第19話 消された爵位には、観客をつけろ
翌朝、ノアは俺の後頭部を見た瞬間、持っていた書類を卓へ置き、何も言わずに両手で俺の髪をかき分け始めた。
「代表、説明して」
「何の話です?」
「表から見ると長くなっているのに、内側だけ妙に短い。しかも、昨日より明らかに髪の量が減ってる」
王立魔法学園長から届いた招待状よりも、俺の髪型の方が重大な問題であるかのような声だった。
昨夜、抹消執行官ディエゴ・ラスの肉体をラファネスへ再現させるため、契約上必要となる血液二百ミリリットル相当の細胞を支払った。
残っていた十センチ以上の毛髪二十四本へ加え、後頭部の内側から長さ十二センチ前後の髪を百五十本ほど切り、足りない分は爪と口内粘膜で補っている。
契約条項の換算上は問題ないが、髪型としては問題があったらしい。
「少し軽くしました」
「軽くする場所が変でしょう。どうして内側だけ刈り取ったみたいになってるの?」
「外見への影響を抑えながら、必要な量を確保した結果です」
「何に必要だったの?」
「本部の機密です」
ノアは、最近その言葉を聞くたびに頭痛がするようになったらしく、眉間へ指を当てながら深く息を吐いた。
少し離れた場所では、成人した俺によく似た姿へ戻っているラファネスが、切り落とした毛髪のうち換算に使用しなかった短い部分を、小さなガラス瓶へ丁寧に保存している。
「残余の毛髪につきましては、契約対価として消費されておりませんので、将来の人間化研究へ備えて保管いたします」
「捨ててください」
「クライ様が十二歳の時に生やされた、二度と入手できない貴重な成長記録でございます」
「どうしても残すなら、俺の見えない場所へ置いてください」
「承知いたしました。寝室の枕元に専用棚を設置いたします」
「それは最も見える場所なんでやめてください」
ノアは俺とラファネスを順番に見た後、これ以上追及すると自分までおかしくなると判断したらしく、学園長から届いた受験許可証を卓の中央へ置いた。
「それより、これをどうするの?マイト家が本当に存在したなら、もう復元のために頑張る必要はないんでしょう?」
「存在していたことと、現在の俺が爵位を継げることは別問題です。王国がマイト家を百年前に抹消している以上、正式な復元手続きが必要になります」
「学園側は、もうクライを旧マイト家の人間として扱ってる」
「だからこそ、利用できます」
王立魔法学園は、まだ王国貴族籍へ登録されていない俺を、旧マイト家の後継者として受験へ招いた。
この招待状は、学園側がマイト家の存在と俺の継承資格を認識している証拠になる。しかし同時に、俺を学園へ誘導するため、歴史封緘局と学園長が用意した罠でもあった。
証拠としては使う。
相手の筋書きには従わない。
詐欺師へ送られた偽の身分証明書であっても、発行者が権威ある組織なら、その権威だけは本物だった。
「マイト家を復元するために、何が必要なの?」
ノアが尋ねる。
「王国家門記録院による家門存在の確認、王国財務局による旧領地と未納税の調査、神殿による洗礼記録の照合、そして王家または王立機関による継承資格の承認です」
「多いわね」
「一つずつ申請すれば、互いに他の機関の判断を待つと言い始めるでしょう。通常なら数年かかります」
役所は、自分だけが責任を負う判断を嫌う。
家門記録院は、神殿の洗礼記録がなければ動けないと言い、神殿は王国側の家門認定が先だと言い、財務局は旧領地の所有者が確定しなければ調査できないと言う。
全員の承認が必要なのに、誰も最初の承認者になりたがらない。
その結果、書類は机から机へ移され続け、申請者が死んだ頃に、提出期限切れとして処分される。
「ですから、全員を同じ場所へ呼びます」
俺は白い紙の上へ、四つの組織名を書いた。
王国家門記録院。
王国財務局。
中央神殿。
王立魔法学園。
「公開の家門復元審査を行い、互いの目の前で判断させる。一つの組織が否定すれば、残り三つの組織が持つ資料と矛盾する形にします」
「そんな審査、開かせられるの?」
「既に三つの組織が、マイト家の存在を認める文書を出しています」
ノアが首を傾げる。
「家門記録院は、まだオルフェンさんが調べてる途中でしょう?」
「オルフェンは、特別抹消家門録への転送記号を確認した。存在しない家門は、抹消記録へ移されません」
