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詐欺転生〜詐欺師は禁術で世界を騙す〜  作者: キラーダミズハ
第一章 詐欺師の第一歩
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第1話 捨てられた詐欺師

人は死ぬ間際に、人生の走馬灯を見るらしい。


結論から言えば、あれは嘘だ。


少なくとも俺が最後に見たものは、懐かしい思い出でも、愛した誰かの笑顔でもなかった。


薄暗い倉庫。

錆びた椅子。

床へ広がる、自分の血。


そして、正面に立つ男の顔だった。


「……悪いな」


男は、今にも泣きそうな声で言った。

俺が生まれて初めて、親友と呼んだ男だった。


小学校からの付き合い。学校が変わるたびに人間関係を捨ててきた俺が、唯一切らなかった縁だ。


そいつが今、俺をギャングへ売った。


随分と感動的な友情である。


「お前と一緒にいたら、いつか俺まで殺されると思ったんだ…」


男は言い訳を続けた。


「仕方なかった。俺にだって家族がいるんだ…!」


仕方なかった。


便利な言葉だ。

人間は、自分が悪人だと認めるのを嫌う。


誰かを裏切った時も

金を奪った時も

弱い人間を見捨てた時も


仕方がなかった

他に方法がなかった

相手にも原因があった


そうやって、自分が眠れるだけの理由を後から作る。

俺は、その習性を利用して金を稼いできた。


政治家。

汚職警官。

麻薬組織。

人身売買業者。


表では善人を演じ、裏で他人を踏みつけている連中。


そいつらが隠している金を探し出し、もっともらしい投資話や架空取引を持ちかけ、自分の意思で俺へ金を振り込ませる。


俺の職業は、詐欺師だ。


善人から金を奪う詐欺は三流だ。


悪人に、自分から金を差し出させるのが一流である。


少なくとも、俺はそう思っていた。


「一つ、聞いていいか?」


声を出すたび、胸の奥が痛む。

蹴られた肋骨が肺へ刺さっているのかもしれない。

医者ではないから分からない。


ただ、長くは持たないことだけは分かった。


「……何だよ」


「俺をいくらで売った?」


男は答えなかった。


視線が、ほんの一瞬だけ右下へ動く。


相変わらず、嘘が下手だ。


「2億か」


男の肩が跳ねた。


図星。


俺は思わず笑った。


そのせいで血を吐いた。


「安いな」


「黙れ!」


「17年分の友情が2億円。年額にすれば約1176万円。月額なら100万円を切る」


息を整える。


「サブスクとしては、なかなか良心的だ」


男が俺の胸倉をつかんだ。


「お前は、最後までそうやって人を馬鹿にして……!」


「違う。褒めてる」


本当に、悪い取引ではない。


俺は死ぬ。

こいつは二億を得る。

ギャングは俺から奪った情報で、数十億か、それ以上を回収する。


俺以外は得をする。


それが少しだけ気に食わない。


いや、かなり気に食わない。


「普通に生きればよかったんだ…」


男が吐き捨てた。


「お前なら何にだってなれただろ。医者でも、弁護士でも、会社の社長でも…」


普通。


その言葉だけが、妙に胸へ残った。


普通の会社で働く。結婚する。休日に家族と出かける。

子供が生まれたら、面倒だと言いながら写真を撮る。

そんな暮らしを想像したことがなかったわけではない。


金はあった。

働かなくても暮らせる程度には。


家もあった。

一人で住むには広すぎる家だった。


けれど、そこで一緒に飯を食う相手はいなかった。


たまに帰ってくる親友を除けば。


その男も、今は俺を見下ろしている。


「……そうだな」


自分でも意外な言葉が出た。


「結婚くらい、しておけばよかった」


「……は?」


「子供も、悪くなかったかもな」


男が黙った。


俺自身、なぜそんな話をしたのか分からない。


死ぬ前だからだろうか。


人生の最後に、本当に欲しかったものへ気づくなんて、あまりにありふれている。


