第26話 奪われた記憶には、返却印を押せ
――カイ・ネルドは、温かい匂いで目を覚ました。
薬草と石鹸と、煮込んだ野菜の匂い。そこへ混ざる、少し焦げたパンの匂いに、胸の奥が痛むほど懐かしくなった。
目を開けると、白い天井ではなく、見慣れた木の梁があった。才能保管院の冷たい寝台ではなく、黒冠街の診療所にある、少し硬いけれど清潔な寝台だった。
「起きた?」
声の方を見ると、ノアが椅子に座っていた。
この街を出る前より大人になった顔。だけど、カイが最後に見た時と同じように、心配すると眉尻が下がる癖は変わっていない。
「ノア、さん」
声を出した瞬間、喉が震えた。
名前を呼べた。
自分の声で。
それだけで、胸の奥から何かが溢れそうになる。
「うん。おかえり、カイ」
ノアは泣きそうな顔で笑い、カイの手を両手で包んだ。
温かい。
才能保管院で何度も奪われた感覚だった。
名前を呼ばれず、番号で管理され、眠らされ、起こされ、誰かのために記憶を切り取られる。自分が何を失ったのかすら、失った後には分からなかった。
怖かったことだけが残っている。
でも、何が怖かったのかを思い出そうとすると、頭の中に白い穴が開く。
「俺、忘れてます」
カイは絞り出すように言った。
「黒冠街のこと、全部じゃないけど、たくさん忘れてる。代表のことも、ノアさんのことも、思い出せるのに遠いんです」
「いいよ」
ノアはすぐに答えた。
「忘れた分は、また教えるから」
「迷惑じゃ」
「迷惑よ」
即答されて、カイは固まった。
ノアは泣きながら、少し怒った顔をした。
「勝手にいなくなって、勝手に怖い目に遭って、勝手に忘れて帰ってきて。だから、迷惑に決まってる」
「ごめんなさい」
「でも、生きて帰ってきたから許す」
ノアは手を離さず、もう一度笑った。
「何度でも教える。ここが黒冠街で、あなたの帰る場所だって」
カイは、今度こそ声を上げて泣いた。
商品番号三七一ではなく。
黒冠学舎の卒業生、カイ・ネルドとして。
◇
――その報告を受けた時、俺は少しだけ息を吐いた。
カイが黒冠街へ帰れたこと。ノアが彼を迎えたこと。取り戻した記憶が、少なくとも彼自身を壊さなかったこと。
全て、ほんの少しだけ勝ちだった。
ただし、勝った分だけ相手も動く。
俺の机には、昨夜届いた歴史封緘局からの地図が広げられていた。
才能保管院、第三区画。その奥にある《商品番号三七一の記憶複製保管庫》。さらに深い場所へ移動した赤い印には、《第零頁、保管候補》と記されている。
「兄さん、そこばっかり見てる」
リリが向かいの椅子から身を乗り出し、頬を少し膨らませた。
「私も見る?」
「地図は見ています」
「違うよ。私のこと」
「今は作戦中です」
「作戦中でも、妹は視界に入れておいた方が安全だよ。可愛いし、役に立つし、たまに兄さんを助けるから」
自己評価が高い。
だが昨夜、彼女がいなければカイは買い戻せなかったし、俺も契約の穴へ落ちたまま記憶を奪われていた。
「では、見ています」
俺がそう言うと、リリは一瞬だけ嬉しそうに笑い、すぐ照れ隠しのように地図へ視線を落とした。
「……ずっと見ててもいいよ」
「作戦が進みません」
「けち」
その軽さに救われる部分があるのが、少し腹立たしい。
ラファネスは地図の隅を指した。
「歴史封緘局がこの地図を送った理由は、少なくとも三つ考えられます。一つ、学園長と対立しており、我々を利用したい。二つ、対立しているふりをして、才能保管院へ誘導したい。三つ、双方とも別の目的のため、クライ様を第零頁へ近づけたい」
「全部あり得ますね」
「はい。従って、地図に描かれた経路は使わない方がよろしいかと」
同感だった。
敵が送ってきた道は、敵が監視しやすい道だ。
俺は地図を裏返し、別の紙を広げた。
そこに書いてあるのは、王立魔法学園の食材納入記録、廃棄物処理表、地下施設の冷却用魔石の注文書、そして人員の勤務交代表。
