第18話 消された家門には、消しに来る者を待て
「――黒冠は、百年後に帰還する」
オルフェンが読み上げた言葉は、夜の黒冠商会王都支部へ、不自然なほど長く残った。
百二年前に王国の歴史から抹消されたマイト家。俺が五歳の時に考えたはずの黒冠商会の紋章と、ほとんど同じ家紋。そして、旧マイト家の最終当主が処刑される直前に残した、百年後の帰還を予告する言葉。
普通の人間なら、運命という言葉を思い浮かべる場面なのかもしれない。
俺が最初に考えたのは、誰が何の目的で、この情報をオルフェンに見つけさせたのかということだった。
「オルフェン、通常書庫へ入ってから、ここへ来るまでの行動を全て話してください」
俺が告げると、彼は怪訝そうに眉を寄せた。
「今はマイト家の話をしているんだぞ」
「だから聞いています。あなたが偶然見つけた情報なら問題ありませんが、誰かが見つけさせた情報なら、既にこちらの動きを知られています」
「見つけさせた? 百年前の転送台帳を、誰かが私のために用意したとでも言うのか」
「新しく作る必要はありません。百年前から存在する記録の中から、今日のあなたが気づく場所だけを示せばいい」
俺がそう答えると、オルフェンの顔から、興奮によって戻りかけていた血の気が再び失われた。
彼は記憶を確かめるように目を閉じ、通常書庫へ入った時刻、担当した閲覧係、使用した席、手に取った索引の順番を一つずつ説明した。最初に現行貴族籍を確認し、次に廃絶家門録、北西部領主一覧へ進み、そこでもマイト家が見つからなかったため、古い転送記録へ手を伸ばしたらしい。
「転送台帳を選んだのは、あなた自身ですか?」
「当然だ。欠番があれば、別の記録へ移された可能性を考えるのは編纂官の基本だ」
「誰かに勧められたわけではない?」
「……閲覧係が、古い資料なら転送台帳も確認した方がいいと言った」
「名前は?」
「ネストという若い書記官だ。三か月ほど前に通常書庫へ配属されたはずだが、それが何だというんだ」
三か月。
家門記録院のような閉鎖的な役所で、新任の書記官が第三編纂官へ調査方法を助言するのは少し不自然だった。
「その書記官は、あなたがマイト家を調べていると知っていましたか?」
「帳簿の家名を口にした覚えはない。ただ、北西部の欠落家門を調べているとは伝えた」
「転送台帳のどこを開くべきかも教えられた?」
オルフェンは答えず、代わりに自分が持ってきた書き写しへ視線を落とした。
答えは十分だった。
「あなた以外に、この記録を見た人間は?」
「ネストが、私の後ろから一度覗いた。だが、文字までは読めなかったはずだ」
「その後、誰かと話しましたか?」
「話していない。書き写しを作った後、すぐに記録院を出た」
「帰宅せず、ここへ来た?」
「ああ」
「それは正解です」
オルフェンは乾いた笑いを浮かべた。
「君に褒められても、嫌な予感しかしないな」
「安心してください。嫌な予感は、おそらく当たっています」
「安心の意味を知っているのか?」
よく聞かれる。
◇
オルフェンをそのまま自宅へ帰すわけにはいかなかった。
彼が本当に偶然、王国が消した家門へ到達しただけなら、今夜一晩を警戒して損をする程度で済む。しかし、誰かがマイト家の調査を監視していた場合、記録を見たオルフェンは、口を塞ぐべき証人になっている。
「私は調査から手を引く」
黒冠商会の客室へ移されたオルフェンは、用意された寝台へ腰を下ろすなりそう告げた。
「金貨八枚は返す。帳簿も契約書も、全て君たちへ返すから、私をこの話から外してくれ」
「残念ながら、手を引けば安全になる段階は過ぎています」
「私は何も知らない!」
「特別抹消家門録の存在と、黒冠の紋章、最終当主の言葉を知っている」
「忘れる!」