俺は、ありふれた人間ではないつもりだった。


だが結局のところ。


金をいくら積んでも、一人で死ぬのは少し寂しい。


その程度の、普通の人間だったらしい。


認めるのは腹立たしいが。


「次があるなら……」


俺は目を閉じた。


「もう少し、上手くやるさ」


「来世なんて信じてるのか?」


「信じてない」


息が苦しい。


指先の感覚もなくなってきた。


「だが、死にかけの人間に売る商品としては悪くない」


遠くで銃声が鳴った。


誰かの怒鳴り声。


倉庫の外が騒がしくなる。


警察か

別の組織か


どちらでもいい。


もう俺には関係がない。


最後に頭へ浮かんだのは、裏切った男への憎しみではなかった。


ああ…

死ぬの、怖いな……


それを誰にも言えなかったことが、少しだけ悔しかった。


――次は、死ぬ時くらい誰かに手を握ってもらおう。


そこで、俺の意識は途切れた。


◇


次に目を覚ますと、真っ白な空間にいた。


目を覚ました、という表現が正しいかは分からない。


身体がない。

手足もない。

呼吸もしていない。


それでも、俺が俺であることだけは理解できた。


目の前に、一人の女が座っていた。


長い銀髪。


白い法衣。


整いすぎて、どこか作り物めいた顔。


その背後には、巨大な天秤が浮いている。


「目覚めましたか」


女は感情の薄い声で言った。


役所の受付に近い。


神秘的というより、手続きを進めたがっている職員に見える。


「ここは?」


「魂を次なる生へ送るための、天秤の間です」


「宗教の勧誘なら間に合っています」


「あなたは死亡しました」


「知っている」


女の眉が、ほんのわずかに動いた。


反応を隠すのは上手い。


だが、完璧ではない。


「私は秩序神セレディア。複数の世界における、魂の転生を管理しています」


「神様か」


「驚かないのですね」


「死後の世界で椅子に座っている銀髪の女が、自分は市役所職員ですと名乗る方が驚く」


セレディアは不服そうに俺を見つめた。


正確には、魂とやらを観察しているのだろう。


セレディアの前に、分厚い書類が現れた。


「あなたの生前の行いを確認しました」


嫌な予感がする。


「詐欺、恐喝、身分詐称、私文書および公文書の偽造、不正侵入、資金洗浄――」


「被害者の内訳は?」


「何ですか?」


「一般市民と犯罪者を同じ欄へ入れるのは、記録として雑だと言っています」


「罪は、被害者によって変わりません」


「では、犯罪組織から奪った金を、被害者支援団体へ匿名で流した件は?」


「善行を一つ行っても、罪は消えません」


「消えるとは言っていない。帳簿の片側だけ読むなと言っている」


俺は別に、善人として評価されたいわけではない。


寄付も罪滅ぼしではなかった。


悪人から奪った金を自分一人で使っても、使い切れなかっただけだ。


それでも、都合の悪い部分だけを切り取られると反論したくなる。


面倒な性格である。


セレディアの指に、わずかに力が入った。


「あなたには、三つの転生先が提示されます」


俺の前に三枚の紙が浮かんだ。


一つ目。


記憶を失い、平凡な農家の次男として転生する。


二つ目。


記憶を保持し、裕福な商家へ転生する。


ただし、秩序神への絶対服従を誓う。


三つ目。


記憶を保持したまま転生する。


ただし、出生、能力、家族、環境についてランダム、いかなる保証も受けない。


「一つを選びなさい」


「その前に、契約の全文を」


「表示されている内容がすべてです」


「契約書で“これがすべて”と言う者は、たいてい裏面に何か書いているのが定石だ」


「神を疑うのですか?」


「神であることを証明する書類も見ていませんので」


セレディアの周囲の空気が冷えた。


次の瞬間、三枚の紙に細かな文字が浮かび上がる。


やはりあった。


・免責事項

・魂の所有権

・記憶保持の条件

・転生先における管理者の責任範囲

