第11話 神の正義は、子供を数えない
「君には、知る権利がある」
セヴラン・オルドは穏やかに笑った。
「これから、自分が何になるのかをね」
周囲には五人の神殿兵。
前後の扉は銀色の《聖鍵》で封じられている。
右には黒い炎をまとうヴェルゴラ。
左には、背後へ無数の扉を浮かべたリゼフィア。
二体の悪魔は戦う準備をしている。
だが、俺は手を上げて止めた。
「待ってください」
『こやつの言葉を聞く必要などない』
ヴェルゴラが牙を見せる。
「あります」
俺たちは、セヴランについて何も知らない。
能力。
目的。
立場。
殺していい相手なのか。
殺せる相手なのか。
分からないまま戦うのは、目を閉じて崖を走るようなものだ。
情報を引き出す。
できれば戦わずに帰る。
難しければ。
勝つための材料だけでも持ち帰る。
「あなたは、神殿の審問官」
俺は言った。
「異端や禁術を調べ、処罰する役職だと聞いています」
「表向きはね」
セヴランはあっさり答えた。
「表向き?」
「神殿の信徒に説明するなら、そうなる」
白い手袋の指が動く。
空中に、小さな銀の鍵が現れた。
セヴランはそれを指先で遊ばせる。
「我々、特務審問官の本当の仕事は、異端を消すことではない」
「では?」
「利用できる異端と、利用できない異端を分けることだ」
嫌な答えだ。
「利用できる禁術は回収する」
「利用できる魔物は飼育する」
「利用できる人間は、形を変えてでも残す」
セヴランは優しい教師のように話す。
「それ以外は処分する」
「処分」
「必要な部分を採取した後にね」
声も表情も変わらない。
まるで、壊れた家具の話をしているようだった。
「この施設では、何をしていたんです?」
「神へ近づく研究だ」
「子供を使って?」
「子供だからだよ」
セヴランは迷わず答える。
「大人の魂は、既に形が固まっている。信仰、家族、仕事、欲望。余計なものが多い」
「子供は違う」
「柔らかく、空白が多い。神聖力も魔力路も、加工しやすい」
胸の奥に、冷たい怒りが湧く。
表情には出さない。
今、怒鳴っても意味はない。
全部、話させる。
「ガルドの魔眼も?」
「ああ」
セヴランは嬉しそうにうなずいた。
「あれは初期の《神眼造成計画》で作った」
「嘘を見抜く目を作る計画?」
「正確には、世界の真実を見抜く目だ」
「魔法」
「契約」
「魂」
「人の罪」
「神の意思」
男の青い目が、わずかに熱を帯びる。
「全てを見抜く完全な眼を作るつもりだった…」
「そのために、何人を使った?」
セヴランは少し考えた。
人数を思い出しているのではない。
答える価値があるか考えている顔だ。
「最初の五年間で、八十六人」
胃の奥が重くなる。
「次の計画を合わせれば、二百人は超えているだろうね」
「正確な数は?」
「記録を見なければ分からない」
「覚えていない?」
「一人ずつ数える必要があるのかな?」
セヴランは不思議そうに首を傾げた。
「成果が出なかった検体だ」
神殿兵たちは反応しない。
全員、知っている。
あるいは、知っていて正しいと思っている。
「二百人以上の子供を殺した?」
「殺してはいない」
セヴランは訂正する。
「研究の過程で生命活動を維持できなくなっただけだ」
同じだ。
言葉を変えて、自分の罪を消したつもりになっている。
「スラムの子供を選んだ理由は?」
「数が多い」
「いなくなっても記録に残らない」
「親がいたとしても、神殿へ逆らえる者はいない」
セヴランは淡々と続ける。
「そして何より」
「誰も数えていないだろ?」
その言葉で。
俺の中の何かが、静かに切れた。
スラムの子供は、死んでも数に入らない。
名前も。
人生も。
泣いたことも。
誰かを好きになったことも。
何一つ存在しなかったことにされる。
前世でも似た人間を見た。
被害者を、損失額や処理件数としか見ない者。
自分は数字を扱っているだけだと思いながら。
その数字一つ一つの向こうに人間がいることを、意図的に忘れる。
「魂圧保存庫にあった瓶」
俺は尋ねる。
「中身は何です?」
「魂を圧縮したものだ」
「誰の?」
セヴランは笑う。
「君は、もう使ったのだろう?」