「自分で忘れたと言って信じてもらえる相手なら、最初から記録を消していません」
オルフェンは言葉を失い、両手で顔を覆った。
賭博の借金を返すために受けた調査が、王国によって存在を消された家門へつながり、自分の命まで危険に晒している。彼からすれば、金貨八枚では割に合わない仕事だっただろう。
もっとも、金貨八枚なら危険な仕事も引き受ける人間だと判断したからこそ、最初に選んだのだが。
「どうすればいい」
しばらくして、オルフェンが顔を上げた。
「黒冠商会は、私を守れるのか?」
「守れます」
俺が即答すると、彼は逆に疑うような目を向けてきた。
「相手が王国の人間でも?」
「神殿の特務審問官を殺した後、百二十人の調査団を追い返した組織ですよ」
黒冠商会王都支部の職員が聞けば、本部の武勇伝として誇らしく受け取っただろう。
実際には、当時七歳だった俺が、胃を痛めながら偽造資料を三つの組織へ送りつけただけである。
「ただし、保護には条件があります」
「金か?」
「あなたの借金額を見て、金を要求するほど期待していません」
「では何だ」
「今まで通り、マイト家を調査してください」
オルフェンが立ち上がった。
「今の話を聞いていたのか! 私は殺されるかもしれないんだぞ!」
「今やめても殺される可能性があるなら、続けた方が得です」
「君は他人の命を何だと思っている!」
「交渉材料です」
正直に答えると、オルフェンは怒鳴る言葉さえ失ったらしい。
俺は彼の前へ、もう一枚の契約書を置いた。
「黒冠商会は、調査終了まであなたと家族を保護します。借金の取り立ても止め、必要なら一時的な住居も提供する。代わりに、あなたはマイト家に関する調査を継続し、発見した情報を最初に俺へ報告する」
「家族まで?」
「妻と息子を、明朝までに黒冠商会の管理する別宅へ移します。愛人については、ご希望なら」
「……必要ない」
少し間があった。
妻へ知られたくないという意味か、愛人までは守る価値がないという意味かは聞かないことにする。
「もう一つ、あなたがマイト家を発見した事実は、将来的に王国全体へ公表します」
「なぜだ」
「人間は、秘密を知った者なら殺せます。しかし、発見者として名前が広まった人間を殺せば、その死自体が疑惑になる」
俺は契約書の報酬欄へ、金貨四十枚と記した。
「マイト家の復元が成立した場合、当初の報奨金へ十枚を追加します。それだけではなく、あなたをマイト家の家門顧問として正式に雇用する」
「私を、家門顧問に?」
「存在を消された家の復元を成功させた編纂官です。これ以上、適任の人間はいないでしょう」
恐怖だけを与えれば、人間は逃げる方法を探す。
恐怖の先へ地位を置けば、逃げることが損に見え始める。
オルフェンの表情に浮かんだのは、まだ迷いだった。しかし、その迷いの中には、自分が王国史上でも前例の少ない家門復元を成し遂げる未来が、確かに混ざり始めている。
「成功すれば、私は第三編纂官のままでは終わらない」
「家門記録院の上席編纂官、あるいは副院長も狙えるでしょう」
「失敗すれば?」
「ただの借金持ちへ戻ります」
「今と同じではないか」
「だから、失うものはありません」
オルフェンは長く契約書を読み、最後には疲れ果てたような顔で署名した。
恐怖からではない。
金だけでもない。
自分が歴史を発見した人間になるという未来へ、彼自身が手を伸ばした。
これで、逃げる理由より続ける理由の方が少し大きくなった。
◇
オルフェンを客室へ残した後、俺は執務室へ戻り、ラファネスへ三本の髪を渡した。
「外見と声だけなら、これで足りますか?」
ラファネスは白い手袋の上へ置かれた髪を見つめ、契約に従って対価を計算する。
「十センチ以上が二本、八・四センチが一本。血液換算二・八四ミリリットルとなりますので、オルフェン・バラッド様の外見、声、表面的な身体構造の模倣には十分です」