・選択を拒否した場合の処遇


人間は死んでも規約を読まないらしい。


神も、それを前提に契約を作っている。


俺は一行ずつ確認した。


文字は見たことがない。

それでも意味が直接頭へ入ってくる。

魂へ翻訳されているのだろう。


便利だ。


そして見つけた。


「第十二条」


俺は言った。


「転生者が選択を拒否した場合、管理者は当該魂に最適な処遇を決定できる」


「その通りです」


「一方、第七条には、管理者は転生者の自由意思を不当に侵害してはならない、とある」


セレディアが黙った。


「俺は三つとも選ばない」


「拒否した場合、私が処遇を決めます」


「自由意思を不当に侵害しない範囲で」


「あなたの希望をすべて認める義務はありません」


「もちろん」


俺は続ける。


「ただし、用意した三択以外を検討せず、不利益な処遇を一方的に与えた場合、それは自由意思の侵害と解釈できる」


「神の契約へ、人間の解釈を持ち込むつもりですか」


「契約は、両者が言葉の意味を共有して初めて成立する」


俺は紙を見上げた。


「神だけが意味を決められるなら、これは契約ではなく命令です」


巨大な天秤が揺れた。


金属音が白い空間へ響く。


セレディアの瞳に、初めて明確な感情が浮かんだ。


怒り。


そして、その奥に好奇心。


「では」


彼女は言った。


「あなたは何を望むのですか?」


「前世の記憶を保持すること」


「それだけですか?」


「それだけでいいです」


「強大な魔力は?」


「要りません」


本当は少し欲しい。

せっかく異世界へ行くのなら、魔法くらい使ってみたい。


だが無料で渡される力ほど怖いものはない。


後から魂を回収されても困る。


「英雄の血筋は?」


「要りません」


裕福な家は少し惜しい。

かなり惜しい。


だが、親も家族も選べない。

新しい家族を得ても、また裏切られない保証はない。


そう考えた瞬間、胸の奥がわずかに痛んだ。


次は普通の家庭も悪くない。

死ぬ前には、そう思ったはずなのに。

いざ与えられそうになると、怖くなる。


我ながら面倒な男だ。


「健康な肉体は?」


「保証は不要です」


これは強がりだった。


病弱な身体は困る。

赤子のまま死ぬのも御免だ。


しかし、ここで一つ認めれば、次も欲しくなる。

そして最後には、神が用意した都合のいい人生を買わされる。


相手が提示した幸福は、相手が奪える幸福でもある。


「記憶以外は、そちらに任せます」


「能力も、地位も、家族も?」


「保証された商品ほど、仕掛けを疑うべきでしょう?」


セレディアは俺を見つめた。


長い沈黙。


少し怖い。


神が本気で怒れば、魂ごと消されるのではないか。


俺は表面上は平静を保ちながら、内心ではかなり後悔していた。

さっきまで死んでいたのに、もう一度死ぬのは嫌だ。


もっと穏便に話すべきだったか。


神様に喧嘩を売る人間は、普通に考えて馬鹿である。

だが、今さら態度を変えるのも悪手だ。


相手へ弱気を見せれば、そこから条件を崩される。


セレディアの口元が、ゆっくり上がった。


慈愛の笑みではない。


珍しい玩具を見つけた人間の顔だった。


「承認します」


天秤が大きく傾いた。


足元に黒い穴が開く。


「前世の記憶を保持したまま、新たな世界へ送りましょう」


「随分と素直ですね」


「ただし」


来た。


「あなたが望まなかったものについて、私は一切保証しません」


「契約通りです」


「出生も」


「ええ」


「家族も」


「承知しています」


「生存さえも」


一瞬、返事に詰まった。


怖い。

普通に怖い。


記憶が残っていても、生まれた直後に死んだら意味がない。


だが、もう契約へ合意した。

ここで泣きつけば、全てが台無しになる。


「構いません」


俺は答えた。


声が震えなかったことだけは、自分を褒めたい。


「その言葉を、後悔しないことです」


「後悔は、生き残ってからします」


