第3話 嘘は証拠と一緒に売れ
暗闇の中で、巨大な金色の瞳が開いた。
先ほどより、明らかに近い。
ガリ。
ガリ。
何かが爪を立て、石の床を削っている。
俺は笑うのをやめた。
「ヴェルゴラ」
『何だ』
「今の虚像は、消えているんですよね?」
『術は既に終了しておる』
「では、あそこにいるのは?」
『貴様の嘘が残した残滓だ』
「説明になっていません」
暗闇の奥で、金色の瞳が細くなる。
洞窟喰らいの魔蜘蛛が恐れていた、正体不明の捕食者。
俺自身は、その姿を知らない。
魔蜘蛛の恐怖に想像させたからだ。
だからこそ、厄介だった。
姿を知らない以上、俺には「あれは存在しない」と完全に否定する材料がない。
あそこに何かいるかもしれない。
そう思った時点で、《虚王顕現》へ餌を与えてしまう。
『虚像は術者と観測者の認識を土台にする』
ヴェルゴラが言った。
『先ほどの魔蜘蛛は、死の間際まで捕食者の存在を信じていた。その認識が、この遺跡に染みついたのであろう』
「放置した場合は?」
『やがて消える』
「本当に?」
『おそらくは』
「信用できない言い方ですね」
『禁術に絶対を求めるな』
便利な言葉だ。
分からないことを、禁術だからで済ませている。
詐欺師が契約書の最後へ「市場環境によって変動する場合があります」と書くのと大して変わらない。
もう一度、闇の中で音がした。
ガリ。
ガリ。
近づいている。
やがて消えるとしても、俺が食われた後では意味がない。
「消す方法は?」
『術者が完全に存在を否定すればよい』
「簡単に言いますね」
『貴様が作った虚像だぞ』
「姿を決めたのは魔蜘蛛です」
『言い訳をするな』
俺は暗闇を見た。
あれはいない。
存在しない。
そう考える。
しかし、否定しようとするたび、頭の中で金色の瞳が浮かぶ。
人間の頭は不便だ。
何かを考えないようにするためには、まずその何かを思い浮かべなければならない。
存在しないと考えるほど、存在の輪郭が強くなる。
「否定するのは無理そうですね」
『では食われるか?』
「別の設定で上書きします」
『何?』
消せないなら、危険ではないものに変えればいい。
俺は胸の中に蓄えた生命力へ意識を向けた。
洞窟喰らいの魔蜘蛛から回収し、保存した一日分。
これを使う。
「お前は捕食者じゃない」
俺は闇へ向かって言った。
金色の瞳が揺れた。
「お前は、この本を守るために作られた影だ」
『そのような設定はないぞ』
ヴェルゴラが小声で言う。
「今、作っています」
『虚像へ嘘をつくつもりか』
「生まれたばかりの存在は、自分が何者か知りません」
人間の子供と同じだ。
最初に与えられた名前。
役割。
常識。
それらを自分自身だと思い込む。
あの影に意思が生まれかけているなら、今が一番騙しやすい。
「お前は本の守護者だ」
俺は黒い本を指した。
「本から離れてはならない」
金色の瞳が、本の方へ動く。
反応した。
「役目を終えれば、表紙の中で眠る」
胸の黒い火が揺れる。
赤い文字が頭へ浮かんだ。
――禁術《虚王顕現》。
――既存の虚像へ、新たな定義を付与。
――必要生命力、人間寿命換算十分。
安い。
既に存在している認識を書き換えるだけだからだろう。
「承認する」
胸に蓄えていた生命力の一部が抜ける。
暗闇の金色の瞳が、ゆっくりと閉じた。
黒い霧のようなものが、奥から這い出てくる。
巨大な獣ではない。
形の定まらない影。
影は俺たちへ近づかず、黒い本の周囲を一周した。
そして、表紙に開いた金色の目へ吸い込まれていく。
最後に、低い唸り声だけが残った。
本の目が閉じる。
静寂。
「……消えました?」
『眠っただけだ』
「守護者として?」
『少なくとも、今はそう信じておる』
成功だ。
俺の嘘を、虚像そのものへ信じ込ませた。
魔物。
人間。
悪魔。
生まれたばかりの影。
信じる心があるなら、相手が何者でもやることは変わらない。
俺は息を吐いた。
緊張が切れ、急に全身が重くなる。
「疲れた」
その場へ座り込む。
洞窟喰らいの魔蜘蛛と戦い。
寿命を担保にして。
さらに正体不明の影を封じた。
今日は五歳の誕生日である。
普通の五歳児なら、甘い菓子でも食べている頃だろう。