胸の奥が冷える。
成人男性の虚像。
警備員の偽声。
呪物の幻。
俺は瓶の生命力を使い、担保にした寿命を取り戻した。
「あれは、実験で死んだ子供たちの?」
「残った部分だ」
吐き気がした。
自分の命を取り戻すために。
死んだ子供の生命力を使った。
知らなかった。
知らなかったから悪くない。
そう言い訳するのは簡単だ。
だが。
俺の胸には、確かに誰かの生きられなかった時間が入った。
「気に病む必要はない」
セヴランが言う。
「使われずに朽ちるより、価値ある術へ変わった方が彼らも喜ぶ」
「本人たちに聞きました?」
「死者は答えないよ」
「なら、勝手なことを言わないでください」
俺の声は、自分で思ったより低かった。
セヴランは怒らない。
むしろ興味深そうに俺を見る。
「やはり、君は面白い」
「二百人以上殺した人間に気に入られても、嬉しくありません」
「だから、殺していないと言っているだろ?」
「言葉を変えても、結果は同じです」
俺がそう言うと。
セヴランは、少し残念そうに息を吐いた。
「その程度の感情に縛られるとは」
「その程度?」
「君は、もっと上へ行ける人間だ」
男は俺の背後を見る。
正確には、ヴェルゴラとリゼフィアを。
「二体と同時に契約した」
「それが、そんなに珍しい?」
「本来なら不可能だ」
セヴランの指先で、銀の鍵が回る。
「普通の魔術師には、魔力路がある」
「魔力路は、精霊や神へ接続するための通路であると同時に、その人間が何者かを示す型でもある」
「火の魔術師」
「水の魔術師」
「神官」
「魔族」
「それぞれの力が、魂へ自分の型を刻む」
ヴェルゴラが不機嫌そうに鼻を鳴らす。
『説明が長い』
「聞いてください」
俺は小声で止める。
今の話は、俺も知らない。
「悪魔との契約も同じだ」
セヴランは続けた。
「悪魔は契約者の魂へ、自分の権能を通すための道を作る」
「既に別の力が流れていれば、道同士が衝突する」
「通常、一人の人間が耐えられる悪魔契約は一つ」
「二つ目を結べば?」
「魔力路が裂ける」
「魂の形が崩れる」
「運がよければ廃人」
「悪ければ、肉体ごと消える」
俺はリゼフィアを見る。
彼女は知っていたのか。
『理論上は、そうなる場合もありますわね』
「契約前に教えてください」
『尋ねられませんでしたので』
ヴェルゴラと同じだ。
悪魔は、重要な情報を自分から説明しない規則でもあるのか。
「では、なぜ俺は無事なんです?」
セヴランの笑みが深くなる。
「君には、魔力路が存在しないからだ」
神殿の測定石が、一度も光らなかった。
魔力ゼロ。
異世界へ転生したのに、一般魔法を一つも使えない。
ずっと欠点だと思っていた。
「君の魂は、空白に近い」
「神にも、精霊にも、魔力属性にも染められていない」
「だから悪魔たちは、互いにぶつからず別々の道を作れる」
「魔力がないから、複数の禁術を使える?」
「そうだ」
禁術は、俺自身の魔力を必要としない。
悪魔の権能を借り。
別の代償を支払う。
だから魔力ゼロでも使える。
それどころか。
魔力がないからこそ、複数の悪魔と契約できる。
欠陥ではない。
禁術にとっては。
最高の器。
「我々は、そのような人間を《空白器》と呼んでいる」
セヴランが告げる。
「過去にもいたんですか?」
「いた」
「どうなった?」
「全員死んだ」
即答。
「背神契約大典はこの国に何冊か存在していてね」
「我々もその1冊を保有している」
「実験では、二体目までは耐えた者もいる」
「ただ、三体目の契約時に、魂の主導権を失った」
「悪魔に乗っ取られた?」
「違う」
セヴランは銀の鍵を握る。
「禁書に食われた」
黒い本。
背神契約大典。
七十二の座。
「本は、ただ悪魔を封印しているだけではない?」
「逆だ」
セヴランは笑った。
「あれは悪魔の牢獄ではない」
「人間を、七十二の悪魔へ接続するための索引だ」
俺は黙る。
ヴェルゴラも。
リゼフィアも。
今度は口を挟まなかった。
「契約者は、一体と契約するたびに本の一頁になる」
「一頁?」
「悪魔の権能を記録する、生きた頁だ」
「契約者が死ねば、魂に刻まれた禁術は本へ戻る」
