第22話 存在しない部屋には、存在しない生徒が住む
入学初日の夜、消灯を告げる鐘が鳴ると、
王立魔法学園の学生寮は急速に静まり返った。
廊下を歩く音も、部屋から漏れていた話し声も消え、
見回りの教師が持つ魔法灯だけが壁へ影を落としている。
俺へ割り当てられたのは、第一学生寮の三階にある個室だった。
貴族の子供が暮らす場所だけあって、寝台も机も立派で、
黒冠街の共同寝床なら六人は眠れそうな広さがある。
もっとも、今夜ここで眠るつもりはない。
俺は机の上へ教科書を広げ、椅子へ座る自分の虚像を作った。
《虚王顕現》による簡単な留守番であり、扉の外から見れば、
俺が勉強しながら時折居眠りしているように見える。
必要生命力は、朝まで維持しても人間寿命換算で半日程度。
神殿兵から回収した貯蓄を考えれば安いが、
毎晩使えば、いずれ底を突くため常用はできない。
「クライ様、廊下の見回りは三名です」
ラファネスは昼間と同じ執事の姿で、窓辺に立っていた。
本来、従者は夜になると別棟へ戻る規則だが、
彼は既に三人の使用人へ姿を変えながら学園内を移動し、
誰にも気づかれず、俺の部屋へ入り込んでいる。
「一人は教師、残り二人は学生風の監視役です。
どちらも入学前からクライ様を観察しておりました」
「歴史封緘局ですか?」
「一名は間違いございません。もう一名の魂には、
神殿式とも学園式とも異なる封印が施されています」
監視している組織は、少なくとも三つ。
学園長側。
歴史封緘局。
正体不明の第三勢力。
さらに、副学園長セリア・ロズベルは、
昼間の廊下で消えたリリの姿を認識していた。
敵味方の区別がつかない状態で、
全員を相手に正面から動くのは効率が悪い。
今夜の目的は、存在しない十三号室へ入り、
リリから孤児売買の仕組みと被害者の居場所を聞き出すこと。
それ以外の謎については、必要な範囲だけ調べればいい。
『零時まで、あと十五分ですわ』
リゼフィアが、部屋の壁へ片耳を押し当てながら告げた。
『学園中の扉が眠り、鍵穴だけが夢を見始めています。
今なら、存在しない部屋も境界へ浮かびやすいですわ』
「扉は、どれを使えばいい?」
『誰も開けたことのない扉なら、どこにでも』
リリと同じ答えだった。
「具体的には?」
『扉とは、向こう側へ行けると信じられている境界です。
ならば、向こう側がないと信じられた扉を探すのですわ』
分かるようで分からない。
リゼフィアは説明する気より、
俺が自分で道を見つける瞬間を楽しむ気の方が強い。
俺は寮の見取り図を卓へ広げた。
各階の部屋。
階段。
洗面所。
倉庫。
使用人用通路。
全てに行き先がある。
しかし、一か所だけ。
三階廊下の西端に、壁として塗り潰された空間があった。
建物の外から見れば窓が一つあるのに、
内部の図面では、その窓へ到達する部屋が存在しない。
「西端の壁」
『正解ですわ』
リゼフィアが恍惚とした声を漏らす。
『外から見れば窓があり、内から見れば部屋がない。
存在を否定された空間ほど、美しい扉になりましてよ』
趣味は理解できないが、場所は分かった。
俺は銀色の鍵を懐へ入れ、外套を羽織った。
「ラファネス、監視役を眠らせられますか?」
「殺害せずに、でしょうか?」
「当然です」
「残念でございます」
何が残念なのかは聞かない。
◇
最初の監視役は、三階の階段前に立っていた。
年齢は十五歳ほど。
上級生の制服を着て、本を読みながら壁へ寄りかかっている。
本を持つ手は動かず、頁も十分前から変わっていない。
俺が部屋から出れば、すぐに立ち上がる予定なのだろう。
ラファネスが、見回り教師の姿で階段を上がっていく。
「消灯後に、何をしている」
上級生は一瞬だけ顔を上げ、教師の顔を確認すると、
慌てたように本を閉じた。
「申し訳ありません。部屋へ戻ります」
「待ちなさい。西棟で魔力異常が発生したため、
監視補助として同行してもらいます」
「しかし、私は――」
「歴史封緘局からの命令を、ここで確認しますか?」
上級生の表情が変わった。
自分の所属を知る相手。
見覚えのある教師。
緊急の魔力異常。
三つの情報が重なれば、細かい確認を飛ばす。