「承認します」
髪が白い光へ変わり、ラファネスの指先へ吸い込まれる。
成人した俺によく似た執事の身体が縮み、肩幅が変わり、茶色の髪と疲れた顔、濃紺の外套を持つオルフェンの姿へ変わっていく。
数秒後、執務室には二人目の第三編纂官が立っていた。
「私は、偽造には関わらない」
ラファネスがオルフェンの声で言う。
声だけではなく、言葉の選び方や、少し顎を上げる癖まで似ている。
「表面的な動作も再現できるんですね」
「視覚へ収めた範囲であれば。ただし、記憶や本人しか知らない質問へは回答できません」
「十分です」
今夜、誰かがオルフェンを狙うなら、本物を危険へ晒す必要はない。
偽物を用意し、相手がどこから来て、何を確認し、どの証拠を消そうとするのかを観察する。
「クライ様」
オルフェンの姿をしたラファネスが尋ねる。
「わたくしが殺害された場合、どの程度まで抵抗してよろしいでしょうか」
「殺害されないでください」
「襲撃者の四肢を切断する程度なら?」
「捕らえるために必要な範囲で」
「脳だけ無傷なら、記憶の模倣は可能です」
「その発想を基準にしないでください」
「かしこまりました」
返事は素直だった。
内容を理解したかは分からない。
◇
翌朝、オルフェンの姿をしたラファネスは、本人が自宅から出てきたように見せかけるため、《境界回廊》を使って彼の家の裏口から現れた。
本物のオルフェンは既に別宅へ移し、ノアが手配した黒冠自衛団員が妻と息子の保護に向かっている。
ラファネスは、いつも通りの道を歩き、王国家門記録院へ出勤した。
少し離れた屋根の上から、俺とリゼフィアが追う。
ヴェルゴラは俺の影の中。
ラファネスとは、契約を通じて感覚を共有できる。彼が見た景色は、薄い白枠の映像として俺の視界にも重なっていた。
「尾行は?」
俺が尋ねると、ラファネスの声が頭へ届く。
『現在、三名です。一人は王都警備隊の制服を着用していますが、靴底が神殿式。一人は果物売りに偽装した女性。最後の一人は――』
言葉が止まった。
『屋根の上におります』
俺は反射的に振り返った。
誰もいない。
だが、先ほどまで鳩が止まっていた瓦の上へ、細い足跡だけが残っている。
姿を隠す魔法。
俺たちのさらに後ろから、ラファネスだけではなく、俺まで見られている。
「気づかないふりを」
『承知しました』
ラファネスは記録院の正面入口へ入る。
その日、彼が行うのは、マイト家の調査を打ち切るための報告書作成だった。
もちろん本当に打ち切るつもりはない。
提出予定の報告書には、こう記してある。
――交易台帳に記載されたマイト家は、貴族家ではなく同名の商人一族である可能性が高い。
――特別抹消家門録との関連を示す証拠はなく、予備調査を終了する。
――収集した書き写しは、本日の日没後、古文書処分室で焼却する。
相手が、マイト家を発見させたい人間なら。
この報告書を止める。
相手が、マイト家の痕跡を消したい人間なら。
焼却前に証拠を奪う。
どちらにしても、動く。
ラファネスは報告書を提出せず、わざと机の上へ置いたまま昼食へ向かった。
戻ると、紙の位置がほんの僅かに変わっていた。
『閲覧された形跡があります』
「誰が?」
『魔力反応は、ネストという書記官の指先と一致します』
昨日、転送台帳を勧めた新任書記官。
予想通りすぎて、逆に怪しい。
本当に監視役なら、もう少し隠すはずだ。
あるいは。
見つかることまで役割に含まれている。
「今夜まで予定通り進めてください」
『承知しました』
◇
日没後。
王国家門記録院の地下にある古文書処分室には、紙と古い革の臭いが満ちていた。
