第23話 商品になった子供は、買い戻せばいい
吹き飛んだ扉の向こうから、白い鎧の兵士が六人、
黒衣の魔術師が三人、順番に十三号室へ入ってきた。
その中央には、銀色の首輪をつけられたカイがいる。
青い髪は短く刈られ、頬は痩せ、黒冠学舎で見せていた
人懐こい表情は、どこにも残っていなかった。
右手に握られているのは、学園支給の細身の剣。
刀身の周囲には、風属性の魔力が薄く渦巻いている。
「商品番号三七一、命令を再確認」
回収班の後方に立つ黒衣の男が告げた。
「回収対象クライ・マイトを生存状態で拘束し、
無名墓所脱走個体は、損傷を問わず再収容せよ」
カイの銀色の首輪が光る。
「命令を確認」
少年は、俺へ剣先を向けたまま答えた。
「回収対象を、生存状態で確保します」
声に感情はない。
だが。
剣を持つ右手の小指だけが、微かに震えていた。
「カイ、俺が分かりますか?」
俺が呼びかけても、少年の目は動かない。
「対象からの音声干渉を確認。任務へ影響なし」
「兄さん、避けて!」
リリが俺の前へ出る。
背中から伸びた四本の黒い腕が、
左右の壁と床へ爪を突き立てた。
カイが床を蹴る。
風が爆ぜた。
一瞬で間合いを詰めた少年の剣を、
リリの黒い腕が横から受け止める。
金属音ではなく。
肉が裂ける音がした。
黒い腕の一本が、肘から切断される。
傷口から血は出ず、
黒い煙と、何人もの悲鳴が漏れ出した。
「痛っ……!」
リリが顔を歪める。
「感覚があるんですか?」
「人間になりたいなら、痛みも必要でしょう?」
「今、その学習意欲は不要です」
カイは止まらない。
剣を返し、二撃目を俺へ振り下ろす。
俺は後ろへ跳び、刃をぎりぎりで避けた。
身体を鍛えていなければ、
最初の一撃で肩から斬られていただろう。
それでも。
速さが違いすぎる。
カイの肉体は、風魔法へ特化するよう改造されている。
脚へ魔力を集中させ、踏み込むたびに身体を加速し、
剣を振る瞬間だけ腕の周囲へ風圧を集めている。
「ラファネス」
契約を通じて呼びかける。
返答は、扉の外側から届いた。
『入口の境界を封鎖されております。破壊には、
クライ様を巻き込む可能性があるため、現在解析中です』
「リゼフィアは?」
『扉の道を奪われたことに激怒され、
外側から境界そのものを噛んでおられます』
「噛んでいる?」
『文字通りでございます』
想像したくない。
「ヴェルゴラは?」
『クライ様の影へ存在しておりますが、
この部屋は悪魔一柱のみという規則を維持しています』
現在。
十三号室が悪魔として認識しているのはリリ。
ヴェルゴラは、俺の影にいても権能を外へ出せない。
《虚王顕現》は使えない。
《境界回廊》も使えない。
《万象模倣》による外部支援も受けられない。
頼れるのは。
俺自身と。
信用できない妹だけ。
「商品回収班」
俺はカイから距離を取りながら、
白い鎧の兵士たちへ声をかけた。
「俺を回収する目的は何です?」
誰も答えない。
回収班の隊長らしい男が、左手を上げる。
二人の魔術師が杖を向け、
床と天井から白い鎖を伸ばした。
俺の両腕と足首を狙っている。
リリの黒い腕が鎖を叩き落とすが、
残る三本のうち、一本がさらに切り裂かれた。
「兄さん、話してる場合じゃない!」
「話すしかありません」
「戦って!」
「戦って勝てる相手ではないでしょう」
自分の力量は理解している。
禁術を封じられた俺が、
武装した回収班九人と改造されたカイへ勝つのは難しい。
なら。
相手が戦う理由をなくす。
「命令書を見せてください」
俺が告げると、隊長が鼻で笑った。
「商品に、確認する権利はない」
「ありますよ」
「何?」
「回収対象を間違えた場合、
誰が損失責任を負うんです?」
隊長の目が僅かに動いた。
当たり。
この組織は。
子供を人間ではなく、商品として扱っている。
ならば。
命より、帳簿を恐れる。
「俺がクライ・マイト本人である証明を、
