第2話 悪魔の契約書は読んでから署名しろ
悪魔の笑い声が止まった。
地下遺跡に、妙な沈黙が落ちる。
黒い炎を背負った巨体が、差し出された俺の右手を見下ろしていた。
『……今、何と言った?』
声だけで腹の底が震えた。
怖い。
やっぱり、ものすごく怖い。
さっきは勢いで言ってしまったが、相手は人間ではない。
交渉が決裂したからといって、悪態をついて席を立つような客ではない。
指先一つで焼き殺される可能性もある。
もう少し低姿勢に始めるべきだったかもしれない。
できれば今すぐ謝りたい。
ただ、ここで一度引けば終わりだ。
最初に怒鳴られて条件を譲れば、相手は怒鳴れば俺が折れると学習する。
暴力団も政治家も、悪魔も、その点では大して変わらないだろう。
たぶん。
「契約書を見せていただきたい、と申し上げました」
俺は同じ言葉を繰り返した。
声が震えないように、できるだけゆっくりと。
『契約書だと?』
「はい」
『我は悪魔ぞ』
「先ほど伺いました」
『古代最強の大悪魔が、矮小なる人間へ禁断の力を授けると言っているのだぞ!』
「それも伺いました」
『ならば歓喜に震え、我が足元へひれ伏すのが道理であろう!』
「普通の人間は、契約内容も確認せずに血を捧げるんですか?」
『捧げる』
「助かりますね」
『何がだ』
「競合相手の顧客が、それほど扱いやすいのであれば」
『競合……相手?』
ヴェルゴラの眉が動いた。
悪魔に商売上の競争という概念があるのかは知らない。
だが、他にも悪魔がいるなら、契約者を奪い合う関係にはなり得る。
「あなた以外にも、悪魔はいるのでしょう?」
『無論だ。ただし、我に比肩する者などおらぬ』
「その悪魔たちも、人間へ契約を持ちかける」
『下等な者どもが、我の真似事をしておるだけだ』
「ならば、契約条件を比較されても困りませんね」
『なぜ我が、他の悪魔どもと比べられねばならぬ!』
「契約する側には選ぶ権利がありますので」
『貴様に選択肢などない!』
黒い炎が膨れ上がった。
熱風が顔へ叩きつけられる。
小さな身体が押され、俺は思わず一歩後ろへ下がった。
足が震える。
喉がからからに乾く。
今すぐ膝をつき、何でもいいから署名したくなった。
命を取られる契約でさえ、この恐怖から逃げられるなら魅力的に思えてくる。
これが狙いか。
相手を冷静に考えられない状態へ追い込み、その場で決断させる。
前世で何度も見た手口だ。
俺自身も使った。
俺は震える足をごまかすため、その場へしゃがんだ。
床へ手を置く。
冷たい石の感触。
大丈夫。
まだ死んでいない。
怒鳴られているだけだ。
今のところは。
「本当に、選択肢がないのでしょうか…?」
俺は顔を上げた。
『何?』
「あなたは俺へ契約を持ちかけた」
『それがどうした』
「殺して目的を果たせるなら、契約など必要ない」
悪魔を包む炎が、わずかに揺れた。
小さな反応。
だが、見逃さない。
「俺が自分の意思で血を捧げ、契約へ同意する必要がある。違いますか?」
『……』
「つまり、あなたにも俺が必要だ」
『思い上がるな!』
炎が再び燃え上がる。
けれど今度は、先ほどより少しだけ怖くなかった。
当たっている。
ヴェルゴラには契約者が必要なのだ。
封印を解くためか。
力を取り戻すためか。
外へ出るためか。
理由はまだ分からない。
だが、向こうにも事情がある。
それだけで、交渉の場は少し平らになる。
相変わらず、踏み潰されれば一秒で死ぬのだが。
「思い上がってはいません」
俺は立ち上がった。
「自分の価値を確認しているだけです」
『貴様の価値など、我が授ける力に比べれば塵にも等しい』
「その塵と契約しなければならないのは、あなたでしょう?」
『……』
言った直後、少し後悔した。
俺はどうして、相手を煽らないと会話できないのだろう。
もっと可愛げのある五歳児なら、泣いて頼んで力をもらっていたかもしれない。
だが、俺には無理だ。
親切だけで差し出される力を、素直に受け取れるほど人間を信じていない。
相手が悪魔なら、なおさらである。
『よかろう』
ヴェルゴラが低く言った。
『契約書を見せてやる』
黒い炎が一点へ集まる。
炎の中から、黒い羊皮紙が現れた。
俺の身長よりも大きい。
紙面には、赤い文字がびっしりと並んでいる。
『読むがよい』
羊皮紙が目の前へ浮かんだ。
『もっとも、貴様ごときに理解できるとは思えぬがな』
見たことのない文字だった。
現代の一般文字とも、遺跡で見た古代文字とも違う。
だが視線を向けた途端、意味が頭の中へ直接流れ込んできた。
魂に読ませる契約文字。
神との転生契約に近い。
便利だ。
ただし、便利な仕組みほど、その仕組みを作った側に有利なものだ。
俺は最初の一行から目を通した。
------------------------------------------
契約者クライ・マイトは、虚飾の悪魔ヴェルゴラより、禁術《虚王顕現》を行使する権利を与えられる。
契約者は禁術を行使するたび、自身の寿命を代償としてヴェルゴラへ捧げる。
捧げる寿命の量は、使用する禁術の規模と効果によって決定される。
