第10話 必ず連れて帰る
日没の鐘が鳴る直前。
共同寝床の奥には、五人分の寝床が並べられていた。
元から置かれていた藁の寝台を詰め、新しく空けた場所に毛布を敷いている。
鍋の中には、いつもより少し濃い豆のスープ。
ノアが何度も味を確認し、マナは古い衣服を子供用に仕分けていた。
「本当に、五人も来るのよね?」
マナが尋ねる。
「予定では」
「どんな子たち?」
「年齢も種族もばらばらです。あと全員、少し弱っていますね」
薬で眠らされていた。
その部分は言わない。
「黒冠商会が保護する子供?」
「ええ」
これは本当だ。
少なくとも、俺が保護すると決めた。
マナは深く事情を聞かなかった。
黒冠商会が灰鼠団を助けたことは、既にスラム中へ広がっている。
謎の商会。
顔のない執行役。
黒い仮面の監査役。
今では共同寝床の子供たちまで、黒冠商会を恐ろしいが頼れる組織だと信じていた。
「扉が光ったら」
俺はノアへ説明する。
「俺が三回、間を空けて一回叩きます」
「三回と、一回」
「違う音だった場合は、絶対に開けない」
「マナさんを呼ぶ」
「それから灰鼠団へ知らせる」
ノアは真剣な顔でうなずいた。
「クライは、扉の向こうから帰ってくるのね?」
「予定では」
「予定じゃなくて、絶対に帰ってきて」
胸の奥が少し痛んだ。
絶対。
その言葉は、契約書へ書けない。
これから敵の拠点へ入る。
相手は禁術を知る神殿の審問官。
何が起きるかは分からない。
それでも。
「帰ります」
俺は答えた。
今は本気で信じている。
だから嘘ではない。
ノアは俺の小指へ、自分の小指を絡めた。
「約束」
「ええ」
マナも俺の頭を撫でる。
「無理をしないでね」
「善処します」
「善処じゃなくて」
「できるだけ」
それ以上は約束できない。
俺は共同寝床の裏口を開けた。
外は既に暗い。
屋根の上では、白い鳥が二羽、赤い目でこちらを見ていた。
見ていればいい。
今夜。
あいつらには、黒冠商会の王都監査役が西側地下水路へ向かう姿を見せる。
俺はその間に。
反対側から、子供たちを盗み出す。
◇
神殿旧施療院、西側。
地下水路の入口近くには、黒い仮面の男が立っていた。
長身。
黒い外套。
胸元には、金色の目を持つ王冠。
黒冠商会王都監査役。
その周囲には、ガルドを含む灰鼠団の構成員が八人。
少し離れた建物の陰には、白い外套を着た神殿兵が潜んでいる。
全員が、黒い仮面の男を監査役だと信じていた。
実際には。
外套の中にあるのは、木と布で作った人形である。
その外側へ《虚王顕現》を重ねた。
視線。
呼吸。
わずかな首の動き。
風に揺れる衣服。
細かな部分は、見ている人間たちの想像が補っている。
――禁術《虚王顕現》。
――黒冠商会王都監査役の外形および気配を顕現。
――自律動作は、観測者の期待と認識によって補完。
――維持時間、一刻。
――必要生命力、人間寿命換算八時間。
俺は、八時間分の寿命を担保へ入れた。
明日の日没までに同等の生命力を支払えなければ、その時間は戻らない。
八時間。
少ないようで、少なくない。
将来。
俺が死ぬ八時間前。
マナやノアと話せたかもしれない時間だ。
できれば失いたくない。
だから。
今夜中に神殿が保管している生命力を見つける。
なければ明朝、王都の食肉処理場を回る。
必ず返す。
「監査役」
ガルドが黒い仮面へ声をかける。
虚像は、ゆっくり顔を向けた。
俺は近くの廃倉庫の中から、その様子を小さな穴越しに見ている。
直接操作しているわけではない。
ガルドが、自分へ顔を向けるはずだと思った。
その認識が虚像を動かした。
「こちらの準備は終わった」
仮面の男は答えない。
もともと無口な人物だと信じられている。
