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詐欺転生〜詐欺師は禁術で世界を騙す〜  作者: キラーダミズハ
第一章 詐欺師の第一歩
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13/31

第13話 スラムの王座は、競売にかけろ

赤蛇会からの宣戦布告は。


一匹の赤い蛇と。


血で汚れた黒冠商会の紋章。


そして、一枚の紙で届いた。


翌朝。


俺は寝台の上で、その紙を読んでいた。


肋骨には包帯。


左肩は固定されたまま。


文字を追うたび、ノアが横から覗き込んでくる。


---


黒冠商会へ。


おまえらは、おれらのシマをぬすんだ。


ガキをよこせ。


監査役は一人で来い。


灰鼠団もぜんいんつれてこい。


逃げたら負け。


ことわったら、みなごろし。


返事は今日まで。


赤蛇会頭領

ザイラス・ヴァーン


---


「……すごいですね」


俺は呟いた。


「怖い?」


ノアが不安そうに尋ねる。


「いえ」


俺は紙を裏返す。


裏には何もない。


「一枚の文章で、ここまで知性を感じさせないのは才能です」


監査役は一人で来い。


しかし灰鼠団は全員連れてこい。


返事の期限は、手紙が届く前日の昨日。


条件を断れば皆殺し。


受け入れた場合に何が起きるのかは書かれていない。


交渉文書として成立していない。


「“全員”の字も間違っています」


「わたしでも書けるわ」


ノアが少し得意そうに言った。


「比べる相手を選んでください」


マナが手紙を見て、顔を青くする。


「でも、共同寝床を狙っているのよね?」


「その可能性はあります」


「どうするの?」


「話し合います」


ノアが目を丸くする。


「この人と?」


「言葉、通じるの?」


ひどい言われようだ。


ただ。


俺も少し心配している。


『殺せばよかろう』


ヴェルゴラが寝台の陰から言う。


「赤蛇会全員を?」


『頭領だけでもよい』


「組織は、頭を切れば必ず死ぬわけではありません」


赤蛇会は。


王都南西部の賭場。


密輸路。


用心棒。


盗品売買。


違法な薬物。


人身売買。


多くの悪事を行っている。


一方で。


荷車。


倉庫。


密輸商人との接点。


戦える構成員。


街の外へつながる流通路。


黒冠商会が一から作れば、何年もかかる物を既に持っている。


頭領が馬鹿だからといって。


組織全体を捨てるのは惜しい。


「赤蛇会は取り込みます」


俺が言うと。


ノアとマナが同時に首を傾げた。


「仲間にするの?」


「正確には」


俺は宣戦状を畳む。


「こちらの利益になる形へ、作り直します」


リゼフィアが、蛇の入ってきた裏口へ頬を寄せていた。


『この蛇、旧施療院から十七本もの裏路地を通っていますわ』


目を閉じ。


恍惚とした表情で、木の床を撫でている。


『排水溝。井戸の縁。酒場の床下。眠る酔っ払いの股の間……何てねっとりとした蛇行路……』


「今、重要な話をしているので黙ってください」


『蛇の道は重要ですわ!』


「酔っ払いの股の間は報告しなくて結構です」


リゼフィアは不満そうに頬を膨らませた。


見た目だけなら美しい。


行動は、床を這う変質者である。


「この手紙へ、返事を書くの?」


ノアが尋ねた。


「ええ」


「何て?」


「期限に間に合わず、申し訳ありませんでした」


「謝るの?」


「昨日までに返せと言われていますので」


◇


灰鼠団の審査期間は。


残り一日となっていた。


焼けた染物工房には、新しい帳簿が並んでいる。


徴収額。


賭場の利益。


倉庫の在庫。


構成員の報酬。


以前は、幹部しか見られなかった記録だ。


今はガルドの命令で、全て一冊へまとめられている。


「共同寝床からの徴収は停止」


俺は確認する。


「子供の売買も?」


「全員へ禁止を伝えた」


ガルドが答える。


「破った奴は、指じゃ済ませねえ」


「殺す?」


「追放だ」


以前のガルドなら。


裏切り者も規則違反者も、殴って終わらせていた。


