目に、怒りと焦りが混じっている。
「監査役」
契約は、ほんの数十秒前に成立した。
初仕事が早すぎる。
「黒冠商会の審査は、もう始まっているんだろうな」
方法はない。
敵の人数も分からない。
工房の構造も、襲撃の目的も、内部の裏切り者も分からない。
今から考える必要がある。
怖い。
逃げたい。
仮面を外し、五歳児へ戻ってマナのところへ帰りたい。
だが、卓には金貨がある。
契約書がある。
黒冠商会を信じた人間たちがいる。
ここで逃げれば、全てが崩れる。
俺は椅子から静かに立ち上がった。
成人男性の虚像が、長い外套を揺らす。
「もちろんです」
これは真実だ。
契約が成立した瞬間から、審査は始まっている。
「ガルド・ロウ」
俺は低い声で告げた。
「工房へ戻ります」
「策があるのか」
「現場を見る前に策を決める者は、ただの賭博師ですよ」
魔眼は反応しない。
ガルドはうなずいた。
俺は仮面の内側で、小さく息を吐く。
黒冠商会の最初の顧客。
最初の契約。
最初の金貨。
そして、最初の危機。
設立三日目にして。
俺の作った嘘は、戦争へ片足を突っ込んだ。