「王立魔法学園は、この招待状」
「ええ」
「あと一つは?」
「王国財務局です」
俺は、昨日届いたばかりの納税催告書を卓へ置いた。
宛名は《旧マイト家暫定管理者 クライ・マイト》。
内容は、百二年前に没収された北西部領の固定資産税について、相続関係を確認するための出頭命令だった。
ノアは三度読み直した後、呆れたように俺を見る。
「爵位を返す前に、税金だけ請求してきたの?」
「役人は、権利の復元より債務の復元を優先します」
「ひどい国ね」
「非常に助かります」
王国財務局は、俺を旧マイト家の暫定的な相続関係者として扱わなければ、この催告書を送れない。
つまり、正式な家門復元へ反対した場合、自分たちが存在しない家の税金を十二歳の子供へ請求したことになる。
どちらへ転んでも、こちらに有利だった。
「中央神殿は?」
ノアの質問に、俺は少しだけ笑った。
「これから証言してもらいます」
◇
抹消執行官ディエゴ・ラスは、王都中心部にある古い鐘楼の地下へ入った。
正確には、ディエゴの肉体と記憶を完全に模倣したラファネスである。
黒冠商会本部から派遣された執事としての姿は消え、灰色の髪、白い口布、黒い針の短剣を持つ男へ変わっている。歩き方も呼吸の間隔も本人と同じであり、右手首と左肩には、前夜に受けた傷まで再現していた。
「傷まで必要でしたか?」
俺が契約を通じて尋ねると、ラファネスの声が頭へ返ってくる。
『任務中に負傷したことを報告する方が、オルフェン様と交戦した証拠として自然です。痛覚は遮断しておりますので、ご心配には及びません』
「痛覚を持たずに負傷者を演じるのは、不自然では?」
『人間の苦痛表情については、ディエゴ・ラス本人の記憶から正確に再現できます』
痛みを感じていない悪魔が、痛がる人間の記憶を使って演技する。
《万象模倣》は、使うほど人間から遠ざかっているようにも見えるが、本人は人間化へ近づいているつもりらしい。
俺は黒冠商会の執務室にいながら、ラファネスの視界を薄い白枠の映像として共有していた。
鐘楼地下の石壁には、文字を削り取られた墓碑が並んでいる。死者の名前を記録する場所の真下に、歴史から名前を消す組織の入口を作るとは、随分と趣味が悪い。
ラファネスは最も古い墓碑の前へ立ち、ディエゴの記憶にある順番で石を押した。
右上。
中央。
左下。
最後に、名前を削られた部分へ血を一滴落とす。
石壁が音もなく開き、その向こうに白い廊下が現れた。
『まあ……』
リゼフィアが、俺の視界へ映る廊下を見ただけで声を震わせる。
『死者の墓を入口にして、存在を消す者たちの職場へ続く道……悪趣味と矛盾が、こんなにも濃厚に熟成されていますわ』
「今は仕事中です」
『一度だけ歩かせてくださいませ』
「却下です」
『壁へ頬をつけるだけでも』
「絶対に駄目です」
ラファネスが白い廊下を進む間、すれ違う人間たちは誰も彼を疑わなかった。ディエゴ本人の記憶に基づき、挨拶を返す相手、無視する相手、立ち止まるべき階級を正確に選んでいる。
《万象模倣》が恐ろしいのは、外見を奪うことではない。
相手が人生の中で積み重ねた人間関係まで、そのまま鍵として使えることだった。
最奥の扉には、白と黒を半分ずつ塗り分けた仮面が刻まれている。
ラファネスが三度叩くと、内側から声がした。
「入れ」
部屋には、前夜にディエゴへ命令を与えた人物が座っていた。
白黒の仮面。
黒い法衣。
年齢も性別も判断できない声。
歴史封緘局の上位者であることは、ディエゴの記憶から分かっている。しかし、直属の部下であるディエゴですら、その正体も本名も知らない。
組織内では、《白紙卿》と呼ばれていた。
「任務を報告しろ」
ラファネスは片膝をつき、右手首を庇いながら答える。
「オルフェン・バラッドは死亡。マイト家の書き写しも《白紙葬送》によって処分しました」
「黒冠商会へ漏れた情報は?」
「特別抹消家門録の存在、旧家紋、最終当主の予言。クライ・マイトは驚いており、事前に知っていた様子はありませんでした」
白紙卿は、指先で卓を二度叩いた。
安堵した時の癖。
ディエゴの記憶にある、記憶を観測した時の情報だ。
「王立魔法学園からの招待状は?」
「既に届いています」
「彼は受けるか」