今は。


組織から外す。


被害者へ補償させる。


記録へ残す。


少しずつ。


暴力以外の方法を使うようになっている。


「保護費は?」


「店の売上に応じた固定額。受け取ったら証票を渡す」


灰色の小さな札。


支払い済みの店は。


同じ週に別の構成員から、二重に徴収されない。


当たり前の仕組みだ。


だが。


以前の灰鼠団にはなかった。


「賭場の利益から、一割を負傷者と共同寝床へ」


「少ないですね」


「二割にしたら、俺の部下が食えねえ」


「一割五分」


「細かいな」


「では二割で」


「一割五分にしろ」


交渉成立。


ガルドがため息をつく。


「五歳のガキに、何で組織の帳簿を直されてんだろうな」


「監査役の指示です」


「お前の意見は?」


「監査役と同じです」


当然だ。


同一人物なのだから。


ガルドは白く濁った左目で、俺を見る。


「本当に似てるな。お前ら」


「教育がいいので」


「どっちが、どっちを教育してんだ?」


危ない質問だ。


俺が答える前に。


工房の奥から、ヨルンが現れた。


副頭目の印は外されている。


腰の武器もない。


裏切りが判明した後。


ガルドはヨルンを殺さなかった。


役職を剥奪。


単独行動を禁止。


外部との接触は、全て記録。


報酬の半分を。


襲撃で負傷した構成員と、死亡者の遺族へ渡す。


それが処分となった。


ヨルンは俺の前へ来ると。


突然。


両膝をついた。


「クライ」


「何です?」


「エナを助けてくれて、ありがとう」


深く頭を下げる。


額が床へつく。


周囲にいる灰鼠団の男たちが、こちらを見る。


「顔を上げてください」


「俺は」


ヨルンの声が震える。


「エナを救うためだと言いながら、仲間を売った」


「共同寝床の子供まで、危険へ巻き込んだ」


「それなのに、お前はエナまで助けた」


「俺の命で返せるなら――」


「要りません」


即答した。


ヨルンが顔を上げる。


「あなたの命は、今かなり値下がりしています」


「値下がり……」


「裏切りの前なら、副頭目一人分の価値があった」


「今は監視費用がかかる上に、信用もない」


「死なれると帳簿の引き継ぎまで増える」


「非常に迷惑です」


工房の誰かが吹き出した。


ヨルンは。


泣けばいいのか怒ればいいのか分からない顔をしている。


「生きて働いてください」


俺は言った。


「エナの治療費も必要です」


「被害を受けた人間への補償も」


「あなたが死んでも、誰の腹も満たせません」


ヨルンは唇を噛む。


「……分かった」


「エナは?」


「朝、スープを一杯飲めた」


少し笑う。


「お前の話をすると、会いたいって」


「元気になってからで」


現在。


エナの生命力供給は。


《境界回廊》で魂圧保存瓶と接続している。


普通の人間には。


黒冠商会が所有する特殊な治療具だと説明してある。


嘘ではない。


リゼフィアは毎日。


細い生命の道を眺めながら。


異常なほど喜んでいる。


エナの命が助かっている以上。


気にしないことにした。


「ヨルン」


ガルドが言う。


「下がれ」


「はい」


ヨルンは立ち上がり。


もう一度、俺へ頭を下げた。


工房の奥へ戻っていく。


ガルドは、その背中を見ていた。


「甘いと思うか?」


「処刑しなかったことを?」


「ああ」


「合理的です」


俺は答える。


「裏切り者を殺せば、一人減る」


「働かせれば、被害を埋める人間が一人増える」


「また裏切ったら?」


「今度は、使い道がなくなりますね」


ガルドは少し笑った。


「お前が一番怖えよ」


褒め言葉として受け取っておく。


俺は赤蛇会の宣戦状を。


卓へ置いた。


ガルドが読む。


途中で眉間へしわが寄る。


最後まで読み。


もう一度、最初から読み直す。


「何だ、これ」


「宣戦布告だそうです」


「返事は…昨日まで?」


「残念ながら、期限を過ぎました」


「監査役は一人で来い。俺たちは全員来い?」


「赤蛇会には、複雑な人数計算が難しいのでしょう」


