第13話 スラムの王座は、競売にかけろ
赤蛇会からの宣戦布告は。
一匹の赤い蛇と。
血で汚れた黒冠商会の紋章。
そして、一枚の紙で届いた。
翌朝。
俺は寝台の上で、その紙を読んでいた。
肋骨には包帯。
左肩は固定されたまま。
文字を追うたび、ノアが横から覗き込んでくる。
---
黒冠商会へ。
おまえらは、おれらのシマをぬすんだ。
ガキをよこせ。
監査役は一人で来い。
灰鼠団もぜんいんつれてこい。
逃げたら負け。
ことわったら、みなごろし。
返事は今日まで。
赤蛇会頭領
ザイラス・ヴァーン
---
「……すごいですね」
俺は呟いた。
「怖い?」
ノアが不安そうに尋ねる。
「いえ」
俺は紙を裏返す。
裏には何もない。
「一枚の文章で、ここまで知性を感じさせないのは才能です」
監査役は一人で来い。
しかし灰鼠団は全員連れてこい。
返事の期限は、手紙が届く前日の昨日。
条件を断れば皆殺し。
受け入れた場合に何が起きるのかは書かれていない。
交渉文書として成立していない。
「“全員”の字も間違っています」
「わたしでも書けるわ」
ノアが少し得意そうに言った。
「比べる相手を選んでください」
マナが手紙を見て、顔を青くする。
「でも、共同寝床を狙っているのよね?」
「その可能性はあります」
「どうするの?」
「話し合います」
ノアが目を丸くする。
「この人と?」
「言葉、通じるの?」
ひどい言われようだ。
ただ。
俺も少し心配している。
『殺せばよかろう』
ヴェルゴラが寝台の陰から言う。
「赤蛇会全員を?」
『頭領だけでもよい』
「組織は、頭を切れば必ず死ぬわけではありません」
赤蛇会は。
王都南西部の賭場。
密輸路。
用心棒。
盗品売買。
違法な薬物。
人身売買。
多くの悪事を行っている。
一方で。
荷車。
倉庫。
密輸商人との接点。
戦える構成員。
街の外へつながる流通路。
黒冠商会が一から作れば、何年もかかる物を既に持っている。
頭領が馬鹿だからといって。
組織全体を捨てるのは惜しい。
「赤蛇会は取り込みます」
俺が言うと。
ノアとマナが同時に首を傾げた。
「仲間にするの?」
「正確には」
俺は宣戦状を畳む。
「こちらの利益になる形へ、作り直します」
リゼフィアが、蛇の入ってきた裏口へ頬を寄せていた。
『この蛇、旧施療院から十七本もの裏路地を通っていますわ』
目を閉じ。
恍惚とした表情で、木の床を撫でている。
『排水溝。井戸の縁。酒場の床下。眠る酔っ払いの股の間……何てねっとりとした蛇行路……』
「今、重要な話をしているので黙ってください」
『蛇の道は重要ですわ!』
「酔っ払いの股の間は報告しなくて結構です」
リゼフィアは不満そうに頬を膨らませた。
見た目だけなら美しい。
行動は、床を這う変質者である。
「この手紙へ、返事を書くの?」
ノアが尋ねた。
「ええ」
「何て?」
「期限に間に合わず、申し訳ありませんでした」
「謝るの?」
「昨日までに返せと言われていますので」
◇
灰鼠団の審査期間は。
残り一日となっていた。
焼けた染物工房には、新しい帳簿が並んでいる。
徴収額。
賭場の利益。
倉庫の在庫。
構成員の報酬。
以前は、幹部しか見られなかった記録だ。
今はガルドの命令で、全て一冊へまとめられている。
「共同寝床からの徴収は停止」
俺は確認する。
「子供の売買も?」
「全員へ禁止を伝えた」
ガルドが答える。
「破った奴は、指じゃ済ませねえ」
「殺す?」
「追放だ」
以前のガルドなら。
裏切り者も規則違反者も、殴って終わらせていた。
今は。
組織から外す。
被害者へ補償させる。
記録へ残す。
少しずつ。
暴力以外の方法を使うようになっている。
「保護費は?」