俺は悪魔と契約し、牛ほどの蜘蛛を殺し、存在しない怪物へ就職先を与えた。
随分と濃い一日になった。
『情けない顔をするな』
ヴェルゴラが腕を組む。
『我が契約者であろう』
「五歳児へ求めすぎでは?」
『契約交渉の時には年齢を感じさせなかったではないか』
「都合のいい時だけ大人として扱わないでください」
『貴様こそ、都合のいい時だけ五歳児になるな』
言い返せない。
俺は壁へ背を預けた。
今すぐ眠りたい。
だが、帰らなければならない。
マナが心配している。
森の奥へ行くなと言われたのに、誕生日当日に遺跡へ潜り、悪魔と契約した。
正直に話した場合、怒られるだけで済むだろうか。
悪魔の本より、マナの方が怖い可能性がある。
「帰ります」
俺は立ち上がった。
足元がふらつく。
『魔蜘蛛の死体はどうする』
「持って帰れません」
牛ほどの大きさだ。
五歳児一人では、動かすことすらできない。
『牙、甲殻、糸腺。人間の市場で価値があるはずだ』
「相場は?」
『知らぬ』
「役に立ちませんね」
『我は数百年封印されていたのだぞ!』
それなら仕方がない。
俺は洞窟喰らいの魔蜘蛛の死体を調べた。
黒い甲殻は硬い。
素手では剥がせない。
牙の根元を、床に落ちていた石で何度も叩く。
一度。
二度。
十度。
腕が痛い。
五歳児の力では時間がかかる。
「ヴェルゴラ、手伝ってください」
『契約にない』
「生命力を分けませんよ」
『……どこを叩けばよい』
分かりやすい。
ヴェルゴラが黒い炎を細く伸ばし、牙の根元を焼いた。
接合部分が脆くなる。
俺が石を叩きつけると、太い牙が一本外れた。
俺の腕より長い。
先端は鋭く、短剣の代わりにもなりそうだ。
さらに牙の根元から、小さな破片を三つ割り取った。
大きな牙は売るか、武器にする。
小さな破片は証拠として使える。
何の証拠かは、まだ決めていない。
だが、証拠は多い方がいい。
人間は言葉だけなら疑う。
証拠が一つあれば、話を聞く。
二つあれば、自分で意味をつなげる。
三つあれば、こちらが説明しなくても信じ始める。
俺は大きな牙を引きずり、遺跡の出口へ向かった。
◇
穴から地上へ出る頃には、空が赤く染まり始めていた。
夕方だ。
想像以上に長く地下へいたらしい。
冷たい風が顔へ当たる。
土の匂い。
木々の音。
普通の森。
それだけで安心する。
生きて帰ってきた。
思わず笑いそうになった。
地面へ寝転がりたい。
しかし、ここからスラムまで歩かなければならない。
しかも、洞窟喰らいの魔蜘蛛の牙を引きずって。
「重い」
『置いていけばよかろう』
「価値があるかもしれない」
『相場も知らぬのに?』
「知らないから持って帰るんです」
価値を知らない物を捨てるのは、一番もったいない。
前世では、古びた帳簿の一行から数十億円の隠し資産を見つけたことがある。
何が金になるかは、調べるまで分からない。
俺は牙の根元へ蔦を巻きつけ、肩へかけた。
少しだけ運びやすくなる。
それでも重い。
身体が成長したら、まず体力をつけよう。
頭脳戦にも最低限の筋力は必要だ。
森を半分ほど戻ったところで、人の声が聞こえた。
「こっちに入ったのは間違いねえんだな?」
「見たって言ってるだろ。黒髪のガキだ」
男の声。
三人。
木々の隙間から、灰色の布を腕へ巻いた男たちが見える。
灰鼠団。
スラムで保護費を集めている犯罪組織だ。
連中の顔は知っている。
向こうも俺を知っている。
市場の荷運びで稼いだ銅貨を、何度か奪われた。
俺は足を止めた。
最悪だ。
逃げるか。
牙を置けば、森の中なら隠れられる。
だが、既に相手は近い。
動けば音が出る。
こちらが先に見つけたことを利用する方がいい。
俺は周囲を見る。
木。
茂み。
夕方の薄暗さ。
使える。
「ヴェルゴラ」
『何だ』
「黒い王冠の紋章を作れますか?」
『紋章?』
「王冠の中央に金色の目。その周囲を、切れた鎖で囲む」
頭の中に形を作る。
『何に使う』
「商会を作ります」
『今からか?』
「今、必要になったので」
まず名前。
黒い本。
黒い悪魔。
王を象徴する王冠。
鎖は封印と解放。
"黒冠商会”。
悪くない。
自分でも少し気に入った。
