第12話 偽りの王は、神の鍵を砕く
「1000日分、きっちり払ってもらいますよ」
黒い炎をまとった拳を、セヴランへ振り抜く。
拳が届く直前。
審問官の姿が銀色の光へ変わった。
手応えがない。
幻影。
セヴランの本体は、十歩ほど離れた場所に立っていた。
「《聖鍵転移》」
男の右手には、銀色の鍵が握られている。
「鍵を置いた場所へ、肉体を移した……?」
「理解が早いね」
そう言いながら。
セヴランの声は、わずかに震えていた。
俺を見ていない。
俺の頭上に浮かぶ、黒い王冠を見ている。
《偽王戴冠》。
存在しない未来の俺を、一時的に現在へ顕現させる高位禁術。
この場所に限り。
世界は、俺をセヴランより強い存在として扱う。
ただし、無敵ではない。
身体の傷は消えていない。
左肩は動かない。
腹には、呼吸するたび痛みが走る。
折れた歯から血が流れている。
力が与えられたのではない。
””俺が勝つという嘘に、現実の方を従わせている。””
そのために差し出した代償は、1000日分の寿命。
返済できなければ。
俺の人生は、本当に1000日短くなる。
「神殿兵!」
セヴランが叫ぶ。
「何をしている! 拘束しろ!」
先ほどまでの穏やかな声ではなかった。
焦り。
苛立ち。
恐怖。
五人の神殿兵が、顔を見合わせる。
それでも。
命令へ逆らう勇気はないらしい。
「聖典第二章、罪人を縛る銀の戒めよ!」
神殿兵たちが一斉に詠唱する。
床に浮かぶ五つの魔法陣。
銀色の鎖が、四方から俺へ伸びた。
「《五重聖鎖》!」
鎖が手足へ巻きつく。
一本。
二本。
五本。
子供の身体が、床へ引き倒されそうになる。
だが。
黒い王冠が輝いた。
――契約者は、神殿兵五名を上回る脅威である。
その認識に、世界が従う。
俺は右手を握る。
鎖を引く。
「来い」
五人の身体が、同時に宙へ浮いた。
「何っ――」
鎖ごと引き寄せる。
神殿兵同士が空中でぶつかる。
鎧がひしゃげる音。
骨が折れる音。
五人がまとめて床へ落ちた。
まだ生きている。
一人が剣へ手を伸ばした。
「逃げろ」
俺は言った。
今なら、見逃してもいい。
俺の目的はセヴランだ。
神殿兵全員を殺す必要はない。
だが。
男は剣を握った。
「異端者め……!」
別の神官も立ち上がる。
「悪魔の契約者を、生かして帰すな!」
彼らは。
子供を実験材料として扱った施設を守っていた。
命令されたから。
神殿が正しいから。
自分たちは悪くない。
そう思っている。
「選びましたね」
俺は右手を上げた。
神殿兵たちの周囲へ、黒い炎が広がる。
「何を――」
彼らの背後に。
黒い王冠をかぶった巨大な人影が現れた。
俺と重なる、未来の虚像。
神殿兵の一人が、それを見上げる。
恐怖が顔へ浮かんだ。
「あれは……魔王……?」
違う。
俺は魔王ではない。
だが。
彼がそう信じた。
隣の兵士も。
その隣も。
恐怖が、虚像を強くする。
巨大な影が手を振り下ろした。
空気が押し潰される。
床が割れる。
神殿兵と神官たちは、黒い衝撃へ飲み込まれた。
悲鳴は長く続かなかった。
光が消えた後。
動く者はいない。
全員。
死んだ。
確認している時間はなかった。
「貴様……!」
セヴランの顔が歪む。
「神の兵を殺したな!」
「二百人以上の子供を使った人が」
俺は答える。
「今さら、命の数を気にするんですか?」
「黙れ!」
セヴランが両腕を広げた。
銀色の文字が、空中へ何重にも並ぶ。
「天上に座す七光の主よ!」
声が地下施設へ響き渡る。
「我は鍵を持つ者!」
「閉ざされし天門を開き、罪人へ神罰を与えたまえ!」
