第24話 最も価値のある記憶には、値札をつけろ
『今度こそ、妹を守れよ。二人目の俺』
意識の奥で、百年前のクライ・マイトが笑った。
俺と同じ黒髪、同じ金色の目、同じ十二歳の姿。
違うのは、その顔に俺より深い疲労が刻まれていることだけだ。
白い鎖は今も、ノアとの記憶へ食い込んでいる。
共同寝床で初めて手を握られた夜が、少しずつ色を失っていた。
『俺を渡せば、契約は満たせる』
「説明してください。あなたは記憶ですか?」
『記憶でもあり、人格でもある。正確には、百年前の俺が、
自分の人生を一つの記録として魂へ封じた残滓だ』
「それを渡せば、あなたは消える?」
『たぶんな』
随分と曖昧だった。
この状況で、善意だけを理由に受け取るほど俺は素直ではない。
「却下します」
『は?』
「正体不明の人格を、契約相手へそのまま渡すほど、
俺は情報管理に無頓着ではありません」
『今、そんなこと言ってる場合か!?』
「今だから言っています」
白い鎖が、さらに深く記憶へ沈む。
ノアの声が、一瞬だけ聞き取りにくくなった。
焦る。
それでも、焦った側から負ける。
「ラファネス、契約文の正確な解釈を」
「承知いたしました」
ラファネスは俺の肩へ手を置き、白い鎖を観察する。
「債務内容は《最も価値ある記憶を一つ提供すること》。
問題は、誰にとって価値があるかが明記されておりません」
やはり。
契約文は短い。
短い契約は、一見すると分かりやすい。
実際には、定義されていない言葉ほど危険なものはない。
「学園長にとって価値ある記憶なら、
当然、禁術や黒冠商会の秘密を選ぶはずです」
「しかし現在、鎖はノア様の記憶を選択しております」
「つまり」
俺は白い鎖を掴んだ。
「契約書が判断しているのは、俺にとっての価値」
ラファネスが頷く。
「その可能性が最も高いかと」
リリが俺の腕へしがみつき、鎖を睨んでいた。
「兄さん、そのお姉さんのこと、そんなに大事なの?」
「大事です」
即答すると、リリの頬が少し膨らんだ。
「……私より?」
「比較する意味がありますか?」
「あるよ。妹だもん」
「今、その話をします?」
「だって、気になる」
こんな状況で嫉妬できる神経は、少し羨ましい。
俺は空いている手で、リリの額を軽く押した。
「少なくとも今夜は妹として扱う約束です。
だから、あなたの記憶も取らせるつもりはありません」
膨らんでいた頬が、すぐに戻った。
「……それならいいよ」
単純で助かる。
少しだけ、可愛いと思ったのは黙っておく。
◇
問題は、契約が既に成立していることだった。
違法だと訴えても、今すぐ鎖は止まらない。
強引に切れば、俺の魂と記憶に損傷が出る可能性がある。
ならば。
契約を破るのではなく、履行する。
ただし。
相手が欲しくない形で。
「価値とは、誰が決めます?」
百年前の俺へ尋ねる。
『知らん。俺の頃には、そんな契約はなかった』
「あなたは、本当に昔の俺なんですか?」
『疑うのは分かるが、今は――』
「質問に答えてください」
少年は少し黙った後、苦笑した。
『そういうところは、俺より面倒だな』
「褒め言葉として受け取ります」
『百年前、俺は十二歳で一度死んだ。
その直前、自分の人格と記憶を魂の奥へ封じた』
「目的は?」
『次の俺が、同じ失敗をしないためだ』
「失敗とは、リリアを殺せなかったこと?」
少年の顔から笑みが消える。
『それだけじゃない』
続きを聞こうとした瞬間、白い鎖が強く引かれた。
頭の奥で。
ノアが笑った。
七年前。
俺の手を握った、小さな女の子。
その顔が。
急速に薄くなる。
「クライ様、残り時間は長くありません」
ラファネスの声が低くなる。
「契約は、記憶の切り離し段階へ移行しております」
考えろ。
《最も価値ある記憶》。
価値とは何だ。
金額。
希少性。
感情。
利用価値。
人によって違う。
契約書が俺の感情を基準に選んでいるなら、
その基準自体を変えることはできないか。
いや。
感情を騙す必要はない。
価値の順位を。
一時的に変えればいい。
俺は懐から、黒い家門証を取り出した。
「リリ」
「何?」
「さっき使った、名前を借りる力。
役割だけではなく、価値も借りられますか?」
「価値?」
「例えば、この紙を《国宝》だと信じる名前を借りたら、
俺自身も、一時的に国宝として扱える?」
リリは眉を寄せ、少し考え込んだ。
相手側も馬鹿ではない。
ここで都合よく何でもできる能力にはならない。
「無理。私の力は、誰かが実際に持っている名前や役割を、
存在する認識ごと借りるものだから」
「では、俺の中にいる百年前のクライは?」
リリが、俺の顔を見る。
『嫌な予感がするぞ』
意識の奥から、少年が言った。
「この人は、百年前のマイト家嫡子。
王国史から消された、唯一の生き残り候補です」
「うん」
「現在の俺より、歴史的価値が高いですよね?」
『おい』
「しかも、学園長が百年間探していた情報を持っている」
『待て、何をする気だ』
