第17話 借金持ちの役人には、功績を貸せ
翌朝、俺は黒冠商会王都支部の執務室で、ノアから髪を切るよう迫られていた。
「目に入ってるし、後ろも跳ねてる。学園の入学試験を受けるなら、少しは貴族の子らしく整えた方がいいわよ?」
「切りません。これから伸ばします」
「どうして急に?」
「将来への投資です」
俺がそう答えると、ノアは何かを察したような顔で一歩だけ距離を取った。
「十二歳になって、変なおしゃれに目覚めた?」
「違います」
「じゃあ、もしかして…誰かの好み…とか…?」
「もっと違います」
ノアは何かに納得した様子でそれ以上聞いてこなかった。
少し離れた場所では、成人した俺によく似た姿のラファネスが、今朝枕へ付着していた抜け毛を白い手袋で一本ずつ拾い、黒い布を敷いた小箱へ丁寧に並べていた。
「本日採取された毛髪は二十三本、そのうち十センチ以上が十六本、残りは比例換算で血液五・八ミリリットル相当になります」
「報告しなくて結構です」
「クライ様の細胞を一片も無駄にしないことは、わたくしの人間化における重要業務ですので」
「朝から人の抜け毛を数えている姿は、人間から少し遠ざかっていると思いますよ」
ラファネスは一瞬だけ動きを止めたが、すぐに何事もなかったように蓋を閉じた。
「では、人間らしくするため、名称を『成長記録保管箱』へ変更いたします」
「名称の問題ではありません」
ノアには、ラファネスを黒冠商会本部から派遣された新しい執事だと説明している。俺とよく似た容姿については、マイト家に古くから仕える一族が、主家へ似せた化粧と髪型を代々受け継いでいるという、説明している自分でも苦しくなる設定を用意した。
それでもノアは、ラファネスの正体を疑ってはいない。
黒冠商会本部からは、これまでも顔の見えない監査役や執行役、出所不明の素材や薬品が送られてきた。そこへ成人した俺のような執事が一人増えたところで、黒冠商会ならあり得ると受け入れてしまうらしい。
七年間かけて育てた信用は、少しくらい不自然な物を、むしろ本部の底知れなさを示す証拠へ変えてくれる。
「今日来る人が、マイト家を作ってくれるの?」
ノアは髪の話を諦め、卓の上に置かれた資料へ視線を落とした。
「作るのではなく、王国の記録から失われた家門を復元してもらいます」
「古い家なんでしょ?証拠はあったの?」
「その質問に自信を持って答えられるようにするのが、本日の仕事です」
ノアは俺の顔をじっと見た後、深く考えない方がいいと判断したらしく、融資申込書だけを確認して執務室から出ていった。
ラファネスが紅茶を用意しながら、穏やかな声で尋ねる。
「オルフェン・バラッド様へ、事実をお伝えにならないのですか?」
「伝えますよ。彼が最も信じたくなる形で」
「マイト家は、現時点では王国貴族籍に存在しておりません」
「だからといって、過去に存在しなかった証明にはなりません」
「存在した証拠も、まだございません」
「証拠は探せば見つかります」
「見つからない場合は?」
俺は紅茶を一口飲み、香りを確かめた。
「探す場所が悪かったことにします」
ラファネスは俺と同じ金色の目を細めると、心から感心したように一礼した。
「勉強になります、クライ様」
その言葉だけ聞けば、素直な執事である。
ただし、卓の下ではヴェルゴラが「また一体、駄目な方向へ教育されておる」と呟いていた。
◇
王国家門記録院の第三編纂官、オルフェン・バラッドが現れたのは、約束の時刻を半刻ほど過ぎてからだった。
年齢は三十七歳。茶色の髪は油で整えられ、濃紺の外套には下級貴族の家紋が刺繍されているが、袖口は擦り切れ、襟元には昨夜の酒と香水が混ざった臭いが残っている。
一見すれば、少し生活の荒れた役人にすぎない。
しかし、彼が手にしている杖の飾りは三日前に質屋へ入れた物の代用品であり、左手の結婚指輪は妻の前でだけ身につける偽物だった。
本物の指輪は、半年前に賭場へ置いている。
「お待たせして申し訳ない。記録院で急な確認作業が入りましてね」
オルフェンは、俺を子供として扱うべきか、黒冠商会王都支部代表として扱うべきか迷ったらしく、曖昧な笑みを浮かべながら向かいの椅子へ座った。
「賭場の支払いを、確認作業と呼ぶ制度が記録院にはあるんですか?」