「店の売上に応じた固定額。受け取ったら証票を渡す」
灰色の小さな札。
支払い済みの店は。
同じ週に別の構成員から、二重に徴収されない。
当たり前の仕組みだ。
だが。
以前の灰鼠団にはなかった。
「賭場の利益から、一割を負傷者と共同寝床へ」
「少ないですね」
「二割にしたら、俺の部下が食えねえ」
「一割五分」
「細かいな」
「では二割で」
「一割五分にしろ」
交渉成立。
ガルドがため息をつく。
「五歳のガキに、何で組織の帳簿を直されてんだろうな」
「監査役の指示です」
「お前の意見は?」
「監査役と同じです」
当然だ。
同一人物なのだから。
ガルドは白く濁った左目で、俺を見る。
「本当に似てるな。お前ら」
「教育がいいので」
「どっちが、どっちを教育してんだ?」
危ない質問だ。
俺が答える前に。
工房の奥から、ヨルンが現れた。
副頭目の印は外されている。
腰の武器もない。
裏切りが判明した後。
ガルドはヨルンを殺さなかった。
役職を剥奪。
単独行動を禁止。
外部との接触は、全て記録。
報酬の半分を。
襲撃で負傷した構成員と、死亡者の遺族へ渡す。
それが処分となった。
ヨルンは俺の前へ来ると。
突然。
両膝をついた。
「クライ」
「何です?」
「エナを助けてくれて、ありがとう」
深く頭を下げる。
額が床へつく。
周囲にいる灰鼠団の男たちが、こちらを見る。
「顔を上げてください」
「俺は」
ヨルンの声が震える。
「エナを救うためだと言いながら、仲間を売った」
「共同寝床の子供まで、危険へ巻き込んだ」
「それなのに、お前はエナまで助けた」
「俺の命で返せるなら――」
「要りません」
即答した。
ヨルンが顔を上げる。
「あなたの命は、今かなり値下がりしています」
「値下がり……」
「裏切りの前なら、副頭目一人分の価値があった」
「今は監視費用がかかる上に、信用もない」
「死なれると帳簿の引き継ぎまで増える」
「非常に迷惑です」
工房の誰かが吹き出した。
ヨルンは。
泣けばいいのか怒ればいいのか分からない顔をしている。
「生きて働いてください」
俺は言った。
「エナの治療費も必要です」
「被害を受けた人間への補償も」
「あなたが死んでも、誰の腹も満たせません」
ヨルンは唇を噛む。
「……分かった」
「エナは?」
「朝、スープを一杯飲めた」
少し笑う。
「お前の話をすると、会いたいって」
「元気になってからで」
現在。
エナの生命力供給は。
《境界回廊》で魂圧保存瓶と接続している。
普通の人間には。
黒冠商会が所有する特殊な治療具だと説明してある。
嘘ではない。
リゼフィアは毎日。
細い生命の道を眺めながら。
異常なほど喜んでいる。
エナの命が助かっている以上。
気にしないことにした。
「ヨルン」
ガルドが言う。
「下がれ」
「はい」
ヨルンは立ち上がり。
もう一度、俺へ頭を下げた。
工房の奥へ戻っていく。
ガルドは、その背中を見ていた。
「甘いと思うか?」
「処刑しなかったことを?」
「ああ」
「合理的です」
俺は答える。
「裏切り者を殺せば、一人減る」
「働かせれば、被害を埋める人間が一人増える」
「また裏切ったら?」
「今度は、使い道がなくなりますね」
ガルドは少し笑った。
「お前が一番怖えよ」
褒め言葉として受け取っておく。
俺は赤蛇会の宣戦状を。
卓へ置いた。
ガルドが読む。
途中で眉間へしわが寄る。
最後まで読み。
もう一度、最初から読み直す。
「何だ、これ」
「宣戦布告だそうです」
「返事は…昨日まで?」
「残念ながら、期限を過ぎました」
「監査役は一人で来い。俺たちは全員来い?」
「赤蛇会には、複雑な人数計算が難しいのでしょう」
ガルドが鼻で笑う。
「潰すのか?」
