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詐欺転生〜詐欺師は禁術で世界を騙す〜  作者: キラーダミズハ
第一章 詐欺師の第一歩
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3/31

第3話 嘘は証拠と一緒に売れ

暗闇の中で、巨大な金色の瞳が開いた。


先ほどより、明らかに近い。


ガリ。


ガリ。


何かが爪を立て、石の床を削っている。


俺は笑うのをやめた。


「ヴェルゴラ」


『何だ』


「今の虚像は、消えているんですよね?」


『術は既に終了しておる』


「では、あそこにいるのは?」


『貴様の嘘が残した残滓だ』


「説明になっていません」


暗闇の奥で、金色の瞳が細くなる。


洞窟喰らいの魔蜘蛛が恐れていた、正体不明の捕食者。


俺自身は、その姿を知らない。


魔蜘蛛の恐怖に想像させたからだ。


だからこそ、厄介だった。


姿を知らない以上、俺には「あれは存在しない」と完全に否定する材料がない。


あそこに何かいるかもしれない。


そう思った時点で、《虚王顕現》へ餌を与えてしまう。


『虚像は術者と観測者の認識を土台にする』


ヴェルゴラが言った。


『先ほどの魔蜘蛛は、死の間際まで捕食者の存在を信じていた。その認識が、この遺跡に染みついたのであろう』


「放置した場合は?」


『やがて消える』


「本当に?」


『おそらくは』


「信用できない言い方ですね」


『禁術に絶対を求めるな』


便利な言葉だ。


分からないことを、禁術だからで済ませている。


詐欺師が契約書の最後へ「市場環境によって変動する場合があります」と書くのと大して変わらない。


もう一度、闇の中で音がした。


ガリ。


ガリ。


近づいている。


やがて消えるとしても、俺が食われた後では意味がない。


「消す方法は?」


『術者が完全に存在を否定すればよい』


「簡単に言いますね」


『貴様が作った虚像だぞ』


「姿を決めたのは魔蜘蛛です」


『言い訳をするな』


俺は暗闇を見た。


あれはいない。


存在しない。


そう考える。


しかし、否定しようとするたび、頭の中で金色の瞳が浮かぶ。


人間の頭は不便だ。


何かを考えないようにするためには、まずその何かを思い浮かべなければならない。


存在しないと考えるほど、存在の輪郭が強くなる。


「否定するのは無理そうですね」


『では食われるか?』


「別の設定で上書きします」


『何?』


消せないなら、危険ではないものに変えればいい。


俺は胸の中に蓄えた生命力へ意識を向けた。


洞窟喰らいの魔蜘蛛から回収し、保存した一日分。


これを使う。


「お前は捕食者じゃない」


俺は闇へ向かって言った。


金色の瞳が揺れた。


「お前は、この本を守るために作られた影だ」


『そのような設定はないぞ』


ヴェルゴラが小声で言う。


「今、作っています」


『虚像へ嘘をつくつもりか』


「生まれたばかりの存在は、自分が何者か知りません」


人間の子供と同じだ。


最初に与えられた名前。


役割。


常識。


それらを自分自身だと思い込む。


あの影に意思が生まれかけているなら、今が一番騙しやすい。


「お前は本の守護者だ」


俺は黒い本を指した。


「本から離れてはならない」


金色の瞳が、本の方へ動く。


反応した。


「役目を終えれば、表紙の中で眠る」


胸の黒い火が揺れる。


赤い文字が頭へ浮かんだ。


――禁術《虚王顕現》。


――既存の虚像へ、新たな定義を付与。


――必要生命力、人間寿命換算十分。


安い。


既に存在している認識を書き換えるだけだからだろう。


「承認する」


胸に蓄えていた生命力の一部が抜ける。


暗闇の金色の瞳が、ゆっくりと閉じた。


黒い霧のようなものが、奥から這い出てくる。


巨大な獣ではない。


形の定まらない影。


影は俺たちへ近づかず、黒い本の周囲を一周した。


そして、表紙に開いた金色の目へ吸い込まれていく。


最後に、低い唸り声だけが残った。


本の目が閉じる。


静寂。


「……消えました?」


『眠っただけだ』


「守護者として?」


『少なくとも、今はそう信じておる』


成功だ。


俺の嘘を、虚像そのものへ信じ込ませた。


魔物。


人間。


悪魔。


生まれたばかりの影。


信じる心があるなら、相手が何者でもやることは変わらない。


俺は息を吐いた。


緊張が切れ、急に全身が重くなる。


