第4話 存在しない大人の作り方
翌朝。
目を覚ますと、目の前にノアの顔があった。
近い。
かなり近い。
「……何をしているんです?」
俺が尋ねると、ノアは青緑色の瞳をぱちぱちと瞬かせた。
「クライがちゃんと息をしてるか、見てたの」
「失礼ですね」
「だって昨日、怖い魔物に襲われたんでしょう?」
「旅の魔術師に助けられました」
「分かってるけど……夜中に急に苦しくなったら大変じゃない」
ノアは俺の隣で眠ると言って、本当に一晩中そばにいたらしい。
共同寝床では、一枚の毛布を何人かで使う。
俺とノアも同じ毛布に入っていた。
昨夜の記憶は途中からない。
疲れ切って眠ったのだろう。
寝ている間に襲われなくてよかった。
そう考えたところで、隣のノアを見る。
違う。
そういう意味ではない。
「わたし、何度も起きたのよ」
ノアが得意そうに言う。
「クライ、寝ながら何度も手を動かしてた」
「手?」
「何かを押し返すみたいに」
洞窟喰らいの魔蜘蛛。
胸の直前で止まった鋭い脚。
夢に見ていたらしい。
嫌な汗が背中へ浮かぶ。
「それから、マナさんの名前を呼んでた」
「呼んでいません」
即答した。
「呼んでたもん」
「ノアの聞き間違いです」
「怖い夢を見たんでしょう?」
「見ていません」
「じゃあ、どうしてそんなに顔が赤いの?」
「暑いからです」
共同寝床の壁には隙間があり、朝の冷気が入っている。
少しも暑くない。
だが、ここで認めるわけにはいかない。
五歳児が眠りながら母親代わりの女性の名を呼んだ。
年齢的には何もおかしくない。
むしろ自然だ。
しかし俺の中身は二十九歳である。
どうにも恥ずかしい。
ノアは俺の額へ手を置いた。
「熱はないみたい」
「病気ではありません」
「本当に?」
「心配しすぎです」
「だって、わたしは黒冠商会の王都臨時調査員でしょう?」
ノアは胸を張った。
昨夜与えた役職名が、かなり気に入っているらしい。
起きてからまだ半刻も経っていないのに、既に三度目だ。
「調査員の仕事に、俺の体温測定は含まれていません」
「代表の人に、ちゃんとクライを見てましたって報告するの」
「その報告は不要です」
「どうして?」
「……代表は忙しいので」
俺は毛布を抜け出した。
存在しない代表者に、自分が寝言でマナを呼んでいたと報告されては困る。
俺自身しか聞かないとしても、何となく嫌だ。
共同寝床の中では、年長の子供たちが朝食の準備を始めていた。
薄い豆のスープ。
固い黒パン。
いつもの食事だ。
ただし、今朝は昨日持ち帰った洞窟喰らいの牙が壁際に置かれている。
黒い王冠の紋章は、まだ消えていなかった。
マナ。
ノア。
共同寝床の子供たち。
灰鼠団の三人。
既に何人もの人間が、それを黒冠商会の正式な刻印だと信じている。
その認識を土台に、《虚王顕現》の効果が維持されているのだ。
『面白いものだな』
服の内側から、ヴェルゴラの声が聞こえた。
外へ出る時、小さな悪魔は姿を消し、俺の影の中へ潜んでいる。
正確には、俺以外の人間から認識されない状態になっているらしい。
『本来ならば、あの程度の紋章は一刻で消えておる』
「信じる人間が増えたから?」
『それだけではない』
ヴェルゴラが答える。
『あの紋章を見た者たちは、皆同じ意味を与えておる。危険で、強大で、正体の知れぬ組織の印だとな』
同じ嘘を、多くの人間が同じ形で信じる。
それによって虚像は安定する。
黒冠商会はまだ、俺の頭の中にしかない。
だが、紋章は既に現実へ根を下ろし始めている。
正直、少し興奮した。
昨日まで存在しなかった組織が、俺の知らない場所で人間の行動を変えている。
灰鼠団の男たちは、昨夜の時点で牙へ触れなくなった。
首領へ報告した。
そして、俺のところへ使者を送った。
嘘が、実際の人間と金を動かしている。
これだから詐欺は面白い。
……反省はしている。
前世で死んだ原因も、広い意味ではこの性格だ。
だが、楽しいものは楽しい。
「クライ」
マナが器を持ってきた。
「今日は森へ行かないでしょうね?」
「行きません」
今日は本当に行く必要がない。
遺跡へ戻りたい気持ちはある。
黒い本には、ヴェルゴラ以外の悪魔も封印されている。
別の禁術。
別の契約。
考えるだけで胸が高鳴る。
けれど、今は灰鼠団との会談が先だ。
一度に複数の悪魔と契約し、条件を混乱させるのも危険である。
何より、昨日の魔蜘蛛との戦いを思い出すと、まだ足の裏が冷たくなる。
しばらく洞窟は見たくない。
「今日は王都へ行きます」
「何をしに?」
「黒冠商会から頼まれた仕事です」
マナは少し心配そうな顔をした。
それでも、商会の仕事だと聞くと強く止めなかった。
彼女の中で、黒冠商会は俺を魔物から救った組織である。
危険な面はあるが、少なくとも俺を傷つける存在ではない。
そう信じている。
「遅くなるなら、ちゃんと誰かに伝えるのよ」
「分かりました」
「昨日も分かったって言ったでしょう」
「昨日の俺と、今日の俺は違います」
「一日で何が変わったの?」
悪魔と契約し、禁術を得て、巨大な魔物を倒した。
かなり変わっている。
だが言えない。
「反省しました」
「本当に?」
「もちろんです」
これは半分本当だ。
心配させたことは反省している。
森へ行ったこと自体は、禁術を得られたため後悔していない。
マナは俺の顔をしばらく見つめた後、優しく頭を撫でた。
「約束よ」
「はい」
こうして素直に心配されると、胸がむず痒い。
同時に少し怖い。
俺が黒冠商会を作ったと知ったら、マナはどんな顔をするだろう。
灰鼠団を騙そうとしていると知れば、止めるに決まっている。
悪魔と契約したと知られれば。