もっと時間があれば候補を十個ほど考えたかったが、灰鼠団の男たちが近づいている。
社名会議を開いている暇はない。
「牙の根元へ紋章を」
胸の中の生命力へ触れる。
――《虚王顕現》。
――洞窟喰らいの魔蜘蛛の牙へ、黒冠商会の紋章を顕現。
――維持条件、紋章を組織の正式な刻印だと認識する者が存在すること。
――必要生命力、人間寿命換算五分。
「承認」
牙の根元へ、黒い王冠が浮かび上がった。
中央に金色の目。
周囲には切れた鎖。
古代の焼き印のように、表面へ深く刻まれている。
俺自身がこれは本物の商会印だと思う必要はない。
この後、灰鼠団の男たちが信じる。
それを信じる。
「次に、あの三人の背後へ大きな足音を」
『また虚像を使うのか』
「姿は見せません。音と気配だけです」
――必要生命力、人間寿命換算十五分。
「承認」
準備は終わった。
俺は逃げるのをやめ、堂々と道へ出た。
「いたぞ!」
灰鼠団の男が叫ぶ。
三人がこちらへ歩いてくる。
先頭はドスという男。
三十歳前後。
太い腕。
無精ひげ。
頭は悪くないが、短気。
酒に弱い。
スラムでは有名だ。
俺はこの街を知らないわけではない。
五年間、生きるために調べ続けた。
灰鼠団が集金する曜日。
賭場の場所。
盗品を買う商人。
誰が誰と仲が悪いか。
大まかなことは知っている。
ただし、組織内部の細かな人間関係や、最近の動きまでは分からない。
それを調べるためには、俺以外の目と耳が必要になる。
それは後で考える。
今は三人を騙す。
「こんな時間まで森で何をしてやがった」
ドスが俺を見下ろす。
「仕事です」
「仕事?」
彼の目が、俺の後ろにある牙へ向いた。
表情が変わる。
「何だ、それ」
「見れば分かるでしょう」
「魔物の牙か?」
「触らない方がいいですよ」
ドスの手が止まった。
「なぜだ」
「所有権が俺にないので」
「誰の物だ」
「契約上、お答えできません」
ドスの眉が寄る。
後ろの二人が笑った。
「ガキが契約だとよ」
「どこかから盗んだんだろ」
「なら、あなた方が持っていけばいい」
俺は蔦を肩から外した。
牙が地面へ落ちる。
重い音が森へ響いた。
三人は顔を見合わせる。
子供が必死に守ろうとすれば、連中は奪う。
こちらから差し出せば、理由を考える。
「いいのか?」
「俺は止めました」
ドスが牙へ手を伸ばす。
その指が、黒い王冠の紋章へ近づく。
金色の目が一瞬だけ光った。
ドスが手を引いた。
「今、動いたぞ」
「何が?」
「この目だ」
俺は紋章を見る。
驚いたふりはしない。
知っているのが当然という顔をする。
「ああ」
「何だ、その印は」
「知らないんですか?」
人間は、自分だけが知らないと思わされると弱い。
特に、裏社会の人間は情報不足を嫌う。
ドスは答えない。
後ろの二人も黙る。
「黒冠商会」
俺は、初めてその名を口にした。
「この商会が王都へ来てるって言うのか?」
ドスが聞く。
疑う声ではない。
知らない組織の情報を得ようとする声だ。
既に半分信じている。
「それを俺に聞きます?」
俺はわざと周囲を確認する。
「聞かなかったことにしてください」
「待て」
ドスが俺の肩をつかもうとする。
俺は動かない。
その瞬間。
三人の背後で、太い枝が折れた。
バキン。
全員が振り返る。
木々の奥から、重い足音が聞こえる。
ズシン。
ズシン。
大きな何かが、ゆっくり近づいてくる。
姿は見えない。
夕闇。
木の陰。
見えないからこそ、三人は勝手に想像する。
「何だ」
後ろの男が声を震わせる。
俺は小さく息を吐いた。
「回収役です」
「回収役?」
「牙を勝手に持ち帰ろうとしたので、確認に来たのでしょう」
足音が一歩近づく。
地面がかすかに揺れる。
実際には揺れていない。
だが、三人が揺れたと信じれば、足元に振動を感じる。
「どんな魔物だ」
ドスが聞く。
「魔物?」
俺は首をかしげる。
「黒冠商会の回収役ですよ」
人間だとは言っていない。
魔物ではないとも言っていない。
三人の顔が青ざめる。
勝手に、魔物より恐ろしい何かを想像している。
「俺は、この牙を運ぶよう頼まれただけです」
これは嘘だ。
だが、声も表情も揺らさない。
「森とスラムの道を知っているから」
これは本当だ。