黙っていても不自然ではない。
ガルドは、その沈黙を肯定と受け取った。
「西側へ敵を集める。それだけでいいんだな」
仮面の男が、わずかにうなずく。
「分かった」
白い鳥が二羽、監査役の上空を旋回している。
神殿は完全に食いついた。
俺は穴から離れた。
廃倉庫の古い扉へ触れる。
四つ目の境界印。
銀色の鍵穴が、一瞬だけ浮かぶ。
「リゼフィア」
『お呼びですの?』
扉の隙間から、銀紫色の髪がするりと現れた。
本人は優雅に登場したつもりだろう。
扉の下から顔だけ出すのは、ちょっと怖い。
「共同寝床の裏口へつなげます」
『まあ…!』
リゼフィアは扉の表面を撫でる。
『敵を欺くために置き去りにした分身。その背中を見ながら、本体だけが秘密の扉へ消える…』
赤紫色の瞳が潤んでいく。
『自分自身を置いていく道……素晴らしい倒錯ですわ!』
「普通の移動です」
『いいえ。これは自己分離路と呼ぶべき――』
「開けますよ」
『お待ちになって。もう少し扉の感情を――』
「急いでいます」
俺は前世で歩いた道を一つ、対価として差し出す。
ホテルの地下駐車場から、従業員用搬入口へ続く通路。
一般客へ見られず、荷物や人間を運ぶための裏道だ。
『ああ……表の華やかさを支える、誰にも褒められない裏口……』
リゼフィアが震える。
『床へ残った台車の傷。従業員の疲労。密かに出入りした愛人――』
「最後の情報は、道から分かるんですか?」
『想像ですわ♡』
悪魔が勝手に物語を追加している。
《境界回廊》が開く。
廃倉庫の扉の向こうに、共同寝床の裏口が現れた。
俺は通る。
扉を閉じる。
ほんの一歩で、旧施療院の西側から共同寝床へ戻った。
ノアが扉の前で待っている。
突然現れた俺を見て、目を丸くした。
「もう帰ってきたの?」
「通過しただけです」
「監査役の人は?」
「仕事中です」
実際に西側へ立っている。
「これから子供たちを迎えに行きます」
ノアの顔が引き締まる。
「分かった」
俺はもう一度、裏口へ触れる。
接続先は。
神殿旧施療院。
昨日、境界印を刻んだ一階の小部屋。
「安全確認」
銀色の小窓が開く。
薄暗い部屋。
人影なし。
廊下の音も遠い。
西側へ兵が集められている。
予定通り。
「開ける」
裏口が銀色に輝く。
向こう側に、旧施療院の小部屋が現れた。
リゼフィアへ、もう一つ道を提供する。
前世の駅。
地上ホームから地下鉄へ乗り換える、長い連絡通路。
『数千人が毎日、別の道へ乗り換える……!』
リゼフィアが興奮する。
『目的地の異なる足が一つの細道へ圧縮され、途中で枝分かれしていく……巨大な血管……!』
「行ってきます」
俺はノアへ言った。
「必ず戻ってきて」
「ええ」
境界を越える。
背後で銀色の扉が閉じた。
◇
旧施療院の内部は、不自然なほど静かだった。
西側から、遠く金属音が聞こえる。
神殿兵が地下水路を封鎖している。
黒冠商会の監査役を待っているのだ。
俺は小部屋の扉をわずかに開ける。
廊下に人はいない。
「ヴェルゴラ」
『何だ』
「神聖力の流れは?」
小さな悪魔が影から顔を出す。
『西へ偏っておる。だが、地下にも大きな力があるな』
「審問官は?」
『分からぬ』
使えない。
そう言おうとしたが。
俺も審問官の位置は分からない。
責めても仕方がない。
廊下へ出る。
子供たちが閉じ込められている部屋まで、曲がり角を二つ。
昨日確認した経路だ。
足音を立てない。
一つ目の角。
誰もいない。
二つ目。
白い法衣の神官が一人、扉の前に立っていた。
昨日はいなかった。
腰には短剣。
胸には警報用らしい銀の笛。
戦闘を避ける。
五歳児の俺が正面から勝てる相手ではない。
周囲を見る。
左に空の薬品棚。
右に清掃用の桶。