ガルドが鼻で笑う。


「潰すのか?」


「取り込みます」


「正気か?」


本日二度目の反応だ。


「赤蛇会の頭領は馬鹿です」


「知ってる」


「しかし、構成員全員が同じとは限らない」


「倉庫。流通。人手。王都南西部の情報」


「使える物は多い」


「ザイラスが従うと思うか?」


「従わせません」


俺は答えた。


「勝とうとさせます」


◇


交渉場所は。


スラム中央にある、廃業した公設市場となった。


石造りの大きな建物。


出入口は四つ。


中央には、かつて競りに使われていた円形の広場がある。


灰鼠団と赤蛇会。


双方が十二人ずつ。


武器は入口で預ける。


周囲には。


スラムの商人。


共同寝床の管理者。


洗濯場の女性たち。


小さな賭場の主人。


二十人ほどの代表者を呼んだ。


彼らは交渉へ参加しない。


ただ、どちらが何を約束したのか。


聞いてもらう。


人間は、密室で交わした約束なら破る。


大勢の前で口にした約束は、心理的に破りにくい。


市場の中央。


黒冠商会王都監査役が座っている。


黒い外套。


金色の目を持つ仮面。


その身体は。


木の骨組みと布で作った人形だ。


外側へ《虚王顕現》を重ねている。


既に大勢が。


監査役の存在を信じている。


ただ座り。


時折首を動かし。


低い声で話すだけなら。


必要な生命力は、人間寿命換算二日分。


魂圧保存瓶の貯蓄から支払った。


俺は監査役の右側。


黒冠商会の案内役兼書記として座る。


ノアが縫った、歪んだ王冠の印を胸につけている。


『同じ人間が、同じ部屋へ二つの姿で入る道……』


リゼフィアが卓の下から顔だけを出していた。


『自己並走路……たまりませんわ』


「静かにしてください」


「何か言ったか?」


隣のガルドが尋ねる。


「独り言です」


「監査役に怒られるぞ」


俺自身なので問題ない。


正面の扉が開いた。


赤蛇会が入ってくる。


先頭はザイラス・ヴァーン。


刈り上げた赤髪。


赤い革外套。


首から左頬へ伸びる蛇の刺青。


その後ろには、赤蛇会の幹部。


会計役らしい眼鏡の男。


腕の太い用心棒。


密輸商人。


皆。


旧施療院で起きたことを知っている。


黒冠商会の監査役を見る目には。


明確な恐怖があった。


ザイラスだけが。


その恐怖を隠すように大きく笑う。


「よう」


椅子へ乱暴に座る。


「顔なし野郎」


黒冠商会の監査役は答えない。


ザイラスの笑みが少し固まる。


無視されるとは思わなかったらしい。


「俺の手紙は読んだか?」


監査役の低い声が響く。


『読解に、少々時間を要した』


周囲から、小さな笑いが漏れた。


ザイラスの額に青筋が浮かぶ。


「どういう意味だ」


『内容が複雑だった』


俺は視線を下へ向ける。


笑わないためだ。


監査役は続ける。


『一人で来いと言いながら、灰鼠団を全員連れてくるよう求めていた』


「それは……」


『返答期限は、手紙が到着する前日』


「細けえことはいいんだよ!」


『交渉で細部を捨てる者は、契約後に全てを失う』


ザイラスは黙る。


怒っている。


だが。


監査役へ飛びかかりはしない。


旧施療院の死体を見た。


神殿の審問官が殺されている。


恐れている。


だからこそ。


声だけは大きい。


『本日の議題を始める』


監査役が卓へ手を置く。


『黒冠商会は、王都西部における管理組織を一つ選定する』


ザイラスとガルド。


双方の表情が変わった。


『選定された組織には』


『黒冠商会との優先取引権』


『魔物素材および護衛依頼の仲介』


『共同倉庫の使用』


『外部組織に対する黒冠商会の名義保護』


『王都西部の流通管理権を認める』


法的な領主権ではない。


王国が認めた権利でもない。


だが。


スラムでは。


誰が物を運び。


店を守り。


揉め事を裁き。


外部組織へ対抗するか。


それが実質的な支配者を決める。


黒冠商会が唯一の取引相手として扱えば。


商人たちも。


小さな犯罪組織も。


その団体へ従う。