「疲れた」


その場へ座り込む。


洞窟喰らいの魔蜘蛛と戦い。


寿命を担保にして。


さらに正体不明の影を封じた。


今日は五歳の誕生日である。


普通の五歳児なら、甘い菓子でも食べている頃だろう。


俺は悪魔と契約し、牛ほどの蜘蛛を殺し、存在しない怪物へ就職先を与えた。


随分と濃い一日になった。


『情けない顔をするな』


ヴェルゴラが腕を組む。


『我が契約者であろう』


「五歳児へ求めすぎでは?」


『契約交渉の時には年齢を感じさせなかったではないか』


「都合のいい時だけ大人として扱わないでください」


『貴様こそ、都合のいい時だけ五歳児になるな』


言い返せない。


俺は壁へ背を預けた。


今すぐ眠りたい。


だが、帰らなければならない。


マナが心配している。


森の奥へ行くなと言われたのに、誕生日当日に遺跡へ潜り、悪魔と契約した。


正直に話した場合、怒られるだけで済むだろうか。


悪魔の本より、マナの方が怖い可能性がある。


「帰ります」


俺は立ち上がった。


足元がふらつく。


『魔蜘蛛の死体はどうする』


「持って帰れません」


牛ほどの大きさだ。


五歳児一人では、動かすことすらできない。


『牙、甲殻、糸腺。人間の市場で価値があるはずだ』


「相場は?」


『知らぬ』


「役に立ちませんね」


『我は数百年封印されていたのだぞ!』


それなら仕方がない。


俺は洞窟喰らいの魔蜘蛛の死体を調べた。


黒い甲殻は硬い。


素手では剥がせない。


牙の根元を、床に落ちていた石で何度も叩く。


一度。


二度。


十度。


腕が痛い。


五歳児の力では時間がかかる。


「ヴェルゴラ、手伝ってください」


『契約にない』


「生命力を分けませんよ」


『……どこを叩けばよい』


分かりやすい。


ヴェルゴラが黒い炎を細く伸ばし、牙の根元を焼いた。


接合部分が脆くなる。


俺が石を叩きつけると、太い牙が一本外れた。


俺の腕より長い。


先端は鋭く、短剣の代わりにもなりそうだ。


さらに牙の根元から、小さな破片を三つ割り取った。


大きな牙は売るか、武器にする。


小さな破片は証拠として使える。


何の証拠かは、まだ決めていない。


だが、証拠は多い方がいい。


人間は言葉だけなら疑う。


証拠が一つあれば、話を聞く。


二つあれば、自分で意味をつなげる。


三つあれば、こちらが説明しなくても信じ始める。


俺は大きな牙を引きずり、遺跡の出口へ向かった。


◇


穴から地上へ出る頃には、空が赤く染まり始めていた。


夕方だ。


想像以上に長く地下へいたらしい。


冷たい風が顔へ当たる。


土の匂い。


木々の音。


普通の森。


それだけで安心する。


生きて帰ってきた。


思わず笑いそうになった。


地面へ寝転がりたい。


しかし、ここからスラムまで歩かなければならない。


しかも、洞窟喰らいの魔蜘蛛の牙を引きずって。


「重い」


『置いていけばよかろう』


「価値があるかもしれない」


『相場も知らぬのに?』


「知らないから持って帰るんです」


価値を知らない物を捨てるのは、一番もったいない。


前世では、古びた帳簿の一行から数十億円の隠し資産を見つけたことがある。


何が金になるかは、調べるまで分からない。


俺は牙の根元へ蔦を巻きつけ、肩へかけた。


少しだけ運びやすくなる。


それでも重い。


身体が成長したら、まず体力をつけよう。


頭脳戦にも最低限の筋力は必要だ。


森を半分ほど戻ったところで、人の声が聞こえた。


「こっちに入ったのは間違いねえんだな?」


「見たって言ってるだろ。黒髪のガキだ」


男の声。


三人。


木々の隙間から、灰色の布を腕へ巻いた男たちが見える。


灰鼠団。


スラムで保護費を集めている犯罪組織だ。


連中の顔は知っている。


向こうも俺を知っている。


市場の荷運びで稼いだ銅貨を、何度か奪われた。


俺は足を止めた。


最悪だ。


逃げるか。


牙を置けば、森の中なら隠れられる。


だが、既に相手は近い。


動けば音が出る。


こちらが先に見つけたことを利用する方がいい。


俺は周囲を見る。


木。


茂み。


夕方の薄暗さ。


使える。


「ヴェルゴラ」


『何だ』


「黒い王冠の紋章を作れますか?」


『紋章?』


「王冠の中央に金色の目。その周囲を、切れた鎖で囲む」


頭の中に形を作る。


『何に使う』


「商会を作ります」


『今からか?』


「今、必要になったので」


まず名前。


黒い本。