彼の笑みが固まった。
「何の話かな」
「今朝、南区の賭場《金羊亭》へ金貨二枚を支払っていますね。現在の借入総額は金貨十八枚と銀貨四十一枚、三日後までに金貨八枚を返さなければ、担保に入れた記録院の印章箱が売却される」
ラファネスが、何も聞こえていないような顔で紅茶を置いた。
オルフェンの額へ、薄く汗が浮かぶ。
「私を調べたのか」
「融資希望者を調べずに金を貸す組織があるなら、そちらを紹介しましょうか。ただし、おそらく融資ではなく寄付になります」
「……黒冠商会は、個人の事情へ随分と詳しいようだ」
「返済能力の確認です。愛人の住居費として毎月銀貨三十枚、賭場への平均支出が銀貨五十枚、ご子息の学費と家計を合わせれば、現在の給金では金貨二十四枚を借りても返済できません」
オルフェンは、申込書へ記入した希望額を俺に読み上げられ、とうとう笑うのをやめた。
「なら、融資は不可能ということか」
「通常の条件なら」
「通常ではない条件がある?」
声に期待が混じる。
借金を抱えた人間は、自分に都合の悪い現実を突きつけられると、怒るか逃げるかのどちらかを選ぶ。しかし、その直後に救済策を見せれば、普段より遥かに悪い条件でも、地獄から伸びた一本の綱に見える。
重要なのは、綱を急いで渡さないことだった。
「先に確認します。あなたは家門記録院の第三編纂官として、どこまでの記録へ触れられますか?」
オルフェンは警戒するように目を細めた。
「融資と何の関係がある」
「質問へ答える前に、こちらの事情を話せと?」
「当然だろう」
「では、融資審査を終了します。ラファネス、出口まで」
「かしこまりました」
ラファネスが扉を開いた瞬間、オルフェンは椅子から腰を浮かせた。
「待ってくれ。別に答えないとは言っていない」
彼は自分から座り直し、紅茶へ手を伸ばした。交渉を打ち切られる可能性を見せるだけで、人間は先ほどまで拒んでいた情報を、自分の意思で差し出す。
「現行の貴族籍と、七十年以内に改訂された家門記録なら自由に確認できる。古い資料についても、業務上の理由があれば封印書庫への閲覧申請は出せるが、神殿の洗礼記録の追加や削除は上席編纂官と院長の承認が必要だ」
「神殿の洗礼記録もですか?」
「王国貴族籍へ新しい家系を登録する場合は照合する。ただし、内乱や災害で記録が失われた家門の復元なら、複数の二次資料と編纂官の調査報告で代用できる」
オルフェンはそこまで話し、自分が何を説明させられているのかに気づいた。
「まさか、存在しない貴族を登録しろという話ではないだろうな」
「そんな犯罪を、現役の編纂官へ依頼するほど馬鹿に見えますか?」
「見えないから警戒している」
「賢明です」
俺は卓の引き出しから、古びた帳簿を一冊取り出した。
革表紙は変色し、紙には虫食いがある。北西部の商人が九十四年前に記録した荷物台帳であり、帳簿そのものは本物だった。
ただし、最後の十数頁はほとんど使われずに残っていたため、昨夜ラファネスに古い筆跡を模倣させ、一部を書き足している。
使用したのは肉体模倣ではない。
彼が過去に観測した筆記動作の部分再現と、古物商から入手した同年代のインクだったため、対価は髪十二本で済んだ。
オルフェンは白い手袋をはめ、慎重に頁をめくる。
「北西部領の交易台帳か」
「黒冠商会本部の保管庫から発見された物です」
「本部は、こんな物まで持っているのか」
「本部の収蔵品を支部代表である俺が全て把握していると思います?」
質問へ質問で返すと、オルフェンは自分なりに納得したらしい。黒冠商会本部は、古い貴族の記録さえ保管する巨大組織であるという認識が、また一つ強くなる。
問題の頁には、内乱前の北西部へ運ばれた鉄、塩、薬草の数量と、その代金を支払った家名が並んでいる。
その中に、三度だけ《マイト家》という文字を混ぜてあった。
「馬鹿な」
オルフェンの指が止まる。
「この時代の北西部に、マイトという家門はない」
「貴族籍には?」
「少なくとも、私が知る範囲には存在しない」
「では、商人が三度も存在しない家へ荷物を売った?」
「同名の土地か、騎士家、あるいは書き間違いの可能性がある」
「そうかもしれません」
俺はあっさり引いた。