それでも、今と同じように頭を撫でてくれるだろうか。
考えないことにした。
答えが分からない問題を、今から心配しても仕方がない。
俺は豆のスープを飲み干し、ノアを見る。
「王都臨時調査員」
「はい!」
ノアは嬉しそうに返事をした。
早い。
「本日の仕事です」
「何を調べればいいの?」
俺は既に知っている情報を頭の中で整理する。
灰鼠団。
首領はガルド・ロウ。
元はスラムの孤児。
構成員は王都西部だけで約三十人。
収入源は保護費、賭場、盗品売買、違法薬物。
王都南部を縄張りとする赤蛇会と対立している。
拠点は廃業した染物工房。
首領自身は常に拠点にいるわけではない。
そこまでは知っている。
俺が必要なのは、その先だ。
最近、何が変わったのか。
誰が不満を持っているのか。
ガルドが本当に欲しがっているものは何か。
それは一人で街を見ているだけでは分からない。
「一つ目」
俺は指を立てた。
「灰鼠団が最近、急に買い集めている物」
「食べ物とか?」
「食料。薬。武器。布。何でも」
「分かったわ!」
「二つ目。灰鼠団の手下が、最近誰と会っているか」
「危ない人を尾行するの?」
ノアの顔が少し曇る。
「しません」
俺は即答した。
「市場や洗濯場で、大人たちが話している範囲だけです。灰鼠団へ近づかない。後を追わない。直接質問しない」
「それで分かる?」
「灰鼠団の男が大量の薬を買えば、薬屋は誰かに話します。誰かが工房へ入れば、洗濯場から見た人がいる。人間は秘密を見つけると、黙っていられません」
特に自分に直接危険がない秘密は、誰かへ話したくなる。
「三つ目」
俺は続ける。
「ガルド・ロウの左目について」
ノアの表情が少し変わった。
「嘘を見抜く目でしょう?」
「そう言われていますね」
噂は俺も知っている。
だが能力の詳細が分からない。
相手の心を読むのか。
発言の真偽を判断するのか。
幻術を見破るのか。
そこを間違えれば、会談は失敗する。
「どんな時に、どうやって嘘を見抜いたのか。具体的な話を探してください」
「分かったわ」
「最後に」
俺は少しだけ声を落とす。
「黒冠商会について聞いてください」
ノアが目を輝かせる。
「商会の評判?」
「ええ。ただし、ノアから何をする商会なのか説明してはいけません」
「どうして?」
「王都でどの程度知られているかを、ありのまま確認したいからです」
これは、黒冠商会から正式に依頼された調査だとノアは信じている。
「誰かに黒冠商会を知っているか聞く。知らないと言われたら、それ以上説明しない」
「知ってるって言われたら?」
「相手の話を最後まで聞く。否定も肯定もしない」
ノアは少し考えた。
「何を聞かれても?」
「“わたしは臨時調査員だから、詳しいことは教えてもらっていないの”と答えてください」
それは事実だ。
俺はノアへ詳しい設定を教えていない。
教えれば、彼女の言葉が俺の作った物語に縛られる。
何も知らなければ、相手が勝手に噂を作る。
「それから」
俺は付け加える。
「商会の正式な使者は、仮面で顔を見せないとだけ伝えて構いません」
「顔を見せないの?」
「余計な争いが起きないために、らしいです」
「なるほど……」
ノアは納得した。
今の時点では、黒冠商会の代表者が仮面をつけるという設定はなかった。
たった今作った。
ノアがこの情報を話せば、王都の人間は勝手に使者の姿を想像する。
黒い外套。
仮面。
低い声。
怪しい魔術師。
その共通認識が、三日後に俺が作る虚像の土台になる。
「任せて!」
ノアは胸へ手を当てる。
「黒冠商会王都臨時調査員として、しっかり調べてくるわ!」
「危険を感じたら、すぐ戻ること」
「分かってる」
「一人で裏通りへ入らない」
「はいはい」
「返事は一度」
「クライ、マナさんみたい」
その言葉に、俺は少し固まった。
「どこがです?」
「心配性なところ」
「人材を失いたくないだけです」
「はいはい」
「返事は一度です」
ノアは楽しそうに笑い、朝食の残りを口へ入れた。
◇
ノアを一人で送り出したわけではない。
市場へ向かう道の途中までは、俺も一緒だった。
彼女は洗濯場と朝市を回る。
俺は魔物素材を買い取る店へ向かう。
目的は、洞窟喰らいの魔蜘蛛の牙を現金へ変えること。
ただし、大きな牙をそのまま売る気はない。
五歳児が高価な魔物素材を持ち込めば、出所を疑われる。
安く買いたたかれる。
最悪の場合、盗品として没収される。
売るのは、昨日割り取った小さな破片の一つだけ。
大きな牙は、黒冠商会の証拠として残す。
市場の北側。
魔物素材を扱う店が並ぶ一角へ入る。
角。
爪。
皮。
乾燥した臓器。
瓶へ入れられた魔物の目玉。
独特の臭いがする。
俺は店を選ぶ。
最も大きな店は避ける。
大商会は仕入れの手順が決まっている。
身元の分からない子供と、直接取引しない可能性が高い。
小さすぎる店も駄目だ。
高価な素材を買う資金がない。
中規模。
客が少ない。
店主自身が査定をしている。
そして店の奥に、貴族向けらしい装飾品が並んでいる。
ただ素材を売るだけでなく、珍しさや物語へ金を払う顧客を持っている。
その店へ入った。
「何だ、坊主」
店主は四十歳前後。
片耳が欠けている。
鍛えられた腕。
元冒険者かもしれない。
「買い取りをお願いしたいのですが」
「子供の遊び場じゃねえぞ」
俺は布へ包んだ牙の破片を台へ置いた。
店主が面倒そうに布を開く。
表情が変わった。
破片を持ち上げる。
光へ透かす。
小さな刃で表面を削る。
鼻先へ近づける。
「どこで手に入れた」
予想通りだ。
「取引先から預かりました」
「取引先?」
「俺は案内役です」
昨日、灰鼠団とマナとノアへ話した内容を崩さない。