「取り込みます」
「正気か?」
本日二度目の反応だ。
「赤蛇会の頭領は馬鹿です」
「知ってる」
「しかし、構成員全員が同じとは限らない」
「倉庫。流通。人手。王都南西部の情報」
「使える物は多い」
「ザイラスが従うと思うか?」
「従わせません」
俺は答えた。
「勝とうとさせます」
◇
交渉場所は。
スラム中央にある、廃業した公設市場となった。
石造りの大きな建物。
出入口は四つ。
中央には、かつて競りに使われていた円形の広場がある。
灰鼠団と赤蛇会。
双方が十二人ずつ。
武器は入口で預ける。
周囲には。
スラムの商人。
共同寝床の管理者。
洗濯場の女性たち。
小さな賭場の主人。
二十人ほどの代表者を呼んだ。
彼らは交渉へ参加しない。
ただ、どちらが何を約束したのか。
聞いてもらう。
人間は、密室で交わした約束なら破る。
大勢の前で口にした約束は、心理的に破りにくい。
市場の中央。
黒冠商会王都監査役が座っている。
黒い外套。
金色の目を持つ仮面。
その身体は。
木の骨組みと布で作った人形だ。
外側へ《虚王顕現》を重ねている。
既に大勢が。
監査役の存在を信じている。
ただ座り。
時折首を動かし。
低い声で話すだけなら。
必要な生命力は、人間寿命換算二日分。
魂圧保存瓶の貯蓄から支払った。
俺は監査役の右側。
黒冠商会の案内役兼書記として座る。
ノアが縫った、歪んだ王冠の印を胸につけている。
『同じ人間が、同じ部屋へ二つの姿で入る道……』
リゼフィアが卓の下から顔だけを出していた。
『自己並走路……たまりませんわ』
「静かにしてください」
「何か言ったか?」
隣のガルドが尋ねる。
「独り言です」
「監査役に怒られるぞ」
俺自身なので問題ない。
正面の扉が開いた。
赤蛇会が入ってくる。
先頭はザイラス・ヴァーン。
刈り上げた赤髪。
赤い革外套。
首から左頬へ伸びる蛇の刺青。
その後ろには、赤蛇会の幹部。
会計役らしい眼鏡の男。
腕の太い用心棒。
密輸商人。
皆。
旧施療院で起きたことを知っている。
黒冠商会の監査役を見る目には。
明確な恐怖があった。
ザイラスだけが。
その恐怖を隠すように大きく笑う。
「よう」
椅子へ乱暴に座る。
「顔なし野郎」
黒冠商会の監査役は答えない。
ザイラスの笑みが少し固まる。
無視されるとは思わなかったらしい。
「俺の手紙は読んだか?」
監査役の低い声が響く。
『読解に、少々時間を要した』
周囲から、小さな笑いが漏れた。
ザイラスの額に青筋が浮かぶ。
「どういう意味だ」
『内容が複雑だった』
俺は視線を下へ向ける。
笑わないためだ。
監査役は続ける。
『一人で来いと言いながら、灰鼠団を全員連れてくるよう求めていた』
「それは……」
『返答期限は、手紙が到着する前日』
「細けえことはいいんだよ!」
『交渉で細部を捨てる者は、契約後に全てを失う』
ザイラスは黙る。
怒っている。
だが。
監査役へ飛びかかりはしない。
旧施療院の死体を見た。
神殿の審問官が殺されている。
恐れている。
だからこそ。
声だけは大きい。
『本日の議題を始める』
監査役が卓へ手を置く。
『黒冠商会は、王都西部における管理組織を一つ選定する』
ザイラスとガルド。
双方の表情が変わった。
『選定された組織には』
『黒冠商会との優先取引権』
『魔物素材および護衛依頼の仲介』
『共同倉庫の使用』
『外部組織に対する黒冠商会の名義保護』
『王都西部の流通管理権を認める』
法的な領主権ではない。
王国が認めた権利でもない。
だが。
スラムでは。
誰が物を運び。
店を守り。
揉め事を裁き。
外部組織へ対抗するか。
それが実質的な支配者を決める。
黒冠商会が唯一の取引相手として扱えば。