「あなた方へ話してよいことは、何もありません」
これも本当。
まだ黒冠商会には、話せる情報などない。
ドスが牙の紋章を見る。
金色の目。
切れた鎖。
正体不明の回収役。
洞窟喰らいの魔蜘蛛の牙。
証拠は十分だ。
人間は、説明を増やすほど疑う。
だから、ここからは相手に考えさせる。
「この魔物を倒したのは」
ドスが言う。
「黒冠商会の魔術師か?」
俺は答えなかった。
ただ、少しだけ笑う。
沈黙は、相手が欲しい答えを勝手に入れてくれる。
三人は今の笑みを肯定と受け取った。
「お前は、その商会の人間なのか?」
「俺は案内を頼まれただけです」
嘘と本当を混ぜる。
黒冠商会の人間であると言い切れば、五歳児であることに疑問を持たれる。
案内役なら自然だ。
スラム育ちの子供が、森や裏道に詳しいことも不思議ではない。
「案内だけで、こんな物を持たせるのか」
「なくなって困るのは、俺ではありませんから」
三人が、森の奥を見た。
足音がまた響く。
ズシン。
「分かった」
ドスが牙から離れる。
完全に信じた。
さらに一押し。
「今夜のことは、首領にだけお伝えください」
「なぜだ」
「商会は、王都で取引相手を探しています」
三人の顔が変わる。
恐怖だけでは、人間は動かない。
利益を見せる。
「灰鼠団の名前も候補に挙がっていました」
「本当か?」
食いついた。
「候補です」
「何の取引だ」
「俺が聞かされると思います?」
五歳児の案内役。
その立場を利用する。
知らないことが自然になる。
同時に、俺の背後には大きな組織があると信じ込ませられる。
「首領へ、どう伝えればいい」
「黒冠商会の案内役と森で会った」
俺は牙を指す。
「洞窟喰らいの魔蜘蛛を処理した者たちが、王都にいる」
そして、少し間を置く。
「灰鼠団を見ている、と」
ドスが唾を飲み込んだ。
「商会は、スラムにも来るのか?」
「三日以内」
今決めた。
三日あれば、何か用意できる。
できなければ困るが、今ここで奪われるよりはいい。
「首領が会いたいと言ったら?」
「こちらから連絡します」
「どうやって」
俺は紋章へ視線を向ける。
「必要なら、向こうから見つけます」
足音がさらに近づく。
三人はもう森にいたくないらしい。
「行くぞ」
ドスが仲間へ言った。
「牙は?」
「触るな」
先ほどまで奪おうとしていた男が、自分から止めた。
素晴らしい。
自分で下した判断は、他人に言われたことより強く信じる。
三人は森の出口へ急ぐ。
途中、ドスが振り返った。
「ガキ」
「何です?」
「黒冠商会は、灰鼠団を敵と見てるのか」
「まだ、値段をつけていません」
「値段?」
「敵にするか、客にするか」
俺は微笑んだ。
「価値を調べてから決めるそうです」
ドスは何も言わず、森を去った。
足音が遠ざかる。
完全に見えなくなってから、俺はその場へ座り込んだ。
「……疲れた」
『随分と大きな組織へ所属しておるのだな』
ヴェルゴラが言う。
「今日設立しました」
『構成員は』
「俺とあなた」
『我を勝手に入れるな!』
「では俺一人です」
『取引実績は』
「今から作ります」
『代表者は』
「俺です」
『三日後に来る代表も?』
「俺です」
ヴェルゴラはしばらく黙った。
『五歳児が、五歳児の案内で現れるのか』
「それは不自然ですね」
三日で別人を作る必要がある。
大人の姿。
話し方。
衣装。
証拠。
拠点。
考えるだけで頭が痛い。
なのに、少し楽しい。
危険な綱渡り。
一歩間違えれば、灰鼠団に殺される。
それでも、自分の嘘が三人の大人を動かした。
この感覚は癖になる。
前世でも、そうだった。
「何とかします」
俺は再び牙を引きずり始めた。
「三日もありますから」
『五歳児とは思えぬ楽観だな』
「悲観して牙が軽くなるなら、いくらでも悲観しますよ」
◇
共同寝床へ戻った時には、完全に日が暮れていた。
入口の前に、マナが立っている。
俺の姿を見ると、駆け寄ってきた。
「クライ!」
抱きしめられる。
洞窟喰らいの牙より強い。
「苦しいです」
「どこへ行ってたの!」
「森です」
「奥には行かないって約束したでしょう!」
「奥には行ってません」
「そういう問題じゃない!」
完全に怒っている。
