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第16話 悪魔は血を欲し、詐欺師は髪を売る

音のない白い空間。


俺の前には、顔のない悪魔が立っていた。


第二十一座。


名前、記憶、模倣を司る者。


無貌公ラファネス。


その手には。


王立魔法学園の紋章が刻まれた、白い仮面。


『あなたが欲しいのは』


『魔力ですか』


『他人の秘密ですか』


『それとも』


『誰かの人生そのものですか?』


「全部」


俺は答えた。


「値段次第で、買いましょう」


無貌の悪魔が。


存在しない口で笑った気がした。


『では』


『あなたの本当の名前から、交渉を始めましょう』


「お断りします」


即答した。


白い空間が静まる。


『……なぜ?』


「交渉開始前に、こちらの最高機密を無料で渡す理由がありません」


『名前は、契約者を特定するために必要です』


「クライ・マイトで十分でしょう」


『それは、この世界で与えられた名』


「現在の俺を指す名前です」


『前世の名も、あなたを構成する一部です』


「ならば」


俺は顔のない悪魔を見る。


「あなたの本当の名前から教えてください」


沈黙。


『わたくしは、無貌公ラファネス』


「それは座名と呼称でしょう?」


『……』


「公平にいきましょう」


「俺の本当の名前が必要なら、あなたも同じ物を差し出す」


ラファネスは。


しばらく俺を見つめた。


顔はない。


それでも。


わずかに困っているのが分かる。


『契約前から、これほど面倒な方は初めてです』


「褒め言葉として受け取ります」


ヴェルゴラが。


少し離れた場所で笑った。


『最初から折れておけ。こやつは一文ごとに穴を探すぞ』


リゼフィアも。


無数の扉の一つから顔を出している。


『契約書へ署名するまで、三日は覚悟した方がよろしいですわ』


「あなた方は黙っていてください」


二体とも。


自分が騙された自覚を持ち始めているらしい。


遅い。


◇


「まず、能力の説明を」


俺が言うと。


ラファネスは白い仮面を持ち上げた。


『わたくしの禁術は、《万象模倣》』


仮面の表面へ。


一人の男が映る。


ガルド。


次の瞬間。


目の前のラファネスが。


ガルドと同じ姿になった。


顔。


身長。


傷。


左の魔眼。


服装。


声まで同じ。


『一度、視覚へ収めた対象を再現します』


姿が変わる。


今度はザイラス。


筋肉質な身体。


赤い蛇の刺青。


縦に裂けた右目。


さらに。


ノア。


マナ。


俺。


次々に姿を変えていく。


精度が高すぎる。


《虚王顕現》は。


相手の認識を操る。


信じたものを、現実へ近づける禁術だ。


だが。


《万象模倣》は違う。


最初から。


本物と同じ形を再現する。


「外見だけ?」


『いいえ』


ラファネスが。


再びガルドの姿になる。


片手で。


床から生えた銀色の柱を持ち上げた。


ガルドの筋力。


体格。


身体能力。


全てを再現している。


『骨格』


『筋肉』


『内臓』


『感覚器官』


『身体へ刻まれた技術』


『対象の肉体を、観測した時点の状態で模倣できます』


「病気や傷も?」


『望むなら』


「不要な部分は除外できる?」


『可能です』


強い。


鍛えた人間を一度見れば。


その肉体を自分へ再現できる。


剣士。


獣人。


魔族。


相手が人間である必要すらないかもしれない。


「記憶は?」


『肉体の一部です』


ラファネスの頭部が。


透明になる。


皮膚。


骨。


脳。


細い光の線が、無数に走っていた。


『脳とは』


『経験を記録した肉です』


『思考』


『知識』


『感情』


『無意識の癖』


『忘れたと思っている記憶』


『視覚へ収めた対象の脳を模倣し、情報として再現します』


「つまり」


「相手の記憶を読める?」


『その者が覚えている限り』


『誰へ何を話したか』


『どこへ物を隠したか』


『誰を愛しているか』


『どの罪を忘れたふりをしているか』


『全て』


王立魔法学園。


孤児売買。


関係者の顔さえ見つければ。


