第28話 密室審理には、悪魔を仕込め
第八学生寮十三号室へ戻った時、窓の外には、星のない夜が広がっていた。
存在しない寮の、存在しない部屋。普通なら安心できる場所ではないが、今の学園内で、ここより盗み聞きされにくい場所も少ない。
卓の上には、才能保管院の原本台帳、カイの記憶返却証明、黒い瓶の破片、そして第零頁候補が刻んだ審理通知が並んでいる。
シグナは別室へ隠した。彼女は明日の審理で必要な証人だが、今夜これ以上、悪魔契約へ巻き込む必要はない。
リリは俺の隣に座り、袖を掴んだままだった。
「兄さん、どこにも行かない?」
「今は」
「今は、って言うところが嫌」
「嘘をつくより誠実でしょう」
「誠実な兄さん、ちょっと嫌い」
「少し傷つきました」
「嘘」
とりあえず妹問題には正解した。
ラファネスは台帳を確認し、リゼフィアは扉のない壁へ耳を当てている。ヴェルゴラは影の中で黙っていたが、機嫌が悪いことだけは黒い炎の揺れで分かった。
「まず、状況を整理しましょう」
俺は黒い瓶の破片を指で押さえた。
「第零頁は、まだ完全には発動していません」
「七十二座契約が未完了だから、ですね」
ラファネスが頷く。
「はい。ですが、クライ様は空白器であり、三柱との契約を維持し、旧マイト家当主として認定済みです」
「つまり、第零頁候補は兄さんに食いついた」
リリが小さく言う。
「食べ物を見つけたみたいに」
「契約書なので、もう少し事務的です」
「余計に嫌だよ」
同感だった。
第零頁候補は、俺を殺そうとしたのではない。空白器で、三柱契約済みで、旧マイト家の血を持つ候補として仮登録しようとした。
それが、あの白い手の正体だ。
シグナが証拠品として仮保全したことで、強制署名は止まった。ただし、その代わりに、俺と第零頁候補の接触記録が正式に残った。
敵はそこを使う。
「明日の封約議場で問われるのは、第零頁と契約するかどうかだけではありません」
俺は審理通知を裏返した。
「第零頁候補に触れた旧マイト家当主を、誰が、どう管理するかです」
ラファネスが審理通知の議題を読み上げる。
「旧マイト家危険遺産の封印責任。無名墓所脱走個体リリ様の処遇。才能保管院証拠品の取扱い。黒冠商会による未成年後見権の再審査」
リリの顔から、幼い甘さが消えた。
「兄さんを縛るために、兄さんが守ったものを縛るんだ」
「賢い相手です」
「嫌な賢さ」
「俺も嫌いです」
だが、感情的に嫌うだけでは足りない。
封約議場は密室だ。外部の世論も、学生の目も、商人たちの噂も届かない。
そこで決まったことは、王国、神殿、学園、歴史封緘局の合意として処理される。つまり、あの部屋では、正しさより権限が強い。
「明日の審理で、俺は弁明しません」
リリが首を傾げる。
「じゃあ、何をするの?」
「相手に弁明させます」
俺は原本台帳を叩いた。
「第零頁候補を違法に保管したのは誰か。子供の記憶を瓶へ詰めたのは誰か。偽造同意書を作り、後見契約を無視したのは誰か」
ラファネスが微かに笑った。
「被審理者として呼ばれた場で、審理の対象をすり替えるわけでございますね」
「ええ。檻の設計会議を、責任追及の場へ変えます」
ただし、それには三つ足りない。
権限。
隠蔽。
真意。
封約議場で発言権を奪われれば終わる。証拠を持ち込めなければ終わる。相手の契約文に隠れた狙いを読めなければ終わる。
ヴェルゴラは認識を現実にできるが、密室で使えば即座に警戒される。リゼフィアは道を開けるが、封約議場そのものは厳重に閉じられるだろう。ラファネスは模倣できるが、あの場では魂照合や契約照合が来る。
「だから、新しい悪魔が必要です」
リリの手に力が入った。
「また契約するの?」
「ええ」
「兄さん、身体は大丈夫なの?」
「空白器ですから」
「そういう意味じゃない」
リリは下を向いた。
「悪魔が増えるたびに、兄さんが遠くなる気がする」
少しだけ、言葉に詰まった。
彼女は人間が作った悪魔だ。その彼女が、俺を悪魔から遠ざけたいと願っている。
滑稽だが、温かい感情だ。
「遠くへ行くためではありません」
俺は言った。
「帰るために増やします」
リリは顔を上げた。
「帰る?」
「黒冠街へ。ノアとマナのところへ。カイがいる場所へ。あなたが、妹だと言い張れる場所へ」
リリの目が揺れる。
それから彼女は、袖を掴んだまま小さく笑った。
「じゃあ、ついていく。兄さんが悪魔に騙されないように」
「そこは心配しなくて結構です」
「兄さんが悪魔を騙しすぎないように」
「それは約束できません」
◇
背神契約大典は、学園にはない。
王都西部の地下遺跡。俺が五歳の時に落ち、ヴェルゴラと出会った、あの古い穴の奥に残してある。
持ち歩くには危険すぎる。だから俺は、必要な時だけそこへ戻る。
「リゼフィア」
『ええ、もちろんですわ』
リゼフィアが十三号室の壁へ指を這わせる。