俺はようやく笑った。
「なら、最も価値ある記憶を入れ替えられる」
◇
ラファネスが、すぐに問題点を指摘した。
「クライ様、契約が評価するのは、
あくまで現在のクライ様御自身にとっての価値です」
「分かっています」
「百年前の人格を、御自身がノア様以上に
価値あると認識しなければ、鎖は移りません」
そこが難しい。
俺はノアを大切に思っている。
今さら。
知らない少年の記憶を。
それ以上に大切だと思うことはできない。
だから。
感情ではなく。
別の価値を定義する。
「契約文には《大切な記憶》とは書いていない」
「はい」
「《価値ある記憶》です」
俺はラファネスを見る。
「学園長が欲しがる価値と、俺の感情的な価値。
今は契約書が、勝手に後者を選んでいる」
「その通りでございます」
「なら、契約解釈を争います」
「誰と?」
「契約書と」
前世でも。
契約書に人格はない。
それでも、解釈を争うことはできる。
契約魔法なら。
なおさら、定義へ従う。
「ラファネス、百年前の人格を
情報資産として評価してください」
「金銭換算で?」
「ええ」
ラファネスの金色の目が光る。
百年前のマイト家。
第零頁。
無名墓所。
旧当主。
王国が百年間隠した歴史。
それらを知る人格。
「最低評価でも」
ラファネスが静かに答えた。
「王国史、禁術研究、旧マイト家資産、
七十二禁書に関する情報価値を含めれば、算定不能です」
「ノアとの一つの思い出は?」
「クライ様個人には無限に近い価値を持ちますが、
市場価値としては算定対象になりません」
「聞いたか?」
俺は白い鎖へ向けて言った。
もちろん。
返事はない。
それでも続ける。
「契約は売買に付随する債務です。
売買契約における《価値》は、市場価値で解釈するのが妥当だ」
黒い台帳が。
微かに震えた。
反応した。
リリが目を見開く。
「兄さん、契約書が考えてる」
「考えているのではなく、
矛盾の少ない解釈を探しているんです」
白い鎖の一本が。
ノアの記憶から離れた。
成功。
しかし。
残りは動かない。
相手も対策している。
黒い台帳へ。
新しい文字が浮かぶ。
――価値判定基準。
――契約者本人の主観価値を優先。
「後出しですか」
「違います、クライ様」
ラファネスが険しい顔をする。
「隠蔽されていた条項が、
契約解釈の衝突によって可視化されました」
学園長は。
ここまで読んでいた。
俺が《価値》の定義を争うことまで想定し、
主観価値優先の条項を最初から仕込んでいる。
賢い。
腹が立つほど。
「なら、主観価値を変えます」
『どうやってだ』
百年前の俺が尋ねる。
「あなたには」
俺は答えた。
「ノアを守る価値がある」
『……何?』
「あなたを渡せば、ノアとの記憶を守れる。
その瞬間だけ、あなたは俺にとって最も価値のある記憶になる」
価値は。
物そのものに存在しない。
目的によって変わる。
喉が渇いている人間にとって。
宝石より。
水の方が価値は高い。
今の俺にとって。
ノアの記憶を守れる唯一の代替物なら。
百年前の人格は。
他の何より価値がある。
「俺は今」
はっきりと言葉にする。
「百年前のクライ・マイトの記憶を、
ノアの記憶を守るために最も価値ある情報だと認識する」
黒い台帳が。
激しく震えた。
白い鎖が。
一本。
また一本。
ノアの記憶から抜けていく。
そして。
全て。
意識の奥にいる少年へ向かった。
『……なるほどな』
百年前の俺は。
鎖に巻かれながら。
笑った。
『そういう騙し方をするのか』
「嫌なら抵抗してください」
『いや』
少年は首を振る。
『さっきより、ずっと納得した』
白い鎖が。
彼の胸へ突き刺さる。
『俺を犠牲にするんじゃない』
「ええ」
『俺に、今の家族を守る価値をつけた』
「商品扱いが嫌なら謝ります」
『むしろ、お前らしい』
少年の姿が。
少しずつ白く崩れる。
その直前。
彼は俺へ向かって。
右手を伸ばした。
『一つだけ返してもらう』
「何を?」
『俺が奪われた記憶の中から』
少年の指が。
俺の額へ触れる。
『学園長が一番隠したかった場面だ』
景色が。
一瞬だけ変わった。
百年前。
炎上する王立魔法学園。
若い男が。
血まみれの俺を抱えている。
顔は。
現在の学園長。
アルベリク・ロズベル。
百年前なのに。
今と同じ顔。
男は泣きながら。
少年の俺へ何度も謝っていた。
『すまない、クライ』
『次は必ず』
『お前を騙し切る』
記憶が途切れる。
百年前の俺は。
白い鎖へ吸い込まれた。
◇
黒い台帳が。
強く光る。
――債務履行を確認。
――提供記憶。
――旧マイト家嫡子クライ・マイト人格記録。
――主観価値判定、最上位。
白い鎖が。
全て消えた。
俺は膝をつく。
頭が重い。
だが。
ノアの顔は。
消えていない。
声も。
手の温度も。
七年前の夜も。
全部。
覚えている。
「兄さん!」
リリが抱きついてきた。
勢いが強く、危うく後ろへ倒れそうになる。
「生きてる? 私のこと分かる?