契約者は、ヴェルゴラの名誉、威厳および権威を不当に傷つけてはならない。
契約者は、授けられた禁術を第三者へ譲渡してはならない。
契約者が契約に違反した場合、その肉体および魂の所有権はヴェルゴラへ移る。
ヴェルゴラが契約に違反した場合、契約者は禁術を行使する権利を失う。
------------------------------------------
一度読む。
二度読む。
三度目で、俺は契約書から顔を上げた。
「思っていたより短いですね」
『簡潔にして完全。それこそが、優れた契約というものだ』
「完全?」
『無論だ』
「あなたが契約に違反した場合も、俺が損をするようですが」
『何?』
「俺が違反すれば、肉体と魂を失う。あなたが違反しても、俺が禁術を失う」
羊皮紙の該当箇所を指差す。
「どちらにしても俺だけが損をする」
『我が力を授けるのだ。当然であろう』
「あなたには契約を守る理由がありません」
『悪魔は契約を破らぬ』
「ならば、あなた側の違約条件を重くしても問題ありませんね」
『……』
「あなたが違反した場合、あなたの名前と権能の所有権を俺へ移す」
『ふざけるな!』
「契約を破らないのでしょう?」
『破らぬ!』
「なら、書いても困らない」
『人間ごときへ、我が名と権能を渡せるものか!』
「では、悪魔も契約違反をする可能性がある?」
『ないと言っておる!』
「なら問題ない」
『貴様は我を試しているのか!』
「条件を確認しています」
炎が大きく揺れた。
ヴェルゴラは本気で怒っている。
だが、契約書を消そうとはしない。
やはり交渉を打ち切れない。
そこまでして俺と契約する必要がある。
俺は最初の要求を下げる。
本命を安く見せるため、最初に大きく吹っかける。
古典的だが、効果はある。
「では、契約違反があった場合、契約を即時解除」
俺は言った。
「俺が既に支払った寿命を返還し、契約違反以前に生じた禁術の効果は維持する」
『寿命を返せだと?』
「当然でしょう」
『既に我が力として消費している場合もある』
「その場合は、あなたの生命力から同等量を補填する」
『我は悪魔だ。人間と同じ寿命など持たぬ』
「ならば魔力でも権能でも構いません」
『欲深い人間め』
「褒め言葉として受け取ります」
ヴェルゴラはしばらく俺を睨んでいた。
やがて、赤い文字が揺れる。
違約条項が書き換わった。
完全な対等とは言えない。
それでも、相手が違反しても俺だけが損をする状態よりはましだ。
「次です」
『まだあるのか!』
「契約書を見せたのは、あなたでしょう」
俺は代償の項目を見る。
「禁術の規模と効果によって、差し出す寿命が決まる」
『その通りだ』
「誰が決めるんです?」
『我だ』
「契約しません」
『なぜだ!』
「商品の値段を購入後に売り手だけが決める契約へ、署名する馬鹿はいません」
『禁術の価値は、使い方によって変わる!』
「ならば、発動前に必要な寿命を提示してください」
『……』
「俺が提示された量を承認した場合だけ、禁術を発動する」
『貴様が拒否すれば、我は力を得られぬではないか』
「そのために、納得できる価格を提示するんでしょう」
『人間風情が、我の権能へ値段をつけるつもりか』
「値段をつけているのは、あなたです」
俺は微笑んだ。
「俺は買うかどうかを決めるだけです」
ヴェルゴラの牙が鳴る。
少し怖い。
いや、かなり怖い。
だがここで条件を通さなければ、一度の術で寿命を全部取られる可能性がある。
そんなものは契約ではない。
自殺の手続きだ。
『よかろう』
悪魔は渋々答えた。
『禁術の発動前に必要な寿命を提示する。貴様が承認しない限り、術は発動せぬ』
「拒否した場合、寿命も減らない」
『当然だ』
「契約書へ」
文字が追加される。
これで、少なくとも知らない間に寿命を奪われることはない。
少しだけ安心した。
悪魔との契約書を見て安心している自分は、かなりおかしいな。
「もう一つ」
『今度は何だ』
「寿命の支払い方法について」
『貴様自身の寿命を差し出す。それだけだ』
「返済は?」
『返済?』
ヴェルゴラの眉が寄る。
「寿命を、その場で完全に消費する必要はありますか?」
『何が言いたい』
「禁術を使うたび、俺の寿命を一時的な担保として預ける」
『担保だと?』
「一定時間以内に、同等の生命力を別の方法で支払えば、俺の寿命を返還する」
ヴェルゴラの目が細くなる。
「あなたが必要としているのは、俺の寿命そのものですか?」
『生命の時間だ』
「では、俺以外の生物が持つ生命力でも構わない」
『質が違う』
「変換できない?」
『できぬとは言っておらぬ』
反応があった。
やはり可能だ。
悪魔が欲しいのは、契約者を早死にさせることではない。
生命力を得ること。
ならば、支払い元は俺である必要がない。
「魔物を倒した場合、その残存生命力を支払いへ充てられますか?」
『可能だ』
「食用に処理された獣は?」
『死後、生命力が散る前であればな』
「自然死した生物」
『同様だ』
「植物は?」
『魂を持つ魔樹や霊草ならば認める』
使える。
魔物。
獣。
魔樹。
この世界では、日常的に生物が殺されている。
