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詐欺転生〜詐欺師は禁術で世界を騙す〜  作者: キラーダミズハ
第一章 詐欺師の第一歩
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14/31

第14話 王冠を欲しがる者には、首輪を売れ

「黒冠商会を俺へ渡すか」


ザイラスが笑う。


「それとも、お前の家族から死ぬか?」


赤淵大蛇の尾が、俺の身体を締め上げる。


肋骨が軋んだ。


息が入らない。


首筋には冷たい牙。


少しでも動けば噛まれる。


スラム中にも。


無数の毒蛇。


共同寝床では。


ノア。


マナ。


エナ。


救出した子供たちが囲まれている。


ガルドも。


灰鼠団も。


赤蛇会の構成員たちも。


動けない。


普通に考えれば。


完全な詰みだ。


だが。


ザイラスは一つ、大きな間違いをしている。


この男が本当に欲しいのは。


黒冠商会ではない。


金でも。


縄張りでも。


権力でもない。


「自分が一番強い」と、全員に認めさせたい。


だから。


黒冠商会を渡すだけでは足りない。


俺が怯え。


ガルドが屈し。


赤蛇会の部下たちが後悔し。


全員がザイラスを王として見上げる。


その光景が欲しい。


脅迫者が求めているのは。


要求の達成ではない。


””自分が勝ったという物語だ。””