脳を模倣し。


記憶から証拠を探せる。


尋問も。


拷問も。


自白もいらない。


えげつない。


禁術と呼ばれる理由が分かる。


「魔法は?」


『当然、再現できます』


ラファネスの指先へ。


小さな炎が灯る。


ヴェルゴラの黒い炎ではない。


一般的な火属性魔法。


次に水。


風。


光。


いずれも。


誰かが使った術を見て覚えたものらしい。


『魔法陣』


『詠唱』


『魔力の流し方』


『術者の魔力路』


『全てを模倣すれば』


『契約者自身の魔法として再現できます』


「俺に魔力路がなくても?」


『模倣した身体の一部として』


『仮の魔力路を形成します』


王立魔法学園の入学試験。


魔力量測定。


属性判定。


魔法実技。


全て通過できる。


欲しい。


俺が必要としていた能力。


そのものだ。


「代償は?」


俺が尋ねると。


ラファネスは。


ゆっくりと手を差し出した。


『血液です』


「誰の?」


『契約者本人』


「他人の血液は?」


『認めません』


「魔物」


『不可』


「家畜」


『不可』


「死体」


『不可』


「保存されている過去の血液は?」


『あなたから採取したものなら、鮮度に応じて』


厳しい。


ヴェルゴラは。


他者や魔物の生命力で代償を支払える。


リゼフィアは。


歩いた道の記憶を複製するだけでいい。


それに比べ。


自分の血液だけ。


使用すれば、確実に身体へ負担がかかる。


「なぜ血液なんです?」


ラファネスが。


自分の胸へ手を当てた。


『わたくしは、人間になりたい』


静かな声だった。


先ほどまでの不気味さとは違う。


明確な願望。


『無貌公は』


『誰にでもなれる』


『だからこそ』


『何者でもない』


ラファネスの姿が。


次々に変わっていく。


老人。


少女。


兵士。


貴族。


獣人。


魔族。


最後に。


顔のない影へ戻った。


『姿を模倣しても』


『それは借りた形にすぎません』


『記憶を模倣しても』


『借りた人生にすぎません』


『わたくし自身の顔』


『わたくし自身の身体』


『わたくし自身の人生は』


『どこにも存在しない』


白い空間へ。


何千もの仮面が浮かんだ。


全て。


誰かの顔。


ラファネス自身の顔は。


一つもない。


『契約者本人の血液を得ることで』


『その人間の情報を』


『少しずつ、わたくしへ蓄積する』


『血』


『肉』


『感情』


『記憶』


『魂へ近づき』


『最後には』


『契約者と同じ、一人の人間になる』


「俺になることが目的?」


『ええ』


「俺を乗っ取る?」


『いいえ』


ラファネスは即座に否定した。


『あなたを消せば』


『比較する原本を失います』


『わたくしは』


『あなたを模倣して生まれた』


『もう一人のクライ・マイトとなりたい』


重いタイプの悪魔だ…。


それに。


かなり気持ち悪い。


『失礼な感情を観測しました』


「まだ記憶をコピーしていませんよね?」


『表情に出ています』


リゼフィアと同じことを言われた。


気をつけよう。


「目的は理解しました」


俺は言う。


「しかし」


「血液である必要はありませんよね?」


『……何?』


ラファネスの顔はない。


それでも。


明らかに止まった。


「あなたが必要としているのは」


「俺という人間を構成する情報です」


「血液そのものを飲みたいわけではない」


『ええ』


「ならば」


俺は自分の髪へ触れる。


十二歳になり。


五歳の頃より少し長くなった黒髪。


「髪の毛でもいい」


ラファネスが固まる。


「爪」


「唾液」


「鼻水」


「皮膚」


「汗」


「抜けた歯」


「身体から出た物でも」


「俺の細胞が含まれているなら」


「俺を構成する情報は入っている」


ラファネスは。


動かない。


白い空間が。


異様な静けさに包まれる。


「血液に限定する理由は?」


『今まで』


ゆっくり答える。


『契約書へは』


『血液で署名させていました』


「それは契約の形式です」


『血液には、契約者の情報がある』


「他の細胞にもありますよ?」