「受けるでしょう。黒冠学舎から消えた孤児を見捨てる性格ではありません」
「問題ない」
白紙卿が立ち上がり、背後の棚から一冊の薄い帳面を取り出した。
表紙には《旧マイト家復元審査》と書かれている。
まだ俺が申請していない審査の資料が、既に用意されている。
「家門記録院第三編纂官は死亡したことにする。代わりに、学園側の推薦によって復元手続きを進める」
「王家禁閲庫の記録を公開するのですか?」
ラファネスが尋ねると、白紙卿は小さく笑った。
「公開する必要はない。王立魔法学園長が、旧マイト家の正統後継者であると証言すれば、王家の委任を受けた教育機関による身分保証となる」
「家門記録院が反対する可能性は?」
「財務局へ、旧領地の納税催告を出させた。債務継承を認めた以上、家門の存在は否定できない」
俺が利用しようとしている催告書も、相手側が用意した物だった。
自分で罠を見抜き、逆に証拠として利用しているつもりだったが、その利用まで想定されている可能性がある。
腹立たしい。
「中央神殿は?」
「七日後、復元審査へ証人を出す。旧マイト家最後の当主が残した洗礼記録を持たせる予定だ」
俺は執務室で、白い紙へ《七日後》と書いた。
審査の日程まで、既に決まっている。
俺が公開審査を要求しようとしていることも。
相手は、先回りして準備していた。
「クライ・マイト本人へは、何を署名させますか?」
ラファネスの質問に、白紙卿は帳面の最後から一枚の羊皮紙を取り出した。
古代文字。
黒い王冠。
金色の目。
切れた鎖。
中央には、血を落とすための小さなくぼみがある。
「《家門帰還誓約》」
白紙卿が答える。
「旧マイト家の後継者として爵位を得る代わりに、家門が負っていた未完の義務も継承させる」
「義務とは?」
「七十二禁書の契約者を、王立魔法学園地下の《無名墓所》へ導くこと」
「署名すれば、本人の意思に関係なく?」
「マイト家の血と魂が本物なら、誓約が道を開く。偽物なら、何も起こらない」
白紙卿の指が、羊皮紙の中央をなぞる。
「我々が知りたいのは、クライ・マイトが旧マイト家の血統を継ぐ者か、それとも百年前の予言へ引き寄せられただけの偶然か。その答えは、誓約が示す」
俺が本当にマイト家の子孫なのか。
相手も知らない。
確信しているわけではなく、試そうとしている。
ならば。
こちらにも、まだ相手が知らない余地がある。
「もし、署名を拒否すれば?」
「爵位復元を認めない」
白紙卿は断言した。
「王立魔法学園への入学資格も失わせる。孤児を救いたいなら、彼は署名するしかない」
選択肢を二つに見せかける。
署名して罠へ入るか。
署名せず孤児を見捨てるか。
詐欺師としては、少し雑だった。
相手が用意した選択肢から選ぶ必要などない。
三つ目を作ればいい。
「審査の日時と場所を、クライ・マイトへ通知しろ」
白紙卿は、一通の封筒をラファネスへ渡した。
「その後、お前は学園へ入り、彼を監視する。契約する悪魔が四柱目へ増えた場合、即座に報告せよ」
「承知しました」
ラファネスが封筒を受け取り、部屋から退出しようとした時。
白紙卿が呼び止めた。
「ディエゴ」
「はい」
「右手を出せ」
ラファネスの歩みが止まる。
白紙卿は、机の引き出しから細い銀の針を取り出した。
「任務帰還時の本人確認だ。記憶と魂の形を照合する」
ディエゴの記憶にはない手続き。
今回だけ。
あるいは、マイト家の任務だけに用意された確認。
肉体も。
記憶も。
ラファネスは完全に模倣している。
だが。
魂は悪魔だ。
針を刺されれば、正体を見抜かれる可能性が高い。
「ラファネス」
俺は契約を通じて呼びかける。
『退避の許可をいただけますか?』
「まだです」
『正体が露見した場合、白紙卿を殺害しても?』
「捕らえるのが優先です」
『かしこまりました。脳を保存できる範囲で破壊いたします』
人間の安全基準としては不安が残るが、今は頼るしかない。
ラファネスが右手を差し出す。
白紙卿の針が、指先へ近づく。
あと数センチ。
その瞬間。
白い廊下の奥から、鐘が三度鳴った。
白紙卿の動きが止まる。
部屋の壁へ、緊急連絡を示す赤い文字が浮かび上がった。
――旧マイト家復元申請、王都中央公示板へ掲示。
――申請者、クライ・マイト。