『選定候補は二つ』


『灰鼠団』


『赤蛇会』


ザイラスの口元が上がる。


「つまり」


卓へ身を乗り出す。


「俺たちが灰鼠団に勝てば」


「スラム全部を、黒冠商会が俺にくれるってことか?」


『結果としては』


監査役が答える。


『近い』


「面白え」


食いついた。


自分が勝つ前提で考えている。


ガルドは、俺を横目で見る。


計画通りかと。


俺は小さくうなずく。


『競争条件は、今から提示する』


黒い契約書を。


双方へ一枚ずつ配る。


神殿公証書体。


エドムへ依頼した。


内容は単純だ。


本日の交渉中。


各組織が口にした条件は。


黒冠商会が正式に受理した時点で、履行義務を持つ。


嘘。


見栄。


冗談。


後から取り消すことはできない。


契約書には。


事前に目を通させる。


ガルドは読んだ。


ザイラスは。


一枚目の途中で飽きた。


「つまり、勝てばいいんだろ」


「頭領…!」


赤蛇会の会計役が小声で止める。


「最後まで読んだ方が…」


「お前が読め」


他人へ渡した。


悪くない。


自分で読まないこと以外は。


会計役は内容を確認し。


ザイラスへ耳打ちする。


「口にした条件は、全て守る必要があります」


「勝てば問題ねえ」


「負けた場合もです」


「負けねえ」


署名した。


素晴らしい。


馬鹿は。


自分だけが例外だと思っている限り。


どんな契約書にも署名する。


◇


最初の項目。


子供の売買。


『灰鼠団』


監査役が促す。


ガルドが立ち上がる。


「十日前から全面禁止」


「現在保有していた売買記録を、黒冠商会へ提出」


「拘束していた子供は全員解放」


「共同寝床からの徴収も止めた」


実行済み。


記録もある。


大きい。


『赤蛇会』


ザイラスは鼻で笑った。


「俺たちは子供だけじゃねえ」


「大人も売る」


会計役が頭を抱えた。


正直なのはいいことだ。


『それは、加点にならない』


監査役が答える。


「なら」


ザイラスは腕を組む。


「今持ってるガキを、全部返す」


会計役が顔を上げる。


「頭領、現在十一人です」


「全員だ」


『売買経路は?』


「三本ある」


「二本渡す」


『灰鼠団は、保有していた全経路を開示した』


ザイラスの顔が険しくなる。


「……三本全部だ」


『受理する』


一つ目。


赤蛇会が保有する子供十一人の解放。


人身売買経路三本の開示。


契約成立。


ザイラスは。


勝つために自分から差し出した。


俺が命令したのではない。


競争相手へ負けたくない。


それだけで。


次。


保護費。


ガルドが提示する。


「店の売上に応じた固定額」


「支払い済みの証票を発行」


「二重徴収は禁止」


「共同寝床と施療所からは取らない」


ザイラスが笑う。


「そんな弱気な額で、組織が食えるか」


『では、赤蛇会の条件を』


「今まで通りだ」


会計役が。


強くザイラスの袖を引いた。


「頭領!」


「この項目で負ければ、選定は難しいですよ…!」


「……なら」


ザイラスがガルドを見る。


「一月だけ、灰鼠団より半分にする」


市場の商人たちがざわつく。


『一月後は?』


「灰鼠団と同じだ」


『証票は?』


「出す」


『二重徴収』


「禁止だ!」


『受理する』


赤蛇会が。


自分から保護費を下げた。


ザイラスは勝った顔をしている。


会計役は。


将来の収支を計算し、青い顔をしている。


競争は続く。


負傷者への補償。


灰鼠団。


賭場利益の一割五分。


赤蛇会。


ザイラスが二割と言う。


衛兵の数。


灰鼠団は二十人。


赤蛇会は二十五人。


食料備蓄。


灰鼠団は二週間分。


赤蛇会は三週間分。


外部勢力の情報。


灰鼠団は全記録を黒冠商会へ共有。


ザイラスは。


負けたくない一心で。


密輸商人。


賄賂を渡している衛兵。


王都外の倉庫。


全ての名を口にした。


一度口にすれば。


契約書が淡く光る。


取り消せない。


赤蛇会の会計役は。