なら。


もっと魅力的な物語を売ればいい。


俺は。


締め上げられた肺から。


無理やり空気を絞り出した。


「おめでとう……ございます」


ザイラスの笑みが止まる。


「何?」


「最終審査に」


息が苦しい。


言葉の間が空く。


だが。


その間さえ。


もったいぶっているように使う。


「合格です」


市場が静まり返った。


ザイラスの蛇眼が細くなる。


「何を言ってやがる」


「黒冠商会の監査役が」


俺は空になった椅子を見る。


「中身のない虚像だった」


ザイラスが笑う。


「そうだ!」


「俺は見破った!」


「監査役なんか最初からいなかった!」


「ええ」


俺はうなずく。


「見破れる人間を探していました」


ザイラスの笑いが止まった。


「……探してた?」


「黒冠商会の表に立つ者が」


「人間の目しか持っていないようでは困る」


俺は周囲を見る。


商人。


灰鼠団。


赤蛇会。


全員が話を聞いている。


大勢の前で。


ザイラスが自分で見つけた秘密を。


こちらから肯定する。


人間は。


他人から教えられた答えより。


””自分で発見したと思っている答え””を信じる。


詐欺では基本中の基本だ。


騙す側が全てを説明してはいけない。


最後の一歩だけ。


相手に歩かせる。


すると。


その結論を守るために、相手自身が働き始める。


「血の流れを見抜き」


俺は続けた。


「偽の監査役ではなく、俺を選んだ」


「スラム全体へ蛇を配置し」


「黒冠商会の反応速度を測った」


「自分の部下が契約を望んでも」


「一人だけ屈しなかった」


ザイラスの顔から。


怒りが少しずつ消えていく。


代わりに。


期待が浮かぶ。


「つまり」


男が低い声で尋ねた。


「全部、試験だったってのか?」


「全てではありません」


全部と言えば嘘になる。


「ただし」


俺はザイラスを見る。


「あなたが、どこまでやる人間かは見ていました」


本当だ。


想定以上に馬鹿だった。


だが。


想定以上に使える力も持っていた。


「黒冠商会は」


俺は言う。


「命令を待つだけの犬を必要としていません」


ザイラスの肩から生えた大蛇が。


ゆっくり頭を上げる。


「王冠へ牙を向けられる人間も探している」


ザイラスの口元が。


少しずつ上がった。


「俺が」


「その人間だと?」


「候補です」


「候補?」


再び怒りが浮かぶ。


「まだ最後の確認が残っています」


「何だ」


食いついた。


強く締めていた蛇の尾が。


ほんの少し緩む。


空気が入る。


俺は咳をこらえた。


ここで苦しそうな姿を見せすぎれば。


ザイラスは再び、自分が勝っている物語へ戻る。


「資産監査です」


「しさん……?」


「あなたが黒冠商会を得るとして」


俺は周囲の赤蛇を見た。


「自分の組織すら完全に管理できない人間へ」


「より大きな組織を任せられますか?」


ザイラスの眉が動く。


「俺は、全部の蛇を支配してる」


「証明してください」


「どうやって」


「今、スラムへ散らしている蛇を」


俺は言った。


「全て、この市場へ戻す」


市場の赤蛇会構成員たちが。


一斉に俺を見る。


ガルドも。


こちらの意図に気づいたらしい。


だが。


何も言わない。


「一匹でも残れば」


俺はザイラスの自尊心へ針を刺す。


「あなたの支配は不完全です」


「黒冠商会を持つ資格はない」


「全部戻せばいいんだな?」


「三十数えます」


「三十だと?」


「時間をかければ、誰でもできます」


本当は。


スラム中の蛇を三十秒で戻せるのか知らない。


だが。


ザイラスは断れない。


大勢が見ている。


自分は全てを支配していると言った直後だ。


ここで無理だと言えば。


自分の言葉を自分で否定することになる。


「いいぜ」


ザイラスが笑う。


「見せてやる」


赤淵大蛇が大きく口を開いた。


人間には聞き取りにくい。


低い振動。


市場の床が震える。


命令。


遠くから。


悲鳴が止まった。


リゼフィアの銀色の扉。


その一つに、共同寝床が映っている。


床板の隙間から出ていた蛇たちが。


一斉に頭を引っ込めた。


井戸。


排水溝。


酒場。


倉庫。


スラム中の赤蛇が。


来た道を逆に進み始める。


『共同寝床、残り九十』


リゼフィアが報告する。


俺にしか聞こえない。


『六十』


「一」


俺は数え始める。


「二」


蛇の尾は。


まだ俺の身体へ巻きついている。


ザイラスは俺を解放していない。