商人たちも。
小さな犯罪組織も。
その団体へ従う。
『選定候補は二つ』
『灰鼠団』
『赤蛇会』
ザイラスの口元が上がる。
「つまり」
卓へ身を乗り出す。
「俺たちが灰鼠団に勝てば」
「スラム全部を、黒冠商会が俺にくれるってことか?」
『結果としては』
監査役が答える。
『近い』
「面白え」
食いついた。
自分が勝つ前提で考えている。
ガルドは、俺を横目で見る。
計画通りかと。
俺は小さくうなずく。
『競争条件は、今から提示する』
黒い契約書を。
双方へ一枚ずつ配る。
神殿公証書体。
エドムへ依頼した。
内容は単純だ。
本日の交渉中。
各組織が口にした条件は。
黒冠商会が正式に受理した時点で、履行義務を持つ。
嘘。
見栄。
冗談。
後から取り消すことはできない。
契約書には。
事前に目を通させる。
ガルドは読んだ。
ザイラスは。
一枚目の途中で飽きた。
「つまり、勝てばいいんだろ」
「頭領…!」
赤蛇会の会計役が小声で止める。
「最後まで読んだ方が…」
「お前が読め」
他人へ渡した。
悪くない。
自分で読まないこと以外は。
会計役は内容を確認し。
ザイラスへ耳打ちする。
「口にした条件は、全て守る必要があります」
「勝てば問題ねえ」
「負けた場合もです」
「負けねえ」
署名した。
素晴らしい。
馬鹿は。
自分だけが例外だと思っている限り。
どんな契約書にも署名する。
◇
最初の項目。
子供の売買。
『灰鼠団』
監査役が促す。
ガルドが立ち上がる。
「十日前から全面禁止」
「現在保有していた売買記録を、黒冠商会へ提出」
「拘束していた子供は全員解放」
「共同寝床からの徴収も止めた」
実行済み。
記録もある。
大きい。
『赤蛇会』
ザイラスは鼻で笑った。
「俺たちは子供だけじゃねえ」
「大人も売る」
会計役が頭を抱えた。
正直なのはいいことだ。
『それは、加点にならない』
監査役が答える。
「なら」
ザイラスは腕を組む。
「今持ってるガキを、全部返す」
会計役が顔を上げる。
「頭領、現在十一人です」
「全員だ」
『売買経路は?』
「三本ある」
「二本渡す」
『灰鼠団は、保有していた全経路を開示した』
ザイラスの顔が険しくなる。
「……三本全部だ」
『受理する』
一つ目。
赤蛇会が保有する子供十一人の解放。
人身売買経路三本の開示。
契約成立。
ザイラスは。
勝つために自分から差し出した。
俺が命令したのではない。
競争相手へ負けたくない。
それだけで。
次。
保護費。
ガルドが提示する。
「店の売上に応じた固定額」
「支払い済みの証票を発行」
「二重徴収は禁止」
「共同寝床と施療所からは取らない」
ザイラスが笑う。
「そんな弱気な額で、組織が食えるか」
『では、赤蛇会の条件を』
「今まで通りだ」
会計役が。
強くザイラスの袖を引いた。
「頭領!」
「この項目で負ければ、選定は難しいですよ…!」
「……なら」
ザイラスがガルドを見る。
「一月だけ、灰鼠団より半分にする」
市場の商人たちがざわつく。
『一月後は?』
「灰鼠団と同じだ」
『証票は?』
「出す」
『二重徴収』
「禁止だ!」
『受理する』
赤蛇会が。
自分から保護費を下げた。
ザイラスは勝った顔をしている。
会計役は。
将来の収支を計算し、青い顔をしている。
競争は続く。
負傷者への補償。
灰鼠団。
賭場利益の一割五分。
赤蛇会。
ザイラスが二割と言う。
衛兵の数。
灰鼠団は二十人。
赤蛇会は二十五人。
食料備蓄。
灰鼠団は二週間分。
赤蛇会は三週間分。
外部勢力の情報。
灰鼠団は全記録を黒冠商会へ共有。
ザイラスは。
負けたくない一心で。
密輸商人。
賄賂を渡している衛兵。
王都外の倉庫。