途中から魂の抜けた顔をしていた。


「頭領……」


「これ以上は――」


「黙れ!」


「灰鼠団に負けろってのか!」


俺は記録を取りながら。


心の中で点数をつける。


赤蛇会は。


人質を解放。


保護費を削減。


利益の二割を救済へ。


情報網を開示。


密輸路まで提供。


予想以上の成果だ。


全て。


ザイラス自身が勝つために差し出した。


これが競争の強みだ。


こちらが要求すれば。


人間は奪われたと思う。


自分から競り上げれば。


勝つために必要な投資だと思う。


『最終項目』


監査役の声が響く。


『組織の統率能力』


ガルドが。


灰鼠団の構成員一覧と、十日間の記録を提出する。


違反者。


負傷者。


死亡者。


脱退者。


収入。


支出。


全て書かれている。


赤蛇会は。


何も用意していない。


ザイラスが卓を叩く。


「記録なんかなくても」


「俺が命令すれば、全員動く!」


『それを証明する』


監査役は。


ザイラスではなく。


赤蛇会の構成員たちを見る。


『赤蛇会の構成員へ問う』


男たちの身体が固まる。


『人身売買の停止』


『保護費の削減』


『利益二割の救済拠出』


『黒冠商会への情報開示』


『今、頭領が提示した条件へ従える者は立て』


一瞬。


誰も動かなかった。


ザイラスの顔へ、笑みが戻る。


しかし。


最初に立ったのは。


会計役だった。


「黒冠商会の優先取引が得られるなら」


声を震わせながら言う。


「赤字にはなりません」


次に。


密輸商人。


「神殿の審問官を殺した相手と、戦うよりはいい」


用心棒。


若い構成員。


一人。


また一人。


最終的に。


赤蛇会の十一人全員が立った。


座っているのは。


ザイラスだけ。


「お前ら……」


男の声が低くなる。


「黒冠商会の犬になって、俺を裏切る言い方だな…?」


「違います、頭領」


会計役が必死に答える。


「勝つためです」


「黒冠商会と組めば、灰鼠団より大きくなれる」


「今までより稼げます」


「子供を売らなくても――」


「黙れ!」


ザイラスが怒鳴る。


会計役は口を閉じる。


だが。


座らなかった。


周囲の商人たちも。


赤蛇会の条件へ期待する目を向けている。


保護費が下がる。


子供が売られない。


流通が安定する。


赤蛇会そのものを。


完全に潰す必要はない。


あと少し。


ザイラスの顔だけを立ててやれば。


組織ごと取り込める。


『審査結果を告げる』


市場が静まる。


『王都西部の第一管理組織は』


『灰鼠団とする』


ガルドは表情を変えない。


灰鼠団の構成員たちが、息を吐く。


ザイラスの顔から。


感情が消えた。


『赤蛇会は、第二管理組織として存続を認める』


すぐに続ける。


『王都南西部の輸送、警備、外部流通を担当』


『独自の収益と役職は維持する』


『赤蛇会頭領ザイラス・ヴァーンを』


『王都西南警備長へ任命する』


敗者ではない。


灰鼠団の下働きでもない。


王都西南警備長。


実権は制限する。


それでも。


構成員の前で、役職と縄張りを失わずに済む。


『灰鼠団と赤蛇会は』


『黒冠商会の監督下において、共同統治会を設置する』


『両組織は敵対を停止』


『人員と縄張りを維持したまま』


『王都西部の利益を分担する』


赤蛇会の会計役が。


小声でザイラスへ言う。


「頭領」


「悪くありません」


「黒冠商会の取引を得られる」


「南西部も残る」


「灰鼠団へ吸収されるわけではない」


用心棒もうなずく。


「バルクの仇はありますが」


「今、戦って全滅するよりは」


密輸商人が続ける。


「神殿の追及も、黒冠商会の名があれば避けられるかもしれません」


全員。


受け入れる気になっている。


ガルドも。


ザイラスへ言った。


「お前と仲良くする気はねえ」


「だが」


「スラムを燃やして、どっちが強いか決めるよりはましだ」


ザイラスの右手が。


契約書の上へ置かれる。


後は。


署名するだけ。