存在しない寮の壁に、古びた石扉の輪郭が浮かび上がった。
『黒冠街の地下、古き遺跡、最初の契約の間。ああ、懐かしい道ですわ。子供が悪魔を値切った、最低で最高の扉ですこと』
「余計な説明は不要です。それにラファネスの時に行ったばかりでしょう」
扉を開く。
向こう側から、湿った石の匂いが流れ込んだ。
俺、リリ、ラファネスが入る。ヴェルゴラは影の中。リゼフィアは最後に扉へ口づけし、名残惜しそうに境界を閉じた。
遺跡の契約室は、七年前とほとんど変わっていない。
崩れた石柱。
古代文字の床。
中央に置かれた黒い書架。
そして、その中に収まる背神契約大典。
表紙は閉じているのに、こちらを待っていたような気配があった。
ヴェルゴラが、影の中から露骨に嫌そうな声を出す。
『本当に呼ぶのか』
「心当たりがあるのでしょう」
『今のお前にぴったりな悪魔がな。だから嫌なのだ』
リゼフィアも珍しく苦笑している。
『あの三柱は、扉の前にきつい香水を撒き、ずけずけと入ってくるような方々ですわ』
「能力は?」
ラファネスが答えた。
「第三十二座バルナ。権限と命令系統を偽装する悪魔。第三十三座バルミア。存在と認識を隠す悪魔。第三十四座バルバレア。言葉と契約の真意を聞く悪魔」
必要な三つが揃っている。
問題は、性格らしい。
背神契約大典の頁が、三枚同時に開いた。
そこから、甘い香りと、金色の煙と、小さな笑い声が漏れ出す。
最初に現れたのは、黒金のドレスをまとった小さな女王。
身長は皆十センチほど。小さいくせに、胸を張る態度だけは王より偉そうだった。
「よく呼んだわね、人間。わたくしはバルナ。契約するなら、あなたへ命令する権利を寄越しなさい」
次に、透明な羽を震わせた、涙目の女悪魔が出てきた。
薄布をまとい、怯えたように両手を胸の前で握っている。
「わ、私はバルミアです……ごめんなさい。契約には、あなたの存在をいただきます……本当にごめんなさい」
最後に、竪琴のような飾りを持った、小さな貴婦人が微笑んだ。
声は柔らかいが、目は一番意地が悪い。
「私はバルバレアと申します。契約者様の財産、きっちりいただきますね」
彼女は扇のような羽を口元へ当て、こちらを上から下まで眺める。
「まあ、たいへん可愛らしい坊ちゃまですこと。財産と呼べるものがあるとよろしいですね。石ころを宝石箱へ入れて喜ぶお年頃にも見えますけれど」
リリがむっとした。
「兄さんはすごいんだから」
「あら、頼もしい妹さんですね。身内びいきは美徳ですけれど、目を曇らせる布としても上質ですから、お気をつけあそばせ」
「この人、感じ悪い」
「京言葉の香りがしますね」
「何それ」
三柱の要求を聞いて、リリは俺の袖を掴んだ。
「兄さん、帰ろう」
「まだ見積もりを見ていません」
「命令権と存在と財産だよ? 見積もりじゃなくて身ぐるみ剥がされてるよ?」
バルナが得意げに笑う。
「ふふん。ようやく価値の分かる小娘が出たわね」
バルミアは申し訳なさそうに頭を下げる。
「で、でも、たぶん痛くないように取りますから……」
バルバレアはにこにこしている。
「まあ、痛みがあるかどうかは、取ってからのお楽しみですね。先に説明して怖がらせるほど、私も野暮ではありませんので」
「十分怖いよ」
リリが小さく呟く。
三柱とも、悪魔らしい重い代償を要求している。
だが、俺には別のものが見えていた。
命令権。
存在。
財産。
どれも定義が広すぎる。
そして、定義が広い請求なら、請求先も自由だ。
「契約前に確認します」
俺は三柱を見た。
「代償は、契約書上の名目が満たされればよいのですね?」
バルナが鼻を鳴らす。
「当然よ。悪魔の契約は格式が大事なの」
バルミアがこくこく頷く。
「書いてあれば、だいたい大丈夫です……たぶん」
バルバレアが微笑む。
「まあ、書類を信じる方ほど、立派なお顔で落とし穴へ歩いていかれますからね」
「自覚があるのに?」
「私は、他のお二人よりは少しだけ賢いつもりです」
「ちょっと、どういう意味よ!」
「ひ、ひどいですぅ……」
三柱が小さな空中で揉め始める。
リリが俺を見た。
「兄さん」
「何です?」
「この子たち、本当に大丈夫?」
「大丈夫です」
俺は羽根筆を取り出した。
「かなり、相性がいい」
三柱がこちらを向く。
俺は笑って告げた。
「では、契約書を作りましょう」
バルナは嬉しそうに腕を組んだ。
バルミアは安心したように胸を撫で下ろした。
バルバレアは、にこやかに毒を吐いた。
「まあ、素直な契約者様ですこと。明日の朝には、財産も命令権も存在も、綺麗に棚卸しされていることでしょうね」
俺は白紙の契約書を石卓へ置いた。
三柱が期待に満ちた顔で覗き込む。
リリだけが、不安そうに俺の横顔を見ていた。
俺は羽根筆へインクを含ませながら、三柱には聞こえないほど小さく呟いた。
「空っぽなのは、請求先の方です」