天井近くに細い配管。
使える物が少ない。
俺は床へ、小さな銅貨を転がした。
硬い音。
からん。
神官が視線を向ける。
銅貨は廊下を転がり、角の向こうへ消えた。
神官は動かない。
警戒している。
普通の物音では離れない。
ならば。
少しだけ禁術を使う。
胸の黒い火へ触れる。
――禁術《虚王顕現》。
――対象、神殿警備員一名。
――曲がり角の向こうから、上司の声を認識させる。
――必要生命力、人間寿命換算三分。
八時間に比べれば小さい。
それでも寿命を担保へ加える。
「承認」
角の向こうから、落ち着いた男の声が聞こえた。
『配置を変更する。西廊下へ来い』
審問官の声ではない。
神官本人が、命令を出しそうな上司の声を作る。
「しかし、ここを離れるなと――」
『侵入者を捕らえた。人手が要る』
神官の顔から緊張が抜ける。
監査役を捕らえた。
彼が最も聞きたかった報告だ。
「承知しました」
神官は曲がり角へ向かう。
俺の横を通り過ぎる。
物陰に隠れた五歳児へ、気づかない。
神官が十分に離れてから、俺は子供部屋の前へ出た。
鍵。
昨日と同じ。
留め具は太い。
自力で壊せない。
「鍵を探す時間はありません」
『我に頼むのか』
ヴェルゴラが得意そうに胸を張る。
「黒い炎を細く。錠の内部だけ焼けます?」
『可能だ』
「代金は」
『神殿の地下にある生命力を、我が先に一割得る』
「5分だけ」
『一割だ』
「場所も量も分からない物の一割は約束できません」
『では半刻分』
「10分」
『20分』
「じゃあ15分」
『認めよう』
黒い炎が、ヴェルゴラの指先から鍵穴へ入る。
内部で金属が赤く光る。
焦げた臭い。
音を立てるな。
俺は取っ手へ布を巻き、ゆっくり力を入れた。
かちり。
鍵が開く。
扉の中。
五つの寝台。
子供たちは昨日と同じ位置にいる。
痩せた獣人の少年だけが、身体を起こしていた。
俺を見る。
狼に似た耳が動く。
「来た」
小さな声。
「約束したので」
「本当に、助けに?」
「ええ」
残り四人は眠っている。
呼吸はある。
一人の額へ触れる。
熱はない。
頬を叩いても反応が薄い。
薬が強い。
歩かせるのは無理だ。
「名前は?」
俺は獣人の少年へ尋ねる。
「リオ」
「俺はクライ」
「知ってる」
「なぜ?」
「黒い髪と、金の目」
スラムで噂になっているらしい。
目立つ外見は、こういう時に不便だ。
「立てます?」
リオは寝台から足を下ろす。
膝が震える。
それでも立った。
「大丈夫」
強がり。
本当は大丈夫ではない。
「他の四人を運ぶ必要があります」
「僕が一人」
十歳前後。
自分も薬を飲まされている。
一人を運べる身体ではない。
「無理をしなくていい」
「でも」
「運ぶのは俺たちではありません」
俺は扉を閉める。
内側から鍵をかける。
これで少しだけ時間を稼げる。
子供部屋の扉へ手を置く。
この境界を、共同寝床の裏口へつなぐ。
「リゼフィア」
返事がない。
「リゼフィア?」
銀色の亀裂から、悪魔の目だけが覗いていた。
子供部屋の扉を凝視している。
『五年間、子供たちを閉じ込め続けた扉…』
声が震えている。
『外へ出たい小さな手が、内側から何度も触れた。けれど一度も開かなかった…』
「今から開けます」
『閉じ込めるためだけに使われていた境界が…』
リゼフィアの頬が赤くなる。
『初めて、救うための道になる……』
「興奮しているところ悪いですが、急いでください」
『悪いと思っていませんでしょう?』
「一切」
事前の契約通り。
子供たちを救出する規模の回廊。
対価は二つの道。
一つは、前世の病院裏口から救急用昇降機まで続く搬送路。
もう一つは、これから完成する子供部屋から共同寝床への救出路。