――公開審査を要求。
白紙卿が、初めて明確に顔を上げた。
「公開審査?」
ラファネスが出発した直後。
俺は既に。
黒冠商会の名で申請を提出していた。
相手が七日後の審査を秘密裏に用意しているなら、その前に審査の存在を王都中へ公表すればいい。
隠された罠は。
人目のある場所へ出せば、使いにくくなる。
白紙卿は、机の上に置いていた《家門帰還誓約》を掴む。
「なぜ、審査の日程を知っている」
ラファネスは、ディエゴの顔で困惑した表情を作った。
「私が伝えたのは、今が初めてです」
「では、誰が漏らした?」
白紙卿の意識が、本人確認から内部の裏切り者へ移る。
人間は、自分の組織に裏切り者がいる可能性へ気づいた瞬間、目の前の不自然さより、背後の敵を恐れる。
「全ての出入口を閉鎖しろ」
白紙卿が命じた。
「局員を一人ずつ照合する。王立魔法学園へも連絡し、復元審査を延期――」
壁の赤い文字が、さらに更新された。
――王立魔法学園、公開審査への出席を正式受諾。
――王国財務局、旧領地債務に関する証人を派遣。
――中央神殿、旧マイト家洗礼記録の有無を回答するよう要請。
白紙卿は動かない。
俺は。
相手が審査を延期する可能性も考えていた。
だから。
申請書を送る前に。
各組織へ別々の通知を出してある。
王立魔法学園には。
――家門記録院と財務局が出席を承認したため、学園長の招待状を公に確認したい。
王国財務局には。
――王立魔法学園が旧マイト家を認めたため、納税催告の正当性を公開審査で確認したい。
中央神殿には。
――他の三機関が出席するため、神殿だけが洗礼記録の回答を拒否した場合、その理由も公示する。
実際には。
最初の通知を出した時点で、どの組織も出席を承認していなかった。
しかし。
自分以外の組織が既に動いていると考えれば。
欠席だけは選びにくい。
全員が。
他の組織の判断へ遅れまいとして。
自分から承認した。
これは。
権威の循環取引だ。
中身のない信用を。
複数の組織へ順番に貸し。
最後には。
誰もが本物だと思う形へ変える。
黒冠商会を作った時と。
基本は同じだった。
「ラファネス」
『はい』
「今です」
ラファネスは。
赤い文字へ意識を奪われている白紙卿の視界から外れ、自然な動作で右手を下げた。
「王立魔法学園への連絡は、私が行います」
ディエゴの声でそう告げると、白紙卿は短くうなずいた。
「急げ。クライ・マイトへ、誓約書の存在を悟らせるな」
「承知しました」
本人確認の針は。
机の上へ置かれたまま。
ラファネスは無事に部屋を出た。
◇
黒冠商会王都支部へ戻ったラファネスは、ディエゴの姿を解除すると、俺の前へ《家門帰還誓約》の形を正確に描いた。
原本を盗めば、すぐに露見する。
だから。
視覚で観測した文字と紋章だけを、紙の上へ模倣している。
「内容を読めますか?」
俺が尋ねると、オルフェンが顔を近づけ、古代文字を一行ずつ確認した。
彼は現在も黒冠商会の別宅で保護されている。本来なら死亡したことにする予定だったが、公開審査を行う以上、発見者本人として再び表へ出てもらう必要がある。
「これは、通常の家門継承誓約ではない」
「どこが違う?」
「王への忠誠ではなく、家門そのものへ服従を誓わせている。しかも、継承するのは爵位と財産だけではなく、《血統が未完とした務め》と書かれている」
「署名すれば、断れない?」
「王国法上の義務としては曖昧だ。しかし、古い契約魔法が仕込まれているなら、法より厄介だろう」
オルフェンは、羊皮紙の中央にあるくぼみを指した。
「ここへ血を落とせば、誓約者の魂と家門記録を照合する。旧マイト家の血統ではなければ契約は成立しないが、本物なら、家門が残した命令へ縛られる可能性がある」
「爵位を受け取るには、これへ署名するしかない?」
「本来なら必要ない。廃絶家門の復元では、王国法へ従う通常の継承宣誓だけで十分だ」
つまり。
相手は、旧マイト家の後継者だけへ特別な誓約を追加しようとしている。
「なら、公開審査で拒否します」
ノアが不安そうに尋ねる。
「拒否したら、爵位を返してもらえないんでしょう?」
「秘密の審査なら」
俺は答えた。
「しかし、公開審査で王国法にない誓約へ署名しなければ爵位を返さないと言えば、誰がその誓約を求めたのか説明する必要が生まれます」