全ての名を口にした。
一度口にすれば。
契約書が淡く光る。
取り消せない。
赤蛇会の会計役は。
途中から魂の抜けた顔をしていた。
「頭領……」
「これ以上は――」
「黙れ!」
「灰鼠団に負けろってのか!」
俺は記録を取りながら。
心の中で点数をつける。
赤蛇会は。
人質を解放。
保護費を削減。
利益の二割を救済へ。
情報網を開示。
密輸路まで提供。
予想以上の成果だ。
全て。
ザイラス自身が勝つために差し出した。
これが競争の強みだ。
こちらが要求すれば。
人間は奪われたと思う。
自分から競り上げれば。
勝つために必要な投資だと思う。
『最終項目』
監査役の声が響く。
『組織の統率能力』
ガルドが。
灰鼠団の構成員一覧と、十日間の記録を提出する。
違反者。
負傷者。
死亡者。
脱退者。
収入。
支出。
全て書かれている。
赤蛇会は。
何も用意していない。
ザイラスが卓を叩く。
「記録なんかなくても」
「俺が命令すれば、全員動く!」
『それを証明する』
監査役は。
ザイラスではなく。
赤蛇会の構成員たちを見る。
『赤蛇会の構成員へ問う』
男たちの身体が固まる。
『人身売買の停止』
『保護費の削減』
『利益二割の救済拠出』
『黒冠商会への情報開示』
『今、頭領が提示した条件へ従える者は立て』
一瞬。
誰も動かなかった。
ザイラスの顔へ、笑みが戻る。
しかし。
最初に立ったのは。
会計役だった。
「黒冠商会の優先取引が得られるなら」
声を震わせながら言う。
「赤字にはなりません」
次に。
密輸商人。
「神殿の審問官を殺した相手と、戦うよりはいい」
用心棒。
若い構成員。
一人。
また一人。
最終的に。
赤蛇会の十一人全員が立った。
座っているのは。
ザイラスだけ。
「お前ら……」
男の声が低くなる。
「黒冠商会の犬になって、俺を裏切る言い方だな…?」
「違います、頭領」
会計役が必死に答える。
「勝つためです」
「黒冠商会と組めば、灰鼠団より大きくなれる」
「今までより稼げます」
「子供を売らなくても――」
「黙れ!」
ザイラスが怒鳴る。
会計役は口を閉じる。
だが。
座らなかった。
周囲の商人たちも。
赤蛇会の条件へ期待する目を向けている。
保護費が下がる。
子供が売られない。
流通が安定する。
赤蛇会そのものを。
完全に潰す必要はない。
あと少し。
ザイラスの顔だけを立ててやれば。
組織ごと取り込める。
『審査結果を告げる』
市場が静まる。
『王都西部の第一管理組織は』
『灰鼠団とする』
ガルドは表情を変えない。
灰鼠団の構成員たちが、息を吐く。
ザイラスの顔から。
感情が消えた。
『赤蛇会は、第二管理組織として存続を認める』
すぐに続ける。
『王都南西部の輸送、警備、外部流通を担当』
『独自の収益と役職は維持する』
『赤蛇会頭領ザイラス・ヴァーンを』
『王都西南警備長へ任命する』
敗者ではない。
灰鼠団の下働きでもない。
王都西南警備長。
実権は制限する。
それでも。
構成員の前で、役職と縄張りを失わずに済む。
『灰鼠団と赤蛇会は』
『黒冠商会の監督下において、共同統治会を設置する』
『両組織は敵対を停止』
『人員と縄張りを維持したまま』
『王都西部の利益を分担する』
赤蛇会の会計役が。
小声でザイラスへ言う。
「頭領」
「悪くありません」
「黒冠商会の取引を得られる」
「南西部も残る」
「灰鼠団へ吸収されるわけではない」
用心棒もうなずく。
「バルクの仇はありますが」
「今、戦って全滅するよりは」
密輸商人が続ける。
「神殿の追及も、黒冠商会の名があれば避けられるかもしれません」
全員。
受け入れる気になっている。
ガルドも。
ザイラスへ言った。
「お前と仲良くする気はねえ」