身体のない魂が、穴へ沈み始める。


最後に、セレディアの声が聞こえた。


「ようこそ、ゴーネットバガラハマへ」


長い。


世界の名前として、致命的に長い。


略称を考えなければならない。


そんな、どうでもいいことを考えながら。


俺は闇の中へ落ちた。


◇


寒い。


臭い。


苦しい。


次に意識を取り戻した時、顔には湿った布が張りついていた。


どけようとする。


腕がまともに動かない。


指も小さい。


視界もぼやけている。


声を出そうとすると、口から情けない泣き声が漏れた。


「あ、ぎゃあ……!」


その声を聞いて、理解した。


赤ん坊だ。


俺は赤ん坊になっている。

しかも、柔らかな寝台ではない。


背中に当たるのは硬い木。

周囲には腐った野菜。

割れた瓶。

濡れた布。


どうやら俺は、ごみ箱へ捨てられていた。


上を見る。


細い路地。

黒ずんだ石壁。

傾いた建物。

頭上を覆う洗濯物。

遠くで怒鳴り声。

何かが腐った臭い。


良い知らせが一つ。

異世界転生には成功した。


悪い知らせ。

開始地点が、想像以上にひどい。


「……あぅ」


言葉にならない。


身体が冷えている。

腹が空いている。

呼吸も浅い。

このままでは死ぬ。


もしかすると、数時間も持たない。


笑えてくる。


いや、実際には笑えない。

口の筋肉が言うことを聞かない。


神様め。


一切保証しないとは言っていた。


確かに契約違反ではない。

腹立たしいほど正しい。


俺は泣いた。


「あぎゃあああっ!」


助けを求めるためだ。


だが、誰も来ない。


足音が通り過ぎる。


一人。


二人。


三人。


誰も立ち止まらない。

声が枯れていく。

恐怖が湧いた。


また死ぬ。


今度は、何もできないまま。

前世では少なくとも、自分の選択で危険な仕事をした。


今回は、生まれた場所だけで死ぬ。


嫌だ。


そんなのは絶対に嫌だ。

泣き続けながら、必死に考える。


赤ん坊の俺に何がある。


金はない。

言葉も使えない。

歩けない。

前世の知識も、この身体では役に立たない。


いや。


一つだけある。


泣き声。


赤ん坊の泣き声は、周囲の注意を引くためにある。


だが、ただ泣くだけでは駄目だ。


この場所の人間は、泣き声に慣れている。

毎日どこかで誰かが泣いている。


ならば、相手を選ぶ。


俺は一度、泣くのを止めた。


喉が焼けるように痛い。


耳を澄ます。


軽い足音。


子供。


通り過ぎる。


革靴の硬い音。


男。


早足。


反応する可能性は低い。


布を引きずる音。


ゆっくりした足取り。


息切れ。


女性。


俺は、その足音が最も近づいた瞬間に泣いた。


「あぎゃあああああっ!」


足音が止まった。


「……赤ちゃん?」


女の声。


やった。


心の中で小さく拳を握る。

実際の拳はほとんど動かなかった。


女がごみ箱をのぞき込む。


痩せた女性だった。


三十歳前後。

疲れ切った顔。

粗末な服。


そして、胸元の布が少し濡れている。

乳が出る…可能性がある。


女は俺を見て、顔を歪めた。


「誰が、こんなところに……」


俺は泣きやんだ。


女の目を見る。

視界はぼやけているが、顔の方向くらいは分かる。


人間は、自分の行動に意味を求める。

泣いていた赤ん坊が、自分を見た途端に泣きやんだ。


それだけで、自分が必要とされたと思う。


女が俺を抱き上げる。


温かい。


それだけで、涙が出そうになった。

赤ん坊なので、実際に涙は出ていた。


俺は女の指を握る。

ほとんど力は入らない。


それでも、女は息を呑んだ。


「私のことが分かるの?」


分かるわけがない。


今日初めて会った。

だが、否定する理由もない。


俺はもう一度、女の指を握ろうとした。

偶然に近い動きだった。


それでも女は、そう受け取らなかった。