「才能保管院が人間を商品として扱うなら、必ず物流があります。商品は入荷し、検品され、保管され、加工され、出荷される」
「兄さん、嫌な言い方」
リリの声が少し低くなる。
「俺も嫌です」
だからこそ、そこを突く。
怒りで殴り込めば、相手の用意した戦場になる。
相手が子供を商品として扱うなら、俺は商品管理の規則で殴る。
「正面から入るのではなく、返品処理として入ります」
ラファネスが頷いた。
「カイ様の記憶は、学園長から返却済みであると署名を得ております。にもかかわらず複製保管庫に同一記憶が存在するなら、学園長の署名か保管院の台帳のどちらかが虚偽となる」
「保管院の管理者は、それを認められない」
「ゆえに、確認のため我々を入れざるを得ない」
リリが、ぱちぱちと小さく拍手した。
「兄さん、悪い顔してる。ちょっと好き」
「ちょっとなのか?」
「かなり!」
妹の扱い方は大体わかってきた。
◇
才能保管院の返品口は、学園の食堂裏にあった。
表向きは廃棄食材と壊れた魔道具を運び出す通路だが、リゼフィアが床の境界を撫でると、石畳の下に隠れた昇降路が姿を現した。
『捨てる物が通る道と、戻された商品が通る道が同じですのね。人間の悪意は、時々とても分かりやすい形をしておりますわ』
その声には、いつもの変態的な興奮ではなく、静かな怒りが混じっていた。
俺たちは黒冠商会の検品人として偽装し、返品確認書、学園長の署名入り返還証明、カイの奨学契約書を持って地下へ降りた。
最初の関門は、鉄の扉の前に座る女だった。
灰色の髪をひとまとめにした、痩せた中年の女性。目に感情はないが、机の上に積まれた書類は整然と分類され、こちらを見る前から俺たちの靴音を数えていた。
「返品申請は受けていません」
「緊急確認です」
俺が書類を出すと、女は一枚ずつ読み、最後に学園長の署名で指を止めた。
「この署名は本物です」
「では通してください」
「署名が本物であることと、あなた方の入室権限は別です」
賢い。
書類を見てすぐ屈するような相手ではない。
「あなたの名前は?」
「才能保管院第三管理官、シグナ・フェルム」
「シグナ管理官、ここにカイ・ネルドの記憶複製がある場合、学園長は返却済みと署名しながら、実際には保有を続けていたことになります」
「複製は原本ではありません」
「では、複製に人格使用権は含まれますか?」
シグナの目が僅かに動いた。
「含まれません」
「ならば確認させてください。人格使用権を含まないただの複製であれば、俺は何も言いません」
「含まれていた場合は?」
「学園長の署名を持って、王国裁判所へ行きます」
彼女は黙った。
こちらが脅しているのは才能保管院ではない。
学園長だ。
管理官にとって最も困るのは、上の失敗を自分の判断で隠すことだった。
「確認のみ。持ち出しは禁止」
「確認結果によっては、返却印を押していただきます」
「あなたは、こちらの台帳規則を理解しているのですか」
「理解していないから、専門家であるあなたへ確認を依頼しています」
俺がそう言うと、シグナは少しだけ不快そうに目を細めた。
責任を押しつけられることを嫌いながら、専門家として扱われると無視できない。
人間は面倒だ。
俺も含めて。
◇
複製保管庫には、無数の小瓶が並んでいた。
一つ一つに番号が振られ、名前、年齢、出身、魔力適性、使用目的が小さな文字で書かれている。
商品。
素材。
記憶。
人格。
子供の笑い声も、初めて書けた自分の名前も、誰かを好きだった気持ちも、全てが透明な瓶に入れられて棚へ並んでいた。
俺は、思ったより強く拳を握っていた。
リリがそっと俺の袖を掴む。
いつもの甘える力ではない。
「兄さん、怒ってる?」
「ええ」
「私も」
彼女の黒い腕が出かけたので、俺は袖を掴み返した。
「まだです」
「うん。兄さんがまだって言うなら、我慢する」