「分かりました」
ラファネスは上級生を連れ、東側の階段へ消えていった。
数分後。
契約を通じて報告が届く。
『空き教室へ収容いたしました。目覚めるまで二時間です』
「暴力は?」
『頸部へ軽く衝撃を与えただけでございます』
「次から薬を使ってください」
『薬物は、適量を誤ると死にます』
「あなたの軽い衝撃も、普通は死ぬ可能性があります」
『今後の人間理解へ反映いたします』
反映されることを祈る。
もう一人の監視役は、天井裏にいた。
呼吸音も。
衣擦れもない。
魔法で体温まで消している。
ラファネスが姿を変えて連れ出すのは難しい。
「ヴェルゴラ」
『殺すか?』
「眠らせます」
『つまらぬ』
悪魔たちは、なぜ何でも殺害へ結びつけるのだろう。
俺は天井へ向け、《虚王顕現》を使った。
――対象、天井裏の監視者一名。
――付与認識。
――対象は、既にクライ・マイトが部屋を出たことを確認し、
東棟へ追跡している最中である。
必要生命力、人間寿命換算二時間。
「承認」
天井裏の気配が動いた。
監視役は、自分が俺を追っていると信じ、
実際には誰もいない東棟へ向かって移動を始める。
認識を大きく変える必要はない。
「追う」という現在の目的へ、
少しだけ間違った方向を与えればいい。
詐欺も禁術も、相手の欲望へ逆らわない方が安く済む。
◇
西端の壁は、他の場所と何も変わらなかった。
白い石。
青い装飾。
窓も。
取っ手も。
鍵穴もない。
俺は懐から銀色の鍵を取り出し、
昼間に新しく刻まれた細い道を確認した。
《第八学生寮・存在しない十三号室》。
学園にある学生寮は七つ。
部屋番号も、一棟につき十二まで。
第八学生寮も。
十三号室も。
どちらも存在しない。
「鍵穴がありませんね」
『鍵穴とは、鍵を入れる場所ではございません』
リゼフィアは俺の手を取り、
銀色の鍵の先端を壁へ触れさせた。
『この鍵で開くと決めた場所が、鍵穴になるのですわ』
「便利すぎませんか?」
『行き先を知っている場合に限ります。
知らない場所へは、どれほど願っても届きません』
俺は壁の中央へ鍵を押し当てた。
石へ入るはずのない金属が、
柔らかい水面へ沈むように壁の中へ差し込まれていく。
半分まで入ったところで、手応えが変わった。
「兄さん」
壁の向こうから。
リリの声が聞こえる。
銀色の鍵が自ら回転し、
何もなかった壁へ細い亀裂が走った。
亀裂は四角い輪郭となり、
古びた木製扉の形へ変わる。
扉の上には、剥がれかけた数字。
十三。
その下には。
第八学生寮。
鍵を抜く。
扉は。
最初からそこにあったように残った。
「開けます」
『お待ちくださいませ』
リゼフィアが、珍しく俺を止めた。
『扉の向こうに、六本の道があります』
「六部屋?」
『いいえ。同じ部屋へ入った後、
入った者によって異なる場所へ分岐する道ですわ』
「罠?」
『少なくとも、迷わせる意図はございます』
リリは、俺を一人で来させたい。
俺。
ラファネス。
ヴェルゴラ。
リゼフィア。
同時に入れば、別々の場所へ送られる可能性がある。
「ラファネス、俺の身体を追跡できますか?」
「契約によって、魂の位置を認識できます。
ただし、異なる境界へ完全隔離された場合は不明です」
「リゼフィアは?」
『クライの歩いた道なら追えます。
ですが、扉が閉じる前に道そのものを消された場合は』
絶対の安全はない。
そもそも。
罠だと分かって来ている。
「俺が先に入ります。五分待って連絡がなければ、
ラファネスは扉を破壊せず、入口を維持してください」
「危険が迫った場合、救出義務を優先いたします」
「状況を確認してから」
「善処いたします」
俺と同じ言葉を使い始めた。
教育が悪い方向へ進んでいる。
俺は扉を開いた。
◇
向こう側は。
学生寮の個室だった。
壁紙は古く。
机には埃。
天井から下がる魔法灯は、
光を失ったまま微かに揺れている。
窓の外は夜。
しかし。
王立魔法学園の塔も。
王都の灯りも見えない。
空には星がなく、
真っ黒な平面が広がっている。
部屋の中央。
リリが一人で紅茶を飲んでいた。
昼間の白い制服ではなく、