保存する価値がないと判断された記録を、魔法炉で焼却するための部屋。窓はなく、出入口は一つだけで、壁には記録の持ち出しを防ぐ封印が刻まれている。
ラファネスはオルフェンの姿で、卓の上へ二枚の書き写しを置いた。
一枚は、特別抹消家門録への転送記号。
もう一枚は、黒冠の家紋。
本物は俺が保管している。
ここへ置いたのは、ラファネスが同じ筆跡を模倣して作った複製だった。
俺は処分室の隣にある壁内点検路へ隠れている。
本来、人間が通る場所ではない。
石壁と排気管の間にある僅かな空間を、リゼフィアが嬉々として道へ変えた。
『記録を燃やす部屋の裏側に、記録へ残らない観察路……ああ、何て背徳的なのでしょう』
「静かに」
『壁を一枚挟んで、偽物と本物が並走していますのよ?』
「黙ってください」
リゼフィアは頬を赤らめながら、両手で口を塞いだ。
本当に黙ってくれたことには感謝する。
深夜の鐘が一度鳴った。
ラファネスが魔法炉へ火を入れる。
その瞬間。
処分室の魔法灯が全て消えた。
扉は開いていない。
足音もない。
ただ、暗闇の中央へ、黒い人影が立っていた。
姿隠しを解除したらしい。
性別は男。
年齢は三十前後。
灰色の髪。
顔の下半分を白い布で覆い、外套には紋章がない。
右手には、黒い針のような短剣。
左手には、文字の刻まれた白い札。
「オルフェン・バラッド」
男が低い声で呼ぶ。
「あなたは、見るべきでない記録を見た」
ラファネスは、本人が怯えた時と同じように肩を震わせた。
「誰だ」
「質問は不要だ。書き写しを渡し、黒冠商会へ話した内容を全て答えろ」
「断れば?」
「あなたの妻と息子は、今夜眠ったまま目を覚まさない」
脅し方から、オルフェンの家族構成まで把握している。
家門記録院内部の人間だけではない。
王都の住民記録や生活圏へも触れられる組織。
「既に家族は、黒冠商会が保護しています」
ラファネスが答えると、男の目が僅かに動いた。
「なら、黒冠商会が死体を回収する手間が増えるだけだ」
「黒冠商会へ何を話した」
「マイト家の……家紋と、予言を」
「他には?」
「特別抹消家門録が、王家禁閲庫にあると」
「クライ・マイトの反応は?」
「驚いていた。何も知らない様子だった」
男は少しだけ安堵した。
「黒冠商会は、禁閲庫へ入る方法を探しているか」
「まだ」
「ならば問題ない」
この男の目的は、俺をマイト家へ導くことではない。
王家禁閲庫へ近づけたくない。
「書き写しを出せ」
ラファネスが震える手で紙を差し出す。
そして、男が白い札を掲げる。
「白き紙は罪を残さず、空白は名を持たず、記された過ちを灰へ返せ」
札から、音のない白い炎が広がった。
紙だけを焼く魔法ではない。
壁の記録番号。
卓へ刻まれた使用者名。
ラファネスの手元にある書き写し。
文字という文字が、一斉に薄れていく。
「《白紙葬送》」
対象の記録を、物理的な紙だけでなく、それを読んだ人間の短期記憶からも削る魔法。
オルフェンの姿をしたラファネスが、頭を押さえて膝をつく。
演技ではない。
模倣した表層脳へ、魔法が干渉している。
『クライ様』
ラファネスの声が、契約を通じて届いた。
『魔法構造を観測しました。再現に必要な対価は、血液換算十八ミリリットルです』
俺は懐から、事前に用意していた黒い小箱を取り出す。
中には、十センチ以上の髪が二十本。
「十八本を支払います。模倣を承認」
髪が白い粒子となり、壁を越えてラファネスへ吸い込まれた。
男は、異変へ気づかない。
白い炎に焼かれたラファネスが、完全に記憶を失ったと思っている。
そして、男が文字の消えた書き写しの書類をラファネスから奪った瞬間。
「白き紙は罪を残さず」
今度は。
ラファネスが同じ詠唱を始めた。
男の目が見開かれる。
「空白は名を持たず、記された過ちを灰へ返せ」