リゼフィアにとっては、どちらも極上らしい。
俺には実害がない。
「発動」
銀色の光が扉を包む。
俺は決めた合図を送る。
三回。
間を置いて、一回。
とん、とん、とん。
――とん。
向こう側から、ノアの声。
「クライ?」
「開けて」
扉を開く。
その向こうに。
共同寝床の裏口。
ノア。
マナ。
管理人の老婆。
三人が待っていた。
リオが目を見開く。
「違う場所……」
「黒冠商会の極秘魔法です」
説明は後だ。
「時間がありません。まず歩ける子から」
リオの背中を押す。
彼は扉の前で足を止めた。
向こう側には知らない人間たち。
安全だと信じられない。
「大丈夫」
俺は言う。
「俺が後から行きます」
リオは俺の目を見た。
そして、銀色の境界を越える。
ノアが手をつかむ。
「こっちよ」
マナが身体を支える。
一人。
次。
眠っている子供を寝台から下ろす。
小柄な女の子。
俺一人では持ち上がらない。
扉の向こうから、マナが上半身を伸ばす。
「足を押して」
俺が足側。
マナとノアが腕を引く。
境界を越えた瞬間、身体が少し軽くなる。
二人目。
三人目。
廊下から足音が聞こえた。
俺たちが開けた扉の光を、誰かが感じ取ったのかもしれない。
「急いで」
四人目。
汗で手が滑る。
子供の頭を扉の枠へぶつけそうになり、慌てて支える。
五歳の身体は、力がなさすぎる。
腹が立つ。
前世の身体なら、一人くらい抱えられた。
今は押すことしかできない。
「クライ!」
ノアが手を伸ばす。
「あと一人!」
最後の少年。
寝台から床へ滑らせる。
足音が近い。
一人ではない。
二人。
三人。
扉の鍵が外から動く。
焼いた錠は、完全には閉まっていない。
がちゃ。
がちゃ。
「誰かいるのか!」
神官の声。
最後の少年を境界へ押す。
マナと老婆が引く。
身体の半分が向こう側。
扉の外から、強い衝撃。
木が軋む。
もう一度。
錠が外れる。
「クライ、早く!」
ノアが叫ぶ。
最後の少年が、完全に共同寝床へ入った。
五人。
全員、向こう側。
俺も行く。
そう思った時。
リオがこちらへ振り返った。
「まだいる!」
「何?」
「地下に女の子が一人」
心臓が跳ねる。
エナか…。
ヨルンの妹。
分かっていた。
探すつもりだった。
だが今、五人を救った。
このまま戻れば。
少なくとも、この子たちは助かる。
俺も安全だ。
エナは一人。
顔も知らない。
ヨルンは俺たちを裏切った。
妹を助ける義務はない。
扉へ三度目の衝撃。
木が割れた。
「クライ!」
ノアの手が、境界の向こうから伸びている。
この手を取れば帰れる。
約束を守れる。
怖い。
ここに残りたくない。
審問官は、俺を探している。
捕まれば、悪魔との契約を調べられる。
殺されるかもしれない。
それでも。
エナを置いて帰れば。
ヨルンは、妹を救うために裏切り続ける。
神殿は彼女を餌として使う。
何より。
俺は、この建物に捕らわれている子供を全員連れて帰ると決めた。
「ノア」
「早く!」
「先に扉を閉めます」
ノアの顔が固まる。
「嫌」
「もう一人助けます」
「だったら、わたしたちも――」
「来ないで」
強く言う。
「ここから先は危険です」
ノアの目に涙が浮かぶ。
「クライは?」
怖い。
俺だって、戻りたい。
「俺は…」
自分へ言い聞かせるように答える。
「必ず帰ります」
境界の向こうへ手を伸ばす。
ノアの指へ、一瞬だけ触れた。
温かい。
手を離す。
「扉を閉じて、誰も入れないでください」
「クライ!」
俺は《境界回廊》を解除した。
銀色の扉が閉じる。
最後に見えたのは。
泣きながら俺へ手を伸ばすノアの顔だった。
元の子供部屋。
扉が外から破られる。
俺は寝台の下へ滑り込んだ。