俺が禁術のためだけに人間を殺す必要はない。
市場の肉屋。
冒険者が倒した魔物。
捨てられる生命力を集めれば、代償へ使える。
「返済期限は?」
『禁術を使用した瞬間に支払うのが契約だ』
「あなたにとって、即時である必要は?」
ヴェルゴラは答えない。
必要はない。
「三日」
『長すぎる』
「では二日」
『一日だ』
「二日」
『一日』
「一日と半分」
『細かい!』
「では二日で」
『増えたではないか!』
「交渉が長引いていますので」
『一日だ!』
「分かりました」
これ以上は欲張らない。
一日あれば、魔物や獣の生命力を確保できる可能性はある。
「禁術を使用した際、提示された寿命を担保としてあなたへ預ける」
俺は条件を整理する。
「使用から一日以内に、同等の生命力を支払えば、預けた寿命は全て返還される」
『認めよう』
「生命力の量は発動前に提示する」
『よい』
「俺が直接倒した生物に限らない」
『認める』
「既に他者によって倒された魔物や、食用として処理された獣でもよい」
『生命力が残っていればな』
「余分な生命力を先に集め、今後の支払いに備えて保存することは?」
『専用の器があれば可能だ』
「器はどう作る?」
『材料と術式が必要だ。今の貴様には無理であろう』
今は。
つまり、将来的には可能だ。
前払いできるようになれば、寿命を担保に入れる危険すら減らせる。
契約としては、かなり現実的になった。
少なくとも、寿命を削り続けるしかない状態ではない。
ヴェルゴラは、おそらく自分が有利だと思っている。
実際、禁術を使えば必ず生命力が入る。
俺が返済できなければ、寿命を得る。
返済できても、魔物や獣の生命力を得る。
悪魔に損はない。
だから、この条件を受け入れた。
俺にとっても悪くない。
禁術を使って敵を倒し、その敵の生命力で代償を払う。
力が力の代金を生み出す。
上手く回せば、実質的な負担を小さくできる。
「随分と嬉しそうだな」
『何を企んでおる』
「互いに得のある契約を作れたと思いまして」
これは本当だ。
少なくとも今のところは。
『我は常に得をする』
「そうでしょうね」
そう信じていてくれた方がいい。
騙されたと気づいていない相手へ、騙されたことを教える必要はない。
「次に、《虚王顕現》の能力を説明してください」
『我が権能を疑うのか』
「商品の説明なしで契約する人間はいません」
『《虚王顕現》は、術者が生み出した虚像を、この世界へ顕現させる禁術だ』
「幻術?」
『下等な魔法と同じにするな!』
ヴェルゴラが声を荒らげた。
本気で誇りを持っている。
虚飾の悪魔だけあって、自分の力を褒められたいらしい。
「失礼しました」
俺は素直に頭を下げた。
「一般魔法との違いを、ぜひ教えてください!」
少し持ち上げる。
ヴェルゴラの胸が膨らんだ。
扱いやすい。
『通常の魔法は、術者の体内にある魔力を燃料とし、精霊や神との契約を通じて現象を起こす』
「俺には魔力がない」
『知っておる』
少し腹が立つ。
「神殿の測定石も、一切光りませんでした」
『当然だ。貴様の魂には、精霊へ接続するための魔力路がほとんど存在せぬ』
「なら、なぜ禁術は使える?」
聞きたかったことだ。
一般魔法を使えない俺が、どうやって禁術を発動するのか。
ヴェルゴラは得意げに翼を広げた。
『禁術は、術者自身の魔力を燃やすものではない』
「では、何を使う?」
『我ら悪魔の権能だ』
ヴェルゴラは黒い本を示す。
『契約によって、貴様は我が権能へ接続する。術者の魔力ではなく、我の力で世界の法則へ干渉するのだ』
「つまり、俺は力を生み出すのではなく、あなたの力を借りる」
『借りるなどという軽い表現を使うな。我が偉大なる権能を、特別に行使する許可を――』
「借りるんですね」
『……大まかにはな』
分かりやすい。
通常魔法は、自分の魔力を燃料にする。
禁術は、契約した悪魔の権能を使い、その使用料として生命力を支払う。
だから、俺自身に魔力がなくても使える。
むしろ魔力ゼロの俺にとっては、一般魔法より相性がいい。
ただし、悪魔との契約と代償が必要。
便利なだけの力ではない。
「《虚王顕現》は、何ができる?」
『術者が思い描いた虚像を顕現させる』
「目や耳を騙すだけ?」
『通常の幻術は五感を欺くにすぎぬ。我が禁術は、認識そのものへ干渉する』
ヴェルゴラは語る。
『人が炎を本物だと信じれば、熱を感じる。刃を本物だと信じれば、その肉体は傷を負う。王を王だと信じる者が増えれば、虚像の王は権威さえ得る』
面白い。
かなり面白い。
力で殴るためだけの魔法ではない。
信じさせた嘘へ、現実を近づける。
まるで、詐欺師のために作られた術だ。
「物理的な力も持つ?」
『信じる者の数と、確信の強さによる』
「一人でも?」
『可能だ。ただし弱い』
「誰も信じなければ?」
『ただの幻影にすぎぬ』
「術者自身の認識は?」
ヴェルゴラが一瞬黙った。
当たり。
「俺が虚像を嘘だと認識していれば、弱くなる?」
『……術者が自らの虚像を疑えば、顕現は安定せぬ』
厄介だ。
詐欺師は、自分の嘘を信じてはいけない。
嘘と事実を区別できなくなれば、相手の反応に応じて修正できなくなる。