黒い寝間着と銀色の外套を着ている。
「時間通りだね、兄さん」
「来ると分かっていたなら、
監視を外す方法も教えてほしかったですね」
「それを考えるのも、入室試験だから」
「合格ですか?」
「百点」
「試験官の姿が見えませんが」
リリの手が、一瞬だけ止まった。
部屋にいるのは俺と彼女だけ。
だが。
視線がある。
天井。
壁。
鏡。
それぞれから。
誰かがこちらを見ている。
「三人ですか?」
俺が尋ねると、リリは少し驚いた。
「五人」
「では、残り二人は隠れるのが上手ですね」
「一人は、この部屋そのもの。
もう一人は、兄さんの中を見てる」
俺の中。
ヴェルゴラ。
リゼフィア。
ラファネス。
あるいは。
百年前の記憶。
俺は椅子へ座らず、
リリの正面に立ったまま本題へ入った。
「孤児たちは、どこにいます?」
「学園地下の《才能保管院》」
「無名墓所とは別?」
「無名墓所は死者を保存する場所。
才能保管院は、生きた子供を分解する場所」
表現が不穏すぎる。
「分解とは?」
リリは卓の上へ、三枚の白い札を置いた。
一枚目。
魔力量。
属性。
血統。
二枚目。
肉体適性。
脳機能。
技能。
三枚目。
人格。
記憶。
魂の耐久性。
「学園は、孤児を一人の人間として売っていない。
使える部分ごとに分けて、別の相手へ売ってる」
魔力量の高い子供は、
魔道具や儀式へ魔力を供給する器になる。
身体能力に優れた子供は、
騎士や貴族の肉体強化実験へ使われる。
希少な技能や記憶を持つ者は、
脳を保存し、別の人間へ移植する。
そして。
魂の耐久性が高い子供は。
「悪魔契約の試作品」
リリが告げる。
「七十二禁書の契約者を人工的に作るため、
魂へ空白を作る実験に使われている」
旧施療院。
セヴラン。
空白器。
学園は。
あの研究を引き継いでいる。
「セヴランの研究は違法として処分されたはずです」
「公式にはね。でも、失敗した研究ほど、
成功した時の価値を信じる人間がいる」
研究資料は神殿に回収された。
一部は俺が持ち出したが、
全てを処分できたわけではない。
王立魔法学園は。
神殿。
王国。
貴族。
全ての人間が集まる場所。
研究を隠すには。
最も危険で。
最も都合のいい施設だった。
「黒冠学舎から来た四人は?」
「一人は魔力炉。二人は肉体を残して記憶を売られた。
最後の一人は、まだ原形を保ってる」
「名前は?」
「カイ・ネルド」
風魔法の適性を持つ十一歳の少年。
黒冠学舎から送り出し、
二か月前から手紙が途絶えた子供。
「どこに?」
「才能保管院の第三区画。
明日の夜、取引相手へ引き渡される」
時間がない。
「取引相手は?」
「中央神殿の枢機卿」
「名前を」
「エルドラン・フェイス」
聞いたことがある。
セヴランの研究を違法と認定し、
神殿調査団の派遣を承認した人物。
表では研究を処分し。
裏では。
成果を買っている。
「証拠は?」
「あるよ」
リリは、卓の引き出しから小さな水晶板を出した。
内部には、契約書。
搬送記録。
代金。
被験者名。
全てが記録されている。
「これを渡せば?」
「兄さんが外へ持ち出した瞬間、内容が消える」
「複製は?」
「できない。見た人の記憶にも残らない」
「ラファネスなら?」
リリの銀色の目が、俺の影へ向いた。
「無貌公は、ここに入れない」
「なぜ?」
「この部屋は、悪魔を一柱しか認めないから」
「現在いる悪魔は?」
「私」
やはり。
父親を名乗る男の言葉は、
全てが嘘ではなかったらしい。
「あなたは、七十二禁書の悪魔?」
「違う」
「では何です?」
「人間が作った悪魔」
リリは自分の胸へ指を当てた。
「百年前のリリア・マイトの肉体と記憶へ、
無名墓所の死者四百三十一人分の恐怖を入れた器」
「目的は?」
「神を殺す兵器の指揮」
「今も?」
「役目は、兄さんが名前を殺した時に消えた」
なら。
自由になった。
自由になった悪魔が。
兄と呼びながら近づいている。
信用する理由にはならない。
「なぜ、俺へ協力する?」
「家族だから」
「不十分です」
「兄さんなら、私を人間にできるかもしれないから」
ラファネスと似ている。