「誰の案内役だ」
「それをお話しする許可はありません」
店主は俺をじっと見る。
「盗品か?」
「違います」
これは本当だ。
俺が倒した魔物の牙だ。
「証拠は」
「盗難届が出ている品なら、照合してください」
店主の目が少し細くなる。
五歳児が盗難届の照合などと言うとは思わなかったのだろう。
「こいつは、洞窟喰らいの魔蜘蛛の牙だ」
「そう聞いています」
「聞いている?」
「俺が倒したわけではありませんから」
これも、厳密には嘘だ。
ただし相手は、俺が旅の魔術師の代理人だと受け取る。
その方が自然だ。
「最近、王都周辺で討伐された記録はねえ」
「記録が必要な仕事ではないので」
「冒険者ギルドを通していない?」
「さあ」
答えない。
店主は牙を再び観察する。
「この大きさの破片なら、本体は相当でかい」
「牛くらいだったと思います」
実際に牛ほどだった。
「牛だと?」
店主の声が変わる。
「洞窟喰らいは、生きている限り洞窟の岩と鉱石を食って成長する。牛ほどなら、百年近い個体だ」
初めて知った。
顔には出さない。
情報が商品の価値を上げてくれた。
「その魔蜘蛛を倒した奴は、何者だ」
俺は店主を見る。
ここで黒冠商会の名を直接売る。
ただし、大げさな説明はしない。
「黒冠商会」
それだけ言った。
店主の眉が動く。
「聞かねえ名だ」
「そうでしょうね」
「新しい商会か?」
「新しい?」
俺は少しだけ笑った。
答えではない。
相手の質問の前提だけを揺らす。
黒冠商会が古くから存在する秘密組織かもしれない。
店主は、そう解釈した。
「何を扱う」
「表へ出せない品を、表へ出せる形にする商会です」
洞窟喰らいの牙を市場で売れる形へする。
今の取引そのものを説明している。
だが店主は、もっと大きな意味を感じ取る。
呪物。
禁制品。
王族の秘密。
正体不明の魔物素材。
そんなものを想像している顔だ。
「この破片の値段は?」
俺が尋ねると、店主は少し考えた。
「銀貨二枚」
安い。
相場を知らなくても分かる。
声に探りがある。
「持ち帰ります」
俺は破片へ手を伸ばした。
「待て。銀貨三枚」
「値段が五割上がりましたね」
「最初は鑑定が終わってなかった」
「鑑定は終わっています?」
「……銀貨四枚」
「他の店でも聞きます」
「銀貨六枚」
俺は手を止める。
これ以上は、相場を知らないまま欲張ることになる。
だが金だけでは足りない。
「銀貨六枚に加えて、黒い上質布を一枚。金色の糸。赤い封蝋。上質な羊皮紙を三枚」
店主が俺を見る。
「何に使う」
「商会の仕事です」
「その商会は、子供へこんな物を買いに行かせるのか」
「目立たないので」
五歳児が秘密組織の使いをしている。
店主は、それを不自然とは思わなかった。
むしろ秘密組織らしいと受け取った。
「銀貨五枚。布と糸。封蝋と紙」
「銀貨六枚」
「五枚だ」
「では、破片を持ち帰ります」
「……六枚でいい」
取引成立。
銀貨六枚。
黒い上質布。
金糸。
赤い封蝋。
羊皮紙。
存在しない大人を作るための材料がそろった。
店主が品を奥から持ってくる。
俺は受け取り、銀貨を確認する。
「次もあるのか」
店主が尋ねた。
「何がです?」
「同じ魔蜘蛛の素材だ」
「取引先が、あなたを信頼できると判断すれば」
「どう判断する」
俺は店の棚を見る。
素材の扱い。
客への態度。
買い取り価格。
「今日の品を、どのように売るか」
店主は牙の破片を見た。
ただの材料として売れば、次はない。
希少な品として、正しい価値をつければ次もある。
そう理解したらしい。
「名前は」
「クライ・マイト」
「商会の人間か?」
「案内役です」
「商会へ伝えておけ」
店主は破片を丁寧な箱へ入れる。
「素材屋バグスは、相手を選ばねえとな!」
「その言葉も伝えておきます」
誰へ伝えるとは言わない。
俺自身が聞いているため、嘘でもない。
店を出た時には、黒冠商会を信じる人間がまた一人増えていた。
しかも素材屋だ。
今後、店主は客へこの破片の由来を語る。
正体不明の黒冠商会が、百年物の洞窟喰らいを仕留めた。
そんな噂が、市場から広がる。
俺が何もしなくても。
◇
ノアと合流したのは、昼を少し過ぎた頃だった。
市場の噴水広場。
ノアは古い籠を持ち、普通の買い物帰りの少女にしか見えない。
俺を見つけると、嬉しそうに駆け寄ってきた。
「クライ!」
「走ると目立ちます」
「ごめんなさい」
口では謝りながら、あまり反省していない顔だ。
「たくさん分かったの」
「ここでは話しません」
俺たちは市場を離れ、人通りの少ない古い水路沿いへ移動した。
周囲に誰もいないことを確認する。
「報告を」
「はい、代表補佐さん」
「誰が代表補佐です?」
「クライは案内役だけど、わたしに仕事をくれたから、きっと代表の人の補佐でしょう?」
勝手に昇進させられた。
悪くない。
黒冠商会内で俺の立場が高いとノアが信じれば、後で代表者の代理として動く時にも不自然さが減る。
「好きに呼んでください」
「じゃあ、クライ補佐」
少し間抜けだ。
訂正しようかと思ったが、ノアが楽しそうなので放置する。
「まず、灰鼠団が最近買っている物」
ノアが指を一本立てる。
「干し肉、傷薬、矢、剣の油。それから、丈夫な靴」
「誰から?」
「干し肉は東市場のロバンさん。傷薬は神殿通りの薬屋。矢は冒険者向けの店。靴は三十足くらい注文したって」
三十足。
灰鼠団の王都西部の構成員数と近い。
長い移動か。
集団戦。
あるいは拠点を捨てる準備。
「支払いは?」
「いつもは後払いなのに、今回は銀貨を先に出したそうよ」
資金を急いで使っている。
「次」
「灰鼠団の工房に、三日前から黒い馬車が来てる」