黒い悪魔。


王を象徴する王冠。


鎖は封印と解放。


"黒冠商会”。


悪くない。


自分でも少し気に入った。


もっと時間があれば候補を十個ほど考えたかったが、灰鼠団の男たちが近づいている。


社名会議を開いている暇はない。


「牙の根元へ紋章を」


胸の中の生命力へ触れる。


――《虚王顕現》。


――洞窟喰らいの魔蜘蛛の牙へ、黒冠商会の紋章を顕現。


――維持条件、紋章を組織の正式な刻印だと認識する者が存在すること。


――必要生命力、人間寿命換算五分。


「承認」


牙の根元へ、黒い王冠が浮かび上がった。


中央に金色の目。


周囲には切れた鎖。


古代の焼き印のように、表面へ深く刻まれている。


俺自身がこれは本物の商会印だと思う必要はない。


この後、灰鼠団の男たちが信じる。


それを信じる。


「次に、あの三人の背後へ大きな足音を」


『また虚像を使うのか』


「姿は見せません。音と気配だけです」


――必要生命力、人間寿命換算十五分。


「承認」


準備は終わった。


俺は逃げるのをやめ、堂々と道へ出た。


「いたぞ!」


灰鼠団の男が叫ぶ。


三人がこちらへ歩いてくる。


先頭はドスという男。


三十歳前後。


太い腕。


無精ひげ。


頭は悪くないが、短気。


酒に弱い。


スラムでは有名だ。


俺はこの街を知らないわけではない。


五年間、生きるために調べ続けた。


灰鼠団が集金する曜日。


賭場の場所。


盗品を買う商人。


誰が誰と仲が悪いか。


大まかなことは知っている。


ただし、組織内部の細かな人間関係や、最近の動きまでは分からない。


それを調べるためには、俺以外の目と耳が必要になる。


それは後で考える。


今は三人を騙す。


「こんな時間まで森で何をしてやがった」


ドスが俺を見下ろす。


「仕事です」


「仕事?」


彼の目が、俺の後ろにある牙へ向いた。


表情が変わる。


「何だ、それ」


「見れば分かるでしょう」


「魔物の牙か?」


「触らない方がいいですよ」


ドスの手が止まった。


「なぜだ」


「所有権が俺にないので」


「誰の物だ」


「契約上、お答えできません」


ドスの眉が寄る。


後ろの二人が笑った。


「ガキが契約だとよ」


「どこかから盗んだんだろ」


「なら、あなた方が持っていけばいい」


俺は蔦を肩から外した。


牙が地面へ落ちる。


重い音が森へ響いた。


三人は顔を見合わせる。


子供が必死に守ろうとすれば、連中は奪う。


こちらから差し出せば、理由を考える。


「いいのか?」


「俺は止めました」


ドスが牙へ手を伸ばす。


その指が、黒い王冠の紋章へ近づく。


金色の目が一瞬だけ光った。


ドスが手を引いた。


「今、動いたぞ」


「何が?」


「この目だ」


俺は紋章を見る。


驚いたふりはしない。


知っているのが当然という顔をする。


「ああ」


「何だ、その印は」


「知らないんですか?」


人間は、自分だけが知らないと思わされると弱い。


特に、裏社会の人間は情報不足を嫌う。


ドスは答えない。


後ろの二人も黙る。


「黒冠商会」


俺は、初めてその名を口にした。


「この商会が王都へ来てるって言うのか?」


ドスが聞く。


疑う声ではない。


知らない組織の情報を得ようとする声だ。


既に半分信じている。


「それを俺に聞きます?」


俺はわざと周囲を確認する。


「聞かなかったことにしてください」


「待て」


ドスが俺の肩をつかもうとする。


俺は動かない。


その瞬間。


三人の背後で、太い枝が折れた。


バキン。


全員が振り返る。


木々の奥から、重い足音が聞こえる。


ズシン。


ズシン。


大きな何かが、ゆっくり近づいてくる。


姿は見えない。


夕闇。


木の陰。


見えないからこそ、三人は勝手に想像する。


「何だ」


後ろの男が声を震わせる。


俺は小さく息を吐いた。


「回収役です」


「回収役?」


「牙を勝手に持ち帰ろうとしたので、確認に来たのでしょう」


足音が一歩近づく。


地面がかすかに揺れる。


実際には揺れていない。


だが、三人が揺れたと信じれば、足元に振動を感じる。


「どんな魔物だ」


ドスが聞く。


「魔物?」


俺は首をかしげる。


「黒冠商会の回収役ですよ」


人間だとは言っていない。


魔物ではないとも言っていない。


三人の顔が青ざめる。


勝手に、魔物より恐ろしい何かを想像している。