「学園側は、別の理由を作るかもしれない」
「その通りです。ですから、拒否するだけでは足りない」
俺は新しい継承宣誓書を卓へ置いた。
内容は簡単だ。
クライ・マイトは、王国法を守り、領民の生命と財産を保護し、納税義務を負う。
ただし。
百年前の反逆罪。
家門抹消。
没収された領地。
不明な契約。
それらを、説明もなく継承しない。
「爵位と一緒に、百年前の罪まで返されても困ります」
「王国は、債務だけ相続させようとしたけど?」
ノアが言う。
「だから、取引条件を決めます」
爵位を返すなら。
百年前の反逆罪について、現在の当主へ責任を問わない。
旧領地の未納税は、王国による没収期間中のものとして免除。
旧家が結んだ秘密契約は、内容を公開し、俺が改めて同意した場合のみ継承。
そして。
王国側が百年前に行った不当な財産没収が確認された場合。
相応の補償を支払う。
オルフェンが最後の項目を読み、目を見開いた。
「爵位を返してもらう立場で、王国へ補償を要求するのか?」
「存在した事実ごと消された家ですよ。名誉を返すだけでは足りないでしょう」
「金額は?」
「旧領地は王国が百年間利用しています。地代、森林資源、鉱物、通行税を計算して――」
「待て。財務局が破産する」
「なら、土地で返してもらいます」
オルフェンが頭を抱えた。
ノアは少し楽しそうに笑っている。
「爵位が欲しいんじゃなかったの?」
「欲しいですよ」
俺は答える。
「だからといって、相手の提示価格で買う必要はありません」
◇
公開審査は、七日後ではなく三日後に決まった。
中央公示板へ貼り出した申請書を見た王都の人間が騒ぎ始め、噂が広がる前に終わらせたいと考えた各組織が、日程を早めたためだ。
審査場所は、王国家門記録院の大広間。
見物人が入りきらず、建物の外にまで人が集まっている。
王都の商人。
下級貴族。
神官。
新聞札を売る書記。
黒冠街の住民。
黒冠自衛団。
ザイラスは、黒い正装へ着替え、俺の真後ろに立っていた。
「クライ様」
「何です?」
「もし、あの役人どもがクライ様の爵位を認めなかったら、合図をください」
「何をする気です?」
「記録院を包囲します!」
「しないでください」
「では、半分だけ?」
「人数の問題ではありません」
ガルドが隣からザイラスの後頭部を叩く。
「黙って立ってろ」
「団長、俺はクライ様の威厳を――」
「お前が喋るほど下がる」
「そんな!」
七年前なら、この二人が同じ制服で並んでいるだけでも騒ぎになっただろう。
今では。
黒冠自衛団の団長と副団長。
王都西部から来た護衛として。
周囲の貴族たちも無視できない存在になっている。
大広間の正面には、四つの席が用意されていた。
王国家門記録院から、院長代理。
王国財務局から、資産査定官。
中央神殿から、古記録管理司祭。
王立魔法学園から、学園長代理。
学園長本人は現れなかった。
代わりに来たのは、白い長髪と青い眼鏡を持つ若い女性だった。
名前は。
セリア・ロズベル。
王立魔法学園副学園長。
学園長アルベリク・ロズベルの娘。
彼女は俺を見ると、僅かに口元を上げた。
「お会いできる日を、父も楽しみにしています。クライ・マイト殿」
「まだ、ただの平民ですよ」
「本日の審査が終わるまでは、でしょう?」
既に結果を知っているような態度。
相手の筋書きでは。
俺は爵位を受け取り。
家門帰還誓約へ血を落とし。
学園地下への道を開く。
だが。
今日は観客がいる。
王国中へ写しが配られる公式記録も残る。
用意された台詞を、そのまま読めると思わない方がいい。
審査が始まる。
最初に。
オルフェンが証言台へ立った。
死亡したと思われていた男が現れたことで、学園長代理セリアの目が僅かに動いた。
歴史封緘局には、オルフェンを殺害したと報告してある。
それでも。
彼女は何も言わない。
「私は、王国家門記録院第三編纂官として、旧マイト家に関する欠番と転送記号を確認しました」
オルフェンは声を震わせながらも、最後まで証言した。
「マイト家は百二年前まで王国貴族籍へ存在し、その後、特別抹消家門録へ移されています。従って、家門が存在しなかったという主張は成立しません」
院長代理が、不快そうに尋ねる。