神官が二人、部屋へ入る。
「いない!」
「子供たちが消えている!」
「境界術だ!」
銀の笛が鳴らされた。
甲高い音が旧施療院全体へ響く。
同時に。
建物の壁。
床。
天井。
全てへ、銀色の線が走った。
『まずいですわ』
リゼフィアの声から、初めて興奮が消えた。
「何が?」
『この建物の境界へ、釘を打ち始めています』
神殿の《聖鍵》。
全ての扉と窓を封鎖する。
《境界回廊》を使わせないための術。
「どれくらい持ちます?」
『完全に固定されれば、外へ道を開くことはできません』
「時間は?」
『半刻もありませんわ』
子供たちは救えた。
だが俺は。
旧施療院の中へ閉じ込められた。
◇
寝台の下で息を殺す。
神官たちは、部屋の中を確認している。
窓。
寝台。
壁。
一人が床へ膝をついた。
まずい。
見つかる。
俺は反対側から転がり出る。
「いたぞ!」
神官が叫ぶ。
俺は扉へ走る。
五歳児の足。
遅い。
背後から腕が伸びる。
服の襟をつかまれた。
身体が宙へ浮く。
「離せ!」
「クライ・マイト!」
名前を知られている。
俺は足を振る。
届かない。
神官が銀の拘束具を取り出す。
「ヴェルゴラ!」
『承認を!』
――《虚王顕現》。
――対象、神官一名。
――契約者の身体を、触れれば魂が焼ける呪物として認識させる。
――必要生命力、人間寿命換算一時間。
「承認!」
寿命が担保へ加えられる。
神官の手の中で、俺の身体が黒く燃え上がる。
実際には燃えていない。
神官だけが信じた。
「うわっ!」
手を離す。
俺は床へ落ちた。
痛い。
それでも走る。
もう一人の神官が前を塞ぐ。
「動くな!」
短剣。
避けられない。
俺は清掃用の桶を蹴る。
水が床へ広がる。
神官の足元。
滑る。
体勢が崩れた。
その横を抜ける。
廊下。
左へ。
地下へ続く階段。
昨日、ヨルンと審問官の会話を聞いた方向だ。
上へ逃げても、全ての出口が封鎖されている。
ならば。
境界を固定している中心へ行く。
《聖鍵》の術式を壊す。
同時にエナを探す。
足音が背後から追ってくる。
「止まれ!」
止まるわけがない。
階段を飛び降りる。
一段。
二段。
三段目で足を踏み外した。
身体が前へ転がる。
肩。
肘。
頭。
痛い。
目の前に火花が散る。
泣きそうになる。
本当に。
五歳児へ、これはきつすぎる。
「クライ!」
ヴェルゴラが飛んでくる。
「……平気です」
平気ではない。
額から血。
左腕が痛い。
折れてはいない。
たぶん。
立ち上がる。
追手が階段へ入った。
走れ。
怖くても。
痛くても。
走るしかない。
◇
地下には、白い廊下が続いていた。
地上より新しい。
床も壁も清潔。
等間隔に、銀色の扉。
その向こうから。
呻き声。
泣き声。
何かが爪で壁を削る音。
旧施療院の本体は、こちらだ。
地上は偽装。
地下で実験をしている。
俺は扉の札を読む。
第三検体室。
魔力路矯正室。
聖眼移植室。
魂圧保存庫。
どれも嫌な名前だ。
「エナ」
小声で呼ぶ。
返事はない。
追手の足音。
時間がない。
廊下の先に、血のついた布を載せた台車。
その横の扉。
――魔力路欠損治療室。
ヨルンの妹は、魔力路に欠損がある。
ここだ。
扉へ手をかける。
鍵は開いている。
中へ入る。
一人の少女が寝台へ横たわっていた。
十四歳ほど。
ヨルンと同じ黒い髪。
顔色は青白い。
腕と胸から、透明な管が何本も伸びている。
管の先は。
壁の向こうにある、青白い液体の槽へつながっていた。
少女の胸が、浅く上下する。
「エナ?」
瞼がわずかに開く。
「……お兄、ちゃん?」
「違います」
少女の目が俺を見る。
「誰……」
「クライ・マイト」
「お兄ちゃんが、言ってた……黒い髪の子」