「俺は、この牙を運ぶよう頼まれただけです」


これは嘘だ。


だが、声も表情も揺らさない。


「森とスラムの道を知っているから」


これは本当だ。


「あなた方へ話してよいことは、何もありません」


これも本当。


まだ黒冠商会には、話せる情報などない。


ドスが牙の紋章を見る。


金色の目。


切れた鎖。


正体不明の回収役。


洞窟喰らいの魔蜘蛛の牙。


証拠は十分だ。


人間は、説明を増やすほど疑う。


だから、ここからは相手に考えさせる。


「この魔物を倒したのは」


ドスが言う。


「黒冠商会の魔術師か?」


俺は答えなかった。


ただ、少しだけ笑う。


沈黙は、相手が欲しい答えを勝手に入れてくれる。


三人は今の笑みを肯定と受け取った。


「お前は、その商会の人間なのか?」


「俺は案内を頼まれただけです」


嘘と本当を混ぜる。


黒冠商会の人間であると言い切れば、五歳児であることに疑問を持たれる。


案内役なら自然だ。


スラム育ちの子供が、森や裏道に詳しいことも不思議ではない。


「案内だけで、こんな物を持たせるのか」


「なくなって困るのは、俺ではありませんから」


三人が、森の奥を見た。


足音がまた響く。


ズシン。


「分かった」


ドスが牙から離れる。


完全に信じた。


さらに一押し。


「今夜のことは、首領にだけお伝えください」


「なぜだ」


「商会は、王都で取引相手を探しています」


三人の顔が変わる。


恐怖だけでは、人間は動かない。


利益を見せる。


「灰鼠団の名前も候補に挙がっていました」


「本当か?」


食いついた。


「候補です」


「何の取引だ」


「俺が聞かされると思います?」


五歳児の案内役。


その立場を利用する。


知らないことが自然になる。


同時に、俺の背後には大きな組織があると信じ込ませられる。


「首領へ、どう伝えればいい」


「黒冠商会の案内役と森で会った」


俺は牙を指す。


「洞窟喰らいの魔蜘蛛を処理した者たちが、王都にいる」


そして、少し間を置く。


「灰鼠団を見ている、と」


ドスが唾を飲み込んだ。


「商会は、スラムにも来るのか?」


「三日以内」


今決めた。


三日あれば、何か用意できる。


できなければ困るが、今ここで奪われるよりはいい。


「首領が会いたいと言ったら?」


「こちらから連絡します」


「どうやって」


俺は紋章へ視線を向ける。


「必要なら、向こうから見つけます」


足音がさらに近づく。


三人はもう森にいたくないらしい。


「行くぞ」


ドスが仲間へ言った。


「牙は?」


「触るな」


先ほどまで奪おうとしていた男が、自分から止めた。


素晴らしい。


自分で下した判断は、他人に言われたことより強く信じる。


三人は森の出口へ急ぐ。


途中、ドスが振り返った。


「ガキ」


「何です?」


「黒冠商会は、灰鼠団を敵と見てるのか」


「まだ、値段をつけていません」


「値段?」


「敵にするか、客にするか」


俺は微笑んだ。


「価値を調べてから決めるそうです」


ドスは何も言わず、森を去った。


足音が遠ざかる。


完全に見えなくなってから、俺はその場へ座り込んだ。


「……疲れた」


『随分と大きな組織へ所属しておるのだな』


ヴェルゴラが言う。


「今日設立しました」


『構成員は』


「俺とあなた」


『我を勝手に入れるな!』


「では俺一人です」


『取引実績は』


「今から作ります」


『代表者は』


「俺です」


『三日後に来る代表も?』


「俺です」


ヴェルゴラはしばらく黙った。


『五歳児が、五歳児の案内で現れるのか』


「それは不自然ですね」


三日で別人を作る必要がある。


大人の姿。


話し方。


衣装。


証拠。


拠点。


考えるだけで頭が痛い。


なのに、少し楽しい。


危険な綱渡り。


一歩間違えれば、灰鼠団に殺される。


それでも、自分の嘘が三人の大人を動かした。


この感覚は癖になる。


前世でも、そうだった。


「何とかします」


俺は再び牙を引きずり始めた。


「三日もありますから」


『五歳児とは思えぬ楽観だな』


「悲観して牙が軽くなるなら、いくらでも悲観しますよ」


◇


共同寝床へ戻った時には、完全に日が暮れていた。


入口の前に、マナが立っている。


俺の姿を見ると、駆け寄ってきた。


「クライ!」


抱きしめられる。


洞窟喰らいの牙より強い。


「苦しいです」


「どこへ行ってたの!」


「森です」