「だが」
「スラムを燃やして、どっちが強いか決めるよりはましだ」
ザイラスの右手が。
契約書の上へ置かれる。
後は。
署名するだけ。
俺は呼吸を整える。
成功だ。
灰鼠団を勝たせ。
赤蛇会も残す。
二つの組織を争わせ。
互いに。
子供の売買禁止。
保護費の削減。
救済資金。
情報開示。
全て約束させた。
殺さず。
脅さず。
利益を競わせただけで。
スラムの仕組みを変えられる。
ザイラスの指が。
署名欄へ近づく。
「頭領」
会計役が、少し笑う。
「これで俺たちも生き残れますね」
生き残る。
その言葉に。
ザイラスの指が止まった。
「……生き残る?」
「はい」
「俺が負けたってことか?」
会計役は。
言葉を選び損ねた。
ザイラスの右目が。
縦に裂けた。
「俺が」
低い声。
「負けたって言ったか?」
市場の空気が変わる。
首から頬へ伸びていた赤蛇の刺青が。
ゆっくり動いた。
皮膚の下を。
本物の蛇が這うように。
「頭領」
会計役が一歩下がる。
「そういう意味では――」
「全員で」
ザイラスは立ち上がる。
「俺を負け犬にして」
「黒冠商会の犬になるつもりか?」
「違います!」
「利益のためです!」
「利益?」
ザイラスが笑う。
「俺より」
「金を選ぶのか?」
恐怖。
旧施療院で見た死体。
黒冠商会の監査役。
自分以外の構成員が、全員契約を望んでいる。
それらが。
ザイラスの中で、怒りへ変わっていく。
負けたのではない。
裏切られた。
自分へ。
そう言い聞かせ始めている。
「ザイラス」
ガルドが立ち上がる。
「座れ」
「命令すんな」
「交渉は終わった」
「終わってねえ!」
ザイラスの拳が。
卓へ振り下ろされた。
石造りの卓が。
中央から割れた。
契約書が宙へ舞う。
「頭領!」
赤蛇会の構成員たちが動く。
ザイラスの身体へ。
赤い鱗が浮かんだ。
首。
頬。
腕。
指先。
赤蛇の刺青が皮膚から剥がれ。
巨大な蛇の頭となって肩から現れる。
『魔獣融合』
ヴェルゴラが低く言った。
『あの男、自分の身体へ魔獣を飼っておる』
「何の魔獣?」
『赤淵大蛇』
ガルドがザイラスへ飛びかかる。
「取り押さえろ!」
灰鼠団と赤蛇会。
両方の構成員が動いた。
ザイラスは。
右腕を横へ振る。
それだけで。
近づいた男たちがまとめて吹き飛んだ。
石壁へ激突する。
「俺は!」
ザイラスが叫ぶ。
声に。
蛇の鳴き声が重なる。
「誰にも負けねえ!」
「神殿にも!」
「灰鼠団にも!」
「黒冠商会にも!」
肩から生えた大蛇が。
口を開く。
赤い霧が噴き出した。
「毒です!」
俺が叫ぶ。
市場の床へ。
赤い霧が広がる。
吸い込んだ商人が咳き込み。
一人が倒れた。
ガルドが外套で口を覆う。
「全員、外へ!」
人々が出口へ殺到する。
だが。
四つの出入口から。
細い赤蛇が這い込んできた。
十。
百。
床を埋めるほど。
「いつの間に……」
赤蛇会の構成員まで。
顔を青くしている。
知らなかった。
ザイラスが。
一人で準備していた。
俺は。
宣戦状を運んできた蛇を思い出す。
血で濡れた黒冠商会の紋章。
共同寝床の裏口。
あの蛇は。
手紙を届けただけではない。
「匂いをつけた」
俺は呟く。
「何?」
ガルドが聞き返す。
「共同寝床へ」
赤蛇は。
通った道へ。
仲間が追える匂いを残す。
最初の宣戦状。
文章は馬鹿だった。
だが。
蛇を共同寝床へ入れたことだけは。
意味があった。
リゼフィアが。
突然、床へ両手をついた。
いつもの興奮した顔ではない。
赤紫色の瞳を、大きく見開いている。
『クライ』
「何です?」
『スラムの地下に』
銀色の扉が何枚も現れる。
その向こうに。
排水溝。
井戸。
床下。
無数の細い道が映った。