悪魔が人間を望む。
だが。
ラファネスは俺を模倣して、人間になろうとしている。
リリは。
自分が何者かも分からないまま、
人間として生きる方法を求めている。
「俺に何をさせるつもりです?」
「無名墓所にある、私の本当の魂を取り戻してほしい」
「本当の魂?」
「今の私は、リリアの肉体と記憶を持つだけ。
私の魂は、今も墓所の最奥に閉じ込められてる」
もし魂を戻せば。
目の前の存在は。
リリア本人になるのか。
それとも。
今の人格が消えるのか。
「魂を戻した場合、あなたはどうなります?」
「分からない」
「消える可能性は?」
「あるよ」
それでも。
彼女は望んでいる。
「人間になりたいから?」
「違う」
リリは少し考えた後、
初めて子供らしい、不安な表情を浮かべた。
「私が消えた後に残る方が、
本当に兄さんの妹なのか知りたい」
家族になりたいのではない。
自分が家族ではないと証明されることさえ、
彼女は求めている。
百年間。
他人の名前。
他人の肉体。
他人の記憶。
それだけを与えられて生きた。
自分の存在を確かめる方法が、
本物と入れ替わって消えることしかない。
「今すぐ結論は出しません」
俺は答えた。
「まず、カイを助けます」
「それから?」
「あなたを調べる」
「助けてくれるとは言わないんだ」
「調査前に約束するほど、信用していません」
リリは少し笑った。
「それでいいよ」
「才能保管院への道を教えてください」
リリが銀の鍵へ触れる。
鍵の表面へ、新しい線が浮かんだ。
第八学生寮十三号室から。
学園地下。
才能保管院。
第三区画。
「明日の夜、零時。
この部屋からなら、保管院の外周まで入れる」
「内部へは?」
「兄さん自身で侵入して」
「随分と途中までですね」
「全部教えたら、兄さんは私を疑うでしょう?」
「既に疑っています」
「もっと疑う」
よく分かっている。
「それと」
リリは水晶板を卓へ戻す。
「カイを助けるなら、一つ注意して」
「何です?」
「今のカイは、兄さんを覚えていない」
記憶を売られた。
黒冠街。
黒冠学舎。
友人。
将来の夢。
全て。
「記憶を戻せますか?」
「買い手から取り戻せば」
「誰が買った?」
リリは答えようとした。
その瞬間。
部屋の壁が。
大きく揺れた。
天井の魔法灯が消え、
五つあった視線のうち、四つが同時に消える。
「どうした?」
「見つかった」
リリが立ち上がる。
廊下側の扉へ。
白い文字が浮かび始めた。
――存在しない部屋を確認。
――不正入室者、二名。
――対象、旧マイト家当主。
――対象、無名墓所脱走個体。
「見つかった?」
俺が尋ねると。
リリは銀色の鍵を取り上げ、
俺へ投げ返した。
「この部屋そのものが」
扉の向こうから。
足音が聞こえる。
一人ではない。
重い鎧。
複数の魔術師。
さらに。
人間とは違う。
金属を引きずる音。
「学園の警備か?」
「違う」
リリの顔から。
完全に笑みが消えた。
「才能保管院の商品回収班」
扉へ。
外側から鍵が差し込まれる。
この部屋は。
学園の地図に存在しない。
助けを呼んでも。
誰にも届かない。
ラファネスも。
リゼフィアも。
ヴェルゴラも。
扉の外側にいる。
室内にいるのは。
俺と。
人間が作った悪魔だけ。
「兄さん」
リリが、黒い煙をまとい始める。
「私を信用してないのは分かってる」
「ええ」
「でも、今だけは」
銀色の瞳が。
人間ではない形へ裂けた。
背中から。
四本の黒い腕が生える。
細い指。
鋭い爪。
無名墓所の死者と同じ、
関節が一つ多い腕。
「妹のふりをさせて」
扉が。
内側へ吹き飛んだ。
白い鎧を着た兵士たちが、
武器を構えながら部屋へ踏み込む。
その中央。
黒い拘束衣を着た少年がいた。
首には。
支配用の銀色の輪。
虚ろな目。
風属性の青い魔力路。
見覚えのある顔。
「カイ……?」
明日。
取引相手へ渡されるはずの少年。
しかし。
回収班の先頭に立ち。
俺へ剣を向けている。
少年は、感情のない声で命令を復唱した。
「商品番号、三七一」
「回収対象クライ・マイトを確保」
違う。
商品は。
カイではない。
俺だ。