「奥には行かないって約束したでしょう!」


「奥には行ってません」


「そういう問題じゃない!」


完全に怒っている。


目には涙が浮かんでいた。


心配させた。


胸が痛む。


灰鼠団の男を騙した時とは違う痛みだ。


あの連中には、何を信じさせても何も感じない。


だが、マナへ嘘をつくのは少し苦しい。


正直に話すか。


遺跡。


禁術の本。


悪魔。


魔蜘蛛。


言えるわけがない。


マナを危険へ巻き込む。


禁術の存在が広まれば、王族や神殿が動くかもしれない。


彼女は嘘が上手くない。


尋問されれば、隠し通せない。


何も知らない方が安全だ。


これは言い訳だろうか。


たぶん、半分は。


残り半分は、悪魔と契約したと知られて嫌われるのが怖い。


マナは優しい。


それでも、禁術使いを化け物だと思うかもしれない。


俺を捨てるかもしれない。


そう考えると、真実を話せなかった。


「森で、魔物に追われました」


俺は言った。


これは本当だ。


マナの顔が青ざめる。


「怪我は?」


「ありません」


胸の直前まで脚が来たが、触れてはいない。


これも本当。


「旅の魔術師に助けてもらいました」


嘘。


ただし、証拠はある。


俺は洞窟喰らいの牙を見せた。


マナが息を呑む。


「これを、その人が?」


「洞窟喰らいの魔蜘蛛を倒してもらいました」


主語は口にしない。


実際に倒したのは俺だ。


マナは、旅の魔術師が倒したのだと受け取る。


「俺が森とスラムの道を知っていると話したら、荷物を運ぶ仕事を頼まれました」


森とスラムの道を知っているのは本当。


仕事を頼んだのは俺自身。


相手が誤解しやすいように並べただけだ。


マナは牙の紋章を見る。


黒い王冠。


金色の目。


切れた鎖。


「その人の印?」


「商会の印だそうです」


俺がそう決めたのだから、嘘ではない。


少なくとも今は。


「危ない人たちじゃないの?」


「俺を魔物から助けて、仕事の報酬までくれる人たちです」


まだ報酬は受け取っていない。


だが牙を売れば金になる。


将来の報酬まで含めれば、完全な嘘とは言い切れない。


「だから、心配しなくても大丈夫です」


マナは紋章と俺の顔を交互に見る。


疑っているのではない。


状況を理解しようとしている。


やがて、深く息を吐いた。


「本当に、怖い人じゃないのね?」


「俺を助けたのは本当です」


俺自身が俺を助けた。


かなり苦しい。


だが、声には出さない。


「分かった」


マナは俺の頭を抱き寄せた。


「助けてもらったことには感謝する。でも、もう一人で森の奥へ行っちゃ駄目」


「善処します」


「行かないって言って」


「……行きません」


今度は、はっきり嘘をついた。


必要があれば、遺跡へ戻る。


禁術の大百科を置いてきている。


それでも、今はマナを安心させたかった。


彼女の身体から力が抜ける。


本当に信じた。


罪悪感が残った。


嘘をつくこと自体には慣れている。


相手の金を奪い。


秘密を聞き出し。


望む方向へ動かす。


何度もやった。


だが、自分を心配している人間へ嘘をつくのは、少し違う。


守るための嘘だと、自分へ言い聞かせる。


それでも気分がいいものではない。


「クライ!」


共同寝床の中から、女の子が飛び出してきた。


薄い栗色の髪。


肩より少し長く、片側だけを細い三つ編みにしている。


大きな青緑色の瞳。


年齢は十歳。


名前はノア。


共同寝床の年長組で、小さな子供たちの面倒をよく見ている。


明るく、話し好き。


市場の店主や洗濯場の女たちにも可愛がられている。


スラムのことをよく知っているが、本人は、自分が情報を集めているつもりなどない。


だが、人に好かれる子供の周囲には、自然と話が集まる。


俺が持っていない種類の才能だった。


ノアは俺の前まで走ってくると、頬を膨らませた。


「もう! どこに行ってたのよ!」


「森です」


「それはマナさんから聞いたわ。そうじゃなくて、どうしてこんなに遅くなったの?」


「仕事をしていました」


「仕事?」


ノアの目が、牙へ向く。


「何、それ……」


「洞窟喰らいの魔蜘蛛の牙です」


「魔蜘蛛!?」


声が裏返る。


市場近くの子供でも名前くらいは知っている魔物だ。


鉱山や洞窟へ巣を作り、冒険者を襲う。


子供が近づいて生きて帰れる相手ではない。


「クライが倒したの?」


一瞬、正直に言いたくなった。


倒した。


俺が。