賢くはないが。


完全に油断したわけでもない。


「五」


市場の四つの入口から。


赤蛇が次々と戻ってくる。


床が赤い波で埋まる。


「十」


共同寝床。


ノアが床へ座り込んだ。


マナが子供たちを抱き寄せる。


蛇は、一匹も噛んでいない。


「十五」


井戸から。


排水溝から。


屋根から。


赤蛇が集まる。


ザイラスの顔へ。


自信が戻っていく。


「どうだ!」


「まだです」


「二十」


『共同寝床、ゼロですわ』


リゼフィアが言う。


息を吐きそうになる。


耐える。


今、安心した顔をすれば。


共同寝床を守ることだけが目的だったと気づかれる。


「二十五」


最後の蛇が。


市場の正面入口から入る。


肩から生えた大蛇の周囲へ集まり。


渦を作る。


「二十九」


俺は。


最後の数字を言わなかった。


ザイラスが苛立つ。


「全部戻ったぞ!」


「おそらく」


「おそらくじゃねえ!」


「一匹も残ってねえ!」


「では」


俺は微笑んだ。


「三十」


第一段階。


終了。


人質は消えた。


だが。


ここでザイラスを拘束しようとすれば。


再び蛇を散らす。


次は。


蛇そのものの支配権を奪う。


「資産は確認できました」


俺が言うと。


ザイラスが胸を張る。


「当然だ」


「次は、一時預託です」


「何だ、それ」


「組織の譲渡中に」


俺は説明する。


「現在の所有者と、新しい所有者の両方が命令を出せば」


「構成員が混乱する」


「だから、手続きが終わるまで」


「武力と指揮権を第三者へ預ける」


現代で言えば。


取引の間に入る、エスクロー。


売り手へ先に金を渡さず。


買い手へ先に商品を渡さない。


中立の者が一時的に預かる仕組みだ。


ただし。


今回は。


中立の第三者など存在しない。


預かるのは俺。


審査するのも俺。


受け渡すか決めるのも俺だ。


賞金を受け取るための手数料。


遺産を受け取るための税金。


投資利益を引き出すための保証金。


前世にいくらでもあった。


大きな利益を見せ、先に小さな物を差し出させる。


被害者は。


既に大きな利益を得た気分になっている。


だから。


目の前の支払いを惜しまない。


今回。


ザイラスが先に差し出す物は。


小さくない。


赤蛇全ての指揮権だ。


「誰へ預ける」


ザイラスが尋ねる。


「王都監査役は消えた」


「俺へ」


「ガキに?」


「嫌なら、審査は終了です」


俺は視線を外す。


興味を失ったふり。


これも定番だ。


売り手が欲しがっている姿を見せれば。


客は値切る。


売り手が。


別に買わなくていいと言えば。


客の方から追ってくる。


「待て」


予想通り。


ザイラスが止めた。


「預ければ」


「黒冠商会は俺の物になるんだな?」


ここで。


明確に「なる」と言えば。


後で嘘になる。


「預託が終われば」


俺は答えた。


「あなたが黒冠商会の一員として、何を受け取るべきか決定します」


ザイラスは。


自分の欲しい意味だけを拾った。


「分かった」


赤蛇会の会計役が叫ぶ。


「頭領!」


「駄目です!」


「指揮権を渡せば――」


「黙れ!」


ザイラスが怒鳴る。


「俺は試験に受かったんだ!」


「黒冠商会が手に入る!」


既に。


頭の中では手に入れたことになっている。


ここまで来た人間は。


途中で止まれない。


これまで差し出した条件。


人身売買経路。


保護費。


情報網。


全部を無駄にしたくない。


埋没費用。


払った金額が増えるほど。


人間は損切りできなくなる。


ここで止めれば。


最初から間違っていたと認めることになる。


ザイラスに。


それができるはずがない。


「何をすればいい」


「赤淵大蛇へ命じてください」


俺は。


首元へ触れかけている牙を見る。


「審査が終了するまで」


「全ての眷属は、クライ・マイトを上位の指揮者として認識する」


「一時的に、です」


一時的。


その言葉を強調する。


永遠に渡すと言えば拒否する。


後で戻ると思えば。


差し出せる。


「審査が終わったら返すんだな?」


「審査結果に従います」


返すとは言っていない。


「いいぜ」


ザイラスが。


自分の掌を噛んだ。


血が流れる。


赤淵大蛇が。


その血を舐める。


「赤淵大蛇!」


ザイラスが叫ぶ。


「選定が終わるまで」


「クライ・マイトを」


「俺より上の主として認めろ!」


大蛇の縦に裂けた瞳が。


俺を見る。


怒り。


飢え。