「印は?」
「何もなかったって。でも御者は、貴族街で使われる服を着ていたみたい」
貴族か、裕福な商人。
印を隠して灰鼠団と会う理由がある。
「馬車から降りた人は?」
「白い手袋の男の人。右手の指に、赤い石の指輪」
具体的だ。
ノア本人が見たわけではないだろう。
「誰の話です?」
「洗濯場のミナおばさん。工房の裏でシーツを干していた時に見たって」
「信頼できる?」
「ミナおばさんは目がいいわ。人の服をすぐ覚えるの」
使える情報だ。
「灰鼠団の中で、不満を持っている人」
「たくさんいるみたい」
ノアは少し楽しそうだ。
噂話が好きなのだろう。
「最近、取り分が減ったんだって。首領が戦いの準備にお金を使ってるから」
「相手は赤蛇会?」
「みんなそう思ってる。でも、首領は何も説明しないって」
ガルドは情報を絞っている。
手下を信用していない。
あるいは、内部に敵の間者がいる。
「子供を売った男が、ガルドさんに指を切られたって話もあったわ」
「いつ?」
「一月くらい前」
「追放は?」
「されてない。その人、今も灰鼠団にいるって」
首領は子供の売買を完全には許していない。
しかし、組織から排除もしない。
人手か金が足りないのだ。
理想と現実の間で妥協している。
そういう人間は騙しやすい。
本人が捨てられない理想を、取引材料にできるからだ。
「魔眼については?」
ノアが周囲を見回し、声を落とした。
「ガルドさんの左目は、言った本人が嘘だと思っている言葉が分かるみたい」
重要だ。
「根拠は?」
「昔、灰鼠団にいた人の妹さんが洗濯場にいるの。その人が言ってた」
「詳しく」
「ガルドさんに“金を盗んでいない”って言った男は、すぐ嘘だって分かった。でも、盗んだ物を誰かにもらったと思い込んでた子供の言葉は、見抜けなかったって」
本人の認識と発言の差を見る。
予想に近い。
「心の中は読める?」
「そこまでは無理みたい。黙っている人や、質問に答えない人の考えは分からないって」
「幻術は?」
「目で見た物が偽物かは、分からないみたいよ?」
良い。
《虚王顕現》による外見は、魔眼だけでは見破れない。
ただし、俺が自分を大人だと口にすれば嘘と判断される。
だから言わなければいい。
「黒冠商会の噂は?」
ノアの顔が明るくなる。
「それがね、知ってるって言う人が三人もいたの!」
俺は少しだけ笑いそうになった。
昨日できた組織である。
知っているはずがない。
それでも、出た。
「どのような話でした?」
「一人目は、北の帝国で王族同士の戦争を止めた商会だって」
規模が大きすぎる。
だが否定する必要はない。
「二人目は?」
「魔族の国から珍しい薬を運んでるって」
「三人目」
「黒冠商会の人は、みんな同じ黒い仮面をつけていて、名前を持っていないって」
仮面の設定が、早くも変形した。
名前を持っていない。
使える。
個人名を名乗らずに済む。
「ノアは何と答えました?」
「詳しいことは教えてもらってないって。クライに言われた通り」
「よくできました」
俺が褒めると、ノアは嬉しそうに笑った。
「でも、みんな本当に商会のことを知ってたのね」
完全に信じている。
人間は、自分の知らない情報を複数の人間から聞けば、本物だと思う。
たとえ、その全員が適当なことを言っていても。
「それから」
ノアは籠の底から、小さな黒い布を取り出した。
金色の糸で、歪んだ王冠が刺繍されている。
「これは?」
「わたしも商会の印が欲しくて」
自分で縫ったらしい。
上手いとは言えない。
王冠は少し傾き、中央の目は左右で大きさが違う。
切れた鎖は、途中から蛇のようになっている。
それでも。
「似ています?」
ノアが不安そうに尋ねる。
「……悪くありません」
本音だった。
俺が《虚王顕現》で作った完璧な紋章より、こちらの方が黒冠商会の最初の実物である。
魔法ではない。
ノアが自分の手で作った。
現実に存在する品だ。
胸が少し温かくなった。
「制服につけようと思って」
「制服はありません」
「これから作ればいいでしょう?」
「経費がかかります」
「代表の人にお願いして」
自分にお願いすることになる。
困った。
だが、楽しそうなノアを見ていると、嫌だとは言いづらい。
「検討してもらいます」
「絶対に伝えてね」
「ええ」
俺は黒い布を返そうとして、手を止めた。
「これは借りても?」
「いいけど、何に使うの?」
「代表者へ見せます」
ノアの表情が輝いた。
「本当に?」
「王都臨時調査員が、自分で作った印ですから」
「喜んでくれるかな」
「喜ぶと思います」
俺が喜んでいる。
そのため、嘘ではない。
ノアは大事そうに布を俺へ渡した。
◇
俺たちが次に向かったのは、王都中央神殿の裏手だった。
正面の大聖堂ではない。
書記官たちが働く、公文書管理所。
ノアには、少し離れたパン屋の露店で待ってもらう。
「わたしも行っちゃ駄目?」
「今回の仕事は見張りです」
「見張り?」
「俺が合図をしたら、鐘楼の上から小石を落としてください」
待ち合わせ場所は、神殿から離れた廃教会の鐘楼。
まず俺が、使えそうな書記官へ接触する。
ノアには相手が一人で来たか確認させる。
一人なら小石を一つ。
同行者がいれば二つ。
誰かが後を追っていれば三つ。
役割を明確に伝えた。
「相手へ話しかける必要はありません。姿を見られないように」
「分かったわ」
「危険を感じたら、合図をせず戻る」
「クライ補佐は、本当に心配性ね」
「調査員の安全管理です」
ノアは敬礼の真似をした。
「了解しました!」
今回必要なのは、文字を書ける人間ではない。
俺は一般文字なら読めるし、書ける。
簡単な契約書や商業文書も自分で作れる。