悪魔の力を借りたとはいえ、俺の嘘で倒した。


少しくらい自慢したい。


すごいと言われたい。


五歳児らしい承認欲求なのか。


前世から持っていた性格なのかは分からない。


だが、言えない。


「まさか」


俺は笑った。


「旅の魔術師が倒しました」


ノアはすぐに信じた。


当然だ。


五歳児が倒した話より、旅の魔術師が倒した話の方が自然である。


「その人に助けてもらったの?」


「ええ。ついでに荷物運びを頼まれました」


「だから遅かったのね」


「そういうことです」


ノアは安心したように胸へ手を当てた。


それから、俺の服についた土や蜘蛛の体液を見て、眉を下げる。


「でも、怖かったでしょう?」


その言葉だけで、胸の奥を見られた気がした。


嘘を見破られたわけではない。


事実を当てられただけだ。


怖かった。


死ぬと思った。


今も思い出すと手が冷たくなる。


格好をつけて否定しようとした。


だが、やめた。


「……少しだけ」


「少し?」


「かなり」


正直に言うと、ノアは柔らかく笑った。


「じゃあ、今日はわたしが隣で寝てあげる」


「必要ありません」


「遠慮しなくていいの」


「寝相が悪いので嫌です」


「クライよりはいいもん」


女の子らしく頬を膨らませる。


俺はロリコンではないが、可愛い。


本人には言わないけど。


調子に乗りそうだから。


ノアは牙の紋章を指した。


「黒い王冠。すごく格好いいね」


「黒冠商会というそうです」


「その魔術師さんの商会?」


「ええ」


「王都にお店があるの?」


「普通の店ではないそうです」


説明しすぎない。


灰鼠団へ売った物語と食い違わないよう、情報をそろえる。


「魔物の素材や、珍しい品を扱う秘密の商会です」


今のところ、扱っている素材は洞窟喰らいの牙一本だけ。


それでも嘘ではない。


秘密であることも間違いない。


俺以外は誰も知らないのだから。


ノアの瞳が輝いた。


「秘密の商会……ちょっと素敵かも!」


「危険ですよ」


「でも、クライはお仕事をもらったんでしょう?」


「案内役を少し」


「すごいじゃない!」


ノアは本気で喜んでいる。


俺が働き口を得たと思っている。


「これで、食べ物を買えるようになるかもしれないね」


「まだ分かりません」


「クライなら大丈夫よ!」


無条件に信じられると、少し居心地が悪い。


前世では、俺を信じる人間は全員、騙す対象だった。


今もノアを騙している。


それなのに、彼女の期待を裏切りたくないと思う。


面倒だ。


人間関係というものは、金より扱いにくい。


「ノア」


「なあに?」


「手伝ってほしいことがあります」


「お仕事!?」


すぐに食いついた。


「黒冠商会が、スラムの商売相手を調べています」


「…灰鼠団とか?」


勘がいい。


だが、嘘を見抜いたわけではない。


スラムで商売するなら、灰鼠団を避けられないと知っているだけだ。


「それも含みます」


「クライは街のこと、詳しいでしょう?」


「大まかなことは知っています」


俺は答えた。


「灰鼠団がどこで集金するか。賭場はどこか。どの商人が盗品を買うか。その程度なら」


五年間、生きるために調べた。


「でも、最近誰と会っているか。誰が薬を買ったか。どの手下が首領へ不満を持っているか。そういう細かい情報までは分かりません」


俺が近づけば警戒される相手もいる。


男同士では話さないことを、洗濯場の女たちが知っている場合もある。


幼い子供たちは、年上のノアにだけ秘密を話す。


「ノアは市場の人たちと仲がいい」


「お買い物を手伝ってるからね!」


「洗濯場の人たちにも」


「よくお喋りするわ!」


「子供たちからも好かれている」


ノアが少し照れた。


「まあ、それなりに?」


分かりやすい。


「俺には集められない話を、ノアなら聞けます」


「わたしにしかできないお仕事?」


「そうです」


ノアの顔が明るくなる。


誰かに必要とされることが嬉しいらしい。


「やる!」


即答。


「内容を聞いてから決めなくていいんですか?」


「クライのお仕事なら、危ないことはさせないでしょう?」


信じ切っている。


胸が少し痛い。


その信頼を利用しようとしている。


だが、危険なことをさせる気はない。


そこだけは本当だ。


「灰鼠団の近くへ直接行く必要はありません」


俺は言った。


「市場や洗濯場で、最近の噂を聞くだけです。怪しいと思ったら、すぐに離れる」


「分かったわ!」


「誰かに目的を聞かれたら?」