「お腹が空いているのね」


女の目から涙が落ちる。


「ごめんね。寒かったね」


胸の中に、妙な罪悪感が生まれた。


彼女を利用している。


亡くした何かを、俺に重ねていることも分かる。


それでも。


死にたくない。

俺は善人ではない。

相手の傷につけ込んででも、生きる。


それでいい。


……いいはずだ。


俺は生まれて初めての詐欺を成功させた。


転生から、おそらく一時間も経っていなかった。


◇


女の名前は、マナといった。


夫は病で亡くなった。

生まれたばかりの息子も、数日前に熱病で失ったらしい。

胸に乳が残っていたのは、そのためだった。


彼女は俺を自宅へ連れて帰り、乳を飲ませてくれた。


温かかった。


空腹が満たされると、急激に眠気が襲ってきた。

大人の頭のまま、赤ん坊の身体に入るのは不便だ。

考えたいことは山ほどあるのに、身体が勝手に眠ろうとする。

眠れば、その間に捨てられるかもしれない。


怖かった。


だから、マナの服を握った。


弱い指で。


彼女はそれを見て、泣いた。


「大丈夫よ」


優しい声だった。


「もう置いていかないから」


信用するな。


俺は自分へ言い聞かせた。

人間は簡単に約束を破る。

今日優しくても、明日には変わる。


金がなくなれば。

病気になれば。

他に大切なものができれば。


俺は捨てられる。


分かっている。


なのに、彼女の声を聞くと安心した。


眠ってしまった。


目を覚ました時も、俺はマナの腕の中にいた。


その事実が、少しだけ嬉しかった。


認めたくはなかった。


◇


マナには、俺を育て続ける余裕がなかった。


洗濯仕事で得る金は少ない。

部屋は狭く、雨漏りしている。

自分一人が生きるだけでも苦しい。


それでも彼女は、一週間俺へ乳を与えた。


俺は彼女が出かける時だけ泣き、戻ってくると泣きやんだ。


抱かれれば服を握った。


亡くした子供の代わりを演じた。


最低だと思う。


だが、赤ん坊の俺には他に売れる商品がない。


七日目。


マナは俺を、スラムの共同寝床へ連れていった。

捨て子や孤児、身寄りのない老人が身を寄せる場所だ。


管理人の老婆は、俺を見て顔をしかめた。


「また口が増えるのかい」


「お願い」


マナは頭を下げた。


「私の今月の稼ぎを全部渡すから」


「足りないね」


「来月も払う」


「あんたまで飢えるよ」


「でも、この子を外へ戻すわけには……」


老婆は俺を見た。


左手に包帯。

腰をかばう歩き方。

奥から子供の咳。

食料は少ない。


この老婆は冷たいのではない。


計算している。


赤ん坊一人を受け入れれば、他の子供の食事が減る。

善意だけで全員を救おうとすれば、全員が死ぬ。


俺は泣かなかった。

泣いて同情を誘っても、この老婆には逆効果だ。

既に大勢の子供を見ている。


代わりに笑った。

赤ん坊の笑顔。


前世の俺がやれば不気味だが、今なら商品になるはずだ。


老婆は眉をひそめる。


「気味の悪い子だね」


赤子でも俺の笑顔はダメみたいだ。


しかし、その言葉とは裏腹に、俺を抱き上げた。


「泣きもしない」


俺は老婆の包帯を巻いた指へ触れる。


偶然を装って。

彼女の目が少しだけ柔らかくなった。


「仕方ないね」


交渉成立。


マナが息を吐いた。

安心している。


だが、その表情の奥には寂しさもあった。


俺は胸の奥がざわつくのを感じた。

助かった。


なのに、嬉しいだけではない。

マナと離れたくないと思っている。


たった一週間だ。


そんなはずはない。

俺は彼女を利用しただけだ。


そう考えた。


けれど、マナが帰ろうとした瞬間。


俺は泣いた。


計算ではなかった。

身体が勝手に泣いた。


「ああ、大丈夫」


マナは戻ってきて、俺を抱いた。


「毎日、会いに来るから」


その言葉を、信じたくなった。

怖かった。


人を信じるのは、裏切られる準備をすることだ。