全く同じ魔力の流れ。
同じ発音。
同じ術式。
「《白紙葬送》」
白い炎が逆流した。
男の持つ書き写しではなく。
腰の内側へ隠していた命令書。
白い札。
短剣の所有刻印。
そして。
男自身の脳へ焼きつく、直前の行動記憶が消え始める。
「なぜ……!」
男は後退し、ラファネスへ短剣を突き出した。
刃が胸へ入る。
だが。
血は出なかった。
オルフェンの外見が白く崩れ、その下から、成人した俺によく似た執事の姿が現れる。
ラファネスは自分の胸へ刺さった短剣を見下ろし、礼儀正しく微笑んだ。
「申し訳ございません」
男の手首を掴む。
「わたくしは、そちらのオルフェン様ではございません」
骨が軋む。
男が短剣を離し、左手の白札を破ろうとした。
自害か。
証拠隠滅の術式。
俺は点検路から処分室へ踏み込み、《虚王顕現》を発動した。
――対象、襲撃者一名。
――認識付与。
――左手に持つ白札は、破れば自身の魂を永久に消滅させる禁具である。
――必要生命力、人間寿命換算二時間。
魂圧保存瓶から支払う。
「承認」
男の指が、札へ触れたまま止まった。
自害するための札であっても、死後に魂まで消えると信じれば、人間は一瞬ためらう。
その一瞬で十分だった。
ラファネスが男の腕を捻り、床へ押さえつける。
ヴェルゴラの黒い炎が、白札を焼いた。
「捕獲完了です、クライ様」
「殺していませんよね?」
「右手首と左肩を破壊したのみです」
「のみ、ではありません」
男は床へ押さえつけられながら、俺を見た。
黒髪。
金色の目。
黒冠商会の紋章。
その顔に浮かんだのは、驚きではない。
確認。
「クライ・マイト」
男が呟く。
「本当に、金色の目を」
知っている。
俺の外見を。
「誰の命令です?」
俺が尋ねても、男は答えなかった。
代わりに。
口元の布の下で、何かを噛んだ。
毒。
ラファネスが顎を押さえるより早い。
男の身体が痙攣し、口の端から黒い血が流れた。
「治療を」
「毒が魂へ到達しております。通常の解毒では間に合いません」
「死ぬまで?」
「二十秒ほどです」
尋問する時間はない。
だが。
脳はまだ生きている。
「ラファネス」
「はい」
「記憶を模倣できますか?」
「視覚による脳構造の観測には、頭部内部を確認する必要がございます」
「頭を開く?」
「生存中に行う方が、情報の欠損は少なくなります」
床の男が、僅かに目を見開いた。
やはり悪魔である。
「他の方法は?」
「わたくしが視覚器官を脳内へ侵入させます」
「それで」
「頭蓋骨を破壊する必要はございません。ただし、多少不快な光景となります」
今さら選んでいる時間はない。
「実行してください」
「対価は、記憶情報の完全模倣として血液三百ミリリットル相当です」
三百ミリリットル。
現在の俺が安全に提供できる最大量。
血液で払えば、学園へ入る前に倒れる。
だが。
俺には髪がある。
俺は外套の内側から、細い黒布で束ねた毛髪を取り出した。
三柱目との契約後、黒冠商会の理髪師へ事情を伏せたまま、内側の髪を少しずつ切らせたものだ。長さ十センチ以上、三百本の束。
外見からは分かりにくい位置を選んだが、ノアに見つかれば、伸ばすのか切るのかどちらかにしろと怒られるだろう。
「三百本を支払います。完全模倣を承認」
ラファネスの金色の目が、僅かに明るくなった。
「確かに受領いたしました」
三百本の髪が。
白い光へ変わる。
ラファネスの右目が、顔から静かに離れた。
血は出ない。
金色の眼球は、細い白い糸へ形を変え、床へ倒れた男の瞳孔から内部へ入り込んでいく。
不快どころではない。
オルフェンには絶対に見せられない光景だった。
男の身体が大きく跳ねる。
残り十秒。
ラファネスの髪が白く揺れ、頭部の周囲へ無数の仮面が現れる。