「クライに頼まれたって言う?」


「駄目です」


「じゃあ、あんまり灰鼠団と会いたくないから〜とか?」


「それで」


ノアは少し考え、楽しそうに笑う。


「秘密のお仕事ね!」


「商会の情報ですから」


「わたしも黒冠商会の人になれる?」


「まだ正式には」


少し考える。


黒冠商会には構成員が必要だ。


ただしノアへ、存在しない組織だと明かすつもりはない。


彼女は黒冠商会を本物だと信じている。


その方がいい。


信じる人間が増えれば、《虚王顕現》の力も強くなる。


それだけではない。


知らない方が、ノアは自然に振る舞える。


嘘を演じる必要がない。


「王都臨時調査員」


俺は言った。


「それがノアの役目です」


「臨時調査員……!」


響きが気に入ったらしい。


青緑色の瞳が輝く。


「格好いい!」


「仕事内容は噂話を聞くことですが」


「それでも格好いいの!」


ノアは小声で何度も繰り返す。


「黒冠商会、王都臨時調査員のノア……!」


かなり嬉しそうだ。


少しだけ、こちらまで嬉しくなる。


組織を作る。


前世でも何度も作った。


だが、仲間が役職名だけでこんなに喜んだことはない。


金。


権限。


成功報酬。


それが前世の組織をつないでいた。


今は、食事もろくにない十歳の少女が、名前を与えられただけで笑っている。


安く雇えた。


そう考えるべきだ。


なのに。


この笑顔を守るためなら、少しくらい高い報酬を払ってもいいと思った。


「報酬は?」


ノアが尋ねる。


やはり、きちんと考えていたらしい。


「働いた日は食事を一回追加」


「二回」


「一回です」


「一回と、甘い物」


「高い」


「じゃあ、三日に一回だけ甘い物」


交渉を覚えている。


悪くない。


「情報の質によります」


「質がよかったら?」


「三日に一回、甘い物」


「約束ね!」


ノアが小指を差し出した。


子供の約束。


前世の俺なら笑っていた。


契約書もない。


違約金もない。


何の強制力もない。


それでも、俺は小指を絡めた。


「約束です」


破るつもりはなかった。


◇


食事を終えた頃。


共同寝床の扉が叩かれた。


室内の空気が固まる。


この時間に訪ねてくる者は少ない。


老婆が扉の隙間から外を見る。


顔が強張った。


「灰鼠団だよ」


マナが俺の肩を抱く。


ノアも不安そうに近づいた。


俺は立ち上がる。


来るのが早い。


森で会ったドスだろう。


首領へ報告し、その返事を持ってきた。


「俺が出ます」


「駄目」


マナが止める。


「灰鼠団が相手よ!」


「さっきの商会の仕事に関係があります」


マナの手が止まる。


この言葉だけで、灰鼠団が黒冠商会を恐れている可能性を想像する。


彼女は俺の話を信じている。


「危なくないの?」


「商会の名前を出した俺へ、向こうから手を出すことはありません」


これは予測だ。


だが、自信を持って言う。


マナは迷い、最後には手を離した。


「絶対に、扉の外へ行かないで」


「分かりました」


今度は守れる約束だ。


老婆が扉を開く。


外にいたのは、やはりドスだった。


森にいた時とは態度が違う。


俺を見ても笑わない。


室内へ入ろうともしない。


入口で立ち止まる。


「ガキ」


「何でしょう」


ドスは周囲を見る。


マナ。


ノア。


子供たち。


それから声を落とした。


「首領へ話した」


「反応は?」


「黒冠商会の名は知らなかった」


当然だ。


今日できた組織なのだから。


だがドスの顔には、疑いがない。


知らなかったことを、自分たちの情報不足だと解釈している。


「牙の破片も見せた」


俺が森で渡した小さな破片だ。


「素材を扱う店で調べた。間違いなく洞窟喰らいの魔蜘蛛の牙だそうだ」


物理的な証拠。


「しかも、このぶ厚さの破片の個体は、王都周辺では何十年も確認されていない」


希少性までついた。


俺の嘘へ、店の鑑定士が新しい価値を加えた。


素晴らしい。


「首領は、黒冠商会を取引相手として検討する」


ドスが言う。


マナが小さく息を呑む。


ノアの顔が輝く。


二人とも、黒冠商会が本当に灰鼠団から一目置かれる組織なのだと確信した。


俺は表情を変えない。


「検討するのはこちらです」


「そう伝えた」


ドスは不満そうだった。


だが反論しない。


灰鼠団より上の立場にいる組織。


そう思い込んでいる。


