第20話 入学試験では、答えより採点者を騙せ
黒冠商会王都支部へ戻った俺は、執務室の扉へ鍵をかけると、旧マイト家から返還された黒い箱の中身を、改めて卓の上へ並べた。
百年前の両親と赤子の俺が描かれた肖像画、王立魔法学園のどこかへ通じているらしい銀色の鍵、そして、学園で最初に俺を迎える女を殺せと命じる手紙。
ただし、相手が俺を「兄さん」と呼ぶまでは殺してはならない。
命令だけを抜き出せば意味不明だが、書いた人間が俺の両親であり、俺が転生者であることまで知っていたのなら、単なる狂人の遺言として捨てるわけにもいかない。
「つまり、入学して最初に会った女の人がリリアという人で、クライを兄さんと呼んだら殺すの?」
向かいの椅子へ座っているノアが、手紙を読み終えて眉をひそめた。
「命令通りなら、そうなります」
「駄目よ」
「まだ何もしていません」
「しようと考えている顔をしてる」
「どんな顔です?」
「人を殺す理由と、殺した後の利益を同時に計算してる顔」
七年間の付き合いによって、随分と不名誉な表情の分類を覚えられてしまった。
俺は手紙を受け取り、光へ透かしながら答える。
「この命令へ従うかどうかは、相手の正体と、殺すよう命じられた理由を調べてから決めます。百年前の両親が俺の味方だった保証もありませんし、リリアが本当に妹だという証拠もない」
「それなら、どうして『兄さん』と呼ばれるまで待てって書いたの?」
「そこが重要です。この手紙を書いた人間は、俺が最初に現れた女へ反射的に攻撃することを防ぎながら、リリア本人を判別するための条件を残した。つまり、彼女が俺を兄と呼ぶこと自体に、何らかの意味があるのでしょう」
名前を知っているだけなら、誰でも兄と呼べる。
しかし、銀色の鍵や肖像画へ、特定の声や言葉に反応する仕掛けが施されている可能性は高い。
俺は銀色の鍵を持ち上げ、少し離れた場所で扉の木目を眺めていたリゼフィアへ差し出した。
「この鍵が、どこへ通じているか分かりますか?」
リゼフィアは鍵を受け取らず、俺の指ごと包むように両手を添えると、赤紫色の瞳を閉じた。
いつもの彼女なら、古い鍵が通ってきた道や、百年間閉じられていた扉の孤独について長々と語るところだが、今回は珍しく黙ったまま動かない。
やがて銀色の鍵が微かに震え、表面へ一本の細い光が走った。
『これは、扉を開くための鍵ではありませんわ』
「鍵なのに?」
『正確には、まだ鍵になっていないのです。どこかに存在する境界と、使用者を結びつけるための約束だけが刻まれており、肝心の行き先が登録されていません』
「使えない?」
『現時点では。ただし、鍵の内部には、音を待つための空間がございます』
リゼフィアは鍵へ耳を近づけ、秘密の恋人の声でも待つように、うっとりと頬を緩めた。
『百年以上、たった一つの呼びかけを待ち続ける、まだ生まれていない道……何て健気で、湿っぽく、執念深い境界なのでしょう』
「音とは、『兄さん』という言葉ですか?」
『おそらくは。正しい者が正しい声で呼びかけた瞬間、この鍵は初めて行き先を記憶し、一つの道として完成します』
つまり、リリアを殺す前に兄と呼ばせろという指示は、本人確認のためだけではない。
彼女の声によって銀の鍵を完成させ、その先にある場所へ到達するためでもある。
「では、少なくとも鍵が反応するまでは生かしておく必要がありますね」
「鍵が反応した後も、すぐ殺したら駄目だからね」
ノアが念を押した。
「善処します」
「それ、守る気がない時の言い方でしょう」
「まず話を聞きます」
「それから?」
「必要なら交渉します」
「交渉で終わらなかったら?」
俺が答えずにいると、ノアは大きなため息をついた。
隣ではラファネスが肖像画を観察しており、白い手袋をつけた指で、黒く塗り潰された両親の顔へ触れないぎりぎりの距離をなぞっている。
「何か分かりました?」
「この顔は、後から塗り潰されたものではございません。肖像画が制作された時点から、御両親の顔だけが特殊な顔料で描かれております」
「黒く見える顔料?」