目には涙が浮かんでいた。
心配させた。
胸が痛む。
灰鼠団の男を騙した時とは違う痛みだ。
あの連中には、何を信じさせても何も感じない。
だが、マナへ嘘をつくのは少し苦しい。
正直に話すか。
遺跡。
禁術の本。
悪魔。
魔蜘蛛。
言えるわけがない。
マナを危険へ巻き込む。
禁術の存在が広まれば、王族や神殿が動くかもしれない。
彼女は嘘が上手くない。
尋問されれば、隠し通せない。
何も知らない方が安全だ。
これは言い訳だろうか。
たぶん、半分は。
残り半分は、悪魔と契約したと知られて嫌われるのが怖い。
マナは優しい。
それでも、禁術使いを化け物だと思うかもしれない。
俺を捨てるかもしれない。
そう考えると、真実を話せなかった。
「森で、魔物に追われました」
俺は言った。
これは本当だ。
マナの顔が青ざめる。
「怪我は?」
「ありません」
胸の直前まで脚が来たが、触れてはいない。
これも本当。
「旅の魔術師に助けてもらいました」
嘘。
ただし、証拠はある。
俺は洞窟喰らいの牙を見せた。
マナが息を呑む。
「これを、その人が?」
「洞窟喰らいの魔蜘蛛を倒してもらいました」
主語は口にしない。
実際に倒したのは俺だ。
マナは、旅の魔術師が倒したのだと受け取る。
「俺が森とスラムの道を知っていると話したら、荷物を運ぶ仕事を頼まれました」
森とスラムの道を知っているのは本当。
仕事を頼んだのは俺自身。
相手が誤解しやすいように並べただけだ。
マナは牙の紋章を見る。
黒い王冠。
金色の目。
切れた鎖。
「その人の印?」
「商会の印だそうです」
俺がそう決めたのだから、嘘ではない。
少なくとも今は。
「危ない人たちじゃないの?」
「俺を魔物から助けて、仕事の報酬までくれる人たちです」
まだ報酬は受け取っていない。
だが牙を売れば金になる。
将来の報酬まで含めれば、完全な嘘とは言い切れない。
「だから、心配しなくても大丈夫です」
マナは紋章と俺の顔を交互に見る。
疑っているのではない。
状況を理解しようとしている。
やがて、深く息を吐いた。
「本当に、怖い人じゃないのね?」
「俺を助けたのは本当です」
俺自身が俺を助けた。
かなり苦しい。
だが、声には出さない。
「分かった」
マナは俺の頭を抱き寄せた。
「助けてもらったことには感謝する。でも、もう一人で森の奥へ行っちゃ駄目」
「善処します」
「行かないって言って」
「……行きません」
今度は、はっきり嘘をついた。
必要があれば、遺跡へ戻る。
禁術の大百科を置いてきている。
それでも、今はマナを安心させたかった。
彼女の身体から力が抜ける。
本当に信じた。
罪悪感が残った。
嘘をつくこと自体には慣れている。
相手の金を奪い。
秘密を聞き出し。
望む方向へ動かす。
何度もやった。
だが、自分を心配している人間へ嘘をつくのは、少し違う。
守るための嘘だと、自分へ言い聞かせる。
それでも気分がいいものではない。
「クライ!」
共同寝床の中から、女の子が飛び出してきた。
薄い栗色の髪。
肩より少し長く、片側だけを細い三つ編みにしている。
大きな青緑色の瞳。
年齢は十歳。
名前はノア。
共同寝床の年長組で、小さな子供たちの面倒をよく見ている。
明るく、話し好き。
市場の店主や洗濯場の女たちにも可愛がられている。
スラムのことをよく知っているが、本人は、自分が情報を集めているつもりなどない。
だが、人に好かれる子供の周囲には、自然と話が集まる。
俺が持っていない種類の才能だった。
ノアは俺の前まで走ってくると、頬を膨らませた。
「もう! どこに行ってたのよ!」
「森です」
「それはマナさんから聞いたわ。そうじゃなくて、どうしてこんなに遅くなったの?」
「仕事をしていました」
「仕事?」
ノアの目が、牙へ向く。
「何、それ……」
「洞窟喰らいの魔蜘蛛の牙です」
「魔蜘蛛!?」
声が裏返る。
市場近くの子供でも名前くらいは知っている魔物だ。
鉱山や洞窟へ巣を作り、冒険者を襲う。
子供が近づいて生きて帰れる相手ではない。
「クライが倒したの?」
一瞬、正直に言いたくなった。
倒した。
俺が。
悪魔の力を借りたとはいえ、俺の嘘で倒した。
少しくらい自慢したい。