一つ。
二つ。
十。
百。
天井に無数の銀色の魔法陣が現れた。
セヴランの青い目から、完全に余裕が消えている。
「《天門聖槍陣》!」
銀色の槍が雨のように降り注いだ。
一本目。
俺の頭を狙う。
右へ動く。
避けたのではない。
槍の方が、俺の立つ場所から外れた。
二本目。
右足。
黒い炎をまとった拳で砕く。
三本目。
四本目。
十本。
廊下の壁と床が爆発する。
白い石材が砕け。
地下施設全体が揺れる。
俺は槍の雨の中を歩いた。
一歩。
また一歩。
銀色の光が頬をかすめる。
血が飛ぶ。
傷は負う。
痛みもある。
それでも。
致命傷にはならない。
世界が。
セヴランの攻撃で俺が死ぬという結果を、認めようとしない。
「どうしたんです?」
俺は尋ねた。
「神の力は、その程度ですか?」
「この……クソガキがァ!」
セヴランが怒鳴る。
完全に化けの皮が剥がれた。
「たかが器の分際で!」
「悪魔に取り憑かれただけの空っぽが!」
「私の研究を!」
「私の神眼計画を!」
「貴様のようなスラムのゴミが、否定するな!」
銀の鍵を両手で握る。
血管が浮かぶ。
顔は汗で濡れ。
目は恐怖で見開かれている。
「聖典第六章!」
「不浄なる魂を焼き、肉を灰へ、名を無へ!」
セヴランの背後に、巨大な白い太陽が現れた。
地下とは思えない熱。
壁に残っていた血が、一瞬で乾く。
「《聖陽浄滅》!」
白い光が放たれる。
廊下全体を埋め尽くす巨大な光線。
逃げ場はない。
リゼフィアの扉は、まだ《聖鍵》に封じられている。
ヴェルゴラの黒い炎も、《契約閉鎖》に押さえられている。
正面から受ければ。
偽王戴冠中でも、ただでは済まない。
「ヴェルゴラ」
『何だ』
「嘘は、大きい方が強いんでしたね」
『信じさせられるならな』
俺は白い太陽へ右手を向けた。
「では」
想像する。
神の光を。
子供の遊び道具だと。
俺自身が信じる必要はない。
セヴランが、自分の聖魔法では俺を倒せないと感じている。
それを信じる。
男の恐怖は。
もう隠し切れないほど膨らんでいる。
「それは、俺を照らすための灯りですね」
白い光が。
俺の手のひらへ吸い込まれた。
熱が消える。
破壊の力が消える。
残ったのは。
頭上に浮かぶ、小さな白い球体だけだった。
地下の廊下を照らしている。
「……は?」
セヴランの口が開いた。
「《聖陽浄滅》が……」
「随分と明るいですね」
俺は白い球体を指で弾く。
光の球が天井へ上がった。
魔法灯の代わりに、周囲を明るく照らす。
「貴様……」
セヴランの身体が震えている。
「何をした……!」
「頭で理解しているでしょう?」
俺は歩みを進める。
「自分では、俺を殺せないと」
「違う!」
セヴランが後ずさる。
「私は神に選ばれた!」
「特務審問官だ!」
「二百人を使ってでも、世界の真理へ――」
「二百人使っても、失敗した人でしょう?」
「黙れ!」
銀色の鍵が飛ぶ。
一本。
俺はつかんで折る。
二本。
黒い炎で溶かす。
四本。
未来の俺の影が、指先だけで弾き飛ばす。
セヴランは後退し続ける。
「来るな……」
「怖いんですか?」
「黙れ!」
「五歳児ですよ」
「来るなと言っている!」
「あなたが加工しやすいと言った」
一歩。
「空白の多い」
一歩。
「スラムの子供です」
セヴランの背中が、壁へぶつかった。
逃げ場はない。
「なぜ、あなたが怯えるんです?」
「《聖鍵転移》!」
セヴランの身体が銀色に変わる。
移動。
だが。
転移先になる鍵は、既に黒い炎に包まれていた。
俺は見ていた。