『……』


「爪も」


『……』


「髪も」


『……』


「鼻水も」


『鼻水も……!』


無貌の悪魔の背後へ。


無数の仮面が一斉に現れた。


『確かに!』


初めて。


ラファネスの声に。


明確な興奮が混じる。


『血液だけが、人間の情報を持つわけではない!』


「そうですね」


『髪には成長の記録がある!』


「ええ」


『爪には、時間と栄養状態が刻まれる!』


「その通り」


『唾液にも!』


「細胞は含まれます」


『鼻水にも!』


「そこを強調しなくて結構です」


ラファネスは。


俺の周囲を歩き始めた。


顔はないまま。


声だけが弾んでいる。


『何という発想!』


『今まで誰も、そのような提案をしなかった…!』


「契約者が思いつかなかった?」


『全員』


『血液を要求すると』


『恐怖し』


『値切り』


『最後には署名した』


「悪魔側も?」


『血液こそ契約者の証明だと』


『疑いもしなかった』


なるほど。


悪魔も。


前例を疑わない。


前例が長く続けば。


本来の目的と。


手段が入れ替わる。


契約書に血で署名する。


だから代償も血液。


誰も。


なぜ血液なのか考えなかった。


「では」


俺は言った。


「代替支払いを認めてください」


『認めましょう!』


即答。


ヴェルゴラが。


小さく笑った。


『落ちたな』


リゼフィアも。


楽しそうに口元を隠す。


『まだ入口ですわ』


その通り。


交渉は。


ここからだ。


◇


「使用料を提示してください」


ラファネスが。


空中へ白い契約書を出した。


銀色の文字が並ぶ。


『記憶および人格情報の完全模倣』


『契約者の血液、千二百ミリリットル』


「却下」


『肉体能力の完全模倣』


『八百ミリリットル』


「却下」


『魔法の模倣は』


『術式の規模により、百ミリリットルから――』


「話になりません」


俺は契約書を閉じた。


ラファネスが。


少し動揺する。


『高すぎますか?』


「死にます」


『ですが…』


「貧血で動けなくなれば」


「能力を得ても使えません」


「何より」


俺はラファネスを見る。


「俺が死ねば」


「あなたは人間になれない」


無貌の悪魔が止まる。


「あなたが得るべき利益は」


「一回の契約料ではありません」


「俺が生きている間」


「何年も」


「何十年も」


「継続して得られる細胞です」


前世の商売で。


何度も使った考え方。


一度に大金を取るより。


少額を長期間払わせる。


定期契約。


継続課金。


顧客生涯価値。


「最初の一回で俺を壊せば」


「最大でも千二百ミリリットル」


「俺を守り」


「能力を使い続けさせれば」


「最終的に得られる量は、その何十倍にもなる」


『……確かに』


「短期利益を優先するか」


「最終目的である人間化を優先するか」


「どちらです?」


『人間になることです』


「なら」


俺は再び契約書を開いた。


「契約者が安全に支払える量まで下げるべきです」


『どの程度を想定しています?』


「成人男性が、一度に提供できる血液量の上限は」


俺は前世の知識を思い出す。


「およそ四百ミリリットル」


この世界の医学基準ではない。


前世の献血量を基準にした数字だ。


「ただし」


俺は現在十二歳。


成人男性より。


体重も。


血液量も少ない。


「今の俺なら」


「最大でも三百ミリリットル」


ラファネスは考える。


『では』


『記憶模倣を四百ミリリットル』


「三百」


『肉体模倣を三百』


「二百」


『下げすぎです』


「一度使って死ぬ契約者と」


「何度も使う契約者」


「どちらが得です?」


『……後者』


「記憶模倣、三百」


「肉体模倣、二百」


「魔法は、使用前に必要量を表示」


「俺が承認した場合のみ徴収」


『記憶は三百五十』


「三百」


『肉体は二百五十』


「二百」


『せめて、どちらかを――』


「では契約を見送ります」


俺は契約書を閉じる。


『お待ちください』


「他の悪魔を探します」


『そのような模倣能力を持つ者は、わたくしだけです』


