第27話 神の契約書には、署名する前に相手を聞け
黒い瓶が割れた瞬間、保管庫の空気が変わった。
最初に聞こえたのは、音ではなかった。耳ではなく、骨の内側を直接なぞられるような感覚があり、次に、瓶の破片から伸びた白い手が俺の足首を掴んだ。
冷たい。
死人の手とも、悪魔の手とも違う。そこには怒りも憎しみもなく、ただ書類を棚から取り出すような、事務的で無機質な力だけがあった。
「兄さん!」
リリが俺の袖を掴んだ。
いつもの甘える力ではない。本当に大切なものを奪われる子供のように、指が震えている。
ラファネスが即座に動こうとしたが、白い手に触れる直前で止まった。
「クライ様、これは攻撃ではございません」
「では何です?」
「契約処理です。力任せに切れば、クライ様の魂へ契約不履行の傷が残る可能性がございます」
最悪だ。
殺しに来る敵なら、まだ分かりやすい。
目の前のこれは、俺を殺そうとしていない。殺意すらなく、俺を何らかの契約手続きへ組み込もうとしている。
床が割れる。
白い手が俺を引きずり込もうとする。
リリが泣きそうな顔で、俺の腕へしがみついた。
「やだ。連れていかないで。兄さんは、私と一緒にいるってまだ言ってない」
「そんな約束はしていません」
「これからするの!」
この状況で、よくそれを言える。
だが、彼女の声があったから、俺は冷静でいられた。
足首から、意識だけが白い空間へ引きずられていく。
現実の身体はまだ保管庫にある。リリの指の感触も、ラファネスの気配も残っている。だが俺の視界は、次第に白い羊皮紙のような世界へ塗り替えられていった。
◇
――シグナ・フェルムは、動けなかった。
割れた黒い瓶。
床から伸びる白い手。
記憶瓶の中で震える子供たちの声。
才能保管院の第三管理官として、シグナは何をすべきか知っている。未登録危険物が起動した場合、即時封鎖、上層部への通知、侵入者の拘束。それが規則だった。
けれど、それをすればどうなるかも分かっていた。
クライ・マイトは侵入者として処理される。
リリという少女は、無名墓所脱走個体として再収容される。
自分が渡した台帳も、返却印を押した記録も、全て「混乱時の誤記」として消される。
そして瓶にされた子供たちは、また番号へ戻る。
「私は……」
シグナは、自分の指先を見た。
そこには、記録印を押し続けてできた小さな傷がある。
私は作っていない。
私は売っていない。
私は記録しているだけ。
その言い訳を、何年も胸の中で唱えてきた。
だが、記録しているだけなら、今も記録すればいい。
何が起きたのか。
誰が触れたのか。
何が子供たちを瓶にし、何がクライを引きずり込もうとしているのか。
消させないために、記録すればいい。
「第三管理官権限」
震える声で、シグナは印章を握った。
「未登録危険物、仮分類。対象、第零頁候補。
状態、契約反応中。接触者、クライ・マイト」
床の白い手が、僅かに止まった。
止めたのではない。
ただ、記録されたことで、手続きが一瞬だけ枝分かれした。
「当該物品を、契約書ではなく証拠品として仮保全。
審査完了まで、外部搬出、消去、契約完了を停止」
印章が熱を持つ。
指の皮膚が焼け、血がにじむ。
それでも、シグナは印を押した。
自分がしていることが、クライを救うだけでは済まないことも理解していた。証拠品として記録すれば、第零頁候補とクライが接触した事実も正式な記録として残る。
その記録は、必ず誰かに利用される。
それでも、今ここで消されるよりはいい。
「記録します」
シグナは、血のにじむ指で台帳を開いた。
「あなたたちは、ここにいた。番号ではなく、証拠として」
棚に並んだ瓶の中で、子供たちの声が小さく揺れた。
◇
白い空間の中央に、巨大な羊皮紙が浮かんでいた。
そこには、俺の名前、年齢、血統、魔力反応、悪魔契約履歴が勝手に記されていく。
――名称、クライ・マイト。
――旧マイト家第十九代当主。
――空白器。
――七十二座契約、三柱確認。
――第一座、虚飾の悪魔ヴェルゴラ。
――第十三座、万門侯リゼフィア。
――第二十一座、無貌公ラファネス。