ヨルンは妹へ、俺の話をしていた。
面会を許されていた時期があるらしい。
「助けに来ました」
エナは力なく首を振る。
「無理……これ、外したら……」
管を外せば死ぬ。
見れば分かる。
青白い液体が、一定の間隔で少女の身体へ流れ込んでいる。
魔力か。
生命力か。
どちらにしても、外へ出した後も供給を続ける必要がある。
「ヴェルゴラ」
『神聖力と生命力を混ぜたものだ』
「止められない?」
『止めれば、この娘の魔力路が崩れる』
「どれくらいで?」
『数分』
扉の外。
追手の声が近い。
エナを抱えて逃げるだけでは助けられない。
装置ごと運ぶ。
寝台には車輪がある。
しかし壁の槽は大きすぎる。
管を切れない。
「リゼフィア」
『はい』
珍しく、静かな声。
「管の両端をつなげられますか」
『両端?』
「管を切った後。少女側の切断面と、槽側の切断面を《境界回廊》で接続する」
液体が通るだけの、小さな道。
リゼフィアの目が大きくなる。
『人ではなく、液体だけが通る境界……』
既に頬が赤い。
「できます?」
『できますわ』
「必要な道は?」
『一つ』
「前世の下水道」
『嫌です』
即答された。
「好き嫌いしないと――」
『初めての細管路に、汚水の道を混ぜないでくださいませ!まずくなります!』
「味は関係ないでしょう」
『あります!』
外から扉を叩く音。
「開けろ!」
時間がない。
「では、飲料工場の配管経路」
『どのような道?』
「大量の飲み物が、誰にも見られず金属管の中を走る」
リゼフィアの瞳が輝く。
『透明な液体の秘密の高速路……』
「それで」
『成立ですわ!』
単純で助かる。
俺は壁の槽側と、エナの身体につながる管へ触れる。
両方の境界を記憶。
リゼフィアが銀色の糸を伸ばす。
「切ります」
ヴェルゴラの黒い炎が管を二か所焼き切った。
同時に。
切断面同士を、銀色の小さな回廊がつなぐ。
物理的な管は離れている。
それでも液体は、空間を飛び越えてエナの身体へ流れ続けた。
『ああ……』
リゼフィアが震える。
『誰にも見えない細い道を、命が流れていく……』
「感想は後で」
俺は寝台の留め具を外す。
車輪を解除。
押す。
動かない。
重い。
エナの身体だけではない。
金属製の寝台。
機材。
五歳児の力では厳しい。
両足で床を蹴る。
少し動く。
もう一度。
「クライ」
ヴェルゴラが寝台の端へ黒い炎を巻きつける。
「契約外では?」
『後で生命力を寄越せ』
「十五分で」
『二十分だ』
「助かります」
今は値切っている場合ではない。
寝台が動く。
扉へ向かう。
外から衝撃。
鍵が壊れた。
白い法衣の神官が二人入ってくる。
「止まれ!」
ヴェルゴラの黒い炎が床へ走る。
攻撃ではない。
二人の前へ線を引くだけ。
神官は、悪魔の炎へ触れることを恐れて止まった。
実際に触れれば焼けるだろう。
「禁術使い!」
笛が鳴る。
さらに兵が来る。
俺は寝台を廊下へ押し出す。
左。
聖眼移植室。
右。
魂圧保存庫。
出口は階段。
だが上へ戻っても封鎖されている。
境界印のある小部屋まで行ければ。
《聖鍵》の封鎖を破れる可能性はある。
その前に。
銀色の線が、廊下の床を走った。
全ての扉へ鍵の形が浮かぶ。
『封鎖が完成します!』
リゼフィアが叫ぶ。
「あとどれくらい?」
『数分もありません!』
追手は後ろ。
前からも足音。
挟まれる。
俺は廊下の横にある扉を開けた。
魂圧保存庫。
内部には、透明な瓶が並んでいた。
青。
赤。
緑。
光る液体。
生命力。
ヴェルゴラが目を見開く。
『これだ』
「返済に使える?」
『十分すぎる』
成人男性の囮、警備員の声、自分を呪物に見せた術。
合計九時間と数分の寿命。
全部返せる。