全てを。
赤い蛇が進んでいる。
『蛇の道が、同時に開きました』
「数は?」
『数え切れません』
映像が切り替わる。
共同寝床。
裏口。
ノアが。
救出した子供たちと食事をしている。
マナはエナの治療を手伝っている。
誰も。
床下へ近づく蛇に気づいていない。
「リゼフィア」
俺は立ち上がる。
「共同寝床へ――」
ザイラスの右目が。
俺へ向いた。
縦に裂けた瞳。
赤淵大蛇の眼。
その目は。
人間の姿ではなく。
熱。
血。
心臓の動きを見ていた。
最初に。
黒冠商会の監査役を見る。
長身の黒い人影。
だが。
中に血は流れていない。
心臓もない。
「……何だ」
ザイラスの顔が歪む。
「この監査役」
大蛇の瞳が細くなる。
「空っぽじゃねえか」
まずい。
監査役の虚像が。
ザイラスの蛇眼には。
血を持たない殻として見えている。
これは嘘を見抜いたのではない。
人間には見えない体温と血流を。
魔獣の眼で見た。
ザイラスの視線が。
ゆっくり動く。
監査役。
黒い炎。
そして。
俺。
「そうか」
男の口が裂けるように笑う。
「このガキだ」
俺の背筋が冷える。
「監査役が動くたび」
「こいつの心臓が速くなる」
蛇眼が。
俺と監査役の間に流れる黒い認識の糸を見ている。
「黒冠商会の心臓は」
ザイラスが指を向ける。
「このガキだ!」
肩の大蛇が。
俺へ飛びかかった。
ヴェルゴラの黒い炎で迎え撃つ。
同時に。
監査役の虚像を解除する。
黒い外套が炎へ変わり。
人形の姿を見せる前に消える。
周囲の人間には。
監査役が転移したように見えたはずだ。
だが。
ザイラスは迷わない。
狙いは俺。
巨大な蛇の身体が。
黒い炎を突き破る。
速い。
避けられない。
赤い尾が、俺の身体へ巻きついた。
肋骨が軋む。
「ぐっ……!」
治りかけの傷へ。
圧力がかかる。
息が止まる。
ガルドがザイラスへ走る。
「クライを離せ!」
「来るな!」
ザイラスが叫んだ。
右手を上げる。
市場の外。
遠く離れたスラム中から。
悲鳴が聞こえた。
井戸から。
床下から。
排水溝から。
赤い蛇が、次々と姿を現している。
『共同寝床へ、百三十七』
リゼフィアが言う。
『さらに増えています』
俺の視界へ。
境界越しの映像が浮かぶ。
共同寝床の床板。
その隙間から。
赤い蛇の頭が一つ。
二つ。
五つ。
ノアが。
ようやく気づいた。
「マナさん」
震える声。
「動かないで」
子供たちが息を止める。
蛇の赤い目が。
一斉にノアへ向く。
ザイラスが。
俺を締め上げながら笑った。
「交渉なんか要らねえ」
赤い鱗が。
男の顔を覆っていく。
「黒冠商会を食えば」
「俺がスラムの王だ」
赤蛇の牙が。
俺の首筋へ近づく。
「動けば」
ザイラスが囁く。
「スラム中の蛇が、一斉に噛む」
ガルドが止まる。
赤蛇会の構成員たちも。
顔を青くしたまま動けない。
共同寝床。
ノア。
マナ。
エナ。
救出した子供たち。
全員が。
毒蛇に囲まれている。
俺は。
蛇の身体へ締め上げられながら。
ザイラスを見る。
交渉は成功していた。
赤蛇会は。
もう少しで取り込めた。
構成員たちも。
条件を受け入れた。
失敗したのは。
たった一人。
自分が負けたと認められない頭領。
だが。
その一人が。
今。
スラム全体を人質にしている。
「クライ」
ガルドが掠れた声で言う。
「どうする」
俺は答えようとした。
しかし。
蛇の尾が強く締まる。
肺から空気が押し出された。
ザイラスの牙が。
皮膚へ触れる。
冷たい。
「最後に聞いてやるよ」
ザイラスが笑う。
「ガキ」
「黒冠商会を俺へ渡すか」
「それとも」
赤い蛇たちが。
スラム中で口を開いた。
「お前の家族から死ぬか?」