拒絶。


魔獣は。


人間の言葉だけで簡単に従わない。


だが。


現在の主であるザイラスが。


大勢の前で。


俺を上位と定めた。


認識の土台はできた。


十分だ。


「ヴェルゴラ」


『やるのか』


「ええ」


胸の黒い炎へ触れる。


保存している生命力。


九年分近く。


今回は。


自分の寿命を担保にする必要はない。


――禁術《虚王顕現》。


――顕現対象。


――赤淵大蛇および、その眷属群。


――付与認識。


――黒冠を戴く者は、群れの最上位捕食者である。


――現在の契約者ザイラス・ヴァーンによる上位指定を基礎とする。


――必要生命力。


――人間寿命換算、百八十日。


高い。


だが。


払える。


「承認」


魂圧保存瓶から。


青白い生命力が流れ出す。


俺の身体を包む。


黒い炎へ変わる。


髪が揺れる。


金色の目が。


暗い市場の中で光る。


俺の頭上へ。


小さな黒い王冠が現れた。


《偽王戴冠》ではない。


力を強化する王冠でもない。


ただ。


赤淵大蛇が信じるべき王の印。


大蛇の身体が震えた。


俺の首へ向けていた牙が止まる。


縦に裂けた瞳が。


黒い王冠を見る。


ザイラスの命令。


周囲の人間の認識。


黒冠商会への恐怖。


旧施療院で神殿を滅ぼしたという噂。


全てが。


一つの結論へ収束する。


この小さな子供は。


自分より上だ。


赤淵大蛇が。


ゆっくりと頭を下げた。


市場を埋めていた赤蛇たちも。


一斉に頭を伏せる。


数百の蛇が。


五歳の俺へ。


ひれ伏した。


「なっ……」


ザイラスの顔が固まる。


「何をしてる!」


「俺が主だ!」


「頭を上げろ!」


赤淵大蛇は動かない。


ザイラスが命令する。


「…クライを締め殺せ!」


大蛇の尾が。


俺の身体から解けた。


床へ下ろされる。


丁寧に。


傷つけないように。


「おい」


ザイラスの声が震える。


「殺せ!」


「命令を聞け!」


赤淵大蛇は。


俺の隣へ頭を下げたまま。


ザイラスへ。


低い威嚇音を向けた。


自分の元の主人へ。


「どうして……」


ザイラスが後ずさる。


俺は。


治りきっていない肋骨を押さえながら立つ。


痛い。


足も震えている。


だが。


今。


この場で。


震えているのは。


俺だけではない。


市場の人間全員が。


黒い王冠を見ている。


俺へひれ伏す赤蛇を見ている。


灰鼠団。


赤蛇会。


商人。


洗濯場の女性たち。


賭場の主人。


全員が。


理解した。


俺は。


黒冠商会に守られているだけの子供ではない。


「監査役が空っぽだった?」


俺はザイラスへ尋ねる。


「当然です」


声を。


市場中へ届くようにする。


「本部が」


「犬一匹を審査するために」


「自分の身体で出向くと思いましたか?」


ザイラスの顔から血の気が引く。


「監査役は」


「実体ではない」


「ただの仮面です」


俺は。


頭上の黒い王冠へ触れる。


「あなたは」


「私が案内役のガキだと思っていたようですが」


「違います」


静かに。


言い切る。


「俺が、王都西南部担当の」


「黒冠です」


市場の空気が。


重くなる。


誰かが息を呑んだ。


ガルドの白い左目が。


強く光っている。


魔眼。


俺が。


今の言葉をどう認識しているか見ている。


黒冠商会を作ったのは俺。


王都における最終決定権も俺。


組織の象徴。


権限。


秘密。


全て。


俺へ集まっている。


俺は。


自分こそが黒冠だと。


本気で思っている。


ガルドの魔眼は。


嘘を示さなかった。


その事実を見たガルドが。


静かに片膝をついた。


「灰鼠団首領、ガルド・ロウ」


白い目を伏せる。


「王都西部第一管理者として」


「黒冠の決定に従う」


灰鼠団の男たちも。


次々と膝をつく。


周囲の商人たちが。


ざわめく。


赤蛇会の構成員は。


自分たちの蛇まで俺へ従っている。


抗う理由がない。


一人。


また一人。


膝をつく。


残ったのは。


ザイラスだけ。


「俺は」


男は震えていた。


怒りではない。


恐怖。


混乱。


そして。


自分が。


とんでもない存在に選ばれたのではないかという期待。


「俺は……」


「審査結果を伝えます」


俺は言った。


ザイラスの身体が固まる。


「不合格にしますか?」


「あなたが望むなら」


「赤淵大蛇の指揮権を没収」


「赤蛇会は解散」


「あなたは、スラムから追放します」