我慢と言いながら、リリの銀色の目は、棚の番号を一つも逃さない。
彼女も賢い。
怒りながら、必要な情報を集めている。
シグナは棚の一角で足を止めた。
「商品番号三七一、カイ・ネルド。記憶複製、二本」
「学園長の返却証明では、全て返却済みです」
「一本は閲覧用複製。もう一本は加工前の予備です。規則上、原本返却後も三十日間は保管できます」
「本人の後見契約に反しています」
「学園入学時の同意書が優先されます」
シグナは、こちらが感情的に反発するのを待っている。
だが、俺は別の書類を出した。
カイの入学時同意書。
昨夜、カイの荷物から見つけたものだ。
「署名が違います」
シグナの眉が動く。
「筆跡鑑定でもしろと?」
「その必要はありません。カイ・ネルドは、自分の名前を書く時、必ずネルドのルを少し潰す癖があります。黒冠学舎の全記録に残っている」
俺は十枚の写しを並べた。
入学申請書。
奨学契約。
修了証の受領書。
工房への紹介状。
全て同じ癖。
だが、学園の同意書だけが違う。
「この同意書は偽造です」
シグナは黙った。
怒らない。
焦らない。
ただ、書類を見比べている。
「仮に偽造であれば、保管院の責任ではなく入学事務局の責任です」
「その通りです」
俺は頷く。
「だから今なら、あなたは被害者側になれる」
シグナの目が、初めて俺を正面から見た。
「どういう意味ですか」
「偽造された同意書に基づき、あなたは記憶を保管させられた。今ここで返却印を押し、台帳へ訂正を残せば、責任は偽造した部署へ移ります」
「もし押さなければ?」
「偽造だと知った上で保管を続けた共同責任者になる」
シグナは、静かに息を吐いた。
「十二歳の子供が言う脅しではありませんね」
「あなたも、子供を瓶に入れる仕事をしている人の顔ではない」
少しだけ。
彼女の表情が崩れた。
怒りか。
罪悪感か。
疲労か。
「私は、ここに運ばれたものを記録しているだけです」
「記録したから、存在を証明できる」
俺は棚を見た。
「あなたがいなければ、この子たちは番号すら残らなかった」
シグナは目を伏せた。
「返却印を押します。ただし、二本だけです」
「十分です」
十分ではない。
だが今日は、ここが限界だ。
シグナはカイの記憶瓶二本へ返却印を押し、台帳から使用権を抹消した。
小さな勝利。
けれど、確かな勝利だった。
◇
保管庫を出る直前、リリが棚の最下段で足を止めた。
「兄さん」
そこには、名前のない黒い瓶が一つだけ置かれていた。
番号もない。
使用目的だけが書かれている。
――第零頁、保管候補。
俺が触れようとした瞬間、シグナが初めて声を荒げた。
「それには触れないでください!」
遅かった。
黒い瓶の内側から、誰かが小さく笑った。
次の瞬間、俺の視界が暗転し、知らない記憶が流れ込む。
王立魔法学園の地下。
無名墓所。
四百三十一の死者。
顔を失った両親。
そして、学園長アルベリクが、血まみれの百年前の俺へ跪いている。
『クライ、頼む。私を騙してくれ』
その背後で。
白い翼を持つ誰かが笑っていた。
神。
いや。
神のふりをした何か。
黒い瓶が割れる。
中から、古い紙片が一枚落ちた。
そこには、七十二禁書と同じ文字で、こう書かれていた。
――第零頁は、神を殺す方法ではない。
――神が、人間を殺すために作った契約書である。
リリが震える手で、俺の袖を掴む。
「兄さん」
シグナは青ざめた顔で、保管庫の奥を見る。
警報は鳴っていない。
だが、棚に並んだ全ての記憶瓶が、ゆっくりこちらを向いた。
瓶の中の子供たちの声が、同時に囁く。
『見つけた』
『次の契約者』
『第零頁が、来る』
床が割れた。
下から、白い手が伸びる。
リリのものではない。
無名墓所の死者でもない。
もっと古く。
もっと冷たい手。
それが俺の足首を掴み、地下へ引きずり込もうとした。