それでも、この時だけは。


信じてもいいかもしれないと、少しだけ思った。


◇


俺の名前は、クライになった。


マナが亡くした息子につける予定だった名だという。


姓はなかった。


スラムの捨て子に姓はない。

だから、自分でマイトとつけた。


前世で何度か使った偽名だった。

意味は特にない。

響きが気に入っていたし、この名前を使った詐欺は全て成功したからだ。


クライ・マイト。


まあ、悪くない。


それから五年。


俺は生き延びた。


決して美しい方法ではない。


ごみを漁った。

市場の食べ残しを拾った。

野犬が縄張りへ入ってこないよう、餌場を別の場所へ作った。

酔っ払いには、亡くした息子と同じ名前を名乗った。

神官の前では、祈りを熱心に聞く子供を演じた。

商人の前では、数字に強い働き者を演じた。


相手が欲しがる子供になった。


ただし、前世と違う部分もあった。


マナは、本当に毎日会いに来た。


雨の日も。

仕事で疲れた日も。

食べ物を持ってこられない日は、俺の髪を撫でるだけだった。


俺は彼女から読み書きを習った。

この世界の文字は、最初こそ奇妙に見えた。


だが、法則を掴めば難しくない。


前世の記憶に加え、赤子の柔らかい頭がある。


三歳で日常的な文章を読めるようになった。

四歳で、商人の帳簿を盗み見て計算方法を覚えた。

五歳になる頃には、簡単な契約書や公示なら読み書きできた。


ただし神殿の公式文書は別だ。


一般文字に神聖文字を混ぜた、神官書記だけが扱う公式書体が使われている。


形を真似るだけでは駄目だ。

書き順と祈句によって、文字そのものに微かな神聖力が宿る。


偽造防止としては、なかなか優秀である。

いずれ利用できるかもしれない。


俺はスラムと王都の地理も覚えた。


市場。

神殿。

冒険者ギルド。

貧民向けの診療所。

奴隷商が出入りする裏通り。

灰鼠団というギャングの集金場所。


誰が誰を嫌い、どの店が盗品を買い、どの神官が酒に弱いか。


生きるために必要な情報は、自分で集めた。


この世界へ来て五年。


俺は既に、この街の大人の多くより街を知っていた。


それでも、足りない。


一人の目で拾える情報には限界がある。

子供の俺が近づけば警戒する場所もある。

女同士でしか話さない噂もある。


いずれ、別の目と耳が必要になる。


だが、人を仲間にするのは怖かった。


使うだけならできる。

信じるのは難しい。


前世の最後が、頭から離れなかった。


五歳の誕生日。


誰も正確な生まれた日を知らないため、マナに拾われた日を誕生日と決めていた。

彼女は小さな黒パンを一つくれた。


普段より少しだけ柔らかい。


「おめでとう、クライ」


「ありがとうございます」


「五歳の子供って、もっと子供らしく喋るものだと思うんだけどねえ」


「個人差です」


マナが笑う。


俺も少し笑った。


胸がむず痒い。

誕生日を祝われるなんて、前世でもほとんどなかった。


嬉しい。

かなり嬉しい。


だが、素直に喜ぶのは恥ずかしい。


「今日はゆっくり過ごしなさいよ?また森の奥へ行っちゃ駄目だからね」


「行きません」


嘘ではない。


その時点では、本当に行くつもりはなかった。


◇


昼過ぎ。


俺は森の奥にいた。


仕方がない。


共同寝床の食料が予想より早く減っていた。

昨日の雨で市場の廃棄物も少ない。

春先の森には、食べられる山菜と鳥の卵がある。

危険はあるが、よく知る範囲なら問題ない。


マナに言えば止められる。


だから言わなかった。

これは嘘ではない。


報告を省略しただけだ。

自分でも苦しい理屈だと思う。


森の地形はある程度把握している。


魔物が出やすい場所。

毒草の群生地。

猟師が罠を置く区域。


いつもの範囲で食料を集める。


予定だった。


だが、倒れた木の根元で、地面から風が吹いていることに気づいた。


不自然だ。


俺は蔦をどけた。


そこに、小さな穴があった。