「契約者が多くの座とつながれば、本そのものに近づいていく」
嫌な予感がする。
「七十二体全てと契約したら?」
セヴランの青い目が輝いた。
「第零頁が開く」
「そこには何がある?」
「神を殺す方法」
旧施療院の地下。
閉じられた扉。
神殿の兵。
全てが静かに感じた。
「七十二禁書を作った者は、神へ反逆した」
セヴランは語る。
「悪魔の力を集め」
「世界の法則をだまし」
「神そのものを、契約の対象へ落とそうとした」
神さえも契約へ縛る。
俺が転生前に会った秩序神セレディア。
あの神を。
「成功したんですか?」
「分からない」
「第零頁を開いた契約者は、記録上存在しない」
「だから俺に開かせる?」
「理解が早くて助かる」
ようやく、目的が見えた。
セヴランは俺を禁術使いとして処分したいわけではない。
悪魔と契約させ続け。
七十二禁書を開き。
最後には俺の魂ごと利用する。
「俺を殺さない理由は?」
「今殺せば、契約は二つで終わる」
「君には、もっと多くの頁を開いてもらう」
「何体まで?」
「可能な限り」
「俺が悪魔に食われても?」
「魂を固定する技術はある」
セヴランは周囲の銀の鍵を示す。
「我々の《聖鍵》は、魂と権能の境界を固定できる」
「君の身体を生かし」
「心が壊れれば、別の人格を入れ」
「契約だけを続けさせる」
まるで。
道具の修理方法を話しているようだった。
「最終的には?」
「君の魂を七十二禁書から切り離す」
「禁術の接続だけを残し」
「神殿が管理する生きた索引にする」
「俺は?」
「必要なくなる」
完全に理解した。
俺の人生。
意思。
記憶。
全部いらない。
欲しいのは、禁術へつながる空白の器だけ。
「ガルドも、その研究の一部?」
「彼は別だ」
セヴランの表情に、わずかな不快感が浮かぶ。
「逃げ出さなければ、今頃は完成していた」
「完成すれば死ぬ」
「必要な犠牲だ」
「誰にとって?」
「世界にとって」
「世界は、頼んでいませんよ」
セヴランは俺を見る。
「子供には分からない」
「二百人以上の子供を使った結果、完成していない人が言います?」
周囲の神殿兵が息を呑む。
セヴランの笑顔が、ほんの少しだけ薄くなった。
怒った。
初めて。
表にはほとんど出していない。
だが、自分の研究能力を否定されることには反応する。
使える。
「ガルドの眼は失敗作」
俺は続ける。
「空白器は全員死亡」
「第零頁を開けた人間はいない」
「随分と成功率の低い研究ですね」
「だから君が必要なのだよ」
「研究が正しいのではなく、俺が特別なだけでは?」
セヴランの目が細くなる。
「俺が成功しても、あなたの成果ではない」
狙う。
虚栄心。
自尊心。
セヴランは自分を冷静で合理的な研究者だと思っている。
だが。
二百人以上を犠牲にし。
失敗を続け。
それでも正しいと信じるためには。
自分は特別な人間だと思い込む必要がある。
「あなたは、神に近づきたいんじゃない」
俺は言った。
「神より賢いと証明したいだけだ」
銀の鍵が止まった。
当たり。
「挑発しても、状況は変わらないよ…?」
セヴランの声から、少しだけ温度が消えた。
「挑発ではありません」
「観察です」
「随分と優秀な観察眼だ」
「だから、提案があります」
交渉へ移る。
相手が感情を動かした直後。
判断が少し乱れている今。
「俺は自分の意思で、七十二禁書との契約を続ける」
セヴランの眉が動く。
「代わりに」
「旧施療院の研究を中止」
「捕らえた子供を全員解放」
「ガルドと灰鼠団へ手を出さない」
「マナとノアを含め、共同寝床を監視しない」
「随分と大きく出たね」
「俺が必要なのでしょう?」
「君の協力がなくても、契約は続けさせられる」
「本当に?」
俺は笑う。
「悪魔が、脅された人間と契約すると思いますか?」
セヴランは答えない。
悪魔契約には、契約者本人の同意が必要だ。
ヴェルゴラも。
リゼフィアも。
俺が署名しなければ成立しなかった。
「俺を拘束しても、次の悪魔へ契約を強制できない」
「マナやノアを人質にしても?」
来ると思った。
胸が冷える。
だが表情は変えない。
「できません」