男が廊下の奥に置いた、銀色の鍵。
逃走用の出口。
「その道は閉店しました」
転移しかけたセヴランの身体が、途中で実体へ戻る。
空間に弾かれ。
床へ転がった。
「ぐっ……!」
初めて。
セヴランが地面へ這いつくばる。
白い外套は汚れ。
金髪は乱れ。
穏やかな審問官の姿は、もう残っていない。
「こんな……」
男は床を掻く。
「こんなはずがない……」
「私の術は完璧だ」
「私は選ばれた」
「私は正しい」
自分へ言い聞かせている。
信じなければ。
今まで殺した二百人以上の子供が。
全部、無駄になる。
「何を根拠に?」
俺は尋ねた。
「神殿が認めた!」
「研究成果がある!」
「ガルドの魔眼を作った!」
「失敗作だと言っていましたよね」
セヴランの顔が固まる。
「エナを治療した!」
「一月前に治療が終わった少女を、人質としてつないでいた」
「それは、必要な――」
「二百人殺して」
俺はセヴランを見下ろす。
「失敗作一つと、人質一人」
「随分と立派な成果ですね」
「あ……」
男の目から。
自信が消えた。
自分は正しい。
自分は優秀だ。
その認識が崩れた。
同時に。
セヴランを守っていた聖なる光が弱くなる。
神聖魔法は信仰によって強くなる。
神への信仰だけではない。
自分が神の正義を行っているという確信。
それが力の根にある。
俺は。
そこを折った。
「違う」
セヴランは首を振る。
「私の研究は……必要だ」
「神を超えるために」
「世界を救うために」
「では」
俺は尋ねた。
「救った人間の名前を、一人でも言えます?」
セヴランは答えられなかった。
「殺した子供の名前は?」
何も出ない。
「誰も数えていないと言いましたね」
俺の黒い炎が、さらに大きくなる。
「なら、あなたも数えられなくていい」
セヴランの顔が恐怖で歪んだ。
「待て」
「取引をしよう」
「研究記録を渡す!」
「七十二禁書についても!」
「神殿の秘密も!」
「何でも教える!」
先ほどまで。
俺を生きた索引にすると言っていた男が。
床へ膝をついている。
「助けてくれ」
「私は価値がある」
「私を殺せば、失う情報が多すぎる」
これは事実だ。
セヴランは多くを知っている。
生かせば。
神殿の内部。
禁術。
七十二禁書。
神眼計画。
情報を引き出せる。
合理的に考えれば。
捕らえる方が得かもしれない。
「命を助ける代わりに」
俺は言った。
「全てを話す?」
「そうだ!」
セヴランの顔へ希望が浮かぶ。
「契約でも何でもする!」
「では、先に一つ」
俺はしゃがむ。
「子供たちへしたことを、悪いと思っています?」
セヴランの口が止まった。
「思っていると答えれば」
俺は続ける。
「助かる可能性が高い」
簡単な質問だ。
嘘でもいい。
悪かった。
後悔している。
そう言えばいい。
セヴランは。
それでも答えられなかった。
「必要な犠牲だった…」
掠れた声。
「研究が完成すれば…」
「いずれ、もっと多くの人間を救える…」
「……だから」
「私は間違っていない」
最後まで。
この男は。
自分を守るために、死んだ子供を利用した。
「そうですか」
俺は立ち上がった。
「待て」
セヴランが俺の足へしがみつこうとする。
「話しただろう!」
「情報も渡す!」
「助けてくれ!」
「私は死ぬべき人間ではない!」
俺は右手を上げた。
黒い炎が、指先へ集まる。
「死んだ子供たちも」
俺は言った。
「同じことを思っていたでしょうね」
「やめろ」
「クライ!」
「やめてくれ!」
「この化け物が!」
「スラムの蛆虫が!」
「悪魔に身体を売った売女の子が!」