すごいと言われたい。
五歳児らしい承認欲求なのか。
前世から持っていた性格なのかは分からない。
だが、言えない。
「まさか」
俺は笑った。
「旅の魔術師が倒しました」
ノアはすぐに信じた。
当然だ。
五歳児が倒した話より、旅の魔術師が倒した話の方が自然である。
「その人に助けてもらったの?」
「ええ。ついでに荷物運びを頼まれました」
「だから遅かったのね」
「そういうことです」
ノアは安心したように胸へ手を当てた。
それから、俺の服についた土や蜘蛛の体液を見て、眉を下げる。
「でも、怖かったでしょう?」
その言葉だけで、胸の奥を見られた気がした。
嘘を見破られたわけではない。
事実を当てられただけだ。
怖かった。
死ぬと思った。
今も思い出すと手が冷たくなる。
格好をつけて否定しようとした。
だが、やめた。
「……少しだけ」
「少し?」
「かなり」
正直に言うと、ノアは柔らかく笑った。
「じゃあ、今日はわたしが隣で寝てあげる」
「必要ありません」
「遠慮しなくていいの」
「寝相が悪いので嫌です」
「クライよりはいいもん」
女の子らしく頬を膨らませる。
俺はロリコンではないが、可愛い。
本人には言わないけど。
調子に乗りそうだから。
ノアは牙の紋章を指した。
「黒い王冠。すごく格好いいね」
「黒冠商会というそうです」
「その魔術師さんの商会?」
「ええ」
「王都にお店があるの?」
「普通の店ではないそうです」
説明しすぎない。
灰鼠団へ売った物語と食い違わないよう、情報をそろえる。
「魔物の素材や、珍しい品を扱う秘密の商会です」
今のところ、扱っている素材は洞窟喰らいの牙一本だけ。
それでも嘘ではない。
秘密であることも間違いない。
俺以外は誰も知らないのだから。
ノアの瞳が輝いた。
「秘密の商会……ちょっと素敵かも!」
「危険ですよ」
「でも、クライはお仕事をもらったんでしょう?」
「案内役を少し」
「すごいじゃない!」
ノアは本気で喜んでいる。
俺が働き口を得たと思っている。
「これで、食べ物を買えるようになるかもしれないね」
「まだ分かりません」
「クライなら大丈夫よ!」
無条件に信じられると、少し居心地が悪い。
前世では、俺を信じる人間は全員、騙す対象だった。
今もノアを騙している。
それなのに、彼女の期待を裏切りたくないと思う。
面倒だ。
人間関係というものは、金より扱いにくい。
「ノア」
「なあに?」
「手伝ってほしいことがあります」
「お仕事!?」
すぐに食いついた。
「黒冠商会が、スラムの商売相手を調べています」
「…灰鼠団とか?」
勘がいい。
だが、嘘を見抜いたわけではない。
スラムで商売するなら、灰鼠団を避けられないと知っているだけだ。
「それも含みます」
「クライは街のこと、詳しいでしょう?」
「大まかなことは知っています」
俺は答えた。
「灰鼠団がどこで集金するか。賭場はどこか。どの商人が盗品を買うか。その程度なら」
五年間、生きるために調べた。
「でも、最近誰と会っているか。誰が薬を買ったか。どの手下が首領へ不満を持っているか。そういう細かい情報までは分かりません」
俺が近づけば警戒される相手もいる。
男同士では話さないことを、洗濯場の女たちが知っている場合もある。
幼い子供たちは、年上のノアにだけ秘密を話す。
「ノアは市場の人たちと仲がいい」
「お買い物を手伝ってるからね!」
「洗濯場の人たちにも」
「よくお喋りするわ!」
「子供たちからも好かれている」
ノアが少し照れた。
「まあ、それなりに?」
分かりやすい。
「俺には集められない話を、ノアなら聞けます」
「わたしにしかできないお仕事?」
「そうです」
ノアの顔が明るくなる。
誰かに必要とされることが嬉しいらしい。
「やる!」
即答。
「内容を聞いてから決めなくていいんですか?」
「クライのお仕事なら、危ないことはさせないでしょう?」
信じ切っている。
胸が少し痛い。
その信頼を利用しようとしている。
だが、危険なことをさせる気はない。
そこだけは本当だ。
「灰鼠団の近くへ直接行く必要はありません」
俺は言った。
「市場や洗濯場で、最近の噂を聞くだけです。怪しいと思ったら、すぐに離れる」