「なぜ?」
ここで。
俺は嘘をつく。
完全な嘘。
ただし、契約の仕組みを知るセヴランでも信じられる形にする。
「第二の契約には、帰還先の保護条項がある」
リゼフィアが俺を見る。
そんな条項はない。
黙っていろ。
目だけで伝える。
「俺が帰る場所を意図的に破壊した場合」
「俺の魂は、リゼフィアの回廊へ永久退避する」
「肉体を残して?」
「ええ」
「それでは、あなたが欲しがる空白器は使えない」
セヴランはリゼフィアを見る。
『まあ♡』
彼女は笑った。
『契約内容の開示は、契約者に任せていますの』
肯定していない。
否定もしていない。
助かる。
セヴランは契約文を直接読めない。
契約の存在と、権能の接続は見える。
細かな条項までは分からない。
俺が嘘をついていると判断する材料はない。
「随分と慎重な条項だ」
信じた。
「契約は、信用しなくても成立する形にするべきですから」
過去に何度も口にした、俺の本心。
それが嘘全体を自然にする。
「では、君自身を傷つけた場合は?」
「第一契約が反応します」
これも嘘だ。
「契約者が意思決定能力を失った場合」
「ヴェルゴラが、残った生命力を使って魂を回収する」
ヴェルゴラが、少し驚いた顔をした。
だが。
すぐに尊大な表情へ戻る。
『我であれば、その程度は容易い』
できるとは言っていない。
セヴランは信じた。
これで。
少なくとも今すぐマナやノアを狙う危険を少し減らせる。
俺を壊すことにも慎重になる。
「なるほど」
セヴランがつぶやく。
「君を生かしておく必要が、さらに増えた」
「では、提案を受けます?」
「受けない」
即答。
「なぜ?」
「君は勘違いしている」
セヴランの指から、銀の鍵が離れた。
宙へ浮かぶ。
「契約条項を破らずに、人間を従わせる方法はいくらでもある」
「例えば?」
「君の大切な者を傷つけない」
「ただ、別の場所へ移す」
「食事も与える」
「安全も保証する」
「君が契約を続ける限りはね」
監禁。
人質と呼ばなければ、人質ではないと思っている。
「それに」
セヴランの視線が、俺の左肩へ向く。
「悪魔との接続を、一時的に弱めることはできる」
嫌な予感。
銀の鍵が回転した。
「伏せろ!」
ヴェルゴラが叫ぶ。
俺はしゃがんで横へ飛ぶ。
直前まで立っていた場所へ、銀の光が突き刺さった。
床から。
壁。
天井へ。
無数の銀線が広がる。
リゼフィアの背後に浮かんでいた扉が、一斉に閉じた。
『っ……!』
リゼフィアの身体が薄くなる。
ヴェルゴラの黒い炎も小さくなった。
「何をした」
「《聖鍵術・契約閉鎖》」
セヴランが告げる。
「悪魔との道を破壊したわけではない」
「扉へ、鍵をかけただけだ」
胸が痛む。
ヴェルゴラとリゼフィアへ続く感覚が遠くなる。
完全には消えていない。
だが、禁術を使おうとすると。
間に重い壁がある。
「契約解除ではないので、君の言う保護条項も発動しない」
嘘の条項。
最初から発動しない。
「そして、接続を完全には切らない」
「悪魔の権能を使うことはできる」
「ただし、通常の数十倍の代償を払わなければね」
最悪だ。
《虚王顕現》も。
《境界回廊》も。
使える。
だが、代償が十倍。
「君は賢い」
セヴランは言う。
「だから理解できるはずだ」
「抵抗に意味はない」
交渉は決裂。
セヴランは俺を手に入れる条件を変える気がない。
俺も。
自分の魂を差し出す気はない。
「最後に一つ」
俺は尋ねる。
「エナの治療は、本当に必要だったのか?」
セヴランは少しだけ首を傾げる。
「魔力路に欠損があったのは事実だ」
「治療はできていた?」
「一月前には」
ヨルン。
妹を助けるために仲間を売った。
だが。
その妹は、とっくに治療を終えられた。
「なぜ装置へつなぎ続けた」
「彼がよく働くからだ」
簡単な答え。
ヨルンが裏切り続けるように。
妹を治さなかった。
「妹へ会わせる約束は?」
「数回は会わせた」
「約束は守っている」
「治療が終わったとは言わずに?」
「聞かれなかったからね」
悪魔と同じような理屈を。
人間が。
悪意を持って使う。
「そうですか」
俺は息を吐いた。
怒りはある。