「いいえ。本来は、お二人の顔も正常に描かれていたのでしょうが、現在は視覚情報を認識させない性質へ変化しています」
ラファネスは金色の目を細め、いつもの礼儀正しい口調のまま、わずかに不快そうな声を出した。
「顔料には、第二十一座の《万象模倣》を妨害する術式が含まれております。たとえわたくしが肖像画を見ても、御両親の顔、骨格、瞳の色、年齢を情報として取得することはできません」
「百年前のマイト家は、あなたの能力を知っていた?」
「間違いございません。さらに申し上げれば、わたくしが契約者へ視覚情報を提供する可能性まで考慮し、絵画そのものへ模倣防止処理を施したものと思われます」
ラファネスは人間になりたいと願いながら、誰の顔でも奪える悪魔である。
その能力を知る人間が、自分たちの顔だけを百年間隠し続けた。
両親は七十二禁書の存在だけではなく、各座の権能や、将来俺がどの悪魔と契約するかまで知っていた可能性がある。
「クライ様の御両親は、非常に用心深い方々だったのでしょう」
「自分たちの息子へ、妹を殺せと命じる程度には?」
「人間の家族関係について、わたくしは現在学習中でございますが、一般的ではないと判断いたします」
「安心しました。そこから教える必要はなさそうですね」
ラファネスは穏やかに微笑んだ後、肖像画へ再び視線を戻した。
「ただし、御両親の顔を隠した理由が、わたくしから情報を守るためとは限りません。お二人の顔を見たクライ様が、何かを思い出してしまうことを防いだ可能性もございます」
「百年前の記憶を?」
「血統照合では、現在のクライ様と百年前の赤子が、ほぼ同一の存在であると判定されました。前世の記憶とは別に、この世界で最初に生きた人生の記憶が、魂のどこかへ残っていても不自然ではありません」
俺には、二十九歳で死亡した詐欺師としての記憶と、ゴミ箱へ捨てられた赤子として始まった今世の記憶しかない。
もし百年前にもクライ・マイトとして生まれ、両親や妹と暮らしていたのなら、その人生だけが完全に抜け落ちている。
奪われたのか。
封じられたのか。
あるいは、思い出さない方が安全なのか。
「顔を見れば記憶が戻る可能性は?」
「ございます。ご希望でしたら、顔料の術式を解析し、破壊いたしますが」
「そうですね…いや、今は触れないことにします」
情報が多いことと、判断材料が多いことは同じではない。
誰が用意したか分からない記憶を突然取り戻せば、その記憶が本物かどうかを確かめる方法もなくなる。
詐欺で最も扱いやすい相手は、何も知らない人間ではない。
間違った知識を、本人の経験だと信じている人間だ。
「肖像画と手紙は、俺以外の人間が触れられない場所へ保管します。ラファネス、複製も禁止です」
「承知いたしました」
「リゼフィアは、鍵へ頬を擦りつけないでください」
『まだ触れておりませんわ』
「今から触れようとしていましたよね?」
『未来の行動を理由に注意されるのは、少々理不尽ではなくて?』
「顔を見れば分かります」
鍵を抱きしめようとしていた人間の言葉に、説得力はなかった。
◇
王立魔法学園へ入るには、貴族の身分だけでなく、一定以上の学力と魔法能力を示す必要がある。
学園長の招待状があれば形式上は試験を免除される可能性もあったが、特例で入学すれば、入学初日から教師や生徒へ監視される。できるだけ普通の新入生として扱われるためには、試験を受け、正規の合格者として記録へ残る方が都合がいい。
問題は、俺に魔力路が存在しないことだった。
「クライ様に必要なのは、入学試験で使用できる魔力路と、基礎魔法を一つでございます」
ラファネスは黒冠学舎の訓練場に立ち、俺の前へ複数の換算表を広げた。
《万象模倣》によって他人の肉体を完全に再現する場合、基本対価は血液二百ミリリットル相当となる。しかし、今回必要なのは筋肉や骨格、顔ではなく、魔力路の一部と基礎魔法の使用方法だけなので、対象を限定すれば対価を大幅に抑えられる。
「火属性の魔力路、魔力生成器官、基礎術式《灯火》および《火球》のみを模倣する場合、血液換算三十八ミリリットルとなります」