あなた方は確認しましたか?」
「顔、年齢、家紋、全て一致している」
「顔は、魔法で変えられます」
「家紋も複製できる」
「年齢は、見た目でしかない」
俺はリリへ視線を向ける。
「この少女も、百年以上生きています」
「少女って呼んでくれた?」
「今は黙ってください」
隊長が眉を寄せる。
「時間稼ぎだ。商品三七一、拘束を続行しろ」
カイが再び動く。
今度は。
俺ではなく、足を狙った。
生存状態で拘束する命令を守り、
逃げられないよう腱を切るつもりらしい。
俺は訓練用に携帯していた短剣で受ける。
刃同士がぶつかり、
腕が痺れるほどの衝撃が走った。
受け切れない。
短剣が弾かれ。
カイの剣先が、俺の左脚へ迫る。
「カイ!」
反射的に。
黒冠学舎で呼んでいた名前を叫んだ。
少年の剣が。
一瞬だけ止まる。
本当に。
僅かな停止だった。
それでも俺は、身体を横へ投げ、
脚を切断される軌道から逃れた。
刃が外套を裂く。
床へ転がる。
「任務へ感情を混ぜるな、三七一」
黒衣の男が首輪へ指を向ける。
銀色の輪に赤い文字が浮かび、
カイの身体が大きく痙攣した。
「命令違反へ、矯正を実行」
少年の口から、声にならない息が漏れる。
痛み。
記憶を失っていても。
身体は痛みを覚えている。
「停止してください」
俺が言っても、術者は止めない。
「商品は、命令へ従わなければ価値がない」
「違います」
俺は立ち上がる。
「商品価値を下げる行為です」
「何を」
「彼は明日、取引相手へ引き渡される予定でしょう?」
黒衣の男の顔が変わる。
リリから得た情報。
こちらが知るはずのない予定だ。
「現在、神経への矯正を続ければ、
引き渡し時の身体機能へ障害が残る可能性がある」
「商品三七一の取引価格は?」
沈黙。
「契約には、引き渡し時の品質保証があるはずです」
「買い手が中央神殿の枢機卿なら、
傷一つでも違約金を請求するでしょうね」
黒衣の男が、矯正術を止めた。
やはり。
損失を恐れている。
「どうして、取引相手を知っている」
「黒冠商会ですから」
答えになっていない。
だが。
黒冠商会という言葉には、
理由を説明しなくても納得させる力がある。
七年間。
何でも知っている組織だと信じさせてきた。
「では、改めて確認します」
俺は隊長を見る。
「あなた方が受けた命令は、
クライ・マイト本人を回収することですか?」
「そうだ」
「それとも、回収対象番号を持つ商品を確保すること?」
隊長は答えなかった。
代わりに。
後方の魔術師が持つ黒い板へ視線を向けた。
命令書。
紙ではなく。
魔法で更新される回収台帳。
板には、白い文字が浮かんでいる。
――回収対象。
――商品番号、零。
――名称、クライ・マイト。
――状態、生存。
――優先順位、最上位。
「商品番号零」
俺は声に出す。
「番号があるなら、所有者も登録されていますね」
「関係ない」
「あります」
「あなた方は、所有権のない商品を奪えば、
単なる誘拐犯になる」
隊長が笑った。
「学園の中で、誰が我々を裁く?」
「学園ではありません」
俺は胸元の家門証を取り出す。
「王国貴族を、正式な命令書なく拘束すれば、
マイト家と黒冠商会の双方へ敵対したことになる」
「命令書はある」
「なら、見せられる」
「機密だ」
「確認できない命令書は、存在しないのと同じです」
「お前に見せる義務はない」
「では、所有者を名乗る者が現れた場合、
誰の命令を優先するんです?」
隊長の表情に。
小さな苛立ちが浮かぶ。
面倒な商品だと。
思い始めている。
それでいい。
人間として扱われないなら。
商品として。
最も扱いにくい商品になればいい。
「リリ」
俺は小声で尋ねる。
「この部屋は、悪魔一柱しか認めないんですよね?」
「そうだよ」
「人間の魔法は?」
「使える」
「この回収台帳は、部屋の術式へ接続されていますか?」
リリが黒い板を見る。