オルフェンは、こちらが反論すると予想していたらしく、少し意外そうな顔をする。
「認めるのか」
「俺は記録の専門家ではありません。黒冠商会本部からは、この帳簿と一人の子供が送られてきただけです」
「一人の子供?」
「七年前、北西部の旧領主家に連なる可能性がある孤児として、本部が保護しました」
俺は自分の胸へ指を当てた。
オルフェンの視線が、黒髪と金色の目、そして黒冠商会の紋章へ順番に動く。
「それが、君だと?」
「本部は俺をクライ・マイトと名づけ、王都支部の運営を任せた。そして12歳になるので学園へ入学させようとした。しかし最近になって、王立魔法学園への入学条件を調べたところ、王国の正式な家門記録にはマイト家が存在しないと分かった。」
全てが嘘ではない。
本部から送られた部分と、貴族家の子供という部分が嘘である。
黒冠商会という組織が俺を保護し、クライ・マイトとして育てたのは、俺の認識の中では事実だった。俺が作り、俺が所属し、俺が俺自身を保護しただけである。
「つまり、黒冠商会は君の身分を復元したい」
「正確には、調査してほしい。存在しないなら、それで構いません」
「構わない?」
「俺は既に黒冠商会王都支部代表です。貴族でなくても、生活には困っていない」
欲しがっていない姿を見せる。
本当に欲しい物を、相手へ知られてはいけない。
「ただ、本部は保護した子供の出自を曖昧なままにしておくことを望んでいない。あなたには、家門記録の専門家として、この帳簿が何を意味するのかを独立して調査してもらいます」
「偽造への協力ではないと?」
「むしろ逆です。偽物なら、偽物だと証明してください」
オルフェンは再び帳簿へ目を落とし、今度は前後の頁まで細かく確認し始めた。
「この記載方法は、当時の北西部商人が使った形式と合っている。しかし、家門名の横にある略号が違う」
「どこが?」
俺が身を乗り出すと、彼は少し得意そうに指を置いた。
「この丸印は、当主本人が支払った時の印ではない。領地の管理人が代理で支払った場合に使うものだ。マイト家が実在したとしても、当主はこの土地にいなかった可能性が高い」
「なるほど」
「さらに、荷物の届け先が《黒眼丘》となっているが、現在の地図にその地名はない。内乱後に改称されたのだろう」
「つまり、調べる価値はある?」
俺が尋ねると、オルフェンはすぐには答えなかった。
既に彼は、黒冠商会の依頼を検討しているのではない。
自分が見つけた丸印と地名の意味を確かめたくなっている。
人間は、他人から押しつけられた問題には慎重になるが、自分で発見した謎には驚くほど無防備になる。
「この帳簿だけでは何も証明できない。ただ、調査するなら家門記録ではなく、《北西部戦災地籍》から始めるべきだ」
「戦災地籍?」
「内乱後、持ち主が分からなくなった土地を整理した記録だ。家門そのものが抹消されていても、土地の旧所有者名が残っている場合がある」
俺は、初めて聞いたようにうなずく。
もちろん知っていた。
ノアが三日前に、記録院を退職した老書記官から聞き出している。
だが、その情報を俺から教えてはいけない。
調査方法は、オルフェン自身が提案する必要がある。
「あなたが確認できますか?」
「封印書庫にある。第三編纂官でも、私的な理由では入れない」
「では、業務上の理由を作ればいい」
「簡単に言うな。復元調査を正式業務へするには、少なくとも二つ以上の外部資料が必要だ」
「一つはこの帳簿」
「この帳簿が本物だと確認できれば、な」
「もう一つは?」
オルフェンは、自分の記憶を探るように顎へ手を当てた。
「北西部の神殿へ残る寄進簿、国境関所の通行記録、あるいは近隣領主との書簡。このうち一つでもマイト家の名が見つかれば、失われた家門の予備調査として申請できる」
自分から、必要な証拠を三つ挙げた。
これで俺は、どこへ何を置けば、彼が最も自然に信じるかを知った。
「では、黒冠商会が保有する資料から探します」
「見つかったとしても、私が本物だと判断する保証はない」
「当然です。偽物を本物だと言う編纂官へ、仕事を頼む価値はありません」
俺がそう言うと、オルフェンは僅かに胸を張った。
罪悪感を刺激するより、自尊心を利用した方が人間はよく働く。