俺は呼吸を整える。


成功だ。


灰鼠団を勝たせ。


赤蛇会も残す。


二つの組織を争わせ。


互いに。


子供の売買禁止。


保護費の削減。


救済資金。


情報開示。


全て約束させた。


殺さず。


脅さず。


利益を競わせただけで。


スラムの仕組みを変えられる。


ザイラスの指が。


署名欄へ近づく。


「頭領」


会計役が、少し笑う。


「これで俺たちも生き残れますね」


生き残る。


その言葉に。


ザイラスの指が止まった。


「……生き残る?」


「はい」


「俺が負けたってことか?」


会計役は。


言葉を選び損ねた。


ザイラスの右目が。


縦に裂けた。


「俺が」


低い声。


「負けたって言ったか?」


市場の空気が変わる。


首から頬へ伸びていた赤蛇の刺青が。


ゆっくり動いた。


皮膚の下を。


本物の蛇が這うように。


「頭領」


会計役が一歩下がる。


「そういう意味では――」


「全員で」


ザイラスは立ち上がる。


「俺を負け犬にして」


「黒冠商会の犬になるつもりか?」


「違います!」


「利益のためです!」


「利益?」


ザイラスが笑う。


「俺より」


「金を選ぶのか?」


恐怖。


旧施療院で見た死体。


黒冠商会の監査役。


自分以外の構成員が、全員契約を望んでいる。


それらが。


ザイラスの中で、怒りへ変わっていく。


負けたのではない。


裏切られた。


自分へ。


そう言い聞かせ始めている。


「ザイラス」


ガルドが立ち上がる。


「座れ」


「命令すんな」


「交渉は終わった」


「終わってねえ!」


ザイラスの拳が。


卓へ振り下ろされた。


石造りの卓が。


中央から割れた。


契約書が宙へ舞う。


「頭領!」


赤蛇会の構成員たちが動く。


ザイラスの身体へ。


赤い鱗が浮かんだ。


首。


頬。


腕。


指先。


赤蛇の刺青が皮膚から剥がれ。


巨大な蛇の頭となって肩から現れる。


『魔獣融合』


ヴェルゴラが低く言った。


『あの男、自分の身体へ魔獣を飼っておる』


「何の魔獣?」


『赤淵大蛇』


ガルドがザイラスへ飛びかかる。


「取り押さえろ!」


灰鼠団と赤蛇会。


両方の構成員が動いた。


ザイラスは。


右腕を横へ振る。


それだけで。


近づいた男たちがまとめて吹き飛んだ。


石壁へ激突する。


「俺は!」


ザイラスが叫ぶ。


声に。


蛇の鳴き声が重なる。


「誰にも負けねえ!」


「神殿にも!」


「灰鼠団にも!」


「黒冠商会にも!」


肩から生えた大蛇が。


口を開く。


赤い霧が噴き出した。


「毒です!」


俺が叫ぶ。


市場の床へ。


赤い霧が広がる。


吸い込んだ商人が咳き込み。


一人が倒れた。


ガルドが外套で口を覆う。


「全員、外へ!」


人々が出口へ殺到する。


だが。


四つの出入口から。


細い赤蛇が這い込んできた。


十。


百。


床を埋めるほど。


「いつの間に……」


赤蛇会の構成員まで。


顔を青くしている。


知らなかった。


ザイラスが。


一人で準備していた。


俺は。


宣戦状を運んできた蛇を思い出す。


血で濡れた黒冠商会の紋章。


共同寝床の裏口。


あの蛇は。


手紙を届けただけではない。


「匂いをつけた」


俺は呟く。


「何?」


ガルドが聞き返す。


「共同寝床へ」


赤蛇は。


通った道へ。


仲間が追える匂いを残す。


最初の宣戦状。


文章は馬鹿だった。


だが。


蛇を共同寝床へ入れたことだけは。


意味があった。


リゼフィアが。


突然、床へ両手をついた。


いつもの興奮した顔ではない。


赤紫色の瞳を、大きく見開いている。


『クライ』


「何です?」


『スラムの地下に』


銀色の扉が何枚も現れる。


その向こうに。


排水溝。


井戸。


床下。


無数の細い道が映った。


全てを。


赤い蛇が進んでいる。


『蛇の道が、同時に開きました』


「数は?」


『数え切れません』


映像が切り替わる。