さらに、羊皮紙は俺の血統照合結果まで書き込んだ。
――百年前のクライ・マイトとの同一性、高。
――旧マイト家原契約継承候補。
「勝手に履歴書を作らないでいただきたい」
俺が言うと、羊皮紙の中央に白い目が開いた。
感情のない目だった。
怒りも喜びもなく、ただ条文を確認するためだけの目。
『契約候補者を確認』
「候補者?」
『第零頁本契約条件、未達。七十二座契約、未完了』
やはり、完全発動ではない。
元々の設定通り、第零頁は七十二柱すべてと契約しなければ本契約へ進めない。
今の俺は三柱だけだ。条件は足りていない。
それでも、黒い瓶に入っていたものは反応した。
『ただし、空白器適性、旧マイト家血統、
複数座契約維持能力、原契約接触履歴を確認』
羊皮紙の文字が、俺の足元へ巻きつく。
『対象を本契約者ではなく、予備契約候補として仮登録』
「拒否します」
『拒否権は、本契約前に限り審理可能』
「審理可能?」
『候補者本人、代理申立人、保管責任者の干渉により、強制署名手続きは一時停止』
リリ。
シグナ。
二人が外側から手続きを止めている。
一人では、とっくにこの白い羊皮紙へ署名させられていたかもしれない。
俺は少し息を吐いた。
「では、契約内容を開示してください」
『本契約時に開示』
「署名前に読めない契約へ、署名する人間がいると?」
『人間ではない。代表である』
「代表権の根拠は?」
『旧マイト家原契約』
「その原契約を提示してください」
『第零頁に含まれる』
「では、第零頁を読ませてください」
『本契約時に開示』
「循環していますよ」
白い目が、少しだけ細くなった。
俺を敵と見なしたというより、処理に時間がかかる変数として認識したのだろう。
『人間は神の所有物であり、所有物に閲覧権はない』
「創造物と所有物は違います。
親が子を生んでも、その子を売買する権利までは発生しない」
『神は親ではない。製造者である』
「では製造物責任がありますね」
羊皮紙の文字が止まった。
「神が人間を製造したなら、欠陥品を理由に処分する前に、修理、補償、回収条件を明示する義務がある。少なくとも、製造者の名前と所在地くらいは契約書へ書くべきでしょう」
『契約候補者、詭弁能力高。危険度再評価』
褒め言葉として受け取っておく。
だが、勝ったわけではない。
相手は契約書そのものだ。
無理な理屈を押し通すことはできないが、こちらの理屈に矛盾がなければ、
それを処理しなければならない。
時間を稼ぐ。
その間に、外側で何ができるか。
「兄さん!」
白い空間の端から、リリの声が届いた。
彼女の手が、糸のように伸びて俺の腕へ絡みつく。
肉体ごと入ってきたわけではない。名前を借りる力を、
細い道のようにして、俺の意識へしがみついている。
「無理に入るなと言ったでしょう」
「言われてないもん」
「今言いました」
「じゃあ聞かない。妹だから」
便利すぎる言葉だ。
だが、その声だけで、白い空間の冷たさが少し薄れた。
「リリ、あなたはここで何ができますか?」
「兄さんにしがみつける」
「他には?」
「……たぶん、名前を借りられる。でも、この契約書は怖い。名前が大きすぎる」
「人類代表という名前は借りられますか?」
リリが目を丸くした。
『不許可』
羊皮紙が即座に反応する。
『人類代表名は、旧マイト家当主にのみ接続』
「では、代表される側の名前なら?」
羊皮紙が止まった。
リリが、俺の顔を見る。
「兄さん、また変なこと考えてる」
「俺が人類代表として勝手に署名させられるなら、
代表される側にも異議申立権があるはずです」
「でも、ここには人類なんていないよ?」
「だから、あなたが代理人になる」
「私が?」
リリの表情が不安で揺れた。
人間が作った悪魔。
百年前のリリア本人ではない存在。
そんな自分が、人間の側に立っていいのかと迷っている顔だった。
俺は短く告げる。
「あなたは今、俺の妹です」
リリの目が、大きく開いた。
「今だけ?」
「今は」
「……じゃあ、今だけでも頑張る」
彼女は白い羊皮紙へ向き直り、小さな声で、しかしはっきりと言った。