だが、神殿や王国の公証文書には、神殿公証書体が使われる。
神聖文字を織り交ぜた特殊な書式。
文字の形を真似るだけでは意味がない。
認定された神官書記が、定められた書き順と祈句を用いて書くことで、紙へ微かな神聖力が宿る。
それが署名者の血や魔力へ反応し、後から書き換えられていないことを証明する。
俺に文字が書けないのではない。
公式な効力を持つ文字だけは、神官書記にしか書けない。
黒冠商会が本物だと信じさせるには、素人が書いた招待状より、公証書体の文書が効果的だ。
問題は。
普通の神官書記が、正体不明の商会のために文書を書くはずがないことだった。
だから、普通ではない理由を持つ人間を探す。
俺は公文書管理所の前で、人の出入りを観察した。
書記官は六人。
服。
靴。
持ち物。
歩き方。
視線。
最初の男は法衣が新しい。
指輪も高価。
裕福な家の出身だろう。
金では動かしにくい。
次の女性は歩きながら文書を読んでいる。
規則を重視する仕事人間。
秘密の依頼には向かない。
三人目は若く、周囲の書記へ何度も頭を下げている。
立場が弱い。
脅せば動くかもしれない。
だが、怯えで動く人間は、別の恐怖を与えられれば簡単に裏切る。
四人目。
中年の男。
法衣の袖が擦り切れている。
右手の中指に、大きなペンだこ。
建物を出ると、最初に薬屋の看板を見た。
財布を開き、中を確認する。
薬屋へ入り、小さな紙袋を買う。
店を出た後、袋を大切そうに胸へ抱えた。
自分用ではない。
家族。
おそらく子供。
「決まりですね」
俺は小さくつぶやいた。
服の影から、ヴェルゴラが答える。
『金に困っているだけで選ぶのか』
「困っている理由が重要です」
金が欲しい人間は多い。
だが、自分より大切な相手のために必要としている人間は、条件次第で規則を越える。
俺は男の後を追った。
距離は十分に空ける。
男が人通りの少ない道へ入ったところで、俺は先回りした。
路地の角。
足音が近づく。
俺は角から出て、男へぶつかった。
「あっ」
男の手から薬袋が落ちる。
同時に、俺も地面へ転んだ。
痛い。
想像より普通に痛い。
五歳児の身体は軽いが、地面は硬い。
「大丈夫か!」
男は薬より先に、俺へ手を伸ばした。
悪人ではない。
少なくとも、子供を見捨てる人間ではない。
「すみません」
俺は起き上がり、薬を拾う。
その際、袋の下へ黒い紙片を滑り込ませた。
黒冠商会の紋章。
短い文章。
一般文字は俺が書いた。
書記官エドム・ハイル。
娘ミーナの治療費について相談したければ、正午、旧鐘楼へ一人で来られたし。
名前と娘の情報は、事前に知っていたわけではない。
先ほど薬屋で、店主が男へ「ミーナちゃんの咳は」と声をかけていた。
エドムという名は、法衣につけられた神殿の名札で確認した。
必要な情報は、相手が自分から見せてくれることが多い。
「怪我はないか?」
男――エドムが俺の膝を見る。
少し擦りむいている。
「平気です」
「走ると危ないぞ」
「気をつけます」
俺は薬袋を渡す。
エドムは中を確認し、黒い紙片へ気づいた。
表情が変わる。
俺は気づいていないふりをした。
「ごめんなさい」
頭を下げ、その場を離れる。
振り返らない。
紙を捨てる可能性はある。
神殿へ報告する可能性もある。
それでも、娘の治療費を知る相手を無視はできない。
来る。
そう信じる。
◇
正午。
廃教会の古い鐘楼。
俺は崩れた柱の陰で待った。
ノアは鐘楼の上。
姿は見えない。
足音が近づく。
一つ。
ノアの合図を待つ。
小石が一つ、床へ落ちた。
相手は一人。
エドムが扉を開けて入ってくる。
周囲を警戒している。
服の内側に何かを隠している。
短剣だろう。
それくらいの慎重さは必要だ。
「誰かいるのか」
俺は柱の陰から出た。
エドムが目を見開く。
「子供?」
「昨日ぶりです」
「お前が、あの紙を?」
「直接書いたのは俺です」
「娘の名を、どこで知った」
「薬屋の主人が、あなたへ声をかけていました」
俺は最初から答えた。
秘密の情報網を装う必要はない。
相手が自分で見せた情報を拾った方が、俺の観察力への警戒が強くなる。
エドムの目が鋭くなる。
「治療費について相談とは何だ」
「仕事を依頼したい」
「神殿へ頼め」
「神殿には頼めない仕事です」
「帰る」
エドムはすぐに踵を返した。
予想より判断が早い。
俺は止めない。
「ミーナの薬は、あと何日分あります?」
足が止まった。
「……何が言いたい」
「昨日購入した量では、三日分にも足りない」
薬の量と、薬屋で聞こえた価格から計算した。
「必要な治療を続けるには、銀貨二十枚以上」
エドムが振り返る。
「金を出すと言うのか」
「仕事の報酬として」
「犯罪へ関わる気はない」
「俺は犯罪を依頼するとは言っていません」
これは重要だ。
エドムの中で、俺は怪しい子供である。
だが犯罪者だと確定はしていない。
「何を書かせる」
「商談の招待状です」
俺は自分で書いた文面を渡す。
エドムが読む。
灰鼠団首領ガルド・ロウ宛て。
黒冠商会による暫定審査。
日時。
場所。
人数制限。
武器持ち込み禁止。
「内容自体は、ただの招待状です」
俺は言う。
「一般文字なら俺にも書ける」
エドムが俺を見る。
五歳児が整った商業文を書いているため驚いている。
少し気持ちがいい。
「ただし、神殿公証書体が必要です」
「なぜ」
「黒冠商会が、文書の改ざんを認めない組織だと示すため」
「神殿の権威を利用するつもりか」
「違います」
俺は文面を指す。
神殿の名。
王国の名。
公的機関の印。
どれも入れていない。
「あなたに書いてほしいのは、黒冠商会独自の私文書です。神殿や王国の文書を偽造するわけではない」
