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第25話 学園長には、領収書を切らせろ

翌日の正午前、俺は学園長室へ向かっていた。


廊下は妙に静かで、すれ違う生徒も教師も、

こちらを見てから不自然なほど早く視線を外す。


学園長に呼ばれた新入生。


旧マイト家の当主。


魔力測定では無反応なのに、実技で三属性を使った異常者。


噂が広がる速度だけは、王都の市場より早い。


「兄さん、本当に一人で行くの?」


隣でリリが、俺の袖を掴んでいた。


昨夜の約束は終わったはずなのに、

彼女は今朝から自然な顔で妹の位置に収まっている。


「一人で来いと言われています」


「私は妹だから、一人に数えなくていいよ」


「数えます」


「じゃあ、袖に縫い込まれていれば荷物扱い?」


「妹が荷物になるのは、さすがに問題があります」


リリは少し頬を膨らませたが、俺が頭に手を置くと、

すぐ機嫌を直して、猫のように目を細めた。


「じゃあ、帰ってきたら撫でて」


「無事に戻れたら」


「絶対だよ。兄さんの約束は契約より重いんだから」


そう言いながら、彼女はようやく袖から手を離した。


可愛い。


ただし、人間が作った悪魔で、昨夜は黒い腕を四本出していた。


油断してはいけない。


「ラファネス、カイをお願いします」


「承知いたしました」


カイは昨夜、黒冠商会の別ルートで一時保護させた。

記憶は一部戻ったが、まだ身体も精神も不安定であり、

長く学園内へ置いておくには危険すぎる。


「クライ様が戻られなかった場合は?」


「俺が渡した封筒を、ノアへ」


「その後は?」


「黒冠街の流通を三日止めます」


ラファネスが、わずかに目を細めた。


「王都西部の物流停止は、学園だけでなく貴族街にも影響します」


「ええ」


「人質を取られた場合の交渉材料でございますね」


「保険です」


学園長室へは一人で行く。


だが、一人で来いという命令は、

外で準備をするなという意味ではない。


詐欺師は、約束を破らずに裏をかく。


◇


学園長室の扉は、七本の塔の中央にあった。


扉へ手をかけた瞬間、銀色の文字が浮かび上がる。


――入室者、一名。


――悪魔契約反応、三柱。


――無名墓所脱走個体、未同行。


「数え方が細かいですね」


俺が呟くと、中から穏やかな声が返ってきた。


「君ほどの相手を招くなら、玄関先の確認くらいは必要だ」


扉が開く。


中は、予想よりずっと普通の部屋だった。


広い机。


本棚。


来客用の椅子。


窓の外には学園の中庭が見える。


そして、机の向こうに一人の男が座っていた。


白い髪。


柔らかな笑み。


年齢は三十代半ばほどに見える。


だが俺は、百年前の記憶で同じ顔を見ている。


王立魔法学園長、アルベリク・ロズベル。


百年前、俺を殺した男。


「初めまして、と言うべきかな」


「百年前に会っているなら、二度目です」


「私は覚えているが、君は借り物の記憶だろう?」


「昨日までは」


アルベリクの笑みが、ほんの僅かに深くなる。


「なるほど。百年前の君は、最後に何かを返したか」


やはり、知らなかった。


奪った人格記録の全てを、即座に読めるわけではない。

あるいは、百年前の俺が最後に渡した記憶だけは、

何らかの形で俺の中へ隠したのだろう。


「座りなさい。毒は入れていない」


「入っていたら、そう言うでしょうね」


「飲まないことも予想していたよ」


「なら、紅茶代が無駄です」


「君が疑うための材料としては、安いものだ」


賢い。


こちらが疑うことまで、最初から会話の一部にしている。


俺は椅子へ座った。


机の上には、黒い台帳の写しが置かれている。


昨夜、カイを買い取った契約。


そして、俺の記憶を奪った付帯契約。


「見事だったよ」


アルベリクは台帳へ指を置いた。


「君は、ノアという少女の記憶を守るために、百年前の自分自身へ最高値をつけた」


「あなたが仕掛けた契約に、穴があっただけです」


「穴ではない。あれは、君がどう値段をつけるかを見る試験だ」


「人の記憶を盗んでおいて、試験ですか」


「記憶は返せる」


「死んだ人間は?」


アルベリクの笑みが止まった。


一瞬だけ。


本当に一瞬だけ、部屋の温度が下がった気がした。


「君は、私を殺したいか?」


「今のところは、情報の方が欲しいです」


「君らしいな」


「褒め言葉として受け取ります」


俺は懐から、一枚の契約書を出した。


黒冠学舎の卒業生を外部へ送り出す際に使う奨学契約だ。


学費、道具、住居保証。


就職先や工房が本人を不当に拘束しないこと。


人体実験、売買、記憶や魂の譲渡を禁止する条項。


七年前、孤児を送り出すために作った仕組み。


当時は、ここまで役に立つとは思っていなかった。


「カイ・ネルドは、黒冠商会の奨学生です」


「知っている」