「別の方法で学園へ入ります」


『記憶を読むことは?』


「拷問でもできます」


本当は。


できればやりたくない。


だが。


ラファネスは。


俺が前世で何をしてきたか。


魂の道から、ある程度察している。


「あなたの能力は便利です」


俺は言う。


「必要不可欠ではない」


これは交渉で重要だ。


欲しがっていると知られた時点で。


価格は上がる。


代わりがない商品ほど。


売り手は強くなる。


だから。


代わりがあるように見せる。


契約しなくても。


困らないふりをする。


『……記憶、三百』


ラファネスが言った。


『肉体、二百』


「成立」


まず二つ。


次。


髪。


「髪の毛は」


「長さ十センチの一本を」


「血液一ミリリットル相当とします」


今度は。


ラファネスが即座に反応した。


『釣り合いません!』


当然だ。


血液一ミリリットルには。


大量の細胞や情報が含まれている。


髪一本。


しかも十センチ。


細胞情報の量として。


釣り合うはずがない。


だから。


別の価値を作る。


「血液は」


俺は言う。


「身体の中を循環する消耗品です」


『消耗品?』


「入れ替わる」


「混ざる」


「同じ一滴を、後から識別できない」


「髪は違う」


俺は一本の髪をつまむ。


「一本の根元から」


「一本の先端まで」


「俺が過ごした時間が、連続して記録されている」


「十センチなら」


「十センチ分の成長」


「食べた物」


「体調」


「過ごした季節」


「血液にはない」


「時間方向の俺が残っている」


ほとんど詭弁だ。


科学的に。


髪から分かる情報はある。


だが。


一本で血液一ミリリットルへ相当するはずはない。


それでも。


ラファネスが求めているのは。


単純な細胞量ではない。


人間になるための情報。


そう定義したのは。


ラファネス自身だ。


「あなたは」


「俺の肉を集めたいのではない」


「俺という人間になりたい」


『ええ』


「ならば」


「量より」


「時間と個体性の方が価値を持つ」


『時間と……個体性』


食いついた。


「髪一本は」


「俺の身体が作り」


「俺の頭から生え」


「他の一本とは異なる時間を過ごした」


「同じ髪は」


「二度と生まれません」


『二度と……』


ラファネスの背後で。


仮面が震える。


希少性。


限定品。


唯一性。


人間は。


同じ品質の物でも。


「世界に一つ」と言われるだけで。


価値を高く感じる。


悪魔も。


大して変わらないらしい。


「十センチ一本」


「血液一ミリリットル」


『しかし』


「嫌なら」


「血液のみの支払いに戻しましょう」


俺は肩をすくめる。


「ただし」


「俺は死なないために」


「能力をほとんど使わなくなる」


「あなたが得る血液も減ります」


『……』


「髪を認めれば」


「俺は能力を使うために」


「髪を伸ばす」


『髪を……伸ばす』


「あなたのために」


ここを強調する。


「長く」


「何年も」


「俺という人間が過ごした時間を」


「継続的に提供する」


ラファネスの身体が。


わずかに震えた。


人間になりたい悪魔にとって。


自分のために契約者が身体を変える。


その事実は。


かなり魅力的に映るらしい。


『十センチ一本』


ラファネスが言った。


『血液、一ミリリットル相当』


「成立」


内心。


静かに決意する。


髪を伸ばそう。


かなり伸ばそう。


記憶の完全模倣なら。


十センチの髪が三百本。


肉体なら二百本。


人間の頭髪は。


普通に生活していても毎日抜ける。


切った髪も使える。


血液を三百ミリリットル抜くより。


圧倒的に軽い。


ほぼ無料。


ラファネスは。


俺のために髪を伸ばさせたと喜んでいる。


俺は。


能力使用料を。


抜け毛で支払える。


双方が得をしている。


俺の方が。


かなり得をしているだけだ。


「爪や唾液などは?」


『提供される情報量に応じ』


『発動前に換算量を提示します』


「俺が承認した場合のみ」


『ええ』


「勝手に抜くことは禁止」