賭博で借金を作り、職場の印章箱まで担保へ入れた男でも、自分は記録を守る専門家であるという誇りだけは残っている。
そこを否定せず、むしろ強化する。
「報酬は?」
オルフェンが尋ねた。
ようやく、本題へ来た。
「調査着手金として金貨八枚。予備調査が正式に受理された時点で、追加の金貨十六枚を融資します」
「融資なのか、報酬なのか」
「金貨八枚は報酬です。追加分は年利一割の融資ですが、マイト家の復元が認められた場合、黒冠商会から支払う家門発見報奨金で相殺します」
「発見報奨金はいくらだ?」
「金貨三十枚」
オルフェンの目が動いた。
金貨八枚をすぐに受け取り、調査が通れば十六枚を借りられる。家門復元まで成功すれば、借金を返済した上で手元へ金が残り、さらに失われた家門を発見した編纂官として功績まで得られる。
彼の中では、既に利益の計算が始まっている。
「復元が認められなかった場合は?」
「金貨十六枚の返済期限を一年後にします。家門の存在を証明できなかったことを理由に、あなたを責めるつもりはありません」
「黒冠商会に利益がない」
「本部は、俺の出自へ金貨二十四枚程度を惜しみません」
利益を度外視できる組織。
それもまた、黒冠商会本部が巨大であるという証拠になる。
オルフェンは契約書を受け取り、一行ずつ慎重に読み始めた。契約内容は、先ほど口頭で説明した通りであり、不正な記録操作を求める文言は一つもない。
依頼するのは、歴史資料の真正確認と家門復元に関する調査業務だけ。
記録の追加や修正についても、王国法と家門記録院の手続きに従うと明記した。
彼は、自分が犯罪へ誘われているのではなく、過去の誤りを正す仕事を任されたのだと信じ始めている。
「この守秘条項は?」
「正式な予備調査が始まる前に情報が漏れれば、偽の相続人や土地の所有権を主張する者が現れる可能性があります。調査の公平性を守るためです」
もっともらしい理由。
実際には、こちらの証拠が揃う前に他の記録官へ相談されると困るからである。
「黒冠商会側の証人は、この執事だけか」
オルフェンがラファネスを見る。
「ラファネスは本部から派遣された、マイト家の臨時家令です」
「臨時ではございますが、クライ様が家門を復元された後も、末永くお仕えする予定です」
ラファネスは完璧な礼をした。
成人した俺によく似た顔。
礼儀正しい振る舞い。
本部から派遣された家令。
オルフェンの目には、没落した貴族家の生き残りを支える忠実な使用人として映っている。
「君と似ているな」
「マイト家へ長く仕えた一族だそうです」
「親族では?」
「無関係です」
ラファネスが、穏やかな笑顔で補足する。
「将来的には、クライ様と同じ人間になることを目標としております」
俺は即座に口を挟んだ。
「主家と同じ価値観を持つという意味です」
「なるほど」
オルフェンは納得した。
ラファネスには、今後、人間化への願望を外部で説明しないよう改めて教育する必要がある。
やがて彼は契約書の最後まで読み終えると、羽根筆を取った。
「私は、偽造には関わらない」
「もちろん」
「資料が偽物だと判断した場合は、調査を打ち切る」
「そのために雇います」
「私の専門家としての判断へ口を出さない」
「反論はしますが、最終的な報告内容はあなたへ任せます」
完全に自由だと言わない方が、かえって信じられる。
オルフェンは署名した。
白い契約書へ、王国家門記録院第三編纂官の名が刻まれる。
最初の一歩。
彼はまだ、マイト家の登録へ協力すると約束していない。
ただ、帳簿の価値を調べるだけ。
それで十分だった。
人間へ大きな罪を犯させたいなら、最初に頼むのは罪ではなく、誰でも断らない小さな親切でなければならない。
一度、自分はこの計画へ関わると決めた人間は、その判断が間違いだったと認めないため、次の小さな頼みも引き受ける。
そして、振り返った時には。
最初なら絶対に越えなかった線の、遥か向こう側へ立っている。
「着手金です」
俺は金貨八枚の入った袋を卓へ置いた。
オルフェンは、すぐには手を伸ばさなかった。
「調査前に受け取るのか」
「契約へ署名しましたから」
「黒冠商会は、私が金を持って逃げるとは考えない?」
「考えています」
「それでも渡す?」