だが。
頭は冷えていた。
もう交渉する必要がない。
こいつは敵だ。
完全に。
「残念です」
セヴランが言う。
「君とは、よい研究ができると思った」
「俺も残念です」
俺は笑った。
「もう少し頭のいい相手だと思っていました」
セヴランの指が動く。
「捕らえなさい」
神殿兵たちが一斉に走った。
◇
最初の一人。
剣を抜かず、銀の拘束具を持っている。
俺を殺さず捕らえるつもり。
そこが弱点だ。
俺は前へ走る。
神殿兵は、逃げると思っていた。
一瞬だけ反応が遅れる。
身体を低くする。
足の間へ滑り込む。
五歳児の小ささ。
こういう時だけ役に立つ。
背後へ抜ける。
神殿兵の腰袋から、短い鍵束を引き抜く。
「待て!」
二人目が手を伸ばす。
俺は鍵束を投げた。
顔へ。
反射的に手で防ぐ。
その隙に。
床へ落ちていた銀の瓶を蹴る。
魂圧保存庫から運び出す途中だった物。
瓶が神殿兵の足元で割れる。
青い生命力が煙のように広がった。
「ヴェルゴラ!」
『承認を言え!』
《聖鍵》の影響で、代償は通常の十倍。
それでも。
周囲には生命力がある。
担保を返済できる。
――《虚王顕現》。
――対象、神殿兵五名。
――青い霧の中に、死者の手を認識させる。
――通常代償、人間寿命換算十分。
――《契約閉鎖》による増加後代償、人間寿命換算百日。
高い。
だが。
この場にいる全員を止めるには必要だ。
「承認!」
胸から。
百日分の命が抜かれる。
一気に身体が冷える。
青い霧の中から、小さな手が伸びる。
子供の手。
何十。
何百。
神殿兵たちの足首をつかむ。
「あっ……」
「何だ!」
「離せ!」
彼らが恐れているもの。
自分たちが見殺しにした子供たち。
罪悪感を持つ者もいる。
持っていなくても。
死者に恨まれている可能性は理解している。
信じた。
青い手が実体へ近づく。
神殿兵が床へ倒れる。
足を引かれる。
実際には。
自分で体勢を崩している部分も大きい。
それでいい。
俺は青い霧の中を走る。
セヴランへ。
「君が直接来るとは」
セヴランは動かない。
俺の拳。
五歳児の拳。
そのままでは何の威力もない。
だから。
手の中に、割れた瓶の破片を隠している。
拳を振るう。
セヴランが白い手袋で受け止める。
同時に。
瓶の破片が手袋を裂いた。
赤い線。
セヴランの頬まで届く。
初めて。
男の顔から笑みが消えた。
「痛いですか?」
俺は言った。
「検体も、同じだったでしょうね」
セヴランの膝が上がる。
腹へ直撃。
息が消えた。
身体が浮く。
背後の壁へ叩きつけられた。
「っ……!」
声が出ない。
腹が焼けるように痛い。
床へ落ちる。
息を吸え。
吸えない。
涙が勝手に出る。
「クライ!」
ヴェルゴラの声。
遠い。
セヴランが頬の血へ触れる。
白い手袋の裂け目から、赤い血。
「私を傷つけた」
怒っている。
明確に。
「二百人を壊した人間が」
俺は息を絞り出す。
「自分の傷は、気になるんですね」
銀の光。
セヴランの手から放たれる。
俺は横へ転がる。
床が砕ける。
もう一発。
避け切れない。
左肩をかすめた。
熱。
遅れて痛み。
腕が動かない。
「ぐっ……!」
短い悲鳴が漏れる。
セヴランは歩いてくる。
ゆっくり。
「殺しはしない」
「君には、まだ価値がある」
「安心しなさい」
「痛みを感じる部分を取り除けば、従いやすくなる」
「脳ですか?」
「感情だよ」
「恐怖」
「愛着」
「罪悪感」
「それらは、研究の妨げになる」
マナ。
ノア。
共同寝床。
あの場所を大切だと思う気持ち。
全部、消すつもりだ。
冗談ではない。
「リゼフィア!」
『開けません!』
銀の鍵が。
彼女の扉を全て封じている。
「一つだけでいい!」
『境界が固定されています!』
逃げられない。
なら。
戦う。
俺は足元の青い生命力へ手をつく。
百日の担保を返済する。
――返済可能生命力を確認。
「返済!」
青い光が胸へ入る。
百日が戻る。
だが、身体の傷は治らない。
呼吸。
左肩。
腹。
全部痛い。
「面白い契約だ」
セヴランが言う。
「寿命を担保にし、他者の生命力で返済する」
契約内容を見抜いた?