『もちろん』


「寝ている間に髪を切ることも」


『……』


「今、迷いました?」


『少し』


「禁止です」


契約書へ追加させる。


◇


「次に」


俺は言った。


「契約者の安全保護」


『能力の提供以外も求めるのですか?』


「当然です」


これまで。


ヴェルゴラは契約へ厳格だ。


契約にない協力は。


基本的に有料。


リゼフィアも。


道へ関すること以外は。


好き勝手に動く。


二体とも。


俺を嫌ってはいない。


必要なら助けることもある。


だが。


義務ではない。


今回は。


最初から全面協力させる。


「あなたの目的は」


「俺と同じ人間になること」


『ええ』


「俺が死ねば」


「原本を失う」


「俺の記憶が壊れれば」


「不完全な人間になる」


「身体が欠損すれば?」


『同じ形へ至れなくなる可能性があります』


「ならば」


俺は契約書へ。


新しい条項を書き込む。


「ラファネスは」


「契約者クライ・マイトの生命」


「肉体」


「精神」


「記憶」


「魂」


「自由意思を保護する義務を負う」


『範囲が広い』


「あなたの利益です」


「壊れた俺になりたいんですか?」


『嫌です…』


「では必要です」


さらに。


「契約者へ危険が迫った場合」


「命令を待たず、救出、防御、退避を行う」


「戦闘時は」


「契約者の敵を特定し」


「契約者の指示に従って共に戦う」


「日常では」


「情報収集」


「分析」


「交渉補助」


「身分偽装」


「潜入」


「その他、目的達成に必要な業務へ協力する」


『それでは』


ラファネスが言う。


『わたくしは』


『あなたの従者ではありませんか』


「違います」


俺は即座に否定する。


「あなたは」


「未来の俺です」


ラファネスが止まった。


「俺と同じ人間になりたいなら」


「俺がどう考え」


「何を選び」


「誰を守り」


「どう敵を倒すか」


「最も近くで観察する必要がある」


「俺のそばで働くことは」


「人間化のための学習です」


詐欺師は。


相手が嫌がる義務を。


相手の望む利益へ言い換える。


雑用。


護衛。


戦闘。


情報収集。


そのまま提示すれば。


悪魔は従属だと感じる。


人間になるための実地教育。


そう呼べば。


価値のある権利になる。


『あなたを守り』


『あなたと戦い』


『あなたの判断を観察する』


「そうです」


『あなたと同じ人間になるために』


「その通り」


『……合理的です』


完全に信じた。


リゼフィアが。


扉の向こうで笑いをこらえている。


ヴェルゴラは。


少し離れた場所で。


哀れな者を見る顔をしていた。


二体とも。


初対面の頃の自分を思い出しているのだろう。


「秘密保持も」


俺は続ける。


「俺の許可なく」


「記憶」


「前世」


「契約内容」


「黒冠商会の真実を第三者へ伝えない」


『認めます』


「俺の姿で勝手に出歩かない」


『緊急救助の場合は?』


「俺を守る目的に限り」


「事後報告を条件に許可」


『認めます』


「俺の記憶を無断で模倣しない」


一瞬。


ラファネスが止まる。


『人間化には、あなたの記憶が必要です』


「その都度、交渉してください」


『では』


『あなたが死亡する危険があり』


『意思確認が不可能な場合は?』


「救命に必要な範囲のみ」


「記憶を参照できる」


『認めます』


「俺の身体を乗っ取らない」


「俺と入れ替わり、社会的地位を奪わない」


「俺の名義で勝手に契約しない」


「俺の細胞を使って、俺へ敵対する存在を作らない」


『……細かい』


「契約は細かい方がいい」


リゼフィアが。


遠い目をした。


ヴェルゴラは。


聞こえないふりをしている。


最終的な契約書が。


白い空間へ広がった。


---


契約者クライ・マイトは、第二十一座・無貌公ラファネスより、禁術《万象模倣》を行使する権利を与えられる。


《万象模倣》は、契約者またはラファネスが視覚によって明確に観測した対象について、外見、声、身体構造、身体能力、感覚、技術、魔力路、魔法、脳構造および記憶情報を、選択した範囲で再現する。