汚い言葉を吐き。
顔を歪め。
涙と涎を流し。
セヴランは、必死に後ろへ下がった。
「わ、私に触れるな!」
「私は神殿特務審問官だぞ!」
「貴様ごときが!」
「俺ごときに」
黒い炎をまとった手を、セヴランの胸へ当てる。
「負けたんですよ」
「待――」
右手を突き出した。
黒い炎が、白い外套を貫く。
肉体。
神聖力。
魂へ刻まれた鍵。
全てを、一つの穴が貫いた。
セヴランの身体が止まる。
青い目が大きく開く。
口から、短い息が漏れた。
「わたし、は……」
最後まで。
謝罪の言葉は出なかった。
身体から力が抜ける。
俺の腕にもたれかかり。
そのまま床へ崩れ落ちた。
神殿特務審問官セヴラン・オルド。
死亡。
俺が。
殺した。
◇
静かだった。
旧施療院の地下。
少し前まで響いていた魔法の轟音が、嘘のように消えている。
黒い王冠は、まだ俺の頭上へ浮かんでいる。
セヴランの胸に開いた穴から。
赤い血が床へ広がっていく。
温かい。
つい先ほどまで生きていた人間の血。
俺の右手にもついている。
前世で。
人を死なせたことはある。
悪徳金融業者を騙し。
全財産と信用を失わせ。
借金を抱えさせた。
数日後。
そいつは、自分の事務所で首を吊った。
俺が直接殺したわけではない。
そう思った。
ギャング同士へ。
それぞれ別の偽情報を渡したこともある。
相手が裏切る。
金を持ち逃げする。
警察へ密告した。
両方が信じ。
夜の倉庫で撃ち合った。
死者は十人を超えた。
俺は現場にいなかった。
引き金を引いていない。
だから殺していない。
そう思っていた。
間接的に殺した人間なら。
何人いるか分からない。
だが。
自分の手を相手の胸へ当て。
自分の意思で。
命が消える瞬間まで触れていたのは。
初めてだった。
「……俺が殺した」
声にすると。
右手が震えた。
吐き気がする。
セヴランは殺されて当然だった。
二百人以上の子供を犠牲にした。
今後も続けるつもりだった。
マナやノアも狙った。
俺の魂も奪おうとした。
殺さなければ。
俺が殺されていた。
それでも。
人を一人殺したという事実は消えない。
「クライ」
ヴェルゴラの声。
「正しかったとは言えませんよね…」
『我は悪魔だ。殺したことを悩む理由が分からぬ』
リゼフィアは、何も言わない。
いつもの変態的な笑みもなかった。
ただ。
床に落ちた俺の右手を見ている。
「俺は」
血のついた指を握る。
「こいつを殺したことを、正義にはしません」
必要だった。
そうは思う。
だが。
正しかったことにすれば。
次も簡単に殺せるようになる。
相手は悪人だった。
必要な犠牲だった。
世界のためだった。
その言葉を。
セヴランは何度も使った。
同じにはならない。
「俺が殺すと決めた」
俺は言う。
「だから、俺の責任です」
誰かのため。
子供のため。
黒冠商会のため。
言い訳はできる。
それでも。
最後に手を動かしたのは俺だ。
忘れない。
俺はセヴランの目を閉じた。
許したわけではない。
敬意もない。
ただ。
死んだ人間の目が開いたままなのは。
少し嫌だった。
◇
黒い王冠が揺れる。
身体へ限界が近づいている。
1000日分の寿命。
返済期限は一日。
「ヴェルゴラ」
『分かっておる』
黒い悪魔が、セヴランの死体へ近づく。
金色の目が光る。
『やはり、悪くない』
「何日分?」
『正確に量るぞ』
セヴランの身体から。
白い煙のような光が浮かび上がる。
神聖力。
魔力。
生命力。
長年鍛えられた魂の密度。
黒い契約文字が、頭の中へ現れた。