「では、彼の記憶を買う権利が誰にもないことも?」


アルベリクは、すぐには答えなかった。


「学園は、入学後の学生に対する管理権を持つ」


「管理権は、所有権ではありません」


「彼は孤児だ」


「だから後見契約を結んでいる」


俺は契約書の下部へ指を置いた。


そこには、カイ本人の署名と、黒冠商会王都支部代表である俺の署名がある。


「あなた方がカイを商品として扱う理屈は、

未成年者には保護者がいないという前提で成り立っている」


「しかし、黒冠街の子供には後見人がいる」


「ええ」


「その仕組みを、七年前から?」


「子供を外へ送り出すなら、当然でしょう」


アルベリクは静かに息を吐いた。


それは失望ではない。


むしろ、嬉しそうですらあった。


「君は、街を作ったのではない。

将来の敵へ刺さる契約を、七年も前から埋めていたのか」


「結果的にです」


「結果的に、か」


彼は笑った。


「嘘だね」


否定はしなかった。


俺自身、半分は本当に予防策のつもりだった。


しかし、悪意ある組織が子供を狙う可能性を考えなかったかと

問われれば、間違いなく考えていた。


「要求は?」


「カイ・ネルドの記憶を返還してください」


「拒否すれば?」


「黒冠商会は、奨学契約違反として

王国裁判所、中央神殿、魔術師協会へ同時に訴えます」


「握り潰せる」


「でしょうね」


俺は頷いた。


「ですが、あなたが握り潰したい書類の種類と経路を、

こちらは知ることができます」


アルベリクの目が細くなる。


裁判に勝てなくてもいい。


告発が潰される過程で、誰が動くかを見る。


どの役所が黙り。


どの貴族が介入し。


どの書類が消えるか。


それ自体が、才能保管院へつながる地図になる。


「君は、負けても情報を取るのか」


「勝ち負けより、回収率です」


「本当に嫌な子供だ」


「百年前も?」


「百年前は、もう少し純粋だった」


「それで死んだなら、改善していますね」


沈黙。


今度は、アルベリクの方が言葉を失った。


少しだけ。


勝った気がした。


◇


「カイ・ネルドの記憶は返そう」


アルベリクは、机の引き出しから青い小瓶を取り出した。


中には、風のように揺れる光が入っている。


「全てですか?」


「昨夜の時点で私が保有していた分は全て」


上手い言い方だ。


別の場所へ移した記憶。


複製。


加工済みの人格。


それらは含まれない可能性がある。


「ラファネス」


契約を通じて呼びかける。


『瓶の内部には、カイ様の記憶情報と一致する反応があります。

ただし、完全性については、本人へ戻すまで確認できません』


「条件は?」


アルベリクは小瓶を指で転がした。


「君は、才能保管院へ自力で辿り着きなさい」


「取引条件ですか?」


「いいや。これは忠告だ」


彼の声から、初めて冗談めいた響きが消えた。


「才能保管院は、私一人の箱庭ではない。

王国、神殿、貴族、学園、そして歴史封緘局が絡んでいる」


「あなたが黒幕では?」


「黒幕であれば、どれほど楽だったか」


嘘か。


本当か。


判断は保留。


アルベリクは小瓶を俺へ投げた。


俺は受け取り、すぐに懐へしまう。


「返してくれる理由は?」


「カイの記憶一つで、君をここから遠ざけるより、

君が学園を引っかき回す方が面白い」


「趣味が悪い」


「百年前から言われている」


「百年前の俺に?」


「彼にも、君の父にも、君の妹にも」


リリの名前が出た瞬間、俺は目を細めた。


「リリをどうするつもりです?」


「彼女を守るか殺すかは、君が決めることだ」


「なぜ俺へ任せる?」


「前回、君が失敗したから」


アルベリクは、窓の外へ視線を向けた。


「そして私は、君が失敗した結果を百年見続けた」


声に、後悔があった。


だが、同情するほど安い感情ではない。


「あなたは俺を殺した」


「そうだ」


「なぜ?」


「君が頼んだから」


部屋の空気が止まった。


百年前の記憶では、アルベリクは血まみれの俺を抱え、

泣きながら、次は必ず騙し切ると言っていた。


もし本当に。


百年前の俺が、自分を殺せと頼んだのなら。


「証拠は?」


「君が私に渡した記憶の中にある」


「奪っておいて、こちらに確認させない?」


「確認する方法はある」


アルベリクは、机の上へ一枚の紙を置いた。


授業予定表。


一年特別課程。


第一講義。


担当、学園長アルベリク・ロズベル。


内容。


記憶売買契約の基礎。


「君には、私の授業を受けてもらう」


「敵から学べと?」


「敵から学べない者は、敵に勝てない」


正論だった。


腹が立つほど。


「授業へ出れば、百年前の記憶を返す?」


「一部ずつ」


「取引ですね」


「教育だよ」


「言葉を変えても、結果が同じなら?」


アルベリクが笑う。


「聞こえのいい方を選ぶ。君の言葉だ」