「逃げた場合は、あなたが担保へ入れた印章箱を先に買い取ります。その後、記録院へ匿名で返却すれば、あなたが公用物を持ち出した事実だけが残る」
オルフェンの顔が青ざめた。
「脅しか」
「融資契約における債権保全です」
「同じだろう」
「言葉を変えても結果が同じなら、聞こえのいい方を選びましょう」
俺は笑った。
オルフェンは金貨の袋を見つめ、数秒後に手へ取った。
もう戻れない。
少なくとも。
彼自身は、そう思った。
◇
オルフェンが帰った後、ノアが執務室へ戻ってきた。
「貸したの?」
「金貨八枚を支払いました」
「返ってくる?」
「返す必要はありません。報酬ですから」
ノアは、オルフェンが署名した契約書を読みながら眉を寄せた。
「この人が、本当にマイト家を見つけたら金貨三十枚も払うの?」
「払います」
「随分と高いわね」
「王立魔法学園への入学資格と、王国が認める貴族身分が手に入るなら安い」
「見つからなかったら?」
「見つけますよ」
「なんでわかるの?」
俺は卓へ北西部の古地図を広げ、オルフェンが自分から挙げた三つの記録を指で示した。
神殿の寄進簿。
国境関所の通行記録。
近隣領主との書簡。
「人は、自分が指定した場所から出てきた証拠を疑いにくい。俺が百枚の資料を見せても、こちらが用意したと考えるでしょうが、彼自身が調べるべき場所を選び、その場所から発見すれば、それは彼の成果になります」
「そこに、マイト家の記録があるの?」
「これから確認します」
「作るんじゃないでしょうね?」
ノアの目が少し細くなる。
七年前なら、俺の説明をそのまま信じただろう。
今のノアは、黒冠商会の調査部長として、俺が都合の悪い部分を省略する癖を知っている。
「本物の古い記録が残っていないか探し、必要なら不足している経路を補強します」
「補強」
「調査用語です」
「クライ用語でしょう」
完全には納得していない。
それでも。
王立魔法学園で消えた孤児を探すために必要だと説明しているため、止めるつもりもないらしい。
ノアは契約書を卓へ戻すと、俺の少し伸びた髪を指先でつまんだ。
「これも、そのため?」
「能力使用料です」
「何の能力?」
「本部の機密です」
「便利な言葉ね、本部」
「俺もそう思います」
ノアが呆れた顔で部屋を出た後、ラファネスが尋ねる。
「今夜から、証拠を配置いたしますか?」
「いいえ」
「なぜでしょう」
「最初から全て揃っていれば、不自然です。彼には一度、何も見つけられない時間が必要になる」
人間は簡単に手に入れた答えを軽く扱う。
苦労して見つけた答えほど、価値を高く感じる。
今夜。
オルフェンは、家門記録院の通常書庫を調べる。
当然、マイト家は見つからない。
明日。
別の記録を確認する。
それでも見つからない。
焦り始める。
既に金貨八枚を受け取った。
賭場の借金へ支払った。
後戻りできない。
その時に。
小さな痕跡を一つだけ見つけさせる。
「発見は、飢えた後の方が美味しく感じるものです」
「クライ様は、人間の欲望を食事へ例えることが多いのですね」
「悪魔に言われたくありません」
「わたくしは、クライ様の毛髪を食事と考えたことはございません」
「その言い方は、考えたことがある人の言い方です」
ラファネスは微笑んだまま、否定しなかった。
◇
予定では。
オルフェンが最初の痕跡を見つけるのは、三日後になるはずだった。
しかし、その日の深夜。
黒冠商会王都支部の裏口が、激しく叩かれた。
三回。
間を置かず、さらに四回。
緊急の合図ではない。
ただ、叩いている者が冷静さを失っている音だった。
俺が執務室から下りると、夜番の職員が既に扉を開けている。
そこに立っていたのは、オルフェンだった。
髪は乱れ。
外套の留め具は外れ。
顔色は、死人のように青い。
「どうしました?」
俺が尋ねると、彼は周囲を何度も確認してから建物へ入り、自分の背後で扉を閉めた。
「君は」
声が震えている。
「本当に、何も知らないのか」
「質問の範囲が広すぎます」
「マイト家だ!」
オルフェンは、懐から折り畳まれた紙を取り出した。
紙そのものは新しい。
家門記録院から持ち出せない資料を、急いで書き写したものらしい。