「なぜ、上席の許可なく特別抹消家門録を調べた?」
「欠番の調査は、編纂官の職務です」
「その結果を外部へ漏らした」
「王国法に基づく家門復元申請者へ、存在確認の結果を報告しました」
オルフェンは。
自分が歴史を発見した編纂官だと信じ始めている。
三日前なら、上司へ責められただけで謝罪しただろう。
今は。
多くの人間が自分の証言を聞いている。
ここで引けば。
功績ではなく、規則を破った借金持ちへ戻る。
人間は。
一度与えられた地位を失うことへ。
最初から得られない時より強い恐怖を感じる。
「続いて、王立魔法学園から提出された受験許可証です」
俺は、自分宛てに届いた封筒を提出する。
セリアは否定しなかった。
「王立魔法学園は、クライ・マイト殿を旧マイト家の後継者候補として認識しています」
院長代理が尋ねる。
「候補にすぎない?」
「正式な継承は、本日の審査結果に従います。ただし、学園が保有する古い学生名簿には、旧マイト家の名と家紋が残っています」
王立魔法学園自身が。
マイト家の存在を認めた。
次に。
王国財務局。
資産査定官は、納税催告書の発行について、手続き上の仮処理だったと言い訳した。
俺は尋ねる。
「存在しない家門へ、仮処理で金を請求するのが財務局の正式な手続きですか?」
「旧領地に関する相続関係が不明だったため――」
「つまり、俺が旧マイト家の相続関係者である可能性を認めた?」
「可能性は」
「可能性すらなければ、催告書は発行しない?」
査定官は。
大勢の観客と。
記録を取る書記を見た。
「……発行しません」
三つ。
最後は中央神殿。
古記録管理司祭が、封印された銀の箱を卓へ置いた。
「中央神殿は、王国歴百二十一年に行われた旧マイト家当主夫妻の婚姻記録と、その翌年に行われた嫡子の洗礼記録を保管しています」
大広間がざわつく。
「嫡子の名は?」
俺が尋ねると、司祭は答えた。
「クライ・マイト」
俺と。
同じ名前。
偶然ではない。
百年前。
旧マイト家にも。
クライという名の子供がいた。
「その子供は?」
「家門抹消時の記録では、死亡確認がありません。行方不明とされています」
セリア・ロズベルが。
俺を見ていた。
反応を観察している。
俺は驚いた顔を作る必要がなかった。
本当に。
知らなかった。
「洗礼記録に、血統照合用の情報は?」
俺の質問に、司祭は銀の箱を開く。
中には。
小さな黒い石。
乾いた血。
赤子の髪。
百年前のクライ・マイトから採取した物。
「神殿の血統照合を行えば、あなたが旧マイト家と血縁関係にあるか確認できます」
来た。
相手は。
俺の血を取るつもりだ。
家門帰還誓約へ署名させる前に。
百年前の赤子と。
俺の身体が一致するかを調べる。
「拒否します」
大広間が静まった。
院長代理が、勝ち誇ったように言う。
「血統を証明できないなら、継承は認められない」
「俺が拒否したのは」
俺は司祭が持つ黒い石を見る。
「神殿だけが管理する、非公開の照合です」
「では、どうする?」
「公開で行いましょう」
俺は。
ラファネスへ合図した。
彼が一歩前へ出て。
三つの透明な検査器を卓へ並べる。
一つは中央神殿の血統石と同じ構造。
一つは王立魔法学園で使用される魔力鑑定器。
一つは。
黒冠商会本部が保有する、生命情報比較器という設定の魔道具。
実際には。
全て。
見た対象の反応を模倣するためにラファネスが作った補助器である。
「同じ血液を三つへ分け」
俺は言う。
「中央神殿、王立魔法学園、黒冠商会が、それぞれ別々に照合する。結果が一致すれば認めます」
司祭の顔が険しくなる。
「神聖な血統照合を、民間商会の器具と並べるつもりか」
「神殿の結果が正しいなら、他の器具と一致して困る理由はありませんよね?」
観客の視線が。
司祭へ集まる。
拒否すれば。
神殿の照合は、外部へ見せられない仕掛けだと思われる。
「……よかろう」
司祭が承認した。
俺は指先を針で刺す。
痛い。
七年経っても。
三柱と契約しても。
針は嫌いだ。
「代表、顔に出てる」
背後のノアから、小声が聞こえた。
「集中しています」
「痛いのね」
否定しない。
一滴の血を。
三つの器具へ分ける。
中央神殿の血統石。
青い光。
王立魔法学園の鑑定器。
同じく青。
黒冠商会の器具。