自分まで騙される詐欺師は長生きしない。
しかし、この禁術は術者自身の確信を必要とする。
「相手だけでなく、自分も騙せと」
『それができぬなら、貴様には過ぎた力であったな』
ヴェルゴラが勝ち誇ったように笑う。
俺は少し考えた。
そして、首を横へ振る。
「問題ありません」
『強がるな』
「嘘そのものを信じる必要はない」
『何?』
「嘘によって、相手がどう動くかを信じればいい」
例えば巨大な竜を見せる。
俺が竜の存在を信じる必要はない。
相手が竜を見て怯える。
逃げる。
武器を落とす。
その反応なら、信じられる。
人間の欲望や恐怖は、下手な事実より信用できる。
「俺が信じるのは、虚像の存在ではありません」
俺は悪魔を見上げる。
「虚像を見た相手が、確実に騙されることです」
ヴェルゴラの表情が止まった。
ほんの一瞬だった。
だが見逃さない。
こいつは、この使い方を考えていなかった。
あるいは、これまでの契約者が考えなかった。
禁術を得た者は、巨大な炎や怪物を作ろうとした。
その存在を自分自身も信じ込もうとした。
俺は違う。
相手が騙されることだけを信じる。
『口だけならば何とでも言える』
ヴェルゴラは言った。
先ほどより声が低い。
少し警戒している。
悪くない。
契約相手には、少し怖がられるくらいがちょうどいい。
「では、試せば分かります」
俺は契約書へ視線を戻した。
能力。
条件。
代償。
違反。
まだ穴は残っているだろう。
完全な契約などない。
そもそも相手の持つ情報量が、俺より遥かに多い。
俺が知らない世界の法則まで、今ここで全て確認することはできない。
署名しない方が安全だ。
ここで帰れば、少なくとも寿命を賭ける必要はない。
スラムで今まで通り暮らす。
頭だけでも、ある程度は稼げる。
危険を冒してまで力を得る必要はない。
そう思う。
一方で、別の光景が浮かぶ。
灰鼠団に食料を奪われる子供たち。
病気になっても薬を買えないマナ。
王族や貴族の馬車が通れば、泥の中へ膝をつく大人たち。
魔力がないというだけで、人生の上限を決められる世界。
頭だけで変えられる範囲には限界がある。
俺は平和に暮らしたい。
本気で。
王になりたいわけではない。
大金持ちに戻りたいわけでもない。
朝起きて。
食べるものがあって。
帰る場所があって。
そこに誰かがいる。
その程度でいい。
だが、この世界では、その程度を手に入れるためにも力がいる。
それが腹立たしい。
普通に生きる権利を得るために、悪魔と契約しなければならない。
随分と、ふざけた世界だ。
ならば。
こちらも正しい方法だけで生きる必要はない。
「契約します」
俺は言った。
ヴェルゴラが牙を見せた。
『ようやく己の立場を理解したか』
「いいえ」
俺は羊皮紙を指差す。
「修正後の契約になら」
『……生意気な人間め』
契約書が宙へ広がる。
赤い文字が並び直した。
------------------------------------------
契約者クライ・マイトは、虚飾の悪魔ヴェルゴラより、禁術《虚王顕現》を行使する権利を与えられる。
禁術の発動前に、必要となる生命力の量を、人間の寿命に換算して契約者へ提示する。
契約者が提示された代償を明確に承認した場合に限り、禁術は発動する。
契約者が拒否した場合、禁術は発動せず、代償も発生しない。
禁術の発動時、提示された量の寿命を、契約者の寿命から一時的な担保としてヴェルゴラへ預ける。
契約者が禁術発動から一日以内に、同等量の生命力を支払った場合、担保として預けた寿命は契約者へ全て返還される。
支払いには、契約者本人以外の人間、亜人、魔族、魔物、獣、魔樹その他、魂または生命力を持つ生物の生命力を用いることができる。
ただし、契約者が生命力の徴収を目的として、契約へ同意していない人間または亜人へ直接危害を加えることを、ヴェルゴラが強制してはならない。
返済期限内に同等量の生命力が支払われなかった場合、担保として預けられた寿命はヴェルゴラの所有となる。
契約者は、ヴェルゴラの名誉を、虚偽の事実によって不当に傷つけてはならない。
契約者は、授けられた禁術そのものを第三者へ譲渡してはならない。
契約者が契約に違反した場合、その違反によって得た利益と同等の代償をヴェルゴラへ支払う。
支払い不能の場合に限り、契約者の肉体および魂の所有権はヴェルゴラへ移る。
ヴェルゴラが契約に違反した場合、契約者が支払った代償は返還され、違反以前に発生した禁術の効果は維持される。
契約内容の解釈に争いが生じた場合、契約締結時に両者が共有していた認識および明文化された条項に基づき、契約書そのものが裁定する。
------------------------------------------
「確認しました」
『ならば血を捧げよ』
「刃物は?」
『自分で用意せよ』
床を見る。
尖った石が落ちている。
拾い上げる。
指先へ当てた。
怖い。
悪魔との契約より、指を切る方が具体的に怖い。
五歳児の身体だからか、痛みに敏感になっている。
「何をしておる」
『早くせぬか』
「精神を整えています」