ザイラスの顔が。


絶望へ変わる。


自分が全てを失う未来。


その直後。


別の選択肢を出す。


人間は。


大きな損失を見せられた後なら。


少し不利な条件でも。


救いに見える。


「あるいは」


俺は。


ノアが作った黒冠の印を取り出す。


黒い布。


歪んだ王冠。


左右で大きさの違う金色の目。


「黒冠商会、赤冠の牙」


「王都西南執行長として」


「俺の直属になる」


ザイラスが。


顔を上げた。


「直属……?」


「ガルドは管理者」


「あなたは戦闘と外部への威圧を担当する」


「灰鼠団の下ではない」


「赤蛇会も残す」


「赤淵大蛇も」


俺は足元の大蛇を見る。


「俺の許可の範囲で、あなたへ返す」


全てを奪った後で。


一部を返す。


すると人間は。


元から自分の物だったとは考えない。


返してくれた相手へ。


感謝する。


理不尽だが。


前世で何度も見た。


「俺を」


ザイラスが呟く。


「クライの直属に?」


「嫌なら追放です」


「一度しか選ばせません」


希少性。


期限。


二者択一。


選択肢は。


服従か破滅。


それでも。


自分で選んだと思わせる。


ザイラスの膝が。


床へ落ちた。


「なります」


声が掠れている。


「俺を」


「黒冠の牙にしてください」


「頭領!」


赤蛇会の会計役が声を上げる。


ザイラスは。


その男を睨むのではなく。


俺へ顔を向けたまま。


さらに深く頭を下げた。


「クライ様」


初めて。


そう呼んだ。


「俺は」


「最初から、ただ者じゃねえと思ってました」


市場中から。


何とも言えない視線が集まった。


つい先ほどまで。


俺の家族を毒蛇で殺すと言っていた男である。


「それは無理がありますね」


俺は答えた。


「ですよね!」


ザイラスが即座にうなずく。


「すみません!」


切り替えが早い。


「宣戦状は」


俺が尋ねる。


「どうします?」


「今すぐ燃やします!」


「写しがあります」


「書いた奴の指を折ります!」


「あなたが書きました」


「では俺の指を――」


「必要ありません」


「ありがとうございます、クライ様!」


ガルドが。


呆れた顔でザイラスを見る。


「お前」


「さっきまでと別人じゃねえか」


「うるせえ!」


ザイラスが振り返る。


すぐに俺を見る。


「クライ様」


「こいつ、殴っていいですか?」


「駄目です」


「はい!」


従順すぎる。


扱いやすい。


少し不安になるほど。


だが。


ザイラスは。


自分より強い相手へ屈したのではない。


自分の力を。


初めて正しく評価してくれた相手へ仕える。


そう信じている。


「王冠へ牙を向けられる人間を探していた」


俺が言った言葉。


あれが。


この男の中へ深く刺さっている。


周囲が馬鹿だと見下しても。


部下が会計能力を心配しても。


黒冠だけは。


自分の勇気を認めた。


そう思っている。


詐欺の最後に必要なのは。


金を奪うことではない。


被害者自身に、騙された契約を守らせる理由を与えることだ。


ザイラスにとって。


俺へ仕えることは敗北ではない。


選ばれた証明になった。


なら。


もう裏切らない。


少なくとも。


この信仰が続く限りは。


「赤淵大蛇」


俺は魔獣へ命じる。


「眷属を全て、巣へ戻せ」


大蛇が頭を下げる。


低い声。


市場を埋めていた赤蛇が。


一斉に動き出す。


出入口。


床下。


排水溝。


それぞれの道へ戻っていく。


数分後。


リゼフィアが報告した。


『スラム内の蛇、全て撤退しましたわ』


安全。


完全に。


脅威は消えた。


俺は。


ようやく大きく息を吐いた。


肋骨が痛んだ。


「クライ様!」


ザイラスが四つん這いで近づく。


「お身体が!」


「担架を!」


「いや、俺が背負います!」


「触らないでください」


「はい!」


悪魔並みにうるさい部下が増えた。


◇


破壊された卓の代わりに。


木箱を並べた。


灰鼠団。


赤蛇会。


スラムの代表者。


全員が見ている前で。


新しい契約書が作られた。


王都西部共同統治契約。


第一管理組織。


灰鼠団。


担当。


帳簿。


徴収。


救済。


内部の治安。


第一管理者。


ガルド・ロウ。


第二管理組織。


赤蛇会。


担当。


輸送。


外部警備。


密輸路の合法転換。


王都外との交渉。


王都西南執行長。


ザイラス・ヴァーン。


双方に共通する規則。