「私は、代表される側の代理人として、内容非開示の契約に異議を申し立てます」
羊皮紙に、新しい文字が刻まれる。
――代理申立人、権限不明。
――ただし、候補者本人による一時承認あり。
――異議審査対象として仮受理。
白い手の力が緩んだ。
リリが嬉しそうにこちらを見る。
「兄さん、私、役に立った?」
「かなり」
「あとで撫でて」
「生きて戻れたら」
「絶対だよ」
◇
現実の保管庫では、ラファネスが床の亀裂を見つめていた。
本当なら、今すぐクライを引き抜きたい。
しかし、契約処理へ下手に干渉すれば、クライの魂を傷つける。万能に見える《万象模倣》でも、契約そのものの当事者を無傷で抜き取るには情報が足りない。
「クライ様は、自力で遅延に成功されています」
ラファネスは冷静にそう言ったが、その手袋の指先は僅かに握られていた。
主を守るために契約した。
それなのに今、自分は待つことしかできない。
悪魔にとって、無力感など学ぶ予定のない感情だった。
ヴェルゴラが影の中から低く笑う。
『焦っているのか、無貌公』
「不快ではあります」
『ならば覚えておけ。あの小僧は、たいていの場合、助けに行く前に相手の財布を抜いて帰ってくる』
「それでも、万一がございます」
『万一を潰すのが貴様の仕事だろう』
リゼフィアは、床の亀裂に耳を当てていた。
『白い契約の道が、分岐しておりますわ。クライが署名欄の前で、椅子を増やしましたの』
「椅子?」
『異議申立人、保管責任者、候補者本人。最初は一人分の机だったのに、三人分の席を勝手に並べましたわ。ああ、なんて嫌らしい道の増築でしょう』
褒めているのか、呆れているのか分からない。
だが、その言葉でラファネスは理解した。
クライは、白い契約書と交渉している。
ならば、自分がすべきことは一つ。
現実側の記録を確保し、クライが戻った時に使える証拠を一つでも増やすことだ。
「シグナ様」
ラファネスは管理官へ声をかけた。
「この保管庫の台帳、接触記録、分類変更記録、返却印の控え。
全て複写できますか?」
シグナは血のにじむ指を見た後、覚悟を決めたように頷いた。
「複写では足りません。原本を出します」
「よろしいのですか」
「ここに残せば、どうせこの後に消されるでしょう」
シグナは保管庫の奥にある小さな金庫を開けた。
中から出てきたのは、分厚い黒表紙の台帳だった。
過去十年分、才能保管院へ運び込まれた子供たちの名前、出身、買い手、加工内容、現在の保管位置。
その全てが記されている。
「私は、記録しているだけだと思っていました」
シグナの声は震えていた。
「でも、記録していたからこそ、今、渡せる」
ラファネスは台帳を受け取り、深く一礼した。
「その判断は、クライ様にとって大きな武器となります」
シグナは、少しだけ笑った。
疲れ切った、けれど人間らしい笑みだった。
◇
白い空間に、黒い印が浮かび上がった。
――保管責任者により、対象を証拠品として仮保全。
――接触記録、分類変更記録、起動反応を台帳へ記録。
――契約完了処理、保全審査完了まで一時停止。
「証拠品は、勝手に処分できませんね」
俺が言うと、羊皮紙の目がこちらを睨んだ。
『一時停止に過ぎない』
「十分です」
白い手が、俺の足首から完全に離れた。
しかし次の瞬間、羊皮紙は新しい文字を刻み始めた。
『候補者再審査を外部機関へ移行』
「外部機関?」
『極秘契約審理を招集』
白い空間に、黒い扉が現れる。
扉の上には、見たことのない名が刻まれていた。
――王立魔法学園地下《封約議場》。
『日時、明日午前十時』
『招集対象』
文字が一つずつ浮かび上がる。
クライ・マイト。
リリ。
王立魔法学園長、アルベリク・ロズベル。
副学園長、セリア・ロズベル。
中央神殿枢機卿、エルドラン・フェイス。
歴史封緘局、白紙卿。
才能保管院第三管理官、シグナ・フェルム。
王国家門記録院代理官。
王国財務局封印資産査定官。
そして最後に。
――秩序神セレディア、代理出席。
喉が、少しだけ乾いた。
転生の時に、俺をこの世界へ落とした神。
背神契約大典を俺の道へ置いた存在。