子供一人なら、どうにか通れる。

大人には無理だ。


中から、青白い光が漏れている。


「……絶対に危ないな」


口に出して確認する。


危険だ。

露骨に危険だ。


入る理由はない。


今日は誕生日だ。


黒パンももらった。


死にたくない。


普通に帰るべきだ。


俺は穴の前で、かなり長い時間迷った。

好奇心で命を捨てるのは馬鹿だ。

自分が天才だと思っている人間ほど、未知の危険を軽く見る。

そういう連中が破滅する姿を、前世で何度も見た。


帰ろう。


俺は立ち上がった。

三歩進んで、止まる。


誰も入れない場所。

誰も回収していない価値。

青白い光。

古代の遺物。


もしかすると、金になる。


共同寝床の食料を買える。

マナに、もう洗濯仕事をしなくてもいいと言えるかもしれない。


もちろん、そんな都合のいいものがある保証はない。


むしろ魔物の巣である可能性の方が高い。


「少し見るだけだ」


誰に対する言い訳か分からない。


穴の入口だけ確認する。

危険ならすぐ戻る。

奥までは行かない。


五歳児とは思えないほど、見事な死亡前の台詞だった。


俺は腹ばいになり、穴へ身体を滑り込ませた。


狭い。


土が服へ入る。


途中で何度も引き返したくなる。

背後が崩れたら出られない。

前に何かいれば逃げられない。

心臓が速い。


怖い。


それでも進む。


数分後。


突然、視界が開けた。


地下に、巨大な空間が広がっていた。


石造りの柱。

崩れた像。

床一面に描かれた文字。


古代文字だ。


現代の一般文字とは構造が違う。


一部しか読めない。

だが、警告を示す記号は分かった。


封印。

災厄。

契約。

帰れ。


そういう意味の言葉が並んでいる。


帰るべきだ。

本当に。


俺は何度目か分からない忠告を、自分へ送った。


それでも中央へ目を向ける。


一冊の本が置かれていた。


人間の胴体ほどもある、巨大な黒い本。

表紙には七十二個の金具。


太い鎖で台座へ縛られている。

鎖の多くは腐食し、床へ落ちていた。


見るからに危険。

触った人間が死ぬ類の品だ。


胸が高鳴った。


怖いからだけではない。

少し興奮している。


未知のもの。

誰も知らない価値。

自分だけが最初に見つけた商品。


前世で巨大な詐欺の仕組みを思いついた時と同じ感覚だった。


俺は、この感覚が好きだった。

金を得る瞬間ではない。

誰も気づいていない穴を見つけた瞬間。

世界の仕組みを、自分だけが一歩先に理解した瞬間。


それが楽しかった。


「見るだけ」


俺は言った。


今度こそ、誰が聞いても嘘だった。


本へ近づく。

表紙の文字を読む。

現代語ではない。


だが、触れなくても意味の一部が頭へ入ってきた。


背神(アポスタシア)契約大典(・グリモワール)。


禁術。

神へ背く術。

悪魔。

契約。


俺は息を呑んだ。


普通の魔法を使える人間は、精霊や神の加護を持つ。


スラムでも常識として知られている。


魔力量や適性は、生まれつき決まる。


俺には魔力がなかった。


三歳の時、神殿の簡易測定で判明している。


測定石は一切光らなかった。


神官には同情された。

マナは気にするなと言った。


俺も表面上は気にしていないふりをした。

だが、少し悔しかった。


異世界へ来たのに魔法が使えない。

剣術の才能もない。

身体もまだ小さい。

頭以外に武器がない。


別に、それでも生きていける。


そう思っていた。


だが。


禁術なら。


通常の魔力がない俺にも、使えるかもしれない。

期待が生まれる。


危険だ。


人間は期待した瞬間、都合の悪い情報を見なくなる。

自覚しているのに、足が止まらない。


俺は黒い本へ手を伸ばした。


触れる直前で止める。


本当にいいのか。

マナの顔が浮かぶ。


帰りが遅くなれば心配する。

もし死ねば、また子供を失わせる。


それは嫌だった。

怖かった。

死ぬのも。