それどころか、今後のために保存できる。
だが今は持ち出す時間がない。
「瓶を三本」
寝台の上へ載せる。
一本目。
二本目。
三本目。
ヴェルゴラが不満そうに言う。
『全て持っていけばよい』
「重いんです」
『我が運ぶ』
「最初から言ってください」
黒い炎が瓶を十本ほど包み、俺の影へ沈める。
便利なことができるらしい。
本当に最初に言ってほしい。
頭の中へ赤い文字。
――返済可能な生命力を確認。
――未返済代償、九時間三分。
「返済する」
瓶の一つから光が抜け、胸へ入る。
担保へ預けていた寿命が戻る。
――返済完了。
ほっとする。
これで、少なくとも禁術の借金はない。
残った生命力は。
今後のために使える。
「行きます」
寝台を再び押す。
保存庫を出る。
前方から神殿兵が三人。
背後にも二人。
完全に挟まれた。
「クライ……」
エナが弱い声で呼ぶ。
「置いていって」
「嫌です」
「わたしのせいで、お兄ちゃんが……」
「それは後で本人へ言ってください」
「でも」
「俺は、あなたのために来たわけではありません」
冷たい言葉。
エナの目が揺れる。
「俺が、全員連れて帰ると決めたからです」
自分のためだ。
自分で決めた約束を守る。
それだけ。
「だから黙って運ばれてください」
エナの目から涙が流れる。
「……うん」
前方の神殿兵が剣を抜く。
「投降しろ!」
後ろの神官も距離を詰める。
逃げ道がない。
いや。
道は作るものだ。
「リゼフィア」
『どちらへ?』
「共同寝床」
『建物の境界が固定されています。通常の回廊は――』
「通常でなければ?」
『……』
リゼフィアの口元が上がる。
狂気を含んだ、美しい笑み。
『境界を壊しますか?』
「できます?」
『一時的に。この施療院が積み上げた“内側”と“外側”の区別を、無理やり引き裂けば』
「代償は?」
『道を五つ』
高い。
だが払える。
前世の道はいくらでもある。
「三つ」
『今、値切りますの?』
「習慣です」
『四つ』
「成立」
前世の道を四つ提供する。
空港の搭乗通路。
高層ビルの非常階段。
銀行地下金庫までの管理通路。
そして。
俺が死んだ倉庫から、外の道路へ続いていた道。
最後の一つだけ。
少し胸が痛んだ。
あの時。
俺はそこを歩いて外へ出ることができなかった。
自分で使えなかった逃げ道。
リゼフィアの回廊へ渡す。
『これは……』
彼女の表情が変わる。
先ほどまでの変態的な喜びとは違う。
静かな目。
『あなたが、最後まで歩けなかった道ですのね』
「ええ」
『大切では?』
「だから価値があるでしょう?」
本当は。
少しだけ手放したかったのかもしれない。
あの倉庫を思い出すたび。
外へ出られなかった自分も思い出す。
今回は。
必ず外へ出る。
「開けてください」
『承りました』
銀の鍵が、俺の胸から飛び出した。
空中へ突き刺さる。
何もない廊下。
そこに亀裂が走る。
神殿兵が叫ぶ。
「境界を固定しろ!」
床と壁の銀線が、亀裂を縫い止めようとする。
リゼフィアの髪が宙へ広がる。
無数の扉が、彼女の背後へ現れた。
『嫌ですわ』
悪魔は笑う。
『せっかく生まれようとしている道を、閉じるだなんて』
銀の亀裂が大きく裂ける。
向こう側に、共同寝床の裏口。
ノアとマナが待っている。
「クライ!」
「寝台を引いて!」
マナと老婆が手を伸ばす。
俺は後ろから押す。
寝台の前輪が境界を越える。
神殿兵が走ってくる。
ヴェルゴラの炎が壁を作る。
「急いで!」
半分。
エナの身体が向こう側へ入る。
銀色の線が、回廊の縁へ食い込む。
『閉じられます!』
リゼフィアが叫ぶ。
「あと少し!」
ノアが寝台の枠を引く。
マナも。
リオも、弱い身体で手伝っている。