銀色の瞳が細くなる。
「つながってる。回収班の命令と、
商品の識別情報を十三号室が保証してる」
つまり。
この部屋は。
誰が商品で。
誰が回収者かを認識している。
《虚王顕現》は使えない。
だが。
認識を騙すのに。
必ずしも禁術は必要ない。
「回収台帳へ、俺の情報を登録したのは誰です?」
「答える必要はない」
「学園長?」
「……」
「歴史封緘局?」
隊長は黙った。
質問へ答えないこと自体が。
答えになる。
「商品番号零は、学園長の所有物ではない」
「誰の所有です?」
「学園そのものだ」
面白い。
「王立魔法学園は、法的には誰の所有です?」
隊長の眉が動く。
「王国だ」
「違います」
俺は即座に否定した。
王立魔法学園は。
王家の勅許を受けて設立されている。
しかし。
校舎。
土地。
予算。
寄付。
全てを。
王家だけが所有しているわけではない。
大貴族。
中央神殿。
魔術師協会。
各組織が出資している。
そして。
学生からも。
入学金と授業料を受け取っている。
「学園は、複数の出資者による共同管理組織です」
「だから何だ」
「共同所有物を処分するには、
出資比率に応じた承認が必要でしょう」
「回収は、処分ではない」
「では、移動?」
「そうだ」
「商品番号零を、どこへ移す?」
隊長が黙る。
答えられない。
回収後の行き先は。
無名墓所。
だが。
それを口にすれば。
学園の表向きの目的と矛盾する。
「移動先が登録されていない回収命令は、
一時保管命令として扱うべきです」
「勝手な解釈だ」
「では、台帳へ確認してください」
俺は黒い板を指した。
「命令書に、最終搬入先が書かれていますか?」
黒衣の魔術師が板を見る。
文字を追い。
顔を強張らせた。
「搬入先は……空欄です」
「そんなはずはない」
隊長が板を奪う。
本当に。
空欄らしい。
恐らく。
俺が《家門帰還誓約》へ署名する前提で、
搬入先を無名墓所へ自動登録する予定だった。
しかし。
俺は署名していない。
契約上。
無名墓所への道が開いていない。
だから。
回収命令だけが先に存在し。
行き先がない。
「行き先のない商品は、誰が一時保管する?」
俺が尋ねる。
回収班の誰も答えない。
なら。
こちらから答えを売る。
「現在の合法的な保護責任者です」
「何?」
「俺は十二歳です」
「王国法上、成年ではない」
「両親は死亡」
「正式な後見組織は」
俺は胸元の黒冠を指す。
「黒冠商会」
俺が代表を務めているが。
公的な記録上。
黒冠商会本部が。
孤児だった俺を保護し。
教育し。
王都支部代表へ任命した。
つまり。
黒冠商会本部こそ。
クライ・マイトという未成年者の保護責任を持つ組織。
商品番号零の一時保管先として。
最も正当な立場にある。
「回収台帳へ問い合わせてください」
俺は告げる。
「最終搬入先が空欄の場合、
現保護責任者へ返還する規定があるはずです」
隊長は動かない。
だが。
黒衣の魔術師が。
不安そうに板を操作した。
白い文字が更新される。
――最終搬入先、未登録。
――暫定保管規則を検索。
――対象が未成年の場合。
――登録済み後見組織へ返還。
そして。
黒い板へ。
見慣れた名前が浮かび上がった。
――登録済み後見組織。
――黒冠商会本部。
部屋が。
俺を回収班の所有物ではなく。
黒冠商会が保護する対象だと認めた。
隊長の顔が歪む。
「これは、台帳の不具合だ」
「王立魔法学園の商品管理台帳は、
不具合のある状態で人間を回収するんですか?」
「黙れ!」
「記録へ残りますよ」
黒い板は。
命令だけではなく。
回収班の行動も記録している。
正規手続きを無視し。
後見組織へ返還すべき未成年者を拘束すれば。
後から誰かが責任を負う。
隊長は。
人を殺すことには慣れている。
だが。
組織から責任を押しつけられることは恐れている。
「命令は、回収を優先している」
「上位規則と矛盾した場合は?」