五秒。
男の目から光が消える。
三秒。
ラファネスの右目が元の位置へ戻る。
一秒。
襲撃者は、最後まで何も話さずに死んだ。
ラファネスはその場へ片膝をつき、右手で額を押さえる。
「模倣完了。人格情報は、わたくしおよびクライ様の精神へ影響しない隔離領域へ保存しました」
「名前は?」
「ディエゴ・ラス。王国の公的記録では、九年前に死亡したことになっております」
「所属」
ラファネスが目を閉じる。
他人の人生を、自分の記憶のように検索している。
「王家直属《歴史封緘局》の抹消執行官。任務は、王国へ不利益となる血統、記録、証言を歴史から除去すること」
マイト家を消した組織。
百年前から。
今も存在している。
「ネストは?」
「同じ組織の案内役です。オルフェン様へ転送台帳を発見させる任務を与えられていました」
俺は眉を寄せた。
「発見させて、その後に殺す?」
「正確には、オルフェン様が情報を誰へ渡すか確認するためです」
「目的は俺?」
「はい」
ラファネスが。
襲撃者の記憶から、一つの景色を再現する。
処分室の壁が白く染まり、映像のように別の部屋が現れた。
窓のない執務室。
顔を隠した人物。
白と黒を半分ずつ塗った仮面。
机の上には。
王立魔法学園で消えた孤児たちの名簿が置かれている。
仮面の人物が、ディエゴへ命令している。
『黒冠商会へ、孤児売買の帳簿を流せ』
『クライ・マイトが学園へ関心を持った後、家門記録院へマイト家の欠番を用意する』
『彼が自ら学園への潜入を選ぶよう、必要な道だけを見せろ』
俺は言葉を失った。
孤児売買の証拠。
マイト家の記録。
俺が自分で見つけ。
自分で考え。
自分の意思で学園へ入ると決めた。
そう思っていた。
だが。
全て。
誰かが俺の前へ並べた道だった。
『なぜ、そこまで遠回りを?』
記憶の中で。
ディエゴが尋ねる。
『拘束し、学園へ運べば済むのでは』
白黒の仮面が。
静かに首を振る。
『七十二禁書の契約者へ、道を強制してはならない』
『彼は、他人に与えられた選択肢を疑う』
『自分で利益を計算し』
『自分で危険を選び』
『自分が相手を騙したと確信した時だけ、最も深く罠へ入る』
俺の思考を。
知っている。
まるで。
前世から見ていたように。
『王立魔法学園へ入った後は?』
ディエゴの質問に。
仮面の人物は、一冊の古い名簿を開いた。
頁には。
百年以上前の学生名が並んでいる。
その最後。
現在の文字で。
一つだけ、新しい名前が書き込まれていた。
――クライ・マイト。
年齢。
十二。
出身。
王都西冠区。
属性。
空白。
備考。
三柱契約済み。
そして。
入学予定日。
今から二十七日後。
俺が学園への潜入を決めた翌日には、既に書かれている。
『彼には、入学してもらう』
白黒の仮面が言った。
『旧マイト家が百年前に残した、第零頁への扉を開かせるために』
記憶の映像が消える。
再び。
古文書処分室。
死んだディエゴ。
白い顔のラファネス。
壁の向こうで、興奮と警戒の間を揺れているリゼフィア。
ヴェルゴラは、珍しく何も言わない。
俺は。
床に落ちた黒冠の家紋の書き写しを拾った。
これまで。
相手へ選ばせるふりをして。
こちらの望む結論へ誘導してきた。
自分で選んだと思わせる。
自分で見つけたと思わせる。
自分が勝ったと思わせる。
俺が。
何度も使ってきた手口だ。
その手口を。
今度は俺が使われた。
「クライ様」
ラファネスが静かに尋ねる。
「王立魔法学園への潜入を、中止なさいますか?」
「いいえ」
即答した。
罠だと分かった。
相手が待っていることも。
こちらの考え方を知っていることも。
それでも。
学園で子供が消えている事実は変わらない。
黒冠学舎から送り出した少年も。
まだ戻っていない。