共同寝床。


裏口。


ノアが。


救出した子供たちと食事をしている。


マナはエナの治療を手伝っている。


誰も。


床下へ近づく蛇に気づいていない。


「リゼフィア」


俺は立ち上がる。


「共同寝床へ――」


ザイラスの右目が。


俺へ向いた。


縦に裂けた瞳。


赤淵大蛇の眼。


その目は。


人間の姿ではなく。


熱。


血。


心臓の動きを見ていた。


最初に。


黒冠商会の監査役を見る。


長身の黒い人影。


だが。


中に血は流れていない。


心臓もない。


「……何だ」


ザイラスの顔が歪む。


「この監査役」


大蛇の瞳が細くなる。


「空っぽじゃねえか」


まずい。


監査役の虚像が。


ザイラスの蛇眼には。


血を持たない殻として見えている。


これは嘘を見抜いたのではない。


人間には見えない体温と血流を。


魔獣の眼で見た。


ザイラスの視線が。


ゆっくり動く。


監査役。


黒い炎。


そして。


俺。


「そうか」


男の口が裂けるように笑う。


「このガキだ」


俺の背筋が冷える。


「監査役が動くたび」


「こいつの心臓が速くなる」


蛇眼が。


俺と監査役の間に流れる黒い認識の糸を見ている。


「黒冠商会の心臓は」


ザイラスが指を向ける。


「このガキだ!」


肩の大蛇が。


俺へ飛びかかった。


ヴェルゴラの黒い炎で迎え撃つ。


同時に。


監査役の虚像を解除する。


黒い外套が炎へ変わり。


人形の姿を見せる前に消える。


周囲の人間には。


監査役が転移したように見えたはずだ。


だが。


ザイラスは迷わない。


狙いは俺。


巨大な蛇の身体が。


黒い炎を突き破る。


速い。


避けられない。


赤い尾が、俺の身体へ巻きついた。


肋骨が軋む。


「ぐっ……!」


治りかけの傷へ。


圧力がかかる。


息が止まる。


ガルドがザイラスへ走る。


「クライを離せ!」


「来るな!」


ザイラスが叫んだ。


右手を上げる。


市場の外。


遠く離れたスラム中から。


悲鳴が聞こえた。


井戸から。


床下から。


排水溝から。


赤い蛇が、次々と姿を現している。


『共同寝床へ、百三十七』


リゼフィアが言う。


『さらに増えています』


俺の視界へ。


境界越しの映像が浮かぶ。


共同寝床の床板。


その隙間から。


赤い蛇の頭が一つ。


二つ。


五つ。


ノアが。


ようやく気づいた。


「マナさん」


震える声。


「動かないで」


子供たちが息を止める。


蛇の赤い目が。


一斉にノアへ向く。


ザイラスが。


俺を締め上げながら笑った。


「交渉なんか要らねえ」


赤い鱗が。


男の顔を覆っていく。


「黒冠商会を食えば」


「俺がスラムの王だ」


赤蛇の牙が。


俺の首筋へ近づく。


「動けば」


ザイラスが囁く。


「スラム中の蛇が、一斉に噛む」


ガルドが止まる。


赤蛇会の構成員たちも。


顔を青くしたまま動けない。


共同寝床。


ノア。


マナ。


エナ。


救出した子供たち。


全員が。


毒蛇に囲まれている。


俺は。


蛇の身体へ締め上げられながら。


ザイラスを見る。


交渉は成功していた。


赤蛇会は。


もう少しで取り込めた。


構成員たちも。


条件を受け入れた。


失敗したのは。


たった一人。


自分が負けたと認められない頭領。


だが。


その一人が。


今。


スラム全体を人質にしている。


「クライ」


ガルドが掠れた声で言う。


「どうする」


俺は答えようとした。


しかし。


蛇の尾が強く締まる。


肺から空気が押し出された。


ザイラスの牙が。


皮膚へ触れる。


冷たい。


「最後に聞いてやるよ」


ザイラスが笑う。


「ガキ」


「黒冠商会を俺へ渡すか」


「それとも」


赤い蛇たちが。


スラム中で口を開いた。


「お前の家族から死ぬか?」

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