「公証書体を使えば、受け取った相手は神殿が関与していると思う」
「神殿の書記が作成した事実はあります」
「依頼主の正体を知らずに、文書を作れと?」
「確認してください」
俺は黒冠商会の紋章が入った牙の小片を渡した。
エドムは慎重に受け取る。
紋章の金色の目が、わずかに光る。
「魔物素材か」
「洞窟喰らいの魔蜘蛛」
「これを、黒冠商会が?」
俺は答えない。
エドムは、黒冠商会が討伐した証拠だと受け取った。
「他にも確認したいことがあれば」
俺は素材屋バグスの店名を書いた紙を渡す。
「この店へ行けば、今朝同じ牙の破片を買い取ったと証言します」
物理的な証拠。
第三者の証言。
魔術の刻印。
全て本物である。
黒冠商会の来歴だけが存在しない。
「報酬は」
エドムが尋ねた。
断る口調ではない。
「前金として銀貨三枚」
素材を売った金の半分。
「完成時に銀貨七枚」
合計十枚。
ミーナの治療費全額には足りない。
だが、文書一枚の報酬としては破格である。
「足りない」
エドムは言った。
「娘さんの薬には?」
「一月続けなければ意味がない」
「では、今後も仕事を依頼します」
「どんな仕事だ」
「違法な仕事を無理に頼むことはありません」
「曖昧だ」
「あなたには断る権利がある」
俺は別の紙を差し出した。
契約書。
俺が書いた一般文字。
依頼内容。
守秘義務。
報酬。
違法行為を強制しないこと。
エドムが拒否できること。
黒冠商会が約束した報酬を支払わない場合、契約は解除され、エドムは依頼内容を神殿へ開示できる。
「私が裏切った場合は?」
エドムが尋ねる。
「黒冠商会の情報を第三者へ漏らした場合、以後の報酬を停止する」
「それだけか」
「秘密を守らない書記へ、次の依頼が来ない。それ以上に自然な罰があります?」
エドムは契約書を読む。
何度も。
俺は急かさない。
契約書を読む人間は信用できる。
少なくとも、読まずに署名する人間よりは。
「一つ聞く」
エドムが言った。
「黒冠商会とは、何だ」
「商会です」
「そんな答えを聞いているんじゃない」
「では、何を知りたい?」
「何を売る」
「相手が必要としているもの」
「具体的には」
「灰鼠団には安全を」
これは、まだ実際には売っていない。
だが売る予定である。
「あなたには、娘の治療を続けるための収入を」
「お前自身は、何を買う」
鋭い。
エドムは金のためだけに動く愚かな人間ではない。
依頼主の目的を知ろうとしている。
俺は少し考えた。
ここで嘘をつく必要はない。
「俺が安心して眠れる場所です」
エドムの表情が変わった。
今の言葉は本心だった。
金。
権力。
禁術。
商会。
それらは手段だ。
俺は、誰にも奪われない生活が欲しい。
帰る家。
食事。
心配してくれる人間。
それだけだ。
ただ、その程度を得るために壊さなければならない物が多すぎる。
「スラムの子供が、灰鼠団に頼んで手に入るものか?」
「普通に頼めば無理でしょうね」
「騙そうとしているのか?」
「いいえ、商談ですよ」
エドムの口元が、わずかに動いた。
笑ったのか、呆れたのか。
「前金を」
俺は銀貨三枚を台座へ置く。
エドムはしばらくそれを見ていた。
やがて、銀貨を取る。
「日没までに書く」
「助かります」
「ただし、一度だけだ」
「今は、それで構いません」
エドムが契約書へ署名した。
黒冠商会に、神官書記が一人加わった。
本人は外部の依頼を受けただけだと思っている。
しかし組織とは、本人の認識ではなく、役割の分担によって成立する。
ノアが情報を集める。
エドムが文書を作る。
素材屋が品を市場へ流す。
俺が全体を設計する。
既に黒冠商会は、俺一人ではない。
◇
夕方。
神殿公証書体で書かれた招待状が完成した。
美しい文字だった。
一般文字の間に、細い神聖文字が織り込まれている。
紙を傾けると、文字の一部が淡く光る。
これは俺には書けない。
文章そのものは書けても、神聖力を宿すことはできない。
「内容は確認した」
エドムが言う。
「神殿や王国の名を騙ってはいない。法に触れる文面でもない」
「最初から、そのように説明しています」
「だが、まともではない」
「そこは否定しません」
エドムは書状を俺へ渡した。
「残りの報酬」
俺は銀貨三枚を置く。
手元にあるのは、これでほとんどなくなる。
「残り四枚は明日の昼」
「今払えないのか」
「黒冠商会の資金移動には時間がかかる」
実際には、資金をこれから作る。
だが、払えないとは言っていない。
「必ず払う」
俺は言った。
「契約書にあります」
エドムは俺を見る。
「お前は、契約書を信じているのか」
「いいえ」
「では、なぜ作る」
「互いに信用しなくて済むからです」
エドムは少し考えた後、招待状の文字へ指を置く。
「この公証書体は、俺が書いたものだと神殿で照合できる」
「理解しています」
「お前が問題を起こせば、俺まで追われる」
「だから、報酬を受け取った」
「まだ全額ではない」
「では、明日まで俺が生きていることを祈ってください」
「縁起でもないことを言うな」
エドムは本気で嫌そうな顔をした。
娘の薬代を得る前に、依頼主へ死なれては困るのだろう。
それでも少しだけ。
俺自身を心配されたように聞こえた。
気のせいだ。
◇
夜。
共同寝床の奥。
黒い布を使い、代表者の衣装を作る。
マナには、黒冠商会の代表が使用する衣装の補修を頼まれたと説明した。
彼女は疑わなかった。
むしろ、商会から信頼されているのねと喜んだ。
ノアが作った歪な王冠の布を、外套の胸元へ縫いつけてもらう。
「正式な印は、牙についていた方でしょう?」
マナが尋ねる。