「分かったわ!」
「誰かに目的を聞かれたら?」
「クライに頼まれたって言う?」
「駄目です」
「じゃあ、あんまり灰鼠団と会いたくないから〜とか?」
「それで」
ノアは少し考え、楽しそうに笑う。
「秘密のお仕事ね!」
「商会の情報ですから」
「わたしも黒冠商会の人になれる?」
「まだ正式には」
少し考える。
黒冠商会には構成員が必要だ。
ただしノアへ、存在しない組織だと明かすつもりはない。
彼女は黒冠商会を本物だと信じている。
その方がいい。
信じる人間が増えれば、《虚王顕現》の力も強くなる。
それだけではない。
知らない方が、ノアは自然に振る舞える。
嘘を演じる必要がない。
「王都臨時調査員」
俺は言った。
「それがノアの役目です」
「臨時調査員……!」
響きが気に入ったらしい。
青緑色の瞳が輝く。
「格好いい!」
「仕事内容は噂話を聞くことですが」
「それでも格好いいの!」
ノアは小声で何度も繰り返す。
「黒冠商会、王都臨時調査員のノア……!」
かなり嬉しそうだ。
少しだけ、こちらまで嬉しくなる。
組織を作る。
前世でも何度も作った。
だが、仲間が役職名だけでこんなに喜んだことはない。
金。
権限。
成功報酬。
それが前世の組織をつないでいた。
今は、食事もろくにない十歳の少女が、名前を与えられただけで笑っている。
安く雇えた。
そう考えるべきだ。
なのに。
この笑顔を守るためなら、少しくらい高い報酬を払ってもいいと思った。
「報酬は?」
ノアが尋ねる。
やはり、きちんと考えていたらしい。
「働いた日は食事を一回追加」
「二回」
「一回です」
「一回と、甘い物」
「高い」
「じゃあ、三日に一回だけ甘い物」
交渉を覚えている。
悪くない。
「情報の質によります」
「質がよかったら?」
「三日に一回、甘い物」
「約束ね!」
ノアが小指を差し出した。
子供の約束。
前世の俺なら笑っていた。
契約書もない。
違約金もない。
何の強制力もない。
それでも、俺は小指を絡めた。
「約束です」
破るつもりはなかった。
◇
食事を終えた頃。
共同寝床の扉が叩かれた。
室内の空気が固まる。
この時間に訪ねてくる者は少ない。
老婆が扉の隙間から外を見る。
顔が強張った。
「灰鼠団だよ」
マナが俺の肩を抱く。
ノアも不安そうに近づいた。
俺は立ち上がる。
来るのが早い。
森で会ったドスだろう。
首領へ報告し、その返事を持ってきた。
「俺が出ます」
「駄目」
マナが止める。
「灰鼠団が相手よ!」
「さっきの商会の仕事に関係があります」
マナの手が止まる。
この言葉だけで、灰鼠団が黒冠商会を恐れている可能性を想像する。
彼女は俺の話を信じている。
「危なくないの?」
「商会の名前を出した俺へ、向こうから手を出すことはありません」
これは予測だ。
だが、自信を持って言う。
マナは迷い、最後には手を離した。
「絶対に、扉の外へ行かないで」
「分かりました」
今度は守れる約束だ。
老婆が扉を開く。
外にいたのは、やはりドスだった。
森にいた時とは態度が違う。
俺を見ても笑わない。
室内へ入ろうともしない。
入口で立ち止まる。
「ガキ」
「何でしょう」
ドスは周囲を見る。
マナ。
ノア。
子供たち。
それから声を落とした。
「首領へ話した」
「反応は?」
「黒冠商会の名は知らなかった」
当然だ。
今日できた組織なのだから。
だがドスの顔には、疑いがない。
知らなかったことを、自分たちの情報不足だと解釈している。
「牙の破片も見せた」
俺が森で渡した小さな破片だ。
「素材を扱う店で調べた。間違いなく洞窟喰らいの魔蜘蛛の牙だそうだ」
物理的な証拠。
「しかも、このぶ厚さの破片の個体は、王都周辺では何十年も確認されていない」
希少性までついた。
俺の嘘へ、店の鑑定士が新しい価値を加えた。
素晴らしい。
「首領は、黒冠商会を取引相手として検討する」
ドスが言う。
マナが小さく息を呑む。
ノアの顔が輝く。
二人とも、黒冠商会が本当に灰鼠団から一目置かれる組織なのだと確信した。
俺は表情を変えない。
「検討するのはこちらです」
「そう伝えた」
ドスは不満そうだった。
だが反論しない。
灰鼠団より上の立場にいる組織。