『怖いだけであろう』
「……慎重なんです」
『指先を少し切るだけだ』
「なら、あなたが先に自分の指を切ってください」
『我は署名する準備ができておる!』
悪魔に急かされながら、自分の指を傷つける。
人生で何度も経験したい場面ではない。
俺は意を決して石を押し込んだ。
「痛っ…!」
思っていたより痛い。
赤い血がにじむ。
涙まで出そうになる。
ヴェルゴラが笑っている。
腹が立つ。
「……今、笑いましたね?」
『笑っておらぬ』
「契約後に覚えておいてください」
『五歳児の恨みなど恐れるものか』
俺は羊皮紙へ血をつける。
クライ・マイト。
この世界での名を書く。
血の文字が赤く燃えた。
次に、ヴェルゴラの巨大な爪が羊皮紙へ触れる。
黒い炎が名を刻む。
虚飾の悪魔ヴェルゴラ。
二つの署名が揃った瞬間、契約書が燃え上がった。
熱くはない。
赤い炎が文字を一つずつ呑み込み、そのまま俺の胸へ飛び込んでくる。
「っ……!」
心臓を直接つかまれたような感覚。
俺は膝をついた。
頭の中へ、知らない知識が押し寄せる。
虚像。
認識。
恐怖。
欲望。
信仰。
嘘と現実の境界。
世界は、思っていたより曖昧だった。
王は、王だと信じられているから王である。
金貨は、価値があると信じられているから価値を持つ。
神は、神だと信じる者がいるから力を得る。
ならば。
世界中の人間が、俺の嘘を真実だと信じた時。
それは、まだ嘘と呼べるのだろうか。
胸の奥に、黒い火種が生まれた。
冷たい。
それでいて、触れた現実を歪ませられそうな力。
俺自身の魔力ではない。
ヴェルゴラの権能へつながるための入口。
俺は魔力を持たない。
だが今だけは、それを欠点だと思わなかった。
この火種がある限り。
俺は、魔力を持つ者とは違う方法で戦える。
怖い。
力を得た喜びより、先に恐怖が来た。
こんな力を五歳児へ渡していいはずがない。
二十九歳の記憶があったとしても、持つべき力なのかは怪しい。
それでも。
少しだけ。
いや、かなり嬉しい。
神殿で魔力がないと分かった時。
気にしていないふりをした。
本当は悔しかった。
異世界に来たのに、自分だけ魔法を使えない。
頭が良くても、生まれつきの才能には勝てない。
そう決めつけられたようで、腹が立った。
今、俺の胸には、この世界の普通の魔術師が持っていない力がある。
浮かれるな。
俺は自分へ言い聞かせた。
こういう時が一番危ない。
力を得た直後の人間は、自分が何でもできると思い込む。
前世で、俺が最も騙しやすかった種類だ。
『契約は成立した』
ヴェルゴラの声が響く。
巨大な悪魔の身体が、徐々に縮み始めた。
天井へ届いていた角が小さくなる。
四枚の翼も。
太い腕も。
やがて人間ほど。
子供ほど。
最後には、俺の腕に乗る程度の大きさになった。
黒い角。
四枚の小さな翼。
丸みのある身体。
尊大な顔だけは、そのまま。
俺は黙って見つめた。
『何だ』
「いえ」
『言いたいことがあるなら申せ』
「古代最強」
『そうだ』
「大悪魔」
『いかにも』
俺は、小さくなったヴェルゴラを見る。
「随分と、可愛らしくなりましたね」
『誰が可愛らしいか!』
声まで少し高くなっている。
俺は笑いをこらえる。
緊張が切れたせいか、急におかしくなった。
さっきまで本気で殺されると思っていた相手が、今は肩へ乗れそうな大きさだ。
『これは契約者へ随行するための、仮初めの姿だ!』
「便利ですね」
『笑うな!』
「笑っていません」
『口元が上がっておる!』
かなり楽しい。
異世界へ来てから、こんなに笑いそうになったのは初めてかもしれない。
マナに祝ってもらった時とは違う。
あれは温かくて、少し恥ずかしかった。
今は単純に、見た目の落差がおかしい。
俺にもまだ、こういうことで笑える部分が残っていたらしい。
少し安心した。
『それよりも』
ヴェルゴラは咳払いする。
『禁術を試してみるがよい』
「今ここで?」
『力を得て、使いたくはないのか』
使いたい。
ものすごく使いたい。
今すぐ何かを出してみたい。
竜。
城。
金貨の山。
子供の頃、玩具を買ってもらった直後に箱を開けたくて仕方がなかった感覚に近い。
前世の俺にも、そんな時期はあった。
たぶん。
あまり覚えていないが。
「小さなものから試します」
俺は床から石を一つ拾った。
手のひらへ収まる程度の大きさ。
「これを金貨に見せる」
『誰にだ』
「あなたに」
『我を騙すつもりか?』
「性能試験です」
俺は市場で見た王国金貨を思い描く。
王の横顔。
双頭の鷲。
金色の輝き。
重さ。
硬さ。
胸の黒い火へ触れる。
頭の中に赤い文字が浮かんだ。
――禁術《虚王顕現》。
――顕現対象、石を王国金貨一枚として認識させる。
――対象、虚飾の悪魔ヴェルゴラ。
――必要生命力、人間寿命換算一分。
一分。
小さな虚像でも、寿命は必要になる。
だが返済できなければ、失うのは寿命一分。
試験としては許容範囲だ。
本音を言えば、一秒でも嫌だ。
寿命は使えば戻らない。
だからこそ、必ず生命力を確保しなければならない。
「承認」
胸の奥から、何かが一本抜き取られた。