記憶情報の完全模倣に必要な基本対価は、契約者本人の血液三百ミリリットル相当とする。


肉体および身体能力の完全模倣に必要な基本対価は、契約者本人の血液二百ミリリットル相当とする。


魔法の模倣については、術式の規模、構造、威力および持続時間に応じ、発動前に必要対価を提示する。


全ての能力使用は、必要対価を事前に開示し、契約者が明確に承認した場合のみ成立する。


対価には、契約者本人から生じた血液、毛髪、爪、唾液、皮膚その他の細胞を含む物質を使用できる。


長さ十センチメートルの毛髪一本は、血液一ミリリットル相当として換算する。


十センチメートルに満たない毛髪は、長さに応じて比例換算する。


その他の細胞については、使用前に換算量を提示し、契約者の承認を得る。


ラファネスは、契約者の明示的な許可なく、血液、毛髪、爪、体液、皮膚その他の身体組織を採取してはならない。


ラファネスは、人間化の原本である契約者クライ・マイトの生命、肉体、精神、記憶、魂および自由意思を保護する義務を負う。


契約者へ危険が迫った場合、ラファネスは命令を待たず、合理的な範囲で救出、防御、治療補助および退避を行う。


ラファネスは、契約者の指示に従い、戦闘、情報収集、分析、交渉補助、潜入、身分偽装その他、両者が合意した目的達成のために必要な業務へ協力する。


ラファネスは、契約者の許可なく、契約者の記憶を模倣し、公開し、改変し、消去してはならない。


ただし、契約者の生命または魂へ重大な危険があり、意思確認が不可能な場合に限り、救命に必要な最小範囲で記憶を参照できる。


ラファネスは、契約者の許可なく契約者の姿を使用し、契約者として契約を締結し、契約者の社会的地位、財産、関係または名義を奪ってはならない。


ラファネスは、契約者から得た細胞、記憶および模倣情報を、契約者へ敵対し、害し、拘束し、監視し、支配する目的で使用してはならない。


ラファネスは、契約者の前世、禁術、悪魔契約、黒冠商会および契約者が秘密と指定した情報を、契約者の許可なく第三者へ開示してはならない。


契約者が死亡した場合、ラファネスは可能な限り契約者の魂および記憶を保護し、復元または救済の可能性を優先して行動する。


契約内容に争いが生じた場合、明文化された条項および契約締結時に双方が共有した認識を基準とし、契約書そのものが裁定する。


---


俺は。


最初から最後まで。


三度読んだ。


「能力の模倣によって」


「対象本人から能力や記憶が失われることは?」


『ありません』


条項へ追加。


「模倣した人格が」


「俺の精神を乗っ取る可能性は?」


『分離して保管できます』


追加。


「複数の記憶が混ざり」


「自分が誰か分からなくなる可能性は?」


『契約者の人格を最上位へ固定します』


追加。


「ラファネス自身が」


「俺の命令を拒否できる条件は?」


『契約者の命令が』


『契約者自身の生命、魂、自由意思を重大に損なう場合』


合理的だ。


追加。


これで。


契約者である俺を守り。


共に戦い。


情報を集め。


潜入へ協力し。


死後の魂まで保護する。


初めて。


悪魔側へ。


全面協力の義務を負わせた。


「確認しました」


俺は言った。


「署名します」


ラファネスの手に。


白い針が現れる。


「血液以外でも契約できるのでは?」


『署名は血液が伝統です』


「伝統に意味は?」


『格好がよい』


正直だ。


指先を刺す。


七年経っても。


やはり痛い。


「……痛っ」


『ご安心ください』


ラファネスが礼儀正しく言う。


『その一滴も無駄にはしませんよ』


「……はぁ。」


やはりキモい悪魔だ。


俺は。


白い契約書へ。


血で名前を書く。


クライ・マイト。


前世の名前は書かない。


ラファネスも。


銀色の指先で署名した。


第二十一座。


無貌公ラファネス。


二つの名前がそろう。


白い空間へ。


無数の仮面が舞い上がった。


人間。


魔族。


獣人。


老人。


子供。


男。


女。


全ての顔が。


一瞬だけ俺を見る。


そして。


中央にいるラファネスへ吸い込まれた。


俺の胸へ。


白い仮面が入る。


冷たい。


頭蓋骨の内側を。


誰かの指でなぞられるような感覚。


目に映ったものを。


形。


構造。


情報として理解する、新しい感覚。


《万象模倣》。


契約成立。


「これで――」


俺が言い終える前に。


ラファネスが。


契約書へ残った俺の血へ指を触れた。


「何を?」


『契約時に提供された細胞です』


血の一滴が。


白い指先へ吸い込まれる。


「能力の使用は承認していません」


『人間化のための摂取であり』


『《万象模倣》の使用ではありません』


契約書が反応しない。


違反ではない。


細胞の無断採取は禁止した。


だが。


署名として。


自分から提供した血液の利用までは禁止していない。


一滴だけ。


穴を残してしまった。


次から修正するべきだな。


そう思った時、ラファネスの身体が。