子供の売買禁止。


共同寝床と施療所からの徴収禁止。


保護費は固定。


二重徴収禁止。


被害者補償。


帳簿公開。


組織間の争いは。


黒冠商会が裁定する。


契約を破った者は。


黒冠商会の保護と取引権を失う。


ガルドが署名する。


魔眼が契約を確認する。


「問題ない」


ザイラスも。


今度は会計役から説明を受けながら。


最後まで読んだ。


「クライ様」


「この“帳簿を毎月提出”ってのは」


「提出してください」


「はい!」


読んだ意味は。


あまりなかった。


それでも署名する。


神殿公証書体が。


淡く光る。


灰色。


赤色。


二つの印が。


中央の黒い王冠へつながった。


契約成立。


市場に集まった人々から。


大きな息が漏れた。


泣いている者もいた。


今日まで。


灰鼠団と赤蛇会の争いで。


家族を失った者。


店を焼かれた者。


子供を奪われた者。


何人もいる。


全てが。


今日だけで消えるわけではない。


憎しみも。


恐怖も。


簡単には終わらない。


それでも。


少なくとも。


明日から。


同じ縄張りを奪うために。


二つの組織が殺し合うことはない。


子供が。


公然と売られることもない。


共同寝床へ。


取り立ての男が来ることもない。


「黒冠商会は」


俺は。


人々へ向けて告げた。


「約束を守る者を守ります」


「店の大きさ」


「生まれ」


「種族」


「所属」


「それらで条件を変えません」


嘘ではない。


少なくとも。


この契約については。


「契約を守る限り」


「灰鼠団も」


「赤蛇会も」


「商人も」


「共同寝床の子供も」


「黒冠商会の取引相手です」


周囲が静かになる。


「ただし」


俺は続ける。


「約束を破る者は」


黒い王冠へ指を触れる。


「相手が神殿でも」


「貴族でも」


「王でも」


「取引先から外します」


誰かが。


片膝をついた。


灰鼠団ではない。


市場の商人。


次に。


洗濯場の女性。


共同寝床の管理人。


賭場の主人。


一人ずつ。


頭を下げる。


俺は。


頭を下げろとは言っていない。


ただ。


人々が。


自分たちを守れる力として。


黒冠商会を認めた。


その中心にいる俺を。


スラムで最も強い決定権を持つ者だと。


信じた。


認識が。


俺の周囲へ集まる。


《虚王顕現》を発動していないのに。


頭上の黒い王冠が。


一瞬だけ濃くなった。


嘘が。


魔法を使わずに。


現実へ変わろうとしている。


◇


共同寝床へ帰ると。


裏口の前に。


ノアが腕を組んで立っていた。


マナも。


その隣にいる。


怒っている。


かなり。


「クライ」


ノアが言った。


「説明して」


「何を?」


「蛇」


「赤蛇会との交渉で問題がありました」


「百匹以上いたわ!」


「百三十七匹です」


「細かい数は聞いてない!」


失敗した。


マナが。


俺の身体へ巻かれた包帯を見る。


治りかけの肋骨を。


また痛めている。


「安静にする約束だったわよね?」


「交渉は、基本的に座って行いました」


「蛇に締められたんでしょう?」


「途中までは座っていました」


「クライ」


声が怖い。


神殿特務審問官より。


少しだけ。


「ごめんなさい」


即座に謝った。


ノアが目を丸くする。


マナも。


怒るタイミングを失った顔をする。


「……素直ね」


「反省しています」


本当に。


危険へ巻き込んだことは。


「次からは?」


「共同寝床へ蛇を入れさせません」


「そこだけ?」


「危険な交渉では」


俺は少し考える。


「先に避難経路を用意します」


完全に危険を避けるとは言えない。


マナは。


しばらく俺を見つめた。


最後に。


ため息をつく。


「本当に、困った子」


頭を撫でられる。


少し痛い。


それでも。


避けなかった。


その時。


共同寝床の入口から。


ザイラスが顔を出した。


両腕には。


大量の荷物。


肉。


パン。


薬。


毛布。


「クライ様!」


大声。


子供たちが驚く。


「赤蛇会の倉庫から」


「上納品をお持ちしました!」


「上納ではなく、契約上の救済物資です」


「はい!」


「その呼び方も」


「クライ様!」


「……もういいです」


ザイラスが。


ノアを見る。


「こちらが」


「王都臨時調査員のノア姐さんですね!」


「姐さん?」


ノアが固まる。


「十歳です」