マナを悲しませるのも。


俺は手を引こうとした。


その瞬間。


本の表紙にある金色の目が開いた。


「え」


黒い鎖が動く。

俺の手首へ巻きつく。

逃げようとしたが遅い。

指先が、黒い表紙へ触れた。


世界が暗転した。


黒い炎が吹き上がる。

地下空間全体が震えた。


『よくぞ我が封印へ触れた!』


耳ではない。

頭の中へ、直接声が響く。


『矮小なる人の子よ!』


炎の中から、巨大な影が現れた。


山羊の角。

四枚の翼。

金色の瞳。

天井へ届くほどの巨体。


存在しているだけで、身体が震える。


逃げろ。

頭より先に、本能が叫んだ。


足が動かない。

腰が抜けそうになる。


五歳児の身体が、正直すぎる。


怖い。

めちゃくちゃ怖い。


前世で銃を向けられた時より怖い。

これは人間ではない。


話が通じる保証すらない。


『我が名はヴェルゴラ!』


巨大な悪魔は両腕を広げた。


『虚飾と偽王を司る、古代最強の大悪魔なり!』


古代最強。


自分から言うのか。

少しだけ恐怖が薄れた。


前世にもいた。


自分で「業界最大手」「世界最高水準」「絶対に儲かる」と言う人間。


本当に強い者は、わざわざ自分で言わない。

もちろん、こいつが本当に最強である可能性もある。


だが、少なくとも虚栄心は強い。


虚飾の悪魔。


名前通りらしい。


『我が封印を解きし者よ!』


別に解いてはいない。

勝手に鎖が巻きついた。


『汝が望むならば、世界を焼き払う禁断の力を授けよう!』


なんか、やべぇものを見つけてしまった。


禁断の力。

魅力的だ。


使えるなら欲しい。

かなり欲しい。


魔力がない自分でも、強者へ対抗できるかもしれない。


スラムの連中を守れる。

灰鼠団を追い払える。

金も稼げる。

王族や貴族に頭を下げずに済む。


頭の中へ、都合のいい未来が次々浮かぶ。


だからこそ危険だ。


相手は悪魔。


無料で力を配る慈善団体ではない。

必ず代償がある。


しかも、こちらが興奮している時に契約を急がせようとしている。


典型的な手口だ。


『さあ、我が前へ跪け!』


ヴェルゴラが声を響かせる。


『血を捧げ、魂の契約を結ぶのだ!』


契約。


その言葉を聞いた瞬間、恐怖の中に慣れた感覚が混ざった。


契約なら、話は別だ。


契約には相手がいる。

条件がある。

向こうも何かを欲しがっている。


つまり、交渉できる。


悪魔は巨大だ。


俺は五歳児。


力で争えば一秒で終わる。


だが、契約の場なら。

身体の大きさは関係ない。


少なくとも、そう思い込まなければ話にならない。

手の震えを隠すため、服についた土を払う。


呼吸を整える。

怖くないふりをする。


実際には、今すぐ穴へ逃げ帰りたい。

だが逃げれば、二度とこの機会は来ないかもしれない。


それに、ここで背を向けて殺されない保証もない。


ならば、

一番得になる道を選ぶ。


俺は悪魔を見上げ、できるだけ穏やかに笑った。


「ええ!」


声が少し高い。


五歳児だから仕方がない。


「大変、興味深いお話です!」


『ほう! 我を前にして恐れぬか、人の子よ!』


怖い。

ものすごく怖い。


「契約の内容次第では、前向きに検討させていただきます!」


『ならば、今すぐ血を捧げよ!』


「その前に…」


俺は右手を差し出した。


前世で何百人もの悪党から金を引き出した時と同じ笑顔で。

内心では、頼むから怒って殺さないでくれと思いながら。



「契約書を、まず見せていただけますかね?」



悪魔の笑い声が止まった。

地下遺跡に、気まずい沈黙が落ちた。


第五の人生どころか、二度目の人生すら始まったばかりだ。

それでも俺は、少しだけ楽しくなっていた。


相手が悪魔だろうと。

契約を持ちかけてきた時点で。



そこは、俺の土俵だ。

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