「首領ガルド・ロウが、商会の代表と会いたがっている」


来た。


「いつ?」


「三日後の日没」


「場所は?」


「灰鼠団の拠点。古い染物工房だ」


相手の拠点。


逃げ道を塞がれる。


条件が悪い。


「場所はこちらで指定します」


ドスの眉が動く。


「首領を呼び出すつもりか」


「会いたいのは、そちらでしょう?」


ドスは黙った。


「明日までに連絡します」


「どうやって」


「商会には商会の方法があります」


俺は彼の腕を見る。


森で《虚王顕現》によって一時的につけた、黒い王冠の印。


まだ薄く残っている。


ドス自身が正式な契約印だと信じ続けているため、消えていない。


俺はその印を指した。


「必要なら、印が知らせます」


ドスの顔が引きつった。


完全に信じた。


「分かった」


彼は俺へ、小さな灰色の硬貨を差し出した。


灰鼠団の構成員が、身分証代わりに持つ印だ。


「首領へ会う時に見せろ」


俺は受け取る。


「預かります」


ドスは帰ろうとした。


そこで足を止める。


「一つ聞いていいか」


「内容によります」


「森にいた、回収役」


彼の声がわずかに震えた。


「あれは何だ」


俺は少し考えるふりをした。


「知らない方が、長生きできますよ」


ドスの顔から血の気が引く。


「……そうか」


それ以上聞かず、夜のスラムへ消えていった。


扉が閉まる。


室内は静まり返っていた。


最初に声を出したのはノアだった。


「クライ!」


「何です?」


「本当に、すごい商会なのね!」


「俺は最初から、そう説明しています」


「灰鼠団の首領が、向こうから会いたいなんて!」


彼女は完全に信じている。


マナも同じだった。


心配そうではある。


だが、俺が危険な嘘をついて灰鼠団を呼び寄せたとは思っていない。


大きな商会に雇われ、案内役を任された。


その商会が灰鼠団との取引を検討している。


そう理解している。


「でも」


マナが言う。


「クライは、商談には行かないのよね?」


「俺は案内役ですから」


安心させるように答える。


これも、今後の役割次第では嘘ではない。


「代表の人が来るんでしょう?」


ノアが尋ねる。


「ええ」


「どんな人?」


「まだ会ったことはありません」


俺自身が、これから作る人間だ。


だから本当に会ったことはない。


「きっと、すごく強い魔術師ね!」


ノアは楽しそうに想像している。


黒い外套。


恐ろしい魔法。


顔を隠した謎の商人。


彼女の想像が、《虚王顕現》の材料になる。


マナも、共同寝床の子供たちも、同じような人物を思い浮かべ始めていた。


黒冠商会。


その代表者。


まだ存在しない。


だが、既に複数の人間が存在を信じている。


あとは、形を与えるだけだ。


「ねぇ」


ノアが俺の袖を引いた。


「その代表の人に、わたしのことも話してくれる?」


「何をです?」


「王都臨時調査員になったこと!」


誇らしそうな顔。


可愛い。


少し困る。


代表者は俺だ。


つまり俺が、俺からノアの話を聞くことになる。


「もちろん」


俺は答えた。


「優秀な人材だと伝えておきます」


ノアが満面の笑みを浮かべる。


「本当?」


「ええ」


これは嘘ではない。


彼女は優秀だ。


俺が知らない情報を集められる。


人に好かれる。


そして、今のところ俺を心から信じている。


その信頼を、絶対に裏切らない。


そんな綺麗な約束はできない。


必要なら嘘をつく。


利用もする。


ただし。


彼女が俺を信じたことを、後悔するような結果にはしたくない。


それくらいなら思えた。


「さて」


俺は灰鼠団の硬貨を指で転がす。


三日後。


嘘を見抜く魔眼を持つという首領、ガルド・ロウ。


黒冠商会の代表者との会談。


問題は一つ。


その代表者が、まだこの世に存在しないことだ。


五歳の俺が、そのまま現れるわけにはいかない。


大人の身体。


低い声。


商人らしい衣装。


圧倒的な背景。


そして、魔眼でも嘘と断定できない言葉。


全部、三日で用意する。


ヴェルゴラが服の中から、小さな声で尋ねた。


『どうするつもりだ』


俺はノアとマナに聞こえないよう答える。


「簡単です」


もちろん、簡単ではない。


少し言ってみたかっただけだ。


俺は灰色の硬貨を握りしめた。


「存在しない大人を、一人作ります」

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