いや。
今の動きを見て推測した。
「君は、自分の命を失う危険を他者へ押しつける」
「死んだ人間の残りを使っているだけです」
「言葉を変えても、結果は同じだ」
俺が先ほど言った言葉。
返された。
腹が立つ。
だが。
一部は正しい。
俺も。
誰かの生命力を使っている。
綺麗ではない。
それでも。
こいつと同じにはならない。
俺は。
生命力を得るために子供を殺していない。
「次です」
俺は立ち上がる。
膝が震える。
「まだやるのか」
「五歳児へ随分と手こずっていますね」
挑発。
セヴランの自尊心を刺激する。
男の動きが少し速くなる。
来る。
白い手袋。
触れられれば、悪魔との接続を直接封じられる。
俺は後ろへ下がる。
床に落ちた剣。
拾う。
重い。
五歳児には扱えない。
持ち上げるだけで腕が震える。
セヴランが笑う。
「使えるのかい?」
「まさか」
俺は剣を手放す。
床へ落ちる。
金属音。
セヴランの視線が一瞬だけ下がった。
その隙に。
袖から鍵束を投げる。
今度は目ではない。
天井の魔法灯へ。
鍵がぶつかる。
魔法灯が割れる。
廊下が暗くなる。
《虚王顕現》。
小さな術。
対象はセヴラン一人。
暗闇の中。
俺が右へ逃げたと思わせる。
本当の俺は左。
――通常代償、一日。
――増加後、十日。
「承認」
右側へ足音。
黒い影。
セヴランが銀の鍵を投げる。
影を貫く。
偽物。
俺は左から、床に落ちた短剣を拾う。
セヴランの足へ突き立てる。
浅い。
それでも刃が入った。
セヴランの顔が歪む。
「二度も…!」
白い光が爆発した。
俺の身体が吹き飛ぶ。
壁。
床。
天井が回る。
何か硬いものが背中へ刺さる。
音が遠くなる。
口の中に血の味。
立て。
立たなければ。
セヴランが来る。
右足。
動く。
左足。
動かない。
左肩。
感覚が薄い。
視界が二重。
「もう十分だ」
セヴランの声。
銀の鍵が、俺の手足へ落ちる。
右手。
床へ縫い止められる。
右足。
動かない。
左腕は、既に力が入らない。
「優秀だ」
セヴランが俺の前へ膝をつく。
「本当に」
「君を壊すのは惜しい」
白い手袋が、俺の額へ触れる。
冷たい。
「だから、必要な部分だけ残そう」
頭の中へ。
銀色の光が入ってくる。
記憶が引っ張られる。
マナ。
ノア。
前世。
神との契約。
背神契約大典。
全部。
「触るな」
声が掠れる。
「心配はいらない」
セヴランは優しく言う。
「最初は少し寂しく感じる」
「だが、大切な者を忘れれば」
「失うことも怖くなくなる」
ノアの手。
小指。
必ず帰る。
約束。
忘れる。
嫌だ。
絶対に嫌だ。
俺はセヴランの手首へ噛みついた。
歯。
五歳児の小さな歯。
白い手袋へ食い込む。
セヴランが目を見開く。
「離しなさい」
離さない。
血の味。
セヴランの拳が、俺の顔へ入る。
一度。
視界が白くなる。
二度。
歯が折れた気がする。
三度目。
手を離した。
いや。
力が抜けた。
床へ顔が落ちる。
息ができない。
身体が動かない。
セヴランが立ち上がる。
白い手袋についた血を、静かに拭う。
「訂正しよう」
声が冷たい。
「君は危険すぎる」
「生きたまま人格を処理するより、魂を取り出した方がいい」
殺す。
今度は本当に。
俺の身体を残す必要がないと判断した。
魂だけ固定し。
背神契約大典へ接続する。