――回収可能生命力。
――人間寿命換算千百四十二日。
1000日を超えている。
「返済」
セヴランから抜き取られた生命力が。
黒い炎を通じて胸へ流れ込む。
失われていた未来が戻る。
季節。
朝。
夜。
1000日。
――未返済代償、1000日。
――返済を実行。
身体の奥に開いていた穴が、ゆっくり塞がる。
――返済完了。
膝から力が抜けた。
寿命は戻った。
傷は戻らない。
身体は、もう限界だった。
「残りは?」
『百四十二日分だ』
「保存してください」
『器が必要だ』
俺は魂圧保存庫から持ち出した瓶を見る。
先ほど生命力を使い切った空の瓶。
他にも。
ヴェルゴラの影へ保管させていた瓶がある。
専用の器。
「これを使う」
『よかろう』
残った百四十二日分が、透明な瓶へ吸い込まれる。
次に。
倒れている神殿兵と神官たち。
全員、死んでいる。
《偽王戴冠》の衝撃に巻き込まれた者。
黒い炎で焼かれた者。
自分たちの聖魔法へ押し潰された者。
俺が殺した。
直接手を触れていなくても。
俺が放った力で死んだ。
逃げる機会を与えた。
攻撃を続けたのは彼らだ。
それでも。
死んだ事実は同じ。
「全員から回収するか?」
ヴェルゴラが尋ねる。
迷った。
死者の生命力。
子供たちの生命力を使った時。
知らなかったとはいえ、嫌悪感があった。
だが。
ここで残せば。
神殿が回収し、また別の実験へ使う可能性がある。
それなら。
俺が持つ。
使い道は、自分で選ぶ。
「回収してください」
黒い炎が、地下廊下へ広がった。
神殿兵。
神官。
一人ずつ。
身体から残った生命力が抜かれていく。
青白い光が、天井近くへ集まる。
頭の中へ、数字が浮かんだ。
――回収可能生命力総量。
――人間寿命換算二千百九日。
セヴランの余剰分と子供達の分の瓶を加えれば。
三千二百五十一日。
およそ九年分。
大きい。
《虚王顕現》を何度も使える。
大規模な虚像。
戦闘。
黒冠商会の代表者。
緊急時の寿命返済。
これまでとは比較にならない貯蓄だ。
「魂圧保存瓶へ」
空の瓶が一つずつ浮かぶ。
青白い生命力が流れ込む。
一本。
二本。
八本。
最後の瓶まで満たされる。
ヴェルゴラが満足そうに笑った。
『これだけあれば、しばらく我が権能を存分に――』
「無駄遣いはしません」
『なぜだ!』
「貯蓄ができた途端に使い始める人間は、一生金持ちになれません」
『生命力を金のように扱うな!』
同じだ。
足りない時に備え。
必要な場面だけで使う。
命の貯蓄だからこそ。
余計に慎重になるべきだ。
俺は満たされた魂圧保存瓶を、ヴェルゴラの影へ入れさせる。
これで。
黒冠商会は初めて。
大規模な禁術を継続して使える資源を得た。
代償は。
大きすぎたが。
◇
セヴランの死体から。
赤い指輪。
白い手袋。
銀色の聖鍵。
神殿特務審問官の身分証を回収する。
研究室へも入った。
七十二禁書。
神眼造成計画。
空白器。
子供たちの記録。
全ては持ち出せない。
重要な帳簿と研究資料だけを選ぶ。
残りは。
黒冠商会の印をつけた黒い箱へ入れた。
神殿が回収した時。
誰が持ち去ったか分かるように。
恐怖は、証拠と一緒に売る。
床へ。
黒い炎で王冠を刻んだ。
中央に金色の目。
周囲を囲む、切れた鎖。
その下へ。
一般文字で一行。
――黒冠商会の所有物へ、二度と触れるな。
神殿は従わないだろう。
それでもいい。
セヴラン。
神殿兵。
神官。
地下施設の人間が、全員殺された。
その現場に残された警告。
噂になれば。
黒冠商会の名前が、さらに強くなる。