白い光へ包まれる。


顔のない頭部へ。


輪郭が現れる。


鼻。


口。


目。


黒い髪。


金色の瞳。


肌。


腕。


脚。


少しずつ。


人間の姿へ変わっていく。


現れたのは。


俺。


ただし。


十二歳の俺ではない。


二十代半ばほどへ成長した姿。


長身。


細身だが、鍛えられた身体。


黒い髪は肩へ届くほど長い。


整った顔立ち。


金色の目。


黒い燕尾服。


白い手袋。


姿勢よく立つ様子は。


貴族へ仕える執事のようだった。


俺と似ている。


いや。


成長すれば。


こうなる可能性がある姿。


「外見だけですか?」


『一滴では』


ラファネスは。


自分の新しい声を確認するように話す。


低く。


落ち着いた男の声。


『外見の基礎情報を得るのが限界でした』


「成人した姿なのは?」


『細胞へ刻まれた成長可能性を』


『わたくしなりに補完しました』


鏡へ映せば。


兄か。


父親。


未来の俺に見えるだろう。


ラファネスは胸へ手を当て。


深く頭を下げた。


「改めまして」


今度は。


声が頭の中ではなく。


耳から聞こえた。


「第二十一座、無貌公ラファネス」


「契約者クライ・マイト様へ」


「忠誠と、全面的な協力をお約束いたします」


礼儀正しい。


従順。


執事そのものだ。


「クライ様のお命」


「御心」


「記憶」


「魂」


「全て、わたくしがお守りします」


悪くない。


「ただし」


ラファネスは。


穏やかに微笑んだ。


「クライ様へ害をなす者につきましては」


「脳を模倣した後」


「本体は不要となりますので」


「廃棄しても構いませんね?」


「その都度、確認してください」


「承知いたしました」


笑顔のまま。


恐ろしいことを言う。


やはり。


見た目が人間になっただけで。


中身は悪魔だ。


ヴェルゴラが。


不満そうにラファネスを見上げる。


『貴様』


『なぜ成人した姿なのだ』


「将来のクライ様へ近づくためです」


『我より大きい姿で立つな!』


「ヴェルゴラ様も」


ラファネスは丁寧に答える。


「成人の姿をお取りになればよろしいのでは?」


『我の真の姿を見れば、貴様など――』


「では、どうぞ」


『今は必要ない!』


リゼフィアが。


ラファネスの周囲を歩く。


『クライが歩くはずだった成長の道を』


『細胞一滴から先回りして踏んだのですわね……』


目が潤み始める。


『未来の身体へ続く未踏路……触っても?』


「お断りいたします」


ラファネスは。


微笑んだまま。


リゼフィアの手を避けた。


「クライ様以外からの接触は」


「人間化の純度を下げる可能性があります」


『少しだけ』


「お断りいたします」


相性は。


悪くなさそうだ。


◇


第三の契約は成立した。


だが。


王立魔法学園へ入るには。


まだ問題がある。


「王立魔法学園の入学条件を整理します」


地下遺跡の石卓へ。


俺は資料を並べた。


ノアが集めた学園案内。


入学申請書。


過去の試験内容。


必要な物は。


一定以上の魔力。


十二歳以上。


入学試験への合格。


そして。


王国貴族。


または。


国外の貴族家に属していること。


平民でも。


特別推薦があれば入れる。


だが。


黒冠街の代表である俺が。


推薦を求めれば。


学園側へ早い段階で注目される。


潜入には向かない。


「魔力は」


俺はラファネスを見る。


「入学試験までに」


「適切な魔術師を観察し」


「身体と魔力路を模倣する」


「承知しました」


「記憶までは?」


「現時点では不要です」


学園へ入るだけなら。


肉体模倣で足りる。


二百ミリリットル。


髪なら。


十センチ二百本。


人間の髪の毛は平均して10万本ある。


余裕だ。


問題は…身分か。


「貴族を一人コピーしますか?」


ラファネスが尋ねた。


「殺して入れ替われば」


「簡単です」


「殺しません」


「では」


「生かしたまま地下へ保管し」


「定期的に記憶を更新いたしましょう」


「誘拐もしません」


「難しい注文ですね…」


執事の姿をしていても。


発想は悪魔である。


「既存の貴族へ化ければ」


俺は言う。


「本人と遭遇した時点で終わります」


「過去の知り合い」


「家族」


「使用人」


「全員を騙し続ける必要がある」


「なら」


ラファネスが微笑む。


「知り合いのいない貴族になればよろしい」


「そうです」


俺は。


白い紙の一番上へ。


大きく名前を書く。


――マイト家。


「存在しない貴族家を作ります」


ヴェルゴラが笑った。


『また、存在しない組織か』


「今回は」


俺は答える。


「黒冠商会より簡単ではありません」


貴族は。


名乗るだけでは成立しない。


家名。


紋章。


領地。


系譜。


納税記録。


神殿の洗礼記録。