「……」
「命令者へ照会してください」
「ここからは連絡できない」
「では、現場判断?」
「そうだ」
「責任者は、あなたですね」
隊長の顔から。
少しだけ血の気が引いた。
回収を続ければ。
自分の判断。
中止すれば。
命令違反。
どちらを選んでも。
責任を負う。
この状態で。
人間は。
自分で決めることを避ける。
「第三の選択肢があります」
俺は静かに言った。
「何だ」
「現保護責任者である黒冠商会へ、
一時保管業務を正式に委託する」
「お前自身に、お前を渡せと?」
「俺は支部代表です」
「本部ではない」
「その通り」
俺は笑う。
「ですから、本部の代理人を呼びましょう」
呼べない。
黒冠商会本部は。
存在しない。
だが。
今。
この部屋には。
存在しない組織を。
存在すると信じる人間が十人以上いる。
さらに。
王立魔法学園の台帳自体が。
黒冠商会本部を正式な後見組織として登録している。
これほど。
嘘を現実へ変える土台が整った場所はない。
問題は。
《虚王顕現》を使えないこと。
だが。
一人いる。
この部屋で。
悪魔として認められている存在が。
「リリ」
「何?」
「あなたは、人間が作った悪魔なんですよね?」
「そうだけど」
「どんな権能を持っています?」
リリは。
少し迷った。
「名前を借りる力」
「詳しく」
「死者が残した名前を、一時的に自分へ重ねられる。
名前に付随する役割も、少しだけ使える」
だから。
リリア・マイトという名前を与えられ。
扉。
鍵。
兵士。
全ての役割を背負わされた。
「生者の名前は?」
「本人が許可すれば」
「存在しない人物は?」
リリの銀色の瞳が。
ゆっくり細くなる。
「誰かが、本当にいると信じていれば」
使える。
俺は胸元から。
黒い封筒を取り出した。
本部命令へ使っている。
黒冠商会本部代表印つきの封筒。
中身は白紙。
「今から、あなたを」
俺は言った。
「黒冠商会本部の全権代理人に任命します」
リリが瞬きをする。
「私が?」
「この場にいる全員が、黒冠商会本部を信じている」
「学園の台帳も」
「黒冠商会本部を、俺の後見組織として認めている」
「なら」
俺は白紙へ。
黒いインクで役職を書く。
――黒冠商会本部特別代理人。
――リリ。
「存在しない本部の、存在しない役職を借りられる」
リリは。
数秒間、黙った。
それから。
嬉しそうに笑う。
「やっぱり兄さん、面白いね」
「署名を」
「代償は?」
「必要なんですか?」
「悪魔だから」
「何を?」
リリは少し考え。
俺の袖を掴んだ。
「今夜だけ、本当に妹として扱って」
重いようで。
軽い。
「今夜だけ?」
「今夜だけ」
「分かりました」
「本当に?」
「契約が終わるまでは」
リリは少し不満そうだったが、
白紙の任命書へ自分の名前を書いた。
リリ。
名字は書かない。
既に。
リリア・マイトという名前は死んでいる。
銀色の文字が。
彼女の身体を包む。
黒い寝間着が。
黒冠商会の正装へ変わっていく。
長い外套。
金色の目を持つ王冠。
切れた鎖。
そして。
胸元には。
本部特別代理人の印。
存在しない役職が。
この部屋の認識によって、
一時的に実在する権限へ変わった。
黒い板が。
自動的に反応する。
――登録済み後見組織。
――黒冠商会本部。
――全権代理人を確認。
――一時保管権限を移譲。
回収班が。
全員。
動きを止めた。
彼らの命令系統より。
商品管理台帳が認めた後見権限の方が上位に置かれた。
「商品番号零」
リリが。
いつもより少し低い声で告げる。
「クライ・マイトの一時保管権を、
黒冠商会本部が正式に受領します」
黒い板へ。
承認の文字。
隊長が歯を食いしばる。
「そんなデタラメを…」
「台帳は、存在すると認めていますよ」
俺が答える。
「不服なら、学園へ訂正申請を」
王国の役所と同じ。
一度。
正式な台帳へ登録された情報は。
間違いだと分かっても。