「王都調査員が作った特別な印だそうです」
ノアが誇らしそうに胸を張る。
「わたしが作ったの!」
「まあ、可愛いわね」
「秘密の商会に可愛さは必要です?」
俺が言うと、二人から同時に睨まれた。
「必要よ」
「必要なの!」
意見が一致したらしい。
俺は黙った。
黒い仮面は、木片を削って作った。
顔全体を隠す。
中央に金色の目。
左右に、細い亀裂のような模様。
完璧でなくていい。
人間が想像する「黒冠商会の代表者」に合えば、《虚王顕現》が補ってくれる。
「代表の人、背が高いの?」
ノアが尋ねる。
「おそらく」
「声は低い?」
「そうかもしれません」
「髪は?」
「仮面と外套で見えません」
ノアは目を閉じ、想像する。
「きっと、すごく静かで、怖い人ね。でもクライには少しだけ優しいの」
勝手に設定が追加された。
悪くない。
完全に冷酷な人物より、クライという案内役を特別扱いしている方が自然だ。
五歳児が重要な仕事を任されている理由になる。
マナもその話を聞いている。
「クライを助けてくれた魔術師とは、別の人?」
「同じ可能性もあります」
答えを決めない。
二人の中では、黒冠商会の代表者と旅の魔術師が一人に重なり始める。
百年物の魔蜘蛛を倒した魔術師。
顔を隠す秘密商会の代表。
灰鼠団の首領を呼びつける人物。
共通した像が作られていく。
《虚王顕現》には十分な土台だ。
夜が深くなり。
マナとノアが眠った後。
俺は共同寝床の裏へ出た。
黒い外套。
木の仮面。
ノアの刺繍。
ヴェルゴラだけが見ている。
「試します」
『大人の姿を作るのか』
「正確には、大人だと思われる外見を」
俺自身が大人の身体を細部まで想像する必要はない。
ノアやマナ。
市場の人間。
灰鼠団の男たち。
彼らが想像した黒冠商会の代表者。
その共通部分を借りる。
長身。
黒い外套。
仮面。
低い声。
静かな威圧感。
胸の黒い火へ触れる。
――禁術《虚王顕現》。
――顕現対象。
――黒冠商会王都監査役。
役職名を決める。
個人名は作らない。
名前を持たないという噂を利用する。
――既存の認識を基礎として、成人男性の外形、声、足音、気配を顕現。
――必要生命力、人間寿命換算十一時間。
高い。
ただし、洞窟喰らいから回収して体内へ保存した生命力は、残り二十三時間以上ある。
支払いは可能。
「承認」
生命力が抜ける。
俺の周囲で、黒い空気が揺れた。
視点が高くなる。
実際の身体は五歳児のままだ。
外側へ、大人の輪郭が重なる。
黒い外套が長く伸びる。
手袋に覆われた大きな手。
仮面の位置が上がる。
俺が一歩動くと、虚像の足が大人の歩幅で前へ出た。
バランスが崩れる。
「うわっ」
転びかけた。
『古代最強の禁術使いが、歩行で敗北したぞ』
「黙ってください」
大人の虚像の中で、五歳児が歩く。
簡単ではない。
俺が二歩進む間に、虚像は一歩だけ進める。
動きを合わせなければ、足が滑っているように見える。
何度も練習する。
一歩。
止まる。
振り返る。
椅子へ座る動き。
卓へ手を置く動き。
「声は」
俺は口を開く。
「黒冠商会王都監査役です」
低い声が夜へ響いた。
自分の声を、虚像の声が覆っている。
思っていたより自然だ。
『不気味だな』
「狙い通りです」
俺は水溜まりへ姿を映す。
金色の目を持つ黒い仮面。
長い外套。
人間離れした静けさ。
顔は見えない。
年齢も分からない。
体格も、外套の下へ隠れている。
かなり良い。
自分で作っておいて、少し怖い。
同時に、妙な高揚感があった。
別人になった。
前世では声や服装、経歴を変えて多くの人物を演じた。
だが、身体そのものまで変えられたことはない。
これなら、何にでもなれる。
貴族。
魔術師。
商人。
老人。
女。
子供。
必要な人物を、必要な時に作れる。
楽しい。
浮かれるな。
また自分へ言い聞かせる。
禁術は万能ではない。
今も生命力を消費している。
誰にも信じられなければ、虚像は弱くなる。
ガルドの魔眼に不用意な嘘を言えば、正体を疑われる。
俺は仮面へ触れた。
「俺は大人ではない」
『自分で言うのか』
「だから、会談では大人だと名乗らない」
「黒冠商会の代表か」と聞かれたら。
「王都における審査を任されている」と答える。
それは本当だ。
誰から任されたのかと聞かれれば。
「黒冠商会の規則に基づいて動いている」。
俺が作った規則に、俺が従う。
これも本当。
黒冠商会は何人いると聞かれれば。
「必要な場所に、必要な人数がいる」。
ノア。
エドム。
素材屋。
俺。
直接所属しているかどうかは関係ない。
実際に役割を果たしている人間がいる。
ガルドの魔眼は、俺が嘘だと思っている言葉を見抜く。
ならば、俺自身が真実だと認識できる言葉だけを使う。
騙すのは発言ではない。
相手が発言から導く結論だ。
「いけます」
俺は低い声で言った。
『随分と自信があるな』
「ありません」
正直に答える。
怖い。
ガルドは暴力でスラムを支配してきた男だ。
言葉だけで渡り合える保証はない。
少しでも失敗すれば、俺だけでなくマナやノアまで危険になる。
逃げたい気持ちはある。
だが同時に。
試したい。
嘘を見抜く目を持つ男を、嘘をつかずに騙したい。
詐欺師として、これほど面白い相手はなかなかいない。
「自信がないから、準備するんです」
俺は虚像を解除した。
五歳の視点へ戻る。
少し寂しい。
大人の身体は便利だった。
高い棚にも手が届きそうだった。
◇
翌朝。
神殿公証書体で書かれた黒い招待状が、灰鼠団の拠点へ届けられた。
届けたのは、俺でもノアでもない。
冒険者ギルド前にいた少年の使い走りへ、銅貨一枚で頼んだ。
中身は知らない。
差出人も知らない。