銀の鍵が。
セヴランの頭上に浮かぶ。
巨大な槍のように伸びる。
狙いは俺の胸。
心臓。
避けられない。
指一本動かない。
怖い。
死ぬ。
二度目。
また。
一人で。
前世と同じように。
嫌だ。
ノア。
マナ。
帰ると約束した。
まだ。
終われない。
「ヴェル……ゴラ」
掠れた声。
『何だ』
悪魔の声も弱い。
《契約閉鎖》に押さえ込まれている。
「審問官は……何日分になる?」
『何?』
「生命力」
セヴランを見る。
神聖力。
鍛えられた身体。
数多くの術式。
長年蓄積した魂の密度。
ヴェルゴラの金色の目が細くなる。
『そうだな』
悪魔の口元が上がった。
『1000日ってとこか?』
十分だ。
相手を倒せば。
返せる。
倒せなければ。
どのみち死ぬ。
なら。
賭ける金額を惜しむ理由はない。
頭上の銀槍が落ち始める。
「じゃあ」
俺は血の混じった息を吐く。
「代償は、1000日分の寿命を使う」
ヴェルゴラの目が見開かれた。
『何を顕現する』
決まっている。
今の俺は弱い。
五歳。
武器もない。
魔力もない。
身体は壊れかけ。
セヴランより強い要素など、一つもない。
なら。
嘘をつく。
世界へ。
悪魔へ。
何より、自分自身へ。
「この場所で」
俺はセヴランを見上げた。
「俺が、あいつより強いという嘘を」
頭の中へ、赤黒い文字が爆発する。
――禁術《虚王顕現》。
――高位顕現を申請。
――顕現対象。
――契約者クライ・マイト。
――付与認識。
――当該空間において、神殿特務審問官セヴラン・オルドを上回る脅威である。
――通常の認識補助では顕現不能。
――契約者自身の未来時間を現実強度へ変換。
――必要代償、人間寿命換算1000日。
――返済期限、一日。
「承認する」
胸から。
何か巨大なものが抜けた。
百日とは違う。
一日とも。
一時間とも。
比べ物にならない。
未来。
季節。
朝。
夜。
ノアと笑えたかもしれない日。
マナと食事をしたかもしれない時間。
1000日。
一気に失われる。
代わりに。
黒い炎が、俺の身体から噴き上がった。
銀の鍵が砕ける。
右手。
右足。
床へ縫い止めていた術式が、音を立てて消える。
ヴェルゴラの黒い炎が爆発する。
『虚王顕現――《偽王戴冠》!』
床に倒れていた五歳児の身体へ。
巨大な黒い影が重なった。
今の俺ではない。
成長した俺。
多くの禁術を従え。
黒い王冠をかぶり。
世界そのものを騙した、まだ存在しない未来の姿。
その虚像が。
一瞬だけ現実へ降りてくる。
落下していた銀槍。
俺は右手を上げた。
つかむ。
手のひらへ刺さるはずだった光が、止まった。
セヴランの目が初めて見開かれる。
「馬鹿な」
俺は銀槍を握りつぶした。
光が砕け。
黒い炎へ飲み込まれる。
折れた身体が、無理やり立ち上がる。
傷は消えていない。
痛みもある。
それでも。
今この場所で。
世界は俺を。
セヴランより強い存在として扱い始めた。
「返済期限は一日」
俺は血を吐きながら笑った。
「取り立て先は、目の前にいる」
黒い王冠が、頭上へ顕現する。
セヴランが後ろへ一歩下がった。
初めて。
あの男が。
俺を恐れた。
俺は床を蹴る。
五歳児の身体が。
砲弾のように飛び出した。
「さあ」
黒い炎をまとった拳を、セヴランへ振り抜く。
「1000日分、きっちり払ってもらいますよ」