完全に調べられている。


だが、こちらも得るものはある。


カイの記憶。


才能保管院への手がかり。


学園長本人の授業。


敵の思考を近くで観察する機会。


「分かりました」


俺は立ち上がる。


「ただし、こちらも条件を出します」


「何かな」


「カイ・ネルドの記憶返還に、あなた自身の署名をください」


アルベリクの表情が止まった。


初めて。


完全に。


「領収書です」


俺は白紙を差し出す。


「王立魔法学園長アルベリク・ロズベルは、

黒冠商会奨学生カイ・ネルドの記憶を保有していた」


「返還のために署名すれば、私が記憶を持っていた証拠になる」


「ええ」


「署名しなければ、俺はこの瓶を受け取らない。

カイの記憶が偽物かもしれませんから」


アルベリクは、しばらく俺を見ていた。


賢い相手だ。


ここで怒らない。


署名すれば、小さな証拠を渡すことになる。


署名しなければ、カイの記憶を返すという譲歩が無駄になる。


どちらが損か。


彼は短い時間で計算し、羽根筆を取った。


「いいだろう」


署名。


アルベリク・ロズベル。


カイの記憶返還証明。


小さな紙。


だが。


学園長が、孤児の記憶を保有していた証拠。


俺はそれを丁寧に折り畳み、内ポケットへしまった。


達成感はある。


ただし、勝ったとは思わない。


アルベリクは、こんな紙一枚で倒れる相手ではない。


「君は本当に、嫌なところを突く」


「あなたほどでは」


「褒め言葉として受け取ろう」


敵同士なのに、会話の呼吸だけは妙に合った。


それが一番気に入らない。


◇


学園長室を出ると、廊下の角でリリが待っていた。


「一人で来いって言われてたから、ここで待ってた。

部屋には入ってないから、一人を邪魔してないよ?」


「屁理屈が上手くなりましたね」


「兄さんの妹だから」


言いながら、彼女は俺の袖を掴む。


「ちゃんと帰ってきたから、撫でて」


「ここで?」


「ここで」


廊下には生徒も教師もいる。


だが、リリは真剣だった。


仕方なく、俺は彼女の頭を軽く撫でた。


リリは満足そうに笑い、すぐに俺の懐へ視線を向ける。


「勝った?」


「カイの記憶と、署名を取りました」


「じゃあ、ちょっと勝ち」


「ええ」


「兄さん、すごい」


その言い方があまりに素直で、俺は少しだけ返事に困った。


「まだ終わっていません」


「うん。でも、今はすごいって言わせて」


否定する理由はなかった。


俺たちは急いで、カイを保護している部屋へ向かった。


ラファネスが小瓶を受け取り、慎重にカイの額へ青い光を戻していく。


少年の瞼が震える。


呼吸が荒くなる。


涙が、目尻からこぼれた。


「代表……」


カイは俺を見て、泣きながら言った。


「俺、怖かった」


「ええ」


「でも、黒冠街に帰りたかった」


「帰れます」


「みんな、怒ってるかな」


「たぶん泣きますよ」


「ノアさんは?」


「絶対に泣きます」


カイは、ようやく子供らしく顔を歪めた。


「俺も、泣いていいですか」


「もう泣いていますよ」


「あ、本当だ」


その場にいた全員の緊張が解けるように、笑った。


救えた。


完全ではなくても。


一人は、取り戻した。


◇


その夜。


カイを黒冠街へ送った後、俺の部屋へ一通の手紙が届いた。


封蝋は、王立魔法学園長のものではない。


黒と白の半分に割れた仮面。


歴史封緘局。


中には、短い文章が一つ。


――アルベリク・ロズベルを信用するな。


その下に、もう一行。


――彼は百年前、君を殺したのではない。


――君を、神に売った。


手紙の裏には、地図が描かれていた。


学園地下。


才能保管院。


第三区画。


そして、赤い印。


《商品番号三七一の記憶複製保管庫》。


アルベリクから返されたカイの記憶は、本当に全てなのか。


歴史封緘局は、なぜ俺へ情報を流したのか。


学園長と封緘局は、敵同士なのか。


それとも。


俺に、そう思わせたいだけなのか。


俺が地図を見つめていると、リリが横から覗き込んだ。


「兄さん」


「何です?」


「これ、罠だよ」


「でしょうね」


「行くの?」


「行きます」


リリは困ったように笑い、俺の袖を掴んだ。


「じゃあ、今度は私も連れてって。

罠にかかる兄さんを、妹として見守る義務があるから」


「助ける義務では?」


「それもある」


彼女は少し照れたように笑った。


その瞬間。


地図の赤い印が勝手に動いた。


第三区画から。


さらに地下へ。


地図に存在しない階層へ。


そこに、新しい文字が浮かぶ。


――第零頁、保管候補。


俺の背筋が冷えた。


才能保管院は、孤児売買の場所ではない。


第零頁へ至るための。


保管庫だった。

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