「私は今日、通常書庫を調べた。貴族籍にも、廃絶家門録にも、北西部領主一覧にも、マイト家はなかった」
予定通り。
「ならば、存在しなかった可能性が高い?」
「違う」
オルフェンは強く否定した。
「存在しなかった家門には、削除された跡など残らない」
彼が差し出した紙には。
一つの古い記録番号。
二本の横線。
そして。
閲覧禁止を示す特殊な印が写されていた。
「通常書庫の索引に、不自然な空白があった。前後の記録番号を照合したところ、百二年前の家門記録が一件だけ抜かれている」
「それがマイト家だと?」
「最初は分からなかった。だが、欠番の裏に残った転送記号を追ったところ、王国貴族籍ではなく、《特別抹消家門録》へ移されていた」
聞いたことのない名だった。
「どんな記録です?」
「王国へ反逆し、家名だけでなく、存在した事実そのものを消すと決められた家門の記録だ。編纂官でも、通常は存在を知らされない」
オルフェンの手が震えている。
俺は、ヴェルゴラとリゼフィアを見る。
二体とも。
先ほどまでとは違う表情をしていた。
俺たちは。
そんな記録を用意していない。
「なぜ、あなたが見つけられた?」
「欠番を調べるため、古い転送台帳を開いた。そこに、家名の一部が残っていた」
オルフェンが、書き写した古代文字を指す。
摩耗して。
完全には読めない。
だが。
確かに。
《マイト》と読めた。
「記録を確認したんですか?」
「封印書庫のさらに下、《王家禁閲庫》へ移されている。私の権限では入れない」
「では、今分かるのは、同じ名の家門が存在した可能性だけ」
「それだけではない」
オルフェンは。
もう一枚の紙を出した。
今度は。
簡単な図柄が描かれている。
王冠。
その中央に。
金色で塗られた、一つの目。
周囲を囲む。
切れた鎖。
俺たちが。
七年前に作った。
黒冠商会の紋章と。
ほとんど同じだった。
「この紋章は」
オルフェンが。
俺の胸にある黒冠商会の印を見る。
「マイト家が抹消される前に使っていた家紋だ」
誰も。
声を出さなかった。
俺が黒冠商会の紋章を作ったのは。
五歳の時。
黒い王冠。
金色の目。
切れた鎖。
強そうで。
秘密組織らしく。
俺の金色の目と。
悪魔との契約を象徴する形を。
自分で選んだ。
百年以上前の家門から。
盗んだ覚えなどない。
「クライ」
ヴェルゴラが。
低い声で俺を呼ぶ。
「偶然ではない?」
『三つの象徴全てが重なる確率を、貴様は偶然と呼ぶか?』
リゼフィアも。
いつもの恍惚とした顔ではない。
無数の扉を背後へ浮かべ。
遠い何かを探るように目を閉じている。
『この紋章には、古い道の匂いがありますわ』
「どこへ続く道です?」
『分かりません』
リゼフィアが目を開く。
赤紫色の瞳に。
初めて見る警戒が浮かんでいた。
『ですが、七十二の扉へ触れています』
七十二。
背神契約大典。
七十二の悪魔。
第零頁。
オルフェンには。
二体の声も姿も見えない。
彼は、黙り込んだ俺を不安そうに見つめている。
「君は、この家紋をどこで知った?」
「知りませんでした」
「嘘をつくな!」
「俺は、この家紋を初めて知ったと認識しています。」
ガルドの魔眼なら。
反応しない。
だが。
それは。
本当に自分の発想だったという証明にはならない。
転生。
秩序神セレディア。
ゴミ箱へ捨てられた俺。
マイトという姓。
背神契約大典。
黒冠の紋章。
偶然だと思っていた物が。
一本の線へつながり始める。
「オルフェン」
俺は。
できるだけ平静な声で尋ねた。
「特別抹消家門録へ移された理由は?」
「索引には、短い分類記号しかなかった」
彼は。
紙の一番下に書かれた。
二つの古代文字を指した。
背神。
神へ背いた者。
「それから」
オルフェンの指が。
もう一つの文字列へ移る。
「家門の最終当主が処刑される直前に残した言葉が、一行だけ転送台帳へ写されていた」
「何と?」
オルフェンは。
俺の金色の目を見ながら。
掠れた声で読み上げた。
「――黒冠は、百年後に帰還する」
旧マイト家の抹消から。
百二年。
俺がこの世界へ生まれて。
十二年。
存在しない貴族家を作るつもりだった。
だが。
どうやら。
俺たちが作ろうとしていた嘘は。
百年前から。
俺が来るのを待っていたらしい。