その名前が、当然のように審理通知へ刻まれている。
『議題』
羊皮紙の文字が、俺の周囲を囲んだ。
『第零頁候補接触者クライ・マイトの管理権限』
『旧マイト家危険遺産の封印責任』
『無名墓所脱走個体リリの処遇』
『才能保管院証拠品の取扱い』
『黒冠商会による未成年後見権の再審査』
なるほど。
これは契約ではない。
俺を檻に入れるための、檻の設計会議だ。
署名すれば飼い殺し。
拒否すれば、リリは再収容され、シグナの証言は封じられ、カイの記憶返還も再審査される。さらに黒冠商会の後見権へ疑いを向けられれば、黒冠街から送り出した子供たち全員が危険になる。
俺一人を脅すより、ずっと上手い。
『審理中、対象の逃走、証拠隠滅、新規契約を禁ずる』
最後の一文に、俺は笑った。
「新規契約?」
『危険性管理上、必要』
つまり、向こうも分かっている。
今の俺には、まだ足りないものがある。
権限を奪う力。
証拠を隠す力。
契約文の本当の狙いを知る力。
その三つがないまま密室へ入れば、
いくら舌が回っても、相手の土俵で裁かれるだけだ。
『逃げれば、保護対象を処分する』
白い羊皮紙は、最後にそう刻んだ。
視界が現実へ戻る。
◇
俺は保管庫の床に膝をついていた。
リリが俺に抱きついたまま、肩で荒く息をしている。
「兄さん、生きてる?」
「ええ」
「私のこと、分かる?」
「リリ」
「妹?」
「今は」
「今だけでもいい」
彼女は俺の胸へ額を押し当てた。
たぶん、泣いている。
俺は少し迷ってから、彼女の頭に手を置いた。
リリは、ようやく安心したように力を抜いた。
ラファネスが台帳を差し出す。
「保管庫の原本台帳を確保いたしました」
シグナが、血のついた印章を握ったまま言う。
「私は証人になります。もう、記録しているだけとは言いません」
「助かります」
「助かる、で済む話ではありません。私は、何年もここで記録していました」
彼女の顔は青白い。
けれど、目だけは逃げていなかった。
「その責任は、証言で払ってください」
俺が言うと、シグナは静かに頷いた。
保管庫の外へ出る直前、俺は割れた黒い瓶の破片を拾った。
破片の表面には、白い文字がまだ残っている。
――極秘契約審理通知。
――明日午前十時。
――王立魔法学園地下《封約議場》。
――審理中、逃走、証拠隠滅、新規契約を禁ずる。
リリが隣から覗き込み、すぐに顔をしかめた。
「兄さん、これも罠だよ」
「ええ」
「行くの?」
「行きます」
「じゃあ、私も行く」
「危険です」
「妹だから」
便利な言葉を覚えすぎている。
だが今回は、否定できなかった。
第零頁候補は、まだ本契約を結べない。
だからこそ、権力者たちを集めた極秘の場で、俺を管理対象に変えようとしている。
ならば、こちらも準備する。
密室審理を倒す方法は、壁を壊すことではない。
その場にいる全員へ、契約書の条項を一つずつ読ませ、誰が本当の責任者なのかを認めさせることだ。
ただし、そのためには今の手札では足りない。
俺は破片に刻まれた最後の一文を見た。
――新規契約を禁ずる。
「審理中、ですよね」
俺が呟くと、リリが嫌な予感を覚えたように顔を上げた。
「兄さん?」
「つまり、審理前に契約してしまえばいい」
ラファネスが、わずかに目を細める。
ヴェルゴラが影の中で低く笑った。
『また悪魔を増やす気か、小僧』
「必要な力が三つあります」
権限。
隠蔽。
真意。
リゼフィアが、床の境界を撫でながら楽しそうに囁く。
『それなら、心当たりがございますわ。もっとも、あの三柱は悪魔というより、きつい香水の匂いがする請求書の束みたいな奴らですけれど』
「請求書?」
ヴェルゴラが、心底嫌そうに言った。
『やめておけ。あやつらは強い。だが、それ以上に面倒だ。契約書を読む前から請求額を書き込んでくる』
俺は笑った。
請求書なら、得意分野だ。
「会いに行きましょう」
リリが俺の袖を掴む。
「兄さん、また悪い顔してる」
「悪魔と契約しに行く顔です」
「違うよ」
リリは少しだけ呆れたように、それでもどこか嬉しそうに言った。
「悪魔を騙しに行く顔だよ」