「高いですね」
「肉体全体の五分の一以下でございます」
「魔力路は身体全体へ伸びているとはいえ、骨格も筋肉も内臓も不要です。二十」
「魔力生成器官だけでは、術式を安定して維持できません」
「試験時間は長くても半刻でしょう。長期維持は不要です」
「暴走時にクライ様の肉体へ損傷が生じます」
「安全保護はあなたの契約義務です」
ラファネスが、ほんの僅かに黙った。
悪魔との契約へ安全保護条項を入れた効果が、早くも現れている。
「……二十九ミリリットルまでなら削減可能です」
「二十四」
「クライ様の心臓付近へ補助魔力路を形成する必要がございます」
「心臓付近ではなく、右腕だけで循環させればいい」
「右腕のみでは、連続使用回数が二度までとなります」
「入学試験で火球を三度以上撃たせる規則は?」
「確認できません」
「二十二」
「二十七」
「では、別の属性を探します」
俺が立ち上がると、ラファネスは即座に手を差し出した。
「二十四で承ります」
「成立」
少し離れた場所で、ヴェルゴラが呆れた声を漏らした。
『貴様は、自分の身体へ仮の魔力路を入れる交渉まで値切るのか』
「同じ結果なら、安い方がいいでしょう」
『腕が燃えても知らぬぞ』
「その場合、ラファネスが守ります」
「御安心ください。必要であれば、腕を切断した後、より性能の高い腕を模倣いたします」
「俺の腕を残す方向で守ってください」
「承知いたしました」
ラファネスの安全保護における優先順位も、もう少し細かく教育する必要がありそうだった。
魔力路の提供者として選んだのは、黒冠学舎を修了し、王都中心部の魔術工房へ働きに出る予定の十二歳の少女、テッサ・リードである。
青い髪を肩口で切り揃えた少女は、修了式で俺へ不安を打ち明けていた生徒であり、火属性魔法の適性は高いものの、貴族ではないため王立魔法学園へ通う資格を持っていない。
「代表に魔法を見せるだけで、本当に工房へ持っていく道具を一式そろえてもらえるんですか?」
テッサは訓練場の中央へ立ち、半信半疑の様子で尋ねた。
「ええ。ただし、できるだけ普段通りに使ってください」
「どうして?」
「本部が、魔法を使う職員の安全基準を作るためです」
黒冠商会本部。
相変わらず便利な存在である。
テッサは右手を前へ出すと、短い詠唱によって指先へ小さな炎を灯し、続けて訓練用の石壁へ火球を放った。
炎は大きくないが、軌道が安定しており、着弾点も中心からほとんどずれていない。
ラファネスの金色の目が光り、彼女の身体を流れる魔力の経路、術式を構築する脳の動き、指先から火を放つ感覚を、一つずつ視覚情報として記録する。
「観測を完了いたしました。対価を御提示いたします」
俺は事前に用意していた、十センチ以上の髪二十四本をラファネスへ渡した。
髪を伸ばすと密かに決めてから、抜けた髪や整えるために切った部分を可能な限り保存しているが、能力を使うたびに減っていくため、今後は使用量を予算として管理する必要がある。
命の危険より。
抜け毛の不足を心配する日が来るとは思わなかった。
「二十四本を受領。《万象模倣》による部分肉体模倣を実行いたします」
白い光が、俺の右腕から胸の一部へ入り込んだ。
皮膚の下へ熱い糸を通されるような感覚が走り、今まで何も存在しなかった場所へ、細い魔力の道が形成されていく。
魔力とは、身体の中に初めから満たされている液体だと思っていたが、実際には呼吸や血流と同じく、生成され、巡り、使われるものらしい。
俺の右手へ。
初めて。
一般魔法の火が灯った。
小さな炎。
禁術でも。
悪魔の黒い火でもない。
この世界で生きる大多数の人間が使う、普通の魔法。
「できた……」
テッサが、自分のことのように喜ぶ。
「代表にも火属性があったんですね!」
「少し特殊な体質で、普段は測定できないだけです」
完全な嘘だ。
しかし、テッサは魔力路という概念を詳しく知らず、自分の魔法が俺へコピーされたとも考えない。
「火球も試してみてください!」
「壊しても困らない的は?」
「代表、失敗すると思ってるんですか?」