青。
ラファネスは。
神殿と学園の反応を観測した後。
同じ反応を再現しただけだ。
だが。
重要なのは。
最初の二つまで。
本当に反応したことだった。
古記録管理司祭の顔が青ざめている。
「血統一致率は?」
院長代理が尋ねる。
司祭は答えない。
代わりに。
セリア・ロズベルが学園の鑑定器を確認した。
「九十九・九八パーセント」
大広間の空気が止まる。
親子や兄弟の近縁ではない。
ほぼ。
同一人物。
百年前に行方不明となった赤子クライ・マイトと。
現在の俺。
生まれ変わり。
同じ魂。
あるいは。
誰かが。
百年前の身体情報を使って俺を作った。
どれなのかは分からない。
ただ。
この結果を。
王国は否定できない。
「旧マイト家の嫡子本人が」
オルフェンが掠れた声で言う。
「百年後に、帰還した……?」
観客の間から。
どよめきが広がる。
黒冠は、百年後に帰還する。
処刑前に残された予言。
黒冠の紋章。
金色の目。
同じ名前。
そして。
ほぼ完全に一致する血統。
俺が作った嘘ではない。
相手も。
完全には予測していなかった。
セリアの笑みが。
初めて消えていた。
学園側も。
ここまでの一致は知らなかったらしい。
「継承資格は」
俺は院長代理を見る。
「ありますか?」
彼は。
何も答えられない。
家門記録院。
財務局。
中央神殿。
王立魔法学園。
全ての証拠が。
俺を旧マイト家の後継者ではなく。
百年前の嫡子本人だと示している。
否定すれば。
自分たちの記録と検査を。
同時に否定することになる。
「王国家門記録院は」
院長代理が。
ゆっくり宣言した。
「旧マイト家の復元を認める」
大広間から。
大きな声が上がった。
黒冠街の住民。
自衛団。
商人。
誰かが拍手を始め。
すぐに広がる。
ザイラスは。
俺の真後ろで泣いていた。
「クライ様……!」
「なぜ泣いているんです?」
「クライ様は、百年前からクライ様だったんですね!」
意味が分からない。
ガルドが。
また後頭部を叩いた。
「今は黙ってろ」
「感動の場面ですよ!」
「お前が喋ると安くなる」
同意する。
しかし。
まだ終わっていない。
セリア・ロズベルが、一枚の羊皮紙を取り出した。
《家門帰還誓約》。
歴史封緘局で見た物と同じ。
「旧マイト家の復元に伴い」
セリアは言う。
「クライ・マイト殿には、家門が残した義務を継承する誓約へ署名していただきます」
来た。
「王国法上」
俺は尋ねる。
「家門復元に必要な誓約ですか?」
「旧マイト家は、特殊な使命を持つ家門でした」
「使命の内容は?」
「署名後に開示されます」
観客から。
戸惑いの声が上がる。
内容を知らせず。
血で契約させる。
秘密の審査なら通せたかもしれない。
公開の場では。
ただの異常な要求だった。
「拒否します」
セリアの青い目が細くなる。
「署名しなければ、旧マイト家の爵位と権利は復元できません」
「王国家門記録院は、先ほど復元を認めました」
「家門の存在を認めただけです。権利の継承には――」
「では」
俺は。
自分で用意した継承宣誓書を出す。
「王国法に基づく通常の宣誓へ署名します」
内容を。
大広間の書記へ読み上げさせる。
王国法の遵守。
領民保護。
納税。
裁判への出席。
貴族としての義務。
そして。
秘密の契約は。
内容の開示と。
俺の再承認がなければ継承しない。
「これへ署名すれば」
俺は院長代理へ尋ねる。
「通常の家門復元条件は満たしますか?」
院長代理は。
セリアを見る。
学園長代理。
しかし。
家門記録院は。
王立魔法学園の下部組織ではない。
公開の場で。
法にない誓約を優先すれば。
記録院自身が。
学園へ支配されていると認めることになる。
「……満たす」
院長代理が答えた。
セリアの顔から。
僅かに笑みが消える。
「ただし」
俺は。
宣誓書の最後を指す。
「王国が百年前に不当に没収した財産について、調査と補償を要求します」
財務局の査定官が立ち上がった。
「待て!」
「旧領地を返せないなら」
俺は続ける。
「同等の価値を持つ土地、または金銭で」
「百年分だぞ!」
「そうですね」
「王国財政へ、どれほどの負担が――」
「俺は」
俺は査定官を見る。
「百年待ちました」
もちろん。
体感では十二年。
前世を含めても四十一年。