痛くはない。
だが、自分の時間がほんの少し減ったと分かる。
気持ちのいい感覚ではない。
同時に、手のひらの石が金色に輝いた。
王の横顔。
双頭の鷲。
わずかに形が歪んでいる。
俺は金貨をヴェルゴラへ見せた。
「どうです?」
『ほう』
ヴェルゴラが近づく。
『これが人間の貨幣か』
「王国金貨です」
『これほど容易く作れるとは、さすが我が禁術よ』
信じた。
次の瞬間。
石が重くなる。
表面の冷たさが変化する。
俺の手の中で、本当に金属へ近づいていく。
完全ではない。
だが、少なくともヴェルゴラが信じている間は、ただの石ではない。
俺は少し興奮した。
成功した。
本当に使えた。
小さな魔法。
一分の寿命を担保に入れて作った偽物。
それでも。
俺は魔法を使った。
「……はは」
笑いが漏れた。
止められなかった。
嬉しい。
単純に嬉しい。
五歳児らしく飛び跳ねたいくらいだった。
さすがにやらない。
転んだら格好悪い。
『何を笑っておる』
「いえ」
俺は金貨を指で転がす。
「悪くないと思いまして」
『当然であろう! 我が権能だぞ!』
ヴェルゴラが胸を張る。
その瞬間、金貨の表面が揺れた。
「ん?」
ヴェルゴラの視線が、金貨の縁へ止まる。
石だった時の欠けが、わずかに残っている。
『待て』
まずい。
「何でしょう」
『王国金貨というものは、このように縁が欠けておるのか?』
「古い金貨ですので」
『先ほどは王国金貨としか言わなかったではないか』
疑いが生まれる。
手の中の金色が薄れる。
重さも軽くなる。
完全に疑われれば、術が解ける。
俺はヴェルゴラの目を見る。
「その欠けが、価値を上げるんですよ」
『何?』
「普通の金貨ではありません」
即興だ。
考えろ。
相手は虚飾の悪魔。
珍しいもの。
権威。
価値。
そこを刺激する。
「王国建国時に、最初に鋳造された試作金貨です」
『試作?』
「正式な金型が完成する前、初代国王へ献上された一枚」
完全な嘘。
それでも動揺は見せない。
「縁の欠けは、国王自身が真贋を確かめるためにつけた歯形とされています」
『王の歯形』
ヴェルゴラの視線が金貨へ向く。
興味。
疑いが薄れていく。
金色が戻る。
「現存するのは、世界に三枚だけ」
『ほう』
「金貨としての価値では測れません」
『では、どれほどだ』
「国一つ」
ヴェルゴラの目が見開かれた。
完全に信じた。
手の中の石が、先ほどより強く金色に輝く。
表面の欠けさえ、歴史を証明する傷のように見えた。
『このような希少品を、寿命一分で作ったのか!』
「あなたが価値を信じたおかげです」
『我は騙されてなどおらぬ!』
「もちろん」
俺は穏やかに微笑む。
ヴェルゴラは、自分が騙されたとは思っていない。
珍しい金貨の正しい価値を見抜いたと思っている。
それでいい。
いや。
その方がいい。
嘘を一方的に押しつける必要はない。
相手自身に、信じたい形へ仕上げさせる。
それが《虚王顕現》。
俺のための力だ。
「素晴らしいですね、この禁術は」
『ようやく理解したか』
「ええ」
ヴェルゴラが金貨から視線を外す。
手の中の金色が消え、ただの欠けた石へ戻った。
だが、手応えは残っている。
使い方が分かった。
問題は、担保として預けた寿命一分だ。
「この寿命を取り戻すには?」
『一日以内に、同等の生命力を捧げよ』
「今、周囲に利用できる生命は?」
『虫程度ならいるが、人間の寿命一分に足りるかは怪しいな』
虫一匹では不足する可能性がある。
返済のために、小さな命を大量に集めるのも効率が悪い。
どうしたものか。
そう考えた時。
遺跡の奥から、何かが這う音が聞こえた。
ずるり。
ずるり。
石の床を、硬いものが擦っている。
俺は音の方向を見る。
暗闇の中で、赤い光が二つ開いた。
さらに二つ。
四つ。
六つ。
八つ。
巨大な蜘蛛が、崩れた柱の陰から姿を現した。
牛ほどの大きさ。
黒い甲殻。
洞窟の岩や鉱石を食らって育ったのか、背中には石のような突起が並んでいる。
鋭い脚。
牙から緑色の液体が滴り、石床をわずかに溶かした。
さっきまでの高揚感が、一瞬で消える。
「……あれは?」
『洞窟喰らいの魔蜘蛛だ』
ヴェルゴラが平然と答える。
「強い?」
『若い騎士なら、十人ほどで討伐する相手であろうな』
俺は自分の身体を見る。
五歳児。
武器なし。
通常魔法なし。
禁術は使える。
ただし、今覚えたばかり。
「逃げ道は?」
『貴様が入ってきた穴だ』
遠い。
どう見ても、魔蜘蛛の方が速い。
間に合わない。
脚が震える。
喉が乾く。
契約交渉とは違う。
魔物へ契約書を出せと言っても通じない。
いや、言葉そのものが通じない可能性が高い。
食われる。
頭からか。
足からか。
どちらでも嫌だ。
洞窟喰らいの魔蜘蛛が身体を低くする。
飛びかかる姿勢。
怖い。
逃げたい。
マナの顔が浮かぶ。
森へ行くなと言われた。
帰ったら怒られる。
怒られて。
黒パンの残りを食べて。
いつもの寝床で眠りたい。
こんな場所で死ぬのは嫌だ。
「ヴェルゴラ」
『何だ』
「助けてくれます?」
『契約に含まれておらぬ』
こいつ……。
次に契約書を作る時は、絶対に保護義務を入れてやる…。