後輪が境界を越える。
エナの身体が完全に共同寝床へ入った。
「クライ!」
ノアが手を伸ばす。
俺も境界へ飛び込む。
その瞬間。
白い光が横から走った。
銀色の巨大な鍵。
回廊の中央へ突き刺さる。
道が裂けた。
「っ!」
俺の身体が弾き飛ばされる。
床へ転がる。
共同寝床への景色が歪む。
ノアの伸ばした手。
あと少し。
届かない。
「クライ!」
「扉を閉じて!」
「でも!」
「エナを守って!」
銀色の鍵が、さらに深く刺さる。
回廊が崩れる。
このまま維持すれば。
神殿側の術が共同寝床まで伝わる可能性がある。
場所を知られる。
子供たちが再び狙われる。
俺はリゼフィアを見る。
「閉じて」
『あなたが残りますわ』
「分かっています」
『契約者』
「閉じろ!」
銀色の扉が閉まる。
最後に。
ノアの泣き声が聞こえた。
回廊は消えた。
旧施療院の廊下。
俺一人。
前には神殿兵。
後ろには神官。
ヴェルゴラとリゼフィアが、俺の左右へ浮かぶ。
子供たちは救った。
エナも。
その代わり。
俺の逃げ道は、完全に消えた。
神殿兵が剣を向ける。
「動くな!」
俺は立ち上がる。
額の血を手の甲で拭う。
足が震えている。
怖い。
一人だ。
もう帰れないかもしれない。
ノアとの約束を破った。
そのことが、一番怖かった。
廊下の奥。
神殿兵たちの背後から、足音が聞こえる。
ゆっくり。
落ち着いた歩き方。
白い外套。
白い手袋。
右手には、赤い石の指輪。
三十代ほどの男。
整った顔。
淡い金髪。
穏やかな青い目。
男が現れた瞬間、神殿兵たちは一斉に道を空けた。
「審問官殿」
先生。
白い鳥を操っていた男。
神殿特務審問官。
セヴラン・オルド。
セヴランは俺を見つめる。
次に。
右肩のヴェルゴラ。
左側のリゼフィア。
普通の人間には見えないはずの二体へ、順番に視線を向けた。
見えている。
「虚飾の第一座」
セヴランが言う。
「万門侯、第十三座」
リゼフィアの笑みが消えた。
ヴェルゴラの黒い炎が大きくなる。
「二体と同時に契約する人間は、久しぶりに見た」
男は笑った。
優しい笑顔。
それが、余計に怖い。
「初めまして、クライ・マイト」
俺は何も答えない。
セヴランは、廊下へ突き刺した銀の鍵を軽く引き抜く。
全ての扉が同時に閉じた。
逃げ道はない。
「黒冠商会王都監査役と呼んだ方がいいかな?」
心臓が止まりそうになる。
俺の正体を。
知っている。
いや。
確信している。
「五歳児を相手に、大げさですね」
俺は笑った。
声が震えなかったことだけは褒めたい。
セヴランも笑う。
「五歳児ならね」
セヴランの白い手袋へ、神聖な光が集まる。
ヴェルゴラが黒い炎を広げた。
リゼフィアの背後には、無数の扉が現れる。
俺は二体の悪魔の間で、神殿特務審問官を見上げた。
怖い。
逃げたい。
マナとノアのところへ帰りたい。
それでも。
セヴランは、俺をすぐには殺さなかった。
逃げ道を封じ。
兵を並べ。
俺の名前と、契約した悪魔を確認した。
殺すだけなら、必要のない手順だ。
「俺を殺すつもりなら、とっくに殺せていますよね」
俺が言うと、セヴランはわずかに目を細めた。
「そうだね」
「つまり、あなたは俺を生かしたまま欲しがっている」
心臓の鼓動を隠し、できるだけ穏やかに笑う。
「なら、まずは聞かせてもらいましょうか」
「何をかな?」
「あなたが俺を狙う理由です」
セヴランの笑みが、ゆっくりと深くなる。
「いいだろう」
男が指を鳴らす。
周囲の神殿兵が、一斉に剣を下ろした。
ただし。
扉を封じる銀色の鍵は、一本も消えない。
「君には、知る権利がある」
セヴランは優しい声で告げた。
「これから、自分が何になるのかをね」