そう思い込んでいる。
「首領ガルド・ロウが、商会の代表と会いたがっている」
来た。
「いつ?」
「三日後の日没」
「場所は?」
「灰鼠団の拠点。古い染物工房だ」
相手の拠点。
逃げ道を塞がれる。
条件が悪い。
「場所はこちらで指定します」
ドスの眉が動く。
「首領を呼び出すつもりか」
「会いたいのは、そちらでしょう?」
ドスは黙った。
「明日までに連絡します」
「どうやって」
「商会には商会の方法があります」
俺は彼の腕を見る。
森で《虚王顕現》によって一時的につけた、黒い王冠の印。
まだ薄く残っている。
ドス自身が正式な契約印だと信じ続けているため、消えていない。
俺はその印を指した。
「必要なら、印が知らせます」
ドスの顔が引きつった。
完全に信じた。
「分かった」
彼は俺へ、小さな灰色の硬貨を差し出した。
灰鼠団の構成員が、身分証代わりに持つ印だ。
「首領へ会う時に見せろ」
俺は受け取る。
「預かります」
ドスは帰ろうとした。
そこで足を止める。
「一つ聞いていいか」
「内容によります」
「森にいた、回収役」
彼の声がわずかに震えた。
「あれは何だ」
俺は少し考えるふりをした。
「知らない方が、長生きできますよ」
ドスの顔から血の気が引く。
「……そうか」
それ以上聞かず、夜のスラムへ消えていった。
扉が閉まる。
室内は静まり返っていた。
最初に声を出したのはノアだった。
「クライ!」
「何です?」
「本当に、すごい商会なのね!」
「俺は最初から、そう説明しています」
「灰鼠団の首領が、向こうから会いたいなんて!」
彼女は完全に信じている。
マナも同じだった。
心配そうではある。
だが、俺が危険な嘘をついて灰鼠団を呼び寄せたとは思っていない。
大きな商会に雇われ、案内役を任された。
その商会が灰鼠団との取引を検討している。
そう理解している。
「でも」
マナが言う。
「クライは、商談には行かないのよね?」
「俺は案内役ですから」
安心させるように答える。
これも、今後の役割次第では嘘ではない。
「代表の人が来るんでしょう?」
ノアが尋ねる。
「ええ」
「どんな人?」
「まだ会ったことはありません」
俺自身が、これから作る人間だ。
だから本当に会ったことはない。
「きっと、すごく強い魔術師ね!」
ノアは楽しそうに想像している。
黒い外套。
恐ろしい魔法。
顔を隠した謎の商人。
彼女の想像が、《虚王顕現》の材料になる。
マナも、共同寝床の子供たちも、同じような人物を思い浮かべ始めていた。
黒冠商会。
その代表者。
まだ存在しない。
だが、既に複数の人間が存在を信じている。
あとは、形を与えるだけだ。
「ねぇ」
ノアが俺の袖を引いた。
「その代表の人に、わたしのことも話してくれる?」
「何をです?」
「王都臨時調査員になったこと!」
誇らしそうな顔。
可愛い。
少し困る。
代表者は俺だ。
つまり俺が、俺からノアの話を聞くことになる。
「もちろん」
俺は答えた。
「優秀な人材だと伝えておきます」
ノアが満面の笑みを浮かべる。
「本当?」
「ええ」
これは嘘ではない。
彼女は優秀だ。
俺が知らない情報を集められる。
人に好かれる。
そして、今のところ俺を心から信じている。
その信頼を、絶対に裏切らない。
そんな綺麗な約束はできない。
必要なら嘘をつく。
利用もする。
ただし。
彼女が俺を信じたことを、後悔するような結果にはしたくない。
それくらいなら思えた。
「さて」
俺は灰鼠団の硬貨を指で転がす。
三日後。
嘘を見抜く魔眼を持つという首領、ガルド・ロウ。
黒冠商会の代表者との会談。
問題は一つ。
その代表者が、まだこの世に存在しないことだ。
五歳の俺が、そのまま現れるわけにはいかない。
大人の身体。
低い声。
商人らしい衣装。
圧倒的な背景。
そして、魔眼でも嘘と断定できない言葉。
全部、三日で用意する。
ヴェルゴラが服の中から、小さな声で尋ねた。
『どうするつもりだ』
俺はノアとマナに聞こえないよう答える。
「簡単です」
もちろん、簡単ではない。
少し言ってみたかっただけだ。
俺は灰色の硬貨を握りしめた。
「存在しない大人を、一人作ります」