「相手は、俺が罠だと気づいた場合も想定しているでしょう」
「おそらく」
「それでも来ると?」
「クライ様の性格を理解しているなら」
ラファネスは、俺と同じ金色の目で答えた。
「罠だと知らされた程度で、大切な者を見捨てる方ではないと判断するかと」
腹が立つ。
俺より。
俺のことを分かっているような言い方だ。
「なら、行きます」
自分から罠へ入る。
ただし。
相手が用意した通りには動かない。
「学園は、俺を騙して呼び込んだと思っている」
俺は死んだ抹消執行官を見る。
「その認識は、入学まで壊しません」
相手はこちらを観察している。
ならば。
オルフェンは何も知らず、記録を見た後に殺されたことにする。
襲撃者は任務を成功させ、黒冠商会はマイト家の秘密へ気づいていない。
クライ・マイトは。
孤児を救うために。
自分の意思で王立魔法学園へ入る。
予定通り。
そう見せる。
「ラファネス」
「はい」
「ディエゴの外見、声、身体能力を模倣できますか?」
「既に完全な身体情報を保存しておりますので、肉体模倣の対価、血液二百ミリリットル相当で可能です」
また髪が必要だ。
少し痛い出費だが。
価値はある。
死んだはずの抹消執行官が。
任務成功の報告へ戻る。
相手の組織内部へ。
こちらの目を送り込める。
「髪は後で用意します」
「かしこまりました」
「それまで」
俺は襲撃者が持っていた白い札を拾う。
「ディエゴ・ラスは、死んでいないことにしましょう」
ラファネスが。
成人した俺の顔で微笑む。
「死者の人生を模倣し、本人として職場へ戻るのですね」
「問題があります?」
「いいえ」
彼は胸へ手を当て。
執事らしく、深く一礼した。
「ようやく、悪魔らしい仕事を任せていただけました」
言い方が少し怖い。
だが。
今回に限っては。
頼もしかった。
◇
翌朝。
黒冠商会王都支部の正面入口へ。
王立魔法学園の使者が現れた。
白い制服。
青い外套。
胸には。
王冠と七つの星を組み合わせた学園紋章。
使者は、受付へ一通の封筒を渡し、俺へ直接届けるよう求めた。
封蝋には。
王立魔法学園長の印。
宛名は。
クライ・マイト。
まだ王国貴族籍に復元されていない。
入学試験へ申し込んでもいない。
それでも。
中には。
正式な受験許可証が入っていた。
さらに。
一枚の短い手紙。
――旧マイト家の帰還を、王立魔法学園は歓迎する。
――あなたの席は、百年前から空けてある。
最後に。
差出人の署名。
王立魔法学園学園長。
アルベリク・ロズベル。
その名前の下へ。
手書きで一行が加えられていた。
――次は、あなたが私を騙す番だ。
俺は。
しばらく手紙を見つめた。
知らない相手から。
明確に挑発されている。
罠。
監視。
百年前の家門。
第零頁。
どれも危険だ。
それでも。
口元が少し上がるのを止められなかった。
「楽しそうね」
背後から、ノアの声がした。
「そう見えます?」
「悪いことを考えてる時の顔」
失礼な評価だ。
ただ。
否定はできない。
「入学試験まで、残り二十七日」
俺は受験許可証を折り畳み、黒冠商会の紋章が入った内ポケットへ入れた。
「まずは貴族になります」
存在しない家を作るつもりだった。
しかし。
百年前に存在を消された家が。
俺を待っている。
ならば。
新しく作る必要はない。
奪い返せばいい。
名前も。
歴史も。
王国が消した全てを。
そして。
王立魔法学園へ。
正面から入る。
「マイト家復元計画を変更します」
ノアが尋ねる。
「どう変えるの?」
俺は。
黒冠の紋章を卓へ置いた。
王国が隠した特別抹消家門録。
王家禁閲庫。
歴史封緘局。
学園長からの招待状。
必要な物は揃い始めている。
「反逆者として」
俺は言った。
「爵位を返してもらいます」