「成功して、壁まで壊す可能性を考えています」
テッサは少し笑い、訓練場の奥にある最も厚い石板を指した。
俺は彼女が行った通りに右手を上げ、脳の中へ模倣された感覚へ従って火球を作る。
自分で覚えたわけではない。
練習もしていない。
それでも、テッサが何百回も繰り返した動きと魔力の流れが、最初から俺の身体へ備わっていた技術のように再現された。
火球が飛ぶ。
石板の中央へ命中し、表面へ黒い焦げ跡を残した。
「一回で当てた……」
「提供者が優秀だったので」
「提供者?」
「参考にした魔術師です」
危ない。
ラファネスは、俺が言葉を誤った時に自然な補足を入れることも、今後の業務として覚えてもらうべきだろう。
テッサは目を輝かせ、自分より威力の高い火球を撃ってほしいと言い始めたが、俺の右腕へ形成された仮の魔力路は、既に軽い熱を持っている。
無理に繰り返す必要はない。
二度しか撃てないなら。
二度以内で試験官を納得させればいい。
◇
入学試験当日。
王立魔法学園は、王都北部の丘全体を占める巨大な城だった。
白い塔が七本。
中央に、王冠を模した金色の尖塔。
周囲を囲む高い石壁には、魔物や敵国の軍を防ぐための大規模な結界が張られており、正門へ続く道には、貴族家の紋章を掲げた馬車が列を作っている。
俺は黒冠商会の馬車を使わず、復元されたマイト家の家紋を掲げた新しい馬車で到着した。
家紋そのものは黒冠商会と同じため、王都の人間から見れば何も変わっていないが、公式には今日から貴族家の紋章である。
「忘れ物はない?」
馬車の前で、ノアが外套の襟を直しながら尋ねた。
「受験許可証、家門証明書、筆記具、昼食、魂圧保存瓶、髪」
「最後の二つは何?」
「本部から借りた魔道具と消耗品です」
「髪を消耗品って呼ぶ人、初めて見た」
「世の中には、髪より大切ではない物へ金を払う人間も大勢います」
「髪を大切にしている人の切り方ではないのよ」
内側だけ不自然に短くなった部分へ触れられ、俺はさりげなく頭を引いた。
ノアはまだ何か言いたそうだったが、最終的には諦め、代わりに俺の胸元へ、小さな黒冠の刺繍をつけた。
七年前。
彼女が最初に作った。
左右の目の大きさが違う、歪な王冠。
「マイト家の当主として行くんでしょう?」
「これは黒冠商会の印です」
「クライの印でもあるわ」
ノアはそう言うと、少しだけ寂しそうに笑った。
王立魔法学園は全寮制であり、入学後は簡単に黒冠街へ戻れなくなる。
《境界回廊》を使えば一瞬だが、その事実をノアへ説明することはできない。
「定期的に戻ります」
「本当に?」
「支部代表の仕事がありますから」
「仕事がなかったら戻らないの?」
「ノアとマナへ、生活状況を報告する義務もあります」
「義務だから?」
質問が細かい。
俺は少し考えた後、素直に答える。
「帰りたいから帰ります」
ノアは数秒間黙り、ようやく満足したようにうなずいた。
「なら、行ってらっしゃい!」
「行ってきます」
ラファネスが家令兼従者として荷物を持ち、俺の後ろへ続く。
ヴェルゴラは影の中。
リゼフィアは、学園へ続く道を見ただけで既に興奮しているため、呼ばれるまで出てこないよう命じてある。
正門へ向かう途中。
ラファネスが、俺にしか聞こえない声で話しかけた。
『クライ様、現在確認できる監視者は十一名でございます』
「学園の教師?」
『学園関係者が七名、王国側が二名。残る二名は、所属を偽装しております』
「歴史封緘局?」
『一人は間違いございません。もう一人は、記憶上にも該当する紋章がありません』
誰も、ただの新入生として俺を見ていない。
学園長。
歴史封緘局。
旧マイト家。
そして、正体不明の何者か。
全員が。
俺が門をくぐる瞬間を待っている。
こちらも同じだった。
◇
試験は、筆記、魔力測定、実技の三つに分かれていた。
筆記試験では、王国史、算術、魔法理論、貴族礼法について問われたが、黒冠学舎で使っている教材より簡単だった。
特に算術は、三種類の商品の仕入れ値と輸送費から利益を計算する問題が出されていたものの、税金と破損率が考慮されていない。