その場で無視することが難しい。
「回収任務を中止」
隊長が吐き捨てるように命じた。
白い鎧の兵士たちが。
武器を下ろす。
成功。
俺は捕らえられず。
リリも回収されない。
だが。
カイは。
回収班側に残っている。
「待ってください」
俺が言う。
隊長が振り返る。
「まだ何かあるのか」
「商品番号三七一について」
カイの目が。
微かに俺へ動いた。
「それは、こちらの所有物だ」
「引き渡し前の商品ですね」
「そうだ」
「品質に問題があります」
「何?」
「回収任務中に、命令違反が発生した」
「矯正処置も行われた」
「現在の状態で買い手へ渡せば、
契約時の品質基準を満たさない可能性がある」
黒衣の魔術師が。
不安そうにカイを見る。
首輪の矯正によって。
神経。
魔力路。
精神。
どこまで傷ついたか。
現場では確認できない。
「再検査すればいい」
「明日の引き渡しまでに?」
「可能だ」
「検査結果が悪ければ?」
隊長が黙る。
買い手は。
中央神殿の枢機卿。
違約金。
責任。
処罰。
回収班にとって。
商品を連れて帰ることは。
危険な荷物を持ち帰ることでもある。
「黒冠商会が買います」
俺は告げた。
室内の全員が。
こちらを見る。
「何を言っている」
「商品三七一を、現状有姿で買い取ります」
現状有姿。
傷。
欠損。
不具合。
全てを含め。
現在の状態のまま受け取る契約。
売り手は。
引き渡し後の責任を負わない。
「買い手との契約がある」
「まだ所有権は移っていない」
「引き渡し前なら、契約解除は可能でしょう?」
「違約金を誰が払う」
「黒冠商会が負担します」
実際に払う気はない。
だが。
今は。
買う意思を見せればいい。
「価格は?」
隊長が。
とうとう尋ねた。
人間を。
売る側の質問。
腹の底が冷える。
それでも。
顔へ出さない。
「現在の契約価格から、
矯正処置による品質低下分を差し引く」
「ふざけるな」
「では、現在価格と同額」
「神殿との関係を失う」
「黒冠商会との関係を得る」
隊長の呼吸が止まる。
黒冠商会本部。
所在不明。
戦力不明。
財力不明。
だが。
王都西部を支配し。
神殿の特務審問官を殺し。
今回。
学園の台帳さえ書き換えたように見える組織。
中央神殿の枢機卿と。
黒冠商会本部。
どちらを怒らせる方が危険か。
分からない。
分からないから。
恐怖が膨らむ。
「さらに」
俺は続ける。
「商品三七一の品質問題は、
黒冠商会側の責任として処理します」
「回収任務中の命令違反も」
「矯正処置も」
「記録上、回収班の過失として残さない」
隊長の目が。
黒い台帳へ向く。
自分たちの失敗を。
消せる。
「支払い保証は?」
「本部特別代理人がいます」
リリが。
堂々と胸を張る。
少し楽しそうだ。
「黒冠商会本部は、商品三七一の購入を承認します」
黒い台帳へ。
新しい取引欄が現れる。
――購入希望者。
――黒冠商会本部。
――支払い能力、照会。
数秒。
――照会不能。
「照会不能では駄目だ」
隊長が言う。
「違います」
俺は即座に返す。
「支払い不能ではなく、照会不能です」
「外部から財務情報を確認できないほど、
本部の機密性が高いという意味でしょう」
ほとんど詭弁だ。
だが。
台帳は。
否定していない。
「担保を出します」
「何を?」
俺は。
自分の家門証を卓へ置いた。
「マイト家准男爵位」
全員が黙る。
爵位そのものを売ることはできない。
しかし。
契約違反時に。
家門財産へ請求権を設定することは可能だ。
百年前の補償請求権。
旧領地。
黒冠商会王都支部。
現在の俺には。
形式上。
相当な資産がある。
「黒冠商会が支払わなければ、
マイト家の財産から回収してください」
隊長の顔が変わる。
払われない可能性より。
回収できる担保の方が。
大きく見えた。
「価格は?」
黒衣の男が。
台帳へ数字を表示する。
金貨百二十枚。
十二歳の孤児一人。