次があればだが。
そんなことを考えてる間に、洞窟喰らいの魔蜘蛛が一歩進む。
床が揺れる。
俺は後ずさった。
胸の黒い火へ意識を向ける。
相手は蜘蛛。
何を恐れる。
火。
大型の鳥。
より強い魔物。
分からない。
魔物の生態など詳しくない。
だが、恐怖そのものは知っている。
今の俺が感じている。
自分より強い。
逃げられない。
触れられれば死ぬ。
その感覚を、相手へ返せばいい。
俺は洞窟喰らいの魔蜘蛛を見る。
八つの赤い目。
こちらを獲物としか見ていない。
なら、その見方を変えさせる。
「来るな」
俺は言った。
声が震えた。
魔蜘蛛は止まらない。
「俺へ近づけば死ぬ」
当然、信じない。
何の力もない子供に見える。
それでいい。
今から、信じる理由を作る。
胸の黒い火が燃え上がる。
頭の中に赤い文字が浮かんだ。
――禁術《虚王顕現》。
――顕現対象を指定。
俺は、自分の背後へ何かを思い描く。
姿は決めない。
自分で具体的な姿を作れば、それが想像だと意識してしまう。
代わりに。
洞窟喰らいの魔蜘蛛が、生まれてから最も恐れているもの。
絶対に勝てない捕食者。
目が合っただけで、身体が動かなくなる存在。
その形を、魔蜘蛛自身の恐怖へ作らせる。
――対象の恐怖を基礎として、捕食者の虚像を顕現。
――必要生命力、人間寿命換算一日。
一日。
さっきの金貨とは比較にならない。
それでも、この場で使わなければ残りの寿命全てを失う。
死ぬのだから当然だ。
「承認する」
胸の奥から、何かが大きく抜き取られた。
痛みはない。
だが、自分の命が確実に一日短くなったと分かる。
気持ち悪い。
怖い。
一日。
ただし、あの魔蜘蛛を倒し、生命力を回収できれば返ってくる。
失敗すれば、寿命を心配する必要もない。
俺の背後で、何かが目を開けた。
洞窟喰らいの魔蜘蛛の八つの目が、一斉に大きくなる。
俺には見えない。
見ない方がいい。
魔蜘蛛自身の恐怖が作った姿だ。
俺が形を知れば、想像にすぎないと理解してしまう。
俺が信じるのは一つだけ。
この蜘蛛は、俺の背後にいる何かへ必ず怯える。
魔蜘蛛の脚が震え始めた。
一歩、後ずさる。
効いている。
胸が高鳴る。
怖さだけではない。
興奮。
俺より圧倒的に強い魔物が、俺の嘘で後退した。
すごい。
これは、かなりすごい。
笑いそうになる。
だが、まだ終わっていない。
「遅い」
俺は低い声で言った。
実際には、五歳児の高い声だ。
それでも魔蜘蛛は、俺を見ていない。
俺の背後にいる何かを見ている。
「お前は、既に俺の領域へ入った」
魔蜘蛛がさらに下がった。
「逃げてもいい」
逃げ道を与える。
追い詰められた相手は、死に物狂いで反撃する。
逃げられると思わせれば、考える前に逃げる。
「ただし」
俺は笑った。
「後ろを向いた瞬間、食われるかもしれないけどな!」
洞窟喰らいの魔蜘蛛の身体が固まった。
前へ進めば死ぬ。
後ろを向いても死ぬ。
相手の中で、選択肢が消える。
俺は一歩近づく。
本当は怖い。
まだ脚が震えそうだ。
近づきたくない。
牙だけで俺の腕より大きい。
それでも、こちらが怯えれば虚像が弱まる。
俺は怖くない。
少なくとも、魔蜘蛛よりは。
そう信じる。
一歩。
さらに一歩。
『何をしておる』
ヴェルゴラが小声で言った。
「近づいています」
『見れば分かる! なぜ近づく!』
「逃げれば、俺が弱いと気づくかもしれない」
『だから近づくのか!』
「他に方法があります?」
『ないな!』
洞窟喰らいの魔蜘蛛の前まで来た。
近い。
臭い。
牙から落ちた緑色の液体が、石を溶かしている。
毒だ。
触れれば終わる。
俺は右手を上げた。
魔蜘蛛の頭には届かない。
届かなくてもいい。
「伏せろ」
魔蜘蛛の脚が折れる。
巨大な身体が床へ沈んだ。
ヴェルゴラが息を呑む。
俺の胸にも驚きが広がる。
本当に従った。
こんな巨大な魔物が。
俺の言葉で。
力で勝ったわけではない。
相手が勝手に負けた。
最高に気持ちがいい。
「いい子だ」
俺は言った。
少し調子に乗った。
その瞬間。
魔蜘蛛の前脚が動いた。
速い。
完全には信じていなかった。
反撃。
鋭い脚が俺の胸へ迫る。
避けられない。
死ぬ。
頭の中が真っ白になる。
帰りたい。
マナ。
怖い。
助けて。
その感情が一気に溢れた。
俺の背後にいる何かが、咆哮した。
地下遺跡全体が震える。
魔蜘蛛の脚が、俺の胸の直前で止まった。
赤い目に、完全な恐怖が浮かぶ。
洞窟喰らいの魔蜘蛛は、自分が背後の怪物に噛み砕かれたと信じた。
その瞬間。
黒い甲殻が内側からひび割れた。
緑色の体液が溢れる。
巨大な身体が激しく痙攣し、そのまま床へ崩れ落ちた。
俺は動けなかった。
魔蜘蛛の脚は、胸のすぐ前で止まっている。
あと少し。
本当に少し遅ければ、身体を貫かれていた。
「……死ぬかと思った」
声が震える。
隠せなかった。
膝から力が抜け、その場へ座り込む。
手も震えている。
歯まで鳴りそうだ。
勝った。
けれど、格好よく勝ったわけではない。
本当に運が悪ければ死んでいた。
自分が天才だから勝てた。