俺は答えを書いた後、余白へ「実際の商売では、この条件で仕入れるべきではない」と理由まで添えておいた。
採点官には嫌われるかもしれない。
だが。
間違いではない。
問題は。
魔力測定だった。
巨大な水晶柱へ手を置いた受験者たちは、それぞれ赤、青、緑、黄の光を放ち、測定官が魔力量と属性を記録していく。
平均的な子供なら、水晶の半分ほどまで色が上がる。
優秀な貴族の子供は。
柱の上部まで満たす。
俺の番が来る。
「クライ・マイト准男爵」
測定官は名前を読み上げた後、俺の顔と手元の書類を何度も見比べた。
「王立魔法学園長から、特別受験許可が出ていますね」
「特別な採点は不要です」
「そう言われましても」
「通常の試験で落としてください」
周囲で、何人かの受験者が笑った。
旧マイト家の帰還は、既に王都中の話題になっている。
百年前の嫡子本人。
黒冠商会の若い代表。
スラムを街へ変えた子供。
噂が大きいほど。
失敗を期待する人間も増える。
俺は水晶柱へ右手を置いた。
何も起きなかった。
光は上がらない。
色も変わらない。
水晶は。
俺が触れていない時と同じ透明なまま。
会場が静まり。
やがて。
誰かが吹き出した。
「魔力なし?」
「学園長が招待したのに?」
「本当に百年前の貴族なのか?」
測定官は困った顔で水晶を確認し、もう一度触れるよう求めた。
結果は変わらない。
「魔力反応、なし。規定上、魔法実技を受ける資格が――」
「規定の何条です?」
俺が尋ねると、測定官の声が止まった。
「何です?」
「魔力量が測定できない者は、実技試験を受けられないという規則です。条文を確認したい」
「通常、魔力がなければ魔法は使えません」
「通常の話ではなく、規則の話をしています」
測定官は、机の上にある試験要項を開いた。
書かれているのは、魔力測定と基礎魔法の実演によって、入学後の授業へ参加可能か確認するという内容だけだった。
一定以上の魔力量がなければ失格とは、どこにも書かれていない。
当然だ。
魔力量が少なくても、特殊な制御能力や希少な術式を持つ者はいる。
王立魔法学園が、例外を完全に排除する規則を作るはずがない。
「水晶は、受験者を落とすための道具ではなく、魔力を測るための道具ですよね?」
「しかし、反応がない以上――」
「水晶が測れないのか、俺に魔力がないのかは、実技を見れば分かります」
「魔力のない者へ実技をさせ、事故が起きれば」
「俺は学園長の招待を受けています」
俺は、アルベリク・ロズベルの署名が入った受験許可証を取り出した。
「ここで失格にするなら、学園長が魔力のない子供を王立魔法学園へ招待し、試験会場まで呼びつけたと、公式記録へ残してください」
測定官の顔が強張る。
俺を通せば、規則へない例外を認める。
落とせば。
学園長の判断を否定する。
相手へ二つの選択肢を見せ。
どちらを選んでも、こちらの望む方向へ進ませる。
「……実技試験へ進んでください」
測定官は。
予想通りの答えを選んだ。
◇
魔法実技の会場には、十枚の円形標的と、受験者の魔法を防ぐための厚い結界が用意されていた。
試験内容は単純で、標的へ基礎魔法を一度放ち、威力、制御、発動時間を確認する。
俺の前に受験した少年は、風の刃で三枚の標的を切った。
その前の少女は、水球を作り、標的の中心へ正確に命中させた。
ラファネスは、俺の視界を通じて全ての魔法を観測している。
『風刃の一時模倣は、血液換算三・二ミリリットル。水球は二・一ミリリットルとなります』
「不要です」
使える能力を増やすためだけに、髪を浪費するつもりはない。
テッサの火球で十分だ。
俺の名前が呼ばれた。
試験官は。
魔力測定の結果を見たのか、最初から疑う目を向けている。
観客席には。
副学園長セリア・ロズベルも座っていた。
青い眼鏡の奥から。
俺の一挙一動を見ている。
俺は標的へ右手を向け、テッサから模倣した仮の魔力路へ力を流した。
小さな火が。
指先へ集まる。
会場の空気が変わった。
魔力測定では何も反応しなかった子供が。