高いのか。
安いのか。
判断したくない。
「承認します」
即答した。
ノアに知られれば。
帳簿を投げつけられる額だ。
だが。
金で取り戻せるなら。
安い。
「本部代理人」
俺がリリを見る。
「購入契約へ署名を」
リリは。
黒い板へ指を触れた。
銀色の文字が走る。
――売買成立。
――商品番号三七一。
――所有権移転。
――新規所有者、黒冠商会本部。
カイの首輪から。
赤い文字が消えた。
同時に。
拘束命令が解除される。
少年の剣が。
床へ落ちた。
膝から崩れる。
俺は駆け寄り。
倒れる身体を受け止めた。
「カイ」
返事はない。
瞳は虚ろ。
黒冠街の記憶も。
俺の名前も。
まだ戻っていない。
それでも。
首輪の支配からは外れた。
「購入品を渡せ」
隊長が言う。
俺はカイを抱えたまま、
回収班の前から下がる。
「受領しました」
「支払いは、三日以内だ」
「契約書を黒冠商会王都支部へ送ってください」
払う。
金貨百二十枚。
決して軽い額ではない。
だが。
人間を買う契約を。
人間を救う契約へ変えた。
今は。
それでいい。
回収班は。
武器を収めたまま十三号室を出ていく。
隊長だけが。
扉の前で一度振り返った。
「商品を買い集めて、何をするつもりだ」
「商売ですよ」
俺は答える。
「人間を商品にする市場を、
採算が合わなくなるまで壊します」
隊長は何も言わず。
扉の向こうへ消えた。
◇
回収班が退室した直後。
リリの黒い正装が崩れ始めた。
存在しない本部特別代理人という名前を借りた反動らしい。
「少し、疲れた」
彼女の膝が揺れる。
俺はカイを床へ寝かせた後、
倒れかけたリリの肩を支えた。
「大丈夫ですか?」
「今夜は妹として扱う約束でしょう?」
「……大丈夫か、リリ」
「もう少し優しく」
「注文が多いですね」
「百年分だから」
仕方なく。
頭を軽く撫でる。
リリは。
驚いたように目を見開いた後、
少しだけ嬉しそうに笑った。
「兄さんの手だ」
「誰の手だと思っていたんです?」
「百年前と同じ」
一瞬。
何と答えるべきか分からなかった。
その時。
十三号室の外から。
激しい衝撃が響いた。
扉が。
外側から大きく歪む。
『クライ様』
ラファネスの声。
『回収班の退去を確認いたしました。
入口の封鎖を解除いたします』
扉が内側へ開く。
同時に。
黒い外套をまとったラファネスが入り、
続いてリゼフィアが床へ転がり込んできた。
『この扉、噛み応えが最悪ですわ!』
口元に。
白い石片がついている。
本当に噛んでいた。
ヴェルゴラも。
俺の影から顔を出す。
『ずいぶん遅かったな』
「こちらは忙しかったんです」
『我を閉じ込めた部屋ごと焼けば、早かったものを』
「新入生全員も巻き込まれます」
『些細な問題だ』
些細ではない。
ラファネスはカイの隣へ膝をつき、
金色の目で少年の身体を確認する。
「首輪による命令支配は解除されております。
肉体損傷も、現時点では軽度です」
「記憶は?」
ラファネスの指が。
カイの額へ触れる。
「脳内に、記憶を消去した痕跡がございますが、
情報そのものを完全に破壊した形ではありません」
「保存されている?」
「別の器へ移された後、
本人側には検索不能の封印だけが残されています」
「戻せますか?」
「移された記憶を取得できれば」
やはり。
買い手から取り戻す必要がある。
「買い手は誰です?」
俺がリリを見る。
彼女は。
先ほど答えかけた名前を。
今度こそ口にした。
「王立魔法学園長」
アルベリク・ロズベル。
俺を学園へ招き。
百年前の席を空け。
次は自分を騙せと挑発した男。
「学園長が、カイの記憶を買った?」
「カイだけじゃない」
リリは、水晶板をもう一度取り出す。
「黒冠学舎から来た二人分と、
過去十年で入学した孤児八十六人分」
「何に使っている?」
リリは。
今度はすぐに答えなかった。
「学園長は、子供の記憶を使って」