妹だよ。可愛い方の妹だよ」
「妹は、今のところ一人しかいません」
「じゃあ、可愛い妹で合ってるね」
「自己評価が高い」
「兄さんが低すぎるの」
ぎゅっと抱きついたまま離れない。
頭を撫でると。
少しだけ力が緩んだ。
「……怖かった」
小さな声だった。
先ほどまで。
悪魔の腕を出し。
回収班へ笑っていた少女と同じとは思えない。
「俺もです」
「兄さんも怖いことあるの?」
「記憶を奪われるのは嫌ですよ」
「私を忘れるのも?」
少しだけ顔を上げる。
期待している。
「今夜は妹ですから」
「明日からは?」
「調査対象です」
「けち」
また頬を膨らませた。
だが。
抱きついた腕は離さない。
◇
「カイを確認してください」
俺が言うと、ラファネスが少年の額へ触れた。
白い光。
数秒後。
カイの指が動く。
「記憶封印の一部が解除されております」
「なぜ?」
「先ほどの契約履行によって、
学園長側の記憶保有権に一時的な接続が発生したようです」
つまり。
俺の記憶を奪おうとした経路を。
逆に利用できた。
「カイの記憶へ接続できますか?」
「完全ではございません。
ただし、本人側へ残る断片を引き戻すことは可能です」
「対価は?」
「契約者御本人の記憶ではないため、
《万象模倣》による補助は血液換算十二ミリリットル」
髪十二本。
安い。
「支払います」
黒い髪が。
白い光へ変わる。
ラファネスの指先から、
細い銀色の線がカイの頭へ入った。
少年の身体が。
小さく震える。
「無理に全部戻さないでください」
「承知しております。
現在の人格が耐えられる範囲のみ復元いたします」
数秒。
一分。
カイの目が。
ゆっくり開いた。
焦点が合わない。
俺を見て。
リリを見て。
ラファネスを見る。
最後に。
俺の胸元にある。
歪な黒冠の刺繍へ目が止まった。
「……くろ」
掠れた声。
「カイ?」
「黒冠……学舎」
俺は。
何も言わなかった。
急かさない。
少年の目に。
少しずつ涙が溜まる。
「代表……?」
たった一言。
それだけで。
十分だった。
「はい」
カイの顔が歪む。
「俺……帰れますか」
「帰れます」
即答した。
「黒冠街に?」
「ええ」
「もう、商品じゃない?」
「違います」
俺は。
少年の首に残った銀色の輪へ手をかける。
「あなたは」
力を入れ。
留め具を外した。
首輪が床へ落ちる。
金属音が。
十三号室へ響いた。
「黒冠学舎の卒業生です」
カイが。
声を上げて泣いた。
その横で。
リリまで泣いていた。
「どうしてあなたも泣いてるんです?」
「妹だから」
「関係あります?」
「兄さんが嬉しそうだから、嬉しい」
俺は。
嬉しそうな顔をしていたらしい。
◇
カイ救出。
ノアの記憶も守った。
百年前の人格は奪われたが。
代わりに。
重要な記憶を一つ受け取った。
完全勝利ではない。
学園長へ。
百年前の俺という。
非常に大きな情報を渡してしまった。
だが。
相手も。
ただでは済まない。
「ラファネス」
「はい」
「百年前の俺が、最後に見せた記憶。
あなたも観測しましたね?」
「明確に」
「学園長の顔は?」
ラファネスの表情が。
静かに変わる。
「現在のアルベリク・ロズベルと一致しております」
百年前。
今と同じ姿。
年齢も。
ほぼ変わっていない。
人間ではない。
あるいは。
百年前から。
同じ身体を使い続けている。
その瞬間。
十三号室の机に置かれた。
黒い台帳が勝手に開いた。
新しい文字。
――債権者より、履行確認。
その下へ。
見慣れない一文が続く。
――提供された記憶は、確かに受領した。
――やはり君は、百年前のクライとは違う。
さらに。
もう一行。
――だからこそ、今度は君に勝ちたい。
署名。
アルベリク・ロズベル。
そして。
最後に。
次の取引場所が記されていた。
――明日正午。
――王立魔法学園、学園長室。
――一人で来い。
リリが。
俺の袖を強く掴む。
「兄さん」
「何です?」
「絶対、一人で行かないで」
「理由は?」
彼女は。
珍しく冗談を言わなかった。
「アルベリクは」
銀色の瞳が。
恐怖で揺れる。
「百年前、兄さんを殺した人だから」
俺は。
台帳へ書かれた招待状を見る。
百年前の俺を殺した男。
百年間。
同じ顔で生き続ける学園長。
そして。
今の俺と。
もう一度勝負したがっている。
明日。
ようやく。
相手の顔を見て話せる。