「帰ります」
声に力がない。
《偽王戴冠》を解除する。
黒い王冠が消えた。
未来の俺の影も。
五歳児の身体だけが残る。
同時に。
全身の痛みが、一気に戻ってきた。
「っ……!」
立てない。
膝をつく。
左肩。
腹。
背中。
頭。
どこが一番痛いのか、もう分からない。
「リゼフィア」
『ここに』
彼女が隣へ膝をつく。
「共同寝床へ」
『安全確認を』
銀色の小窓が開く。
共同寝床の裏口。
ノア。
扉の前へ座り込み。
膝を抱えている。
マナは、救出した子供たちとエナの世話をしている。
ノアだけが。
扉から目を離していない。
待っている。
俺を。
「開けて」
『対価は――』
「前世の道を一つ」
『どの道ですの?』
「病院の病室から、退院口まで」
リゼフィアの顔が柔らかくなる。
『帰還の道ですわね』
「ええ」
「最後まで歩ける道です」
銀色の扉が開く。
旧施療院の地下と。
共同寝床の裏口がつながった。
◇
扉が光った瞬間。
ノアが立ち上がった。
「クライ?」
俺は一歩進む。
足に力が入らない。
境界を越えたところで。
前へ倒れた。
「クライ!」
ノアが走る。
床へ落ちる前に、身体を受け止められた。
小さな身体で。
必死に。
「クライ!」
「大丈夫です」
「どこが!」
声が泣いている。
「血だらけじゃない!」
「戻りました」
それだけ言う。
約束を守った。
かなり遅れた。
ぎりぎりだった。
それでも。
帰った。
ノアが俺を抱きしめる。
痛い。
全身が痛い。
だが。
離してほしいとは思わなかった。
「嘘つき」
ノアが言う。
「必ず帰るって言ったのに」
「帰りましたよ」
「こんなに遅くなるって言ってない!」
「そこまでは約束していません」
「馬鹿!」
「痛いです」
「知ってる!」
涙が俺の頬へ落ちる。
温かい。
マナが駆け寄ってきた。
俺の姿を見た瞬間。
顔から血の気が引いた。
「クライ……」
「ただいま」
その一言で。
マナの目にも涙が浮かぶ。
「おかえり」
抱きしめられる。
今度は本当に痛い。
「二人とも」
俺は掠れた声で言った。
「治療が先では?」
ようやく。
ノアとマナが身体を離した。
共同寝床へ運ばれる。
寝台へ寝かされる。
服を切られ。
傷を洗われる。
痛い。
薬が染みる。
「痛っ」
「我慢して」
マナが言う。
「無理です」
「魔物に襲われた時よりひどいじゃない!」
「あれよりはましです」
「どこが!」
灰鼠団へ知らせが送られ。
ガルドが裏医者を連れてきた。
左肩は骨にひび。
肋骨が二本折れている。
頭にも傷。
内臓に大きな損傷がないのは奇跡だと言われた。
奇跡ではない。
《偽王戴冠》が。
俺が死なない結果へ、現実を寄せた。
治療中。
ノアはずっと手を握っていた。
マナも、寝台の横から離れなかった。
俺は。
途中で意識を失った。
◇
次に目を覚ました時。
二日が経っていた。
ノアは寝台へ頭を載せ、眠っている。
俺の右手を握ったまま。
マナは反対側の椅子で眠っていた。
エナも生きている。
《境界回廊》でつないだ生命力供給は、まだ維持されている。
リゼフィアによれば。
新しい治療手段が見つかるまで、接続は切らないらしい。
『命が流れる細道を、長期観察できますもの』
目的は相変わらず変態的だが。
結果としてエナを助けている。
問題はない。
救出した五人の子供たちも、少しずつ回復している。
リオは。
共同寝床の入口を守るように座っていた。
俺を見ると、尻尾を一度だけ振った。
すぐに真面目な顔へ戻した。
見なかったことにする。
「クライ」
ノアが目を覚ました。