そんな風に思うのは危険だ。
最後の反撃を予測できなかった。
俺の失敗だ。
怖い。
それでも、生きている。
『貴様』
ヴェルゴラが倒れた魔蜘蛛を見る。
『初めて使った《虚王顕現》で、洞窟喰らいを倒したのか…』
「倒したのは、蜘蛛自身です」
強がって答える。
本当は、しばらく座っていたい。
泣きたい。
五歳児なのだから、泣いても許されるはずだ。
だがヴェルゴラの前で泣くのは、何か嫌だった。
「相手が死んだと信じれば、身体もその認識へ近づく」
『簡単に言うな。あれほど強く信じ込ませられる者など――』
ヴェルゴラが言葉を止める。
俺を見る。
その顔に、初めて明確な警戒が浮かんでいた。
いい。
契約相手には、少しくらい怖がられる方がいい。
俺は震える足で立ち上がる。
魔蜘蛛の死体へ近づく。
寿命一日。
さらに金貨の試験に使った一分。
合計一日と一分。
一日以内に返済しなければ、その時間は永遠に戻らない。
「生命力の返済方法は?」
『死体へ触れ、我が名を呼べ』
俺は魔蜘蛛の硬い甲殻へ手を置いた。
まだ温かい。
「虚飾の悪魔ヴェルゴラ」
胸の中の契約へ意識を向ける。
「契約に基づき、この洞窟喰らいの魔蜘蛛が残した生命力を、代償の返済へ充てる」
黒い光が、魔蜘蛛の身体から浮かび上がった。
煙のような光が俺の腕を伝い、胸へ流れ込む。
一部は黒い本へ吸い込まれた。
頭の中に赤い文字が浮かぶ。
――回収した生命力、人間寿命換算三十七日。
想像より多い。
魔物一匹の生命力は、人間の寿命一日より遥かに大きいらしい。
――未返済代償、一日と一分。
――返済を実行。
胸の奥から抜けていたものが戻ってくる。
感覚だけだ。
実際に一日若返ったわけではない。
だが、自分の時間が返還されたことは分かる。
ほっとした。
かなりほっとした。
寿命が一日減る程度、大したことはない。
さっきまではそう思おうとしていた。
だが、戻ったと分かると嬉しい。
人間は、自分の命へ随分と執着する。
俺も例外ではない。
――返済完了。
――余剰生命力、三十五日と二十三時間五十九分。
「余った生命力は?」
『保存用の器がなければ、間もなく散る』
「もったいない」
『今の貴様の身体へ、一部なら蓄えられる』
「危険は?」
『許容量を超えれば、肉体が生命力に耐え切れず壊れる』
「俺の許容量は?」
『五歳の身体ならば、人間寿命換算一日程度だ』
それ以上は危険。
なら、一日分だけ体内に蓄える。
次に禁術を使った際、すぐ返済できる。
「一日分を俺の身体へ保存してください」
『契約書には、我が保存作業へ協力する義務は――』
「あなたも余剰分を得られるでしょう?」
ヴェルゴラが黙る。
残りの生命力は、このまま散る。
俺へ一日分を保存させても、悪魔は残りを回収できる。
損はない。
『よかろう』
黒い光の一部が胸の火種へ沈む。
身体がわずかに熱くなった。
力が満ちる。
魔力ではない。
生命そのものを余分に持っている感覚。
残りの光は、ヴェルゴラと黒い本へ吸収された。
小さな悪魔の身体を包む炎が、一瞬だけ強くなる。
『悪くない生命力だ』
満足そうだ。
やはりヴェルゴラにとっても利益がある。
契約直後から魔物一匹分の生命力を得た。
自分が騙されたなどとは思っていないだろう。
俺も寿命を失わず禁術を使えた。
互いに得をした。
少なくとも今は。
俺は倒れた洞窟喰らいの魔蜘蛛を見る。
怖かった。
本当に怖かった。
だが、生きている。
禁術を使った。
魔物を倒した。
支払いも済ませた。
胸の奥に、じわじわと喜びが広がる。
「悪くない」
俺はつぶやいた。
『何がだ』
「この力です」
『当然だ!』
ヴェルゴラが胸を張る。
俺は少し笑った。
「あなたではなく、俺との相性が」
『貴様ァ!』
悪魔の怒鳴り声が地下へ響く。
俺は笑った。
今度はこらえなかった。
怖かった分だけ、笑いたかった。
生きている。
力を得た。
帰れば、マナに怒られる。
その全部が、少し嬉しかった。
だが。
遺跡のさらに奥。
暗闇の中から、低い呼吸音が聞こえた。
先ほど俺が作った、洞窟喰らいの魔蜘蛛の捕食者。
虚像は、術の終了と同時に消えたはずだ。
胸の黒い火も静まっている。
それなのに。
暗闇の中で、巨大な金色の瞳が一度だけ開いた。
俺は笑うのをやめた。
「ヴェルゴラ」
『何だ』
「今の虚像は、もう消えていますよね?」
『術は終わっておる』
「では、あれは?」
闇の向こうで、何かが爪を立てる。
石の床が削れる音。
ガリ。
ガリ。
先ほどまで存在しなかった何かが、そこにいる。
『《虚王顕現》は、嘘を真実へ近づける禁術だ』
ヴェルゴラの声から、先ほどまでの尊大さが少しだけ消えていた。
『強すぎる認識を与えれば、虚像が術者の手を離れることがある』
「契約前に聞いていませんが」
『契約書には、禁術の全てを説明するとは書かれておらぬ』
こいつはまたムカつくことを…。
次に契約を結ぶ時は、絶対に説明義務を入れる。
暗闇の中で、金色の瞳が再び開く。
先ほどより近い。
『気をつけよ、クライ・マイト』
小さな悪魔は、わずかに笑った。
『貴様の嘘は、いつか貴様自身でも止められなくなるぞ』