王国貴族籍。


近隣貴族の証言。


使用人。


過去の取引。


複数の記録が。


互いを証明している。


一枚の偽造書類だけでは。


必ず破綻する。


だから。


一枚だけ作らない。


百枚は作る。


「嘘の家系図を一つ置くのではなく」


俺は言う。


「王国中の記録へ」


「マイト家が存在した痕跡を分散させる」


「古い土地取引」


「神殿への寄付」


「商会との契約」


「国境の通行記録」


「他家へ送った手紙」


「墓」


「廃屋」


「使用人」


「全てが」


「別の記録を証明するように作る」


ラファネスの金色の目が。


興味深そうに細くなる。


「一つを調べれば」


「次の証拠が見つかる」


「その証拠を調べれば」


「さらに別の証拠へつながる」


「どこまで追っても」


「存在しないという証明へ届かない」


人間は。


証拠が一つなら疑う。


三つあれば。


偶然ではないと思う。


十個が。


別々の場所から出れば。


最初から存在した事実だと信じる。


「貴族家とは」


俺は言った。


「血ではありません」


「大勢が」


「その家は存在すると確認できる状態です」


《虚王顕現》と同じ。


信じる人間が増えれば。


嘘は現実へ近づく。


「まず」


ラファネスが尋ねる。


「何から始めますか?」


「マイト家の父親を作る?」


成人した俺と同じ姿を持つラファネス。


父親役には。


かなり向いている。


「あなたは執事です」


「かしこまりました」


「父親は?」


「長期不在にします」


「外国で商売をしている?」


「死亡している方が便利です」


ラファネスは笑顔で言った。


「死人は」


「証言内容を変更しない、ですね。」


合理的だ。


怖いが。


「父は死亡」


俺は紙へ書く。


「母も?」


「死亡」


「兄弟は?」


「なし」


「親族は?」


「国外」


「領地は?」


「王国北西部」


リゼフィアが。


勢いよく身を乗り出した。


『北西部!』


「何です?」


『七年前の内乱で』


『領地の境界が三度も引き直された場所ですわ!』


興奮している。


『廃道! 放棄された関所! 燃えた村! 誰の土地か分からない森!』


「使えますね」


記録が失われ。


住民が移動し。


領主も何度か変わっている。


存在しない小貴族家を。


過去へ差し込むには最適だ。


「内乱で領地を失った」


「北西部の旧准男爵家」


「当主夫妻は死亡」


「一人息子だけが」


「黒冠商会本部の保護を受けて王都へ来た」


ラファネスが。


優雅に一礼する。


「その一人息子が」


「クライ・マイト様」


「ええ」


黒冠商会本部。


国外にもつながる巨大組織。


既に王都では。


そう信じられている。


黒冠商会が。


滅んだ小貴族の子供を保護していた。


不自然ではない。


「しかし」


俺は言う。


「王国貴族籍へ記録がなければ」


「学園は認めない」


王国の貴族籍は。


王城に近い《家門記録院》で管理されている。


警備。


魔法封印。


神殿公証。


簡単には書き換えられない。


ラファネスが尋ねる。


「記録官を模倣しますか?」


「その前に」


俺は一枚の報告書を取り出した。


黒冠商会王都支部へ。


明日、融資相談に来る人物。


王国家門記録院。


第三編纂官。


オルフェン・バラッド。


由緒ある下級貴族。


賭博で借金。


愛人にも金がかかる。


職場の金へ手をつける寸前。


そして。


マイト家の貴族籍を作るために必要な。


記録権限を持っている。


「明日」


俺は言った。


「この男が」


「黒冠商会へ金を借りに来ます」


「貸すのですか?」


ラファネスが尋ねる。


「ええ」


俺は笑った。


「返済できない額を」


ヴェルゴラの金色の目が。


楽しそうに細くなる。


リゼフィアは。


新しい道が始まる気配を感じ。


頬を赤くしている。


ラファネスだけが。


成人した俺の顔で。


礼儀正しく一礼した。


「では」


「マイト家最初の使用人として」


「最高の紅茶をご用意いたします」


『毒も入れるのかしら?』


「クライ様のご命令があれば」


「入れないでください」


「かしこまりました」


存在しない黒冠商会は。


七年で現実になった。


次は。


存在しない貴族家を。


王国の過去へ生まれさせる。


一枚の偽造書類ではない。


一人の記憶でもない。


国そのものへ。


百年前から存在した家だと。


信じ込ませる。


王立魔法学園への入学まで。


残り。


二十八日。


俺は。


白い紙の中央へ。


マイト家の紋章を描き始めた。


黒い王冠。


金色の目。


そして。


その下へ。


誰も知らない家訓を書いてみた。


――事実が足りないなら、先に歴史を作れ。

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