握っていた手へ、さらに力が入る。
「起きた?」
「ええ」
「もう、どこにも行かない?」
「しばらくは」
「しばらくじゃなくて」
「怪我が治るまでは」
ノアが頬を膨らませる。
それでも。
少し笑った。
俺も笑う。
身体は痛い。
人を殺した感覚も。
右手へ残っている。
簡単には消えない。
消さない方がいい。
それでも。
帰ってきた。
手を握ってくれる人間がいる場所へ。
今は。
それで十分だった。
◇
五日後。
神殿旧施療院。
赤蛇会の構成員たちが、地下へ足を踏み入れた。
先頭を歩く男は。
赤い革外套。
刈り上げた赤髪。
左の首から頬へ伸びる、赤蛇の刺青。
赤蛇会頭領。
ザイラス・ヴァーン。
背後には、副頭目バルクを失った赤蛇会の幹部たち。
「何だよ、これは……」
一人が震えた声を出す。
床には。
砕けた聖鍵。
焼けた神殿兵の死体。
壁へ突き刺さった銀の槍。
そして。
胸を貫かれたセヴラン・オルド。
神殿特務審問官が。
恐怖に歪んだ顔で死んでいる。
「審問官が……殺された?」
「黒冠商会に?」
「逃げた方が……」
幹部たちの顔が青ざめる。
旧施療院を守っていた人間は。
一人も生き残っていない。
赤蛇会が戦ってきた灰鼠団とは。
規模が違う。
力が違う。
「頭領」
「黒冠商会と敵対するのはまずいですよ!」
「神殿の審問官まで殺す奴らです!」
「王都西部から手を引きましょう!」
ザイラスは答えない。
ゆっくりと。
廊下の奥へ進む。
床に刻まれた、黒い王冠。
中央に金色の目。
周囲を囲む、切れた鎖。
その下の警告を読む。
――黒冠商会の所有物へ、二度と触れるな。
ザイラスの口元が上がった。
笑っている。
だが。
額には汗。
拳も、わずかに震えている。
恐怖している。
それを。
怒りで塗り潰そうとしている。
「所有物だと?」
ザイラスは床の紋章を踏みつけた。
「灰鼠団も」
「スラムも」
「俺たちが何年かけて奪ってきたと思ってやがる」
「頭領……」
「突然現れた商会が」
「全部、自分の物だと?」
何度も。
紋章を踏む。
それでも金色の目は消えない。
《虚王顕現》で作られた印。
黒冠商会を恐れる者がいる限り。
簡単には消えない。
「面白え」
ザイラスが笑う。
「黒冠商会が強ければ強いほど」
「奪った時の価値も上がる」
「審問官を殺した相手ですよ!」
「だから何だ!」
ザイラスは振り返る。
赤蛇の刺青が。
生き物のように動いた。
男の右目が、一瞬だけ縦に裂ける。
人間の目ではない。
「神殿の犬一匹殺した程度で」
低い声。
「王都の蛇を、怖がらせたつもりか?」
幹部たちが黙る。
「黒冠商会の監査役」
「顔のない執行役」
「全部まとめて、引きずり出す」
ザイラスは、セヴランの死体を蹴った。
「最初に狙うのは」
床に落ちていた、一枚の紙を拾う。
神殿の監視記録。
そこには。
黒髪。
金眼。
五歳。
黒冠商会案内役。
クライ・マイト。
俺の名が書かれていた。
「このガキだ」
ザイラスが笑う。
「商会が大事にしている案内役をさらう」
「助けに来た監査役を殺す」
「黒冠商会の全部を、赤蛇会がもらう」
男の影から。
無数の赤い蛇が這い出した。
死体の間を進み。
床に刻まれた黒い王冠へ牙を立てる。
「スラム中へ伝えろ」
赤蛇会頭領は、恐怖を隠すように怒鳴った。
「黒冠商会に戦争を売る」
その夜。
共同寝床の裏口へ。
一匹の赤い蛇が現れた。
口にくわえていたのは。
血で濡れた、黒冠商会の紋章。
蛇は。
扉の前へそれを落とす。
赤い目で。
眠っている俺の部屋を見上げた。