俺が言う。


「俺より上ですよ?」


「年齢の問題では――」


「ノア姐さん!」


ザイラスは。


勢いよく頭を下げた。


「今後とも、クライ様のご指導をよろしくお願いします!」


ノアは。


俺を見る。


「何、この人」


「赤蛇会の頭領です」


「頭領なの?」


「現在は、王都西南執行長です」


「偉い人?」


「立場は…」


俺は答える。


「俺の部下です」


ザイラスが。


嬉しそうに笑った。


「はい!」


誇るところなのだろうか。


ガルドも。


後から物資を運んできた。


灰鼠団と赤蛇会。


以前なら。


同じ場所へ荷物を置くだけで争った二組が。


共同寝床の前で。


配る量を相談している。


会計役同士が。


帳簿を照らし合わせる。


子供たちは。


温かいパンを受け取る。


マナが。


薬を棚へ入れる。


エナは。


支えられながら。


自分の足で数歩歩いた。


ヨルンが。


その姿を見て泣いている。


今日まで。


絶対に同時には存在しなかった光景。


それが。


俺の目の前にある。


成功した。


スラムを。


少しだけ。


変えた。


◇


数日後。


廃公設市場の屋根へ。


黒い旗が掲げられた。


中央には。


金色の目を持つ王冠。


周囲を囲む。


切れた鎖。


ノアが作った。


歪んだ刺繍を元にした旗だ。


王冠は少し傾き。


左右の目の大きさも違う。


完璧ではない。


だから。


黒冠商会らしい。


市場は。


新たに黒冠会館と呼ばれることになった。


一階。


物資の取引所。


二階。


灰鼠団と赤蛇会の共同会議室。


地下。


共同倉庫。


表には。


支払い済みの証票を発行する窓口。


争いを受け付ける相談所。


食料を安く売る配給所。


まだ。


建物は壊れている。


雨漏りもする。


人も足りない。


金も。


十分ではない。


問題は。


一つも終わっていない。


俺は。


会館の壁へ。


一枚の大きな紙を貼った。


題名。


――王都西部七年計画。


ガルド。


ザイラス。


ノア。


マナ。


エナ。


リオ。


黒冠商会に関わる者たちが。


紙の前へ集まる。


「七年?」


ノアが尋ねた。


「何をするの?」


「この場所を」


俺は。


窓の外に広がるスラムを見る。


泥。


壊れた家。


汚れた井戸。


裸足の子供。


薬を買えずに死ぬ人間。


冬を越せない老人。


それらを。


全て。


「スラムではなくします」


ガルドが眉を上げる。


「建物を壊すのか?」


「違います」


「ここに住む人間が」


「スラムの住民と呼ばれなくなる場所にする」


安全な水。


食料。


仕事。


診療所。


学校。


流通。


法律。


誰かへ金を払わなければ。


今日を生きられない街ではなく。


働けば。


明日を選べる街へ。


「七年で?」


ガルドが尋ねる。


「長すぎますか?」


「短すぎる」


「では」


俺は笑った。


「ちょうどいいですね」


ザイラスが。


力強くうなずく。


「クライ様ならできます!」


「内容を読んでから賛成してください」


「読みます!」


「字は?」


ザイラスが黙る。


会計役が。


横から紙を読んでやる。


少し笑いが起きた。


俺も笑った。


七年。


俺が十二歳になるまで。


その頃には。


黒冠商会は。


この小さなスラムだけではなく。


王都全体へ届く組織になっている。


悪魔との契約も。


二体で終わるつもりはない。


七十二禁書。


第零頁。


神を殺す方法。


まだ。


分からないことばかりだ。


それでも。


最初の目的は。


変わらない。


食べる物を手に入れる。


眠れる場所を作る。


大切な人間を守る。


そのために。


世界を騙す。


俺は。


七年計画の最後へ。


一行を書き足した。


――七年後、王都西部から「捨てられた子供」を一人も出さない。


ノアが。


その文章を読む。


俺の手を握った。


「できる?」


「できます」


「本当?」


「ええ」


今度は。


嘘では終わらせない。


俺は。


紙の下へ署名した。


クライ・マイト。


五歳。


元詐欺師。


禁術使い。


そして。


この日。


王都の裏社会で。


初めて一つの名前で呼ばれ始めた。


《黒冠の小王》


七年後。


その名を知らない者は。


王都に一人もいなくなる。

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