銀色の目が。
僅かに恐怖で揺れる。
「未来を見ている」
「未来?」
「一人の人間が見る未来じゃない。
何十人分もの選択を、同時に再現するの」
複数の人間の記憶。
人格。
判断。
それらを。
未来予測へ使う。
だから。
学園長は。
俺の行動を先回りできる。
詐欺師の思考を知っているのではない。
過去に売られた何十人もの脳を使い。
俺が選ぶ可能性を。
全て計算している。
「アルベリクは、兄さんが今夜ここへ来ることも」
リリが続ける。
「回収班を騙すことも」
「カイを買うことも」
「全部、知ってた」
あり得る。
相手は。
俺が用意された選択肢を嫌うことも。
第三の選択肢を作ることも。
何度も予測してきた。
「では、なぜ回収班を送った?」
「兄さんに、カイを買わせるため」
「何のために?」
リリが。
黒い台帳を見る。
金貨百二十枚の売買契約。
黒冠商会本部の署名。
マイト家の財産を担保にした条項。
「その契約書」
リリの顔が青ざめる。
「商品三七一の売買契約じゃない」
俺は黒い板を確認する。
先ほどまで見えていた項目の下へ。
新しい文字が浮かび始めた。
細かい古代文字。
署名時には。
存在しなかった条項。
――付帯契約。
――商品番号三七一に付随する。
――記憶所有権。
――人格使用権。
――将来選択権。
「後から条項が追加された?」
「違う」
リリが首を振る。
「見えないようにされていた」
俺は契約書を。
最後まで読んだつもりだった。
だが。
ラファネスは外にいた。
ヴェルゴラも使えない。
十三号室では。
リリだけが悪魔として認められていた。
そして。
リリは。
契約書の専門家ではない。
「兄さん」
彼女が掠れた声で言う。
「カイを買ったことで」
黒い板へ。
最後の条項が現れる。
――新規所有者は、商品三七一の未払い債務を継承する。
――債務内容。
――王立魔法学園長へ。
――最も価値ある記憶を一つ提供すること。
対象。
クライ・マイト。
支払期限。
今夜零時。
現在時刻。
零時一分。
契約違反。
黒い板から。
無数の白い鎖が飛び出した。
俺の頭へ。
首へ。
胸へ。
鎖の先端が。
肉体ではなく。
記憶へ食い込む。
「クライ様!」
ラファネスが手を伸ばす。
だが。
一度成立した契約は。
外から力で壊せば、
契約者である俺の魂まで傷つく。
頭の中から。
何かが引き抜かれ始める。
前世。
家族。
黒冠街。
ノア。
マナ。
どの記憶を。
最も価値あるものとして選ぶ?
違う。
選ぶのは。
俺ではない。
契約書が。
俺の中から。
最も価値が高いと判断した記憶を探している。
白い鎖が。
一つの場所へ集まる。
ゴミ箱。
赤子の俺を抱き上げた腕。
初めて与えられた温かい乳。
共同寝床。
眠るまで握ってくれた小さな手。
「やめろ」
鎖が。
ノアとの記憶へ食い込む。
学園長が欲しがっているのは。
禁術でも。
前世でもない。
俺が初めて。
誰かを家族だと思った記憶。
「兄さん!」
リリが鎖を掴む。
手の皮膚が焼ける。
それでも離さない。
ラファネスの顔から。
礼儀正しい笑みが完全に消えた。
「契約条項を解析いたします。
クライ様、記憶を手放さないでください」
「言われなくても」
白い鎖が。
さらに強く引く。
ノアの顔が。
少しずつ霞む。
名前。
声。
最初に会った日。
忘れる。
このままでは。
学園長に奪われる。
その時。
俺の頭の中へ。
知らない男の声が響いた。
『その記憶を渡すな』
百年前。
無名墓所で父親を名乗った声とは違う。
もっと若い。
そして。
俺自身によく似た声。
『代わりに』
『俺を渡せ』
意識の奥。
封じられていた扉が。
ゆっくり開く。
向こう側に立っていたのは。
黒髪。
金色の目。
十二歳の少年。
百年前の。
クライ・マイト。
俺と。
全く同じ顔をした少年が。
鎖へ手を伸ばす。
『今度こそ』
少年は笑った。
『妹を守れよ、二人目の俺』