だが。
王国自身が。
俺を百年前の嫡子本人だと証明した。
ならば。
この言い方も。
完全な嘘ではない。
「土地を奪い」
「家族を処刑し」
「存在した事実まで消し」
「ようやく帰ってきた当主へ」
俺は言う。
「税金だけ払えと言うんですか?」
観客から。
笑いと怒号が混ざった声が上がる。
財務局は。
完全に悪役になった。
査定官は。
納税催告書を出したことを。
心から後悔している顔だった。
「補償については、後日協議する」
「公開の協議を」
「……認める」
「旧領地の未納税は?」
「王国管理期間中のため、現当主へ請求しない」
「記録へ」
書記が。
全てを書き留める。
これで。
爵位。
家門。
継承資格。
補償請求権。
全てを得た。
相手が用意した《家門帰還誓約》へは。
署名していない。
俺は。
通常の継承宣誓書へ。
クライ・マイトと署名した。
指先の血ではなく。
普通のインクで。
「王国家門記録院は」
院長代理が宣言する。
「クライ・マイトを、旧マイト家第十九代当主として登録する」
爵位は。
旧記録に従い。
准男爵。
大きな領地を持たない。
王国貴族の最下位に近い身分。
それでも。
王立魔法学園へ。
正面から入れる。
「おめでとうございます」
セリア・ロズベルが俺へ近づいた。
笑顔は戻っている。
しかし。
先ほどまでとは少し違う。
「父は、あなたが誓約へ署名すると思っていました」
「期待を裏切ってしまいましたね」
「いいえ」
セリアは。
俺の耳元へ顔を寄せた。
「父は、署名しない場合の方を楽しみにしていました」
やはり。
ここまで。
想定の範囲内。
「学園へ来れば」
彼女は囁く。
「逃げた誓約の方から、あなたを迎えに来ます」
セリアは離れ。
大勢の前で優雅に一礼した。
「王立魔法学園は、マイト家当主クライ・マイト殿の入学を、心より歓迎いたします」
周囲から。
再び拍手が起こる。
俺も。
笑顔で礼を返した。
「こちらこそ」
心から。
そう思う。
相手は。
俺の考え方を知っている。
罠だと見抜くことも。
公開審査へ変えることも。
秘密の誓約を拒否することも。
全て。
読んでいる。
ならば。
どこまで読めるのか。
確かめたくなった。
◇
審査終了後。
王国家門記録院の職員が、俺へ小さな黒い箱を渡した。
「何です?」
「旧マイト家復元に伴い、王家禁閲庫から返還された保管物です」
「誰が返還を許可した?」
「王立魔法学園長名義の命令書が届いています」
相手は。
最初から。
爵位復元後に箱が渡るよう準備していた。
黒い箱には。
鍵穴がない。
蓋の中央へ。
黒冠の家紋が刻まれている。
俺が触れた瞬間。
金色の目が開いた。
箱の内側から。
赤子の泣き声が聞こえる。
大広間に残っていた者たちが。
驚いて振り返る。
箱が。
自動的に開いた。
中に入っていたのは。
一通の古い手紙。
一本の銀色の鍵。
そして。
小さな肖像画。
絵には。
若い夫婦と。
生まれたばかりの赤子が描かれている。
夫婦の顔は。
塗り潰されていた。
赤子だけが。
はっきり残っている。
黒い髪。
金色の目。
右手には。
黒冠の痣。
俺と。
同じ顔だった。
手紙の表面には。
百年前の文字で。
宛名が書かれている。
――二度目の人生を歩む、我が息子クライへ。
指が止まった。
この世界で。
俺が転生者だと知っている者は。
神。
三柱の悪魔。
しかし。
この手紙は。
百年前に書かれている。
俺は。
周囲の視線を避けるように封を切った。
中には。
一行だけ。
記されていた。
――王立魔法学園へ入ったら、最初にお前を迎えに来る女を殺せ。
その下には。
女の名前。
ノアでも。
マナでもない。
王立魔法学園の関係者として。
まだ一度も聞いたことのない名だった。
《リリア・マイト。》
家族構成の記録では。
百年前に存在しなかったはずの。
俺の妹。
そして。
手紙の最後には。
さらに小さな文字で。
こう書かれていた。
――ただし、彼女がお前を「兄さん」と呼ぶまでは、絶対に殺すな。
存在を消された家門。
百年前の俺。
俺の転生を知る両親。
記録にない妹。
そして。
王立魔法学園。
爵位は取り戻した。
だが。
どうやら俺が相続したのは。
家名や土地より。
遥かに面倒な家族らしい。