普通に火属性魔法を作っている。
「《火球》」
炎が飛び。
一枚目の標的、その中心へ命中した。
威力は。
テッサが使った時より少し強い。
俺の身体へ再現された魔力路が、まだ細かな制御へ慣れていないためだろう。
それでも。
合格基準は満たしている。
試験官が、何かを記録しようとした瞬間。
会場の床へ。
赤い魔法陣が浮かび上がった。
事前の試験要項にはない術式。
標的の背後に置かれていた石像が動き出し、四本の脚で結界の内側へ降りた。
獅子の頭。
石の身体。
口の奥には。
高熱の魔法炉。
試験用の魔導人形にしては。
明らかに大きい。
「制御を停止しろ!」
試験官が叫ぶ。
しかし。
石獅子は止まらない。
赤い目が。
他の受験者ではなく。
俺だけを捉えている。
ラファネスの声が。
頭の中へ響いた。
『術式へ、歴史封緘局の抹消印を確認。事故ではございません』
入学前に。
殺すつもりか。
それとも。
俺が何を使って生き残るか試しているのか。
石獅子が。
口を開いた。
魔法炉へ。
炎が集まる。
先ほどの火球を撃った直後で、右腕の仮魔力路は熱を持ち、二発目を安定して放てる保証はない。
《虚王顕現》を使えば止められる。
リゼフィアの回廊で逃げることも。
ヴェルゴラの黒い炎で破壊することもできる。
だが。
学園は。
俺が三柱と契約していることを知っている。
どの悪魔を使うか。
見せるわけにはいかない。
「クライ様」
ラファネスが。
外部からではなく。
契約を通じて尋ねる。
『先ほど観測した風刃と水球を組み合わせれば、魔法炉を停止できます。必要対価は、合計五・三ミリリットル相当です』
俺は外套の裏へ縫いつけていた毛髪を、指で六本引き抜いた。
「支払います。模倣を承認」
髪が白い光へ変わる。
右腕へ。
二つの異なる魔力路が重なった。
本来。
一人の魔術師が、短時間で複数の属性を切り替えるのは難しい。
だが。
俺は自分の魔力路を持っていない。
使う瞬間だけ。
他人の型を再現できる。
石獅子の口から。
炎が放たれた。
俺は水球を作り。
正面へ投げる。
炎と水がぶつかり。
大量の蒸気が、結界の内側へ広がった。
視界が消える。
石獅子は。
熱を感知して俺を追う。
だから。
俺は火属性の仮魔力路を右腕から切り離し、床へ落ちていた訓練用の杖へ一時的に移した。
《万象模倣》によって作られた魔力路は。
本物の身体の一部ではない。
再現位置を変えることができる。
熱源となった杖を。
左へ投げる。
石獅子が。
そちらへ顔を向けた。
「《風刃》」
蒸気の中。
俺は石獅子へ向けるのではなく。
天井近くに浮かぶ、制御術式の赤い鎖を切った。
魔導人形を動かしている本体は。
石の獅子ではない。
歴史封緘局が。
試験会場の結界へ後から書き加えた、細い命令式だ。
風の刃が。
赤い線を断つ。
石獅子の目から。
光が消えた。
炎を吐く寸前の姿勢で止まり、そのまま大きな音を立てて床へ崩れ落ちる。
蒸気が晴れた。
俺は。
壊れた石獅子の前に立っている。
服も。
髪も。
少し湿っているが。
怪我はない。
会場は。
静まり返っていた。
一つの属性しか持たないはずの十二歳が。
火。
水。
風。
三つの魔法を連続で使い。
魔導人形そのものではなく。
操っていた術式だけを切った。
普通に考えれば。
あり得ない。
「複数属性……?」
試験官が呟いた。
「魔力測定では、反応がなかったはずだ」
「水晶の故障では?」
「三度確認した!」
「なら」
俺は観客席にいるセリアを見る。
「俺の方が、壊れているのかもしれませんね」
セリアは。
少しだけ笑った。
最初から。
こうなることを知っていたような顔。
だが。
石獅子を操った歴史封緘局の術式を。
俺が見抜くところまでは。
予測していたか分からない。
副学園長が立ち上がり、会場中へ届く声で告げる。
「魔力測定の結果は異常値として保留。魔法実技は、威力、制御、状況判断の全項目を最高評価とします」
「副学園長!」
試験官が抗議する。
「三つの属性を使った仕組みが不明です!」
「不明だから、入学後に調べるのです」