黒い封筒を、古い染物工房へ持っていくだけ。
配達人が黒冠商会の人間である必要はない。
むしろ、普通の子供を使った方が組織の底が見えなくなる。
染物工房。
灰鼠団の拠点。
首領ガルド・ロウは、奥の椅子へ座っていた。
灰色の髪。
傷だらけの右腕。
白く濁った左目。
卓の上には、洞窟喰らいの牙の破片が置かれている。
ドスを含めた幹部たちが周囲に立つ。
「黒冠商会からです」
使い走りの少年が封筒を差し出す。
「誰から受け取った」
「冒険者ギルドの前にいた、黒い服の男」
これは俺が教えた通りの説明だ。
実際に依頼した時、俺は《虚王顕現》で黒い外套をまとった若い男の姿を作っていた。
代表者とは別の姿。
黒冠商会には複数の人間がいる。
そう信じさせるためだ。
「顔は?」
「帽子で見えなかった」
「声は?」
「普通の男の人」
ガルドは少年を見つめる。
白い左目が、わずかに光る。
魔眼。
少年は、自分が見たものを本当だと思っている。
嘘はない。
ガルドの目にも、偽りとは映らない。
「帰してやれ」
少年は銅貨を握り、工房を出ていった。
ガルドが封筒を見る。
黒い紙。
赤い封蝋。
黒い王冠。
中央の金色の目。
周囲を囲む切れた鎖。
封蝋の目が、一瞬だけ光った。
幹部の一人が息を呑む。
「魔術か」
ガルドは封を切った。
中の文字を見る。
神殿公証書体。
神聖文字が淡く光っている。
「神殿の書類?」
「違う」
ガルドは即座に答えた。
「神殿の書記が書いた私文書だ」
「同じでは?」
「神殿の名も印もない。だが、公証書体だけは本物だ」
黒冠商会には、神官書記へ仕事を依頼できる関係がある。
そういう証拠になる。
ガルドが文書を読む。
---
灰鼠団首領、ガルド・ロウ殿。
王都西部における流通、警護および情報網の運用について、貴組織を暫定審査の対象として受理した。
明後日、日没。
王都冒険者ギルド酒場、東奥席。
出席者は首領を含め三名まで。
武器の持ち込みを禁ずる。
欠席した場合、審査を辞退したものとして処理する。
なお、本審査は貴組織の存続を保証するものではない。
黒冠商会
王都監査部
---
「存続を保証しないだと?」
幹部が声を荒らげる。
「何様のつもりだ」
「首領、こんなふざけた呼び出しに応じる必要はありません」
ガルドは黙って文書を見ている。
左目では、書いた者の嘘を判断できない。
それでも。
神殿公証書体。
百年物の洞窟喰らい。
誰にも見つからず森へ現れた回収役。
市場へ流れ始めた黒冠商会の噂。
普通の使い走りを使う余裕。
一つ一つは、小さな証拠にすぎない。
だが全てが、同じ組織の存在を示している。
「行く」
ガルドが言った。
幹部たちが一斉に彼を見る。
「首領!」
「罠かもしれません」
「だから冒険者ギルドを選んだ」
ガルドは招待状を卓へ置く。
「人目のある場所。武器の持ち込みは禁止。向こうも、最初から殺し合うつもりではない」
「ですが、五歳のガキが――」
「ガキは案内役だ」
ガルドはドスを見る。
「お前自身がそう聞いた」
「はい」
「市場で牙を買った素材屋も、黒冠商会の使者と取引したと言っている」
「はい」
「神殿書記も使っている」
幹部たちの顔から、少しずつ反論が消えていく。
黒冠商会は存在する。
既に誰も、そこを疑っていない。
問題は、何を目的としているのか。
どれほどの力があるのか。
自分たちを客にするのか、敵にするのか。
その段階へ移っている。
ガルドは白い左目へ触れた。
「嘘なら、俺が見抜く」
「では、明後日」
「ああ」
ガルドの口元が、わずかに上がる。
「黒冠商会とやらの正体を見に行く」
◇
同じ頃。
俺は冒険者ギルドの受付で、残った銀貨を数えていた。
黒冠商会の代表者と、灰鼠団首領の会談。
安全な席。
警備。
周囲の人間。
全てを用意する必要がある。
受付の女性が、料金を告げる。
「東奥の卓を一刻借りて、警備を二人つけるなら銀貨二枚」
手元の銀貨は、エドムへの残金を除けば足りない。
足りないどころか、完全に赤字だ。
黒冠商会は設立二日目にして、資金難へ陥っていた。
「……商売って難しいですね」
俺がつぶやくと、服の影からヴェルゴラが笑った。
『一人で勝手に始めたのであろう』
「笑い事ではありません」
『どうする』
どうするも何も。
明後日までに金を作る。
ガルドと会い。
魔眼を騙し。
灰鼠団をこちらの取引へ引き込む。
その前に、会談場所の使用料を払わなければならない。
我ながら、随分と細い綱の上を歩いている。
怖い。
少し後悔もしている。
昨日の時点で、もっと小さな嘘にしておくべきだったかもしれない。
秘密の商会ではなく、旅の魔術師一人でよかった。
だが。
ノアが作った黒い王冠。
エドムが書いた公証書体。
素材屋が買い取った魔蜘蛛の牙。
灰鼠団が受け取った招待状。
既に黒冠商会は、俺一人の嘘ではない。
多くの人間が、それぞれの役割を持ち始めている。
ここで止める方が難しい。
それに。
正直に言えば、止めたくなかった。
どこまで大きくできるのか。
見てみたい。
「まずは、会場費を作ります」
俺は受付台から離れた。
『方法はあるのか』
「あります」
『何だ』
俺は冒険者ギルドの依頼掲示板を見る。
魔物討伐。
薬草採取。
護衛。
失せ物探し。
賞金首。
五歳児が普通に受けられる依頼はない。
だが、依頼を達成する必要はない。
達成できる人間と、依頼をつなげればいい。
情報には価値がある。
冒険者は仕事を欲しがっている。
依頼主は結果を欲しがっている。
間に入り、両方から少しずつもらう。
「黒冠商会の最初のマージン商売です」
俺は小さく笑った。
「他人の仕事を、他人へ売ります」