セリアの青い眼鏡が。
俺を捉える。
「王立魔法学園は、既に分かっていることだけを教える場所ではありません」
試験官は何も言えなくなった。
正式な試験結果。
合格。
王立魔法学園への入学資格を。
正面から得た。
◇
全ての試験を終えた受験者は、学園中央棟の大広間へ集められ、その場で合否を告げられた。
俺の番号が読み上げられると、周囲から再び小さなどよめきが起きた。
魔力なし。
三属性。
旧マイト家当主。
黒冠商会王都支部代表。
入学前から。
普通の学生として過ごす計画は、かなり厳しくなったように思う。
「目立ちましたね」
俺が呟くと。
家令の姿へ戻ったラファネスが、隣で優雅に一礼した。
「御命を守るために必要な範囲でございました」
「実技前に石獅子の術式へ気づけませんでした?」
「気づいておりました」
「先に教えてください」
「クライ様なら御自身で処理できると判断いたしました」
「安全保護義務は?」
「生命へ危険が及ぶ直前には、石獅子の頭部を引き抜く準備を整えておりました」
守り方が怖い。
ただ。
ラファネスが待ったことで。
俺は自分の力だけで試験へ合格したように見せられた。
結果としては悪くない。
大広間の奥にある扉が開き、新入生だけが学園内部へ入るよう指示された。
ここから先は。
受験者ではなく。
王立魔法学園の生徒。
俺はラファネスへ荷物を任せ、最初の一歩を踏み出す。
門を越えた瞬間。
外套の内側に入れていた銀色の鍵が。
冷たく震えた。
リゼフィアが。
俺の影から短く息を呑む。
『来ますわ』
「誰が?」
『鍵が待ち続けた声です』
長い廊下の先。
白い制服を着た少女が立っていた。
年齢は。
俺と同じ十二歳ほど。
腰まで届く黒い髪。
金色ではなく。
銀色の瞳。
肌は白く。
顔立ちは。
肖像画の赤子と。
現在の俺を足して、少し柔らかくしたように見える。
胸には。
王立魔法学園の上級生がつける、七つ星の記章。
見た目の年齢と。
学年が合わない。
周囲の生徒も教師も。
少女がそこにいることを不思議に思っていない。
いや。
彼女の姿そのものが。
見えていないようだった。
少女は。
真っ直ぐ俺だけを見つめる。
嬉しそうでも。
悲しそうでもない。
百年間。
決められた時刻を待っていた人間のように。
静かな顔だった。
俺は。
懐に隠した短剣へ指をかける。
両親の手紙。
――王立魔法学園へ入ったら、最初にお前を迎えに来る女を殺せ。
目の前にいる少女が。
一歩。
こちらへ近づく。
銀色の鍵が。
強く震えた。
二歩。
鍵の表面へ。
見たことのない道が刻まれ始める。
三歩。
少女は俺の目の前へ立ち。
ほんの僅かに首を傾けた。
「随分と遅かったね」
声を聞いた瞬間。
銀の鍵が。
自分の意思を持つように回転した。
がちり。
何もない空間へ。
巨大な鍵穴が現れる。
リゼフィアの背後にある全ての扉が。
一斉に震えた。
『百年前の道が、つながりますわ』
少女が。
初めて微笑む。
「お帰りなさい」
そして。
両親の手紙に書かれていた通り。
俺を呼んだ。
「兄さん」
殺せ。
命令が。
頭の中へ蘇る。
俺は短剣を抜き。
少女の喉へ刃を向けた。
彼女は。
避けなかった。
銀色の瞳で。
刃先を見つめた後。
どこか懐かしそうに笑う。
「今度は、ちゃんと殺してね」
「今度?」
少女――リリア・マイトは。
俺の短剣へ自分の指を触れさせた。
白い指先から。
一滴の血が流れる。
その血が。
俺の刃へ触れた瞬間。
百年前の記憶が。
視界の奥で爆発した。
燃える屋敷。
泣き叫ぶ母親。
黒冠の紋章。
血に濡れた俺の両手。
そして。
幼い少女の胸へ。
銀の鍵を突き刺している。
百年前の俺。
「思い出した?」
リリアが囁く。
俺の手が。
震えた。
記憶の中で。
少女を殺していたのは。
両親ではない。
神殿でも。
歴史封緘局でもない。
俺自身だった。
リリアは。
短剣を向けられたまま。
嬉しそうに目を細める。
「兄さんが私を殺すのは」
銀色の鍵穴の向こうから。
何か巨大なものが。
扉を叩く音が響いた。
「これで、二度目だね」




