第2話 娘は外では聖女、家では
市場は、村の広場に週に二度立つ。
行商人の荷馬車が二台、村の女たちが並べた籠、鍛冶屋の息子が持ち込んだ鎌や鍬。それだけの小さな市場だ。
僕は畑を離れられないので、普段は行かない。けれど今日は、キノに頼まれた油の樽が重いというので、荷車を引いてついてきた。
そして、娘の評判というものを、初めて目の前で見た。
「アイルさん、おはようございます」
「おはようございます、ハンスさん。お母様の膝の具合はいかがですか」
「あ、はい、おかげさまで。あの、それで、よかったら今度――」
「申し訳ありません。今日は父が一緒ですので」
「は、はい! すみません! いえ、失礼しました!」
鍛冶屋の息子が真っ赤になって逃げていく。
そのあと、粉屋の息子が来て、同じことになった。
次に、隣村から来たらしい若い行商人が来て、同じことになった。
アイルは、誰に対しても同じ距離を保っていた。丁寧で、上品で、決して冷たくはないのに、絶対に近づけない。視線を合わせて微笑んで、それでいて一歩も踏み込ませない。
僕の知っているアイルではなかった。
「……お前、外ではああなのか」
油を積みながら小声で聞くと、娘は僕の耳元で答えた。
「うん。パパ以外に興味ないから」
「そういうことを言うんじゃない」
「本当だもん」
「本当でも言うんじゃない」
キノは針を選びながら、こちらを見て笑っていた。
「タバータ、あの子ね、村では『ウグイスの聖女』なんて呼ばれてるの」
「知ってる」
「ふふ。誰にでも優しくて、誰の告白も断る。だから聖女なんだって」
「聖女はもっとこう、慎み深いものだと思うけどな」
「外では慎み深いわよ」
それは、そうだった。
村の若者に頭を下げられ、老人に手を引かれて礼を言われ、子どもに花を渡される娘の姿は、僕が家で見ているものと別人だった。
家に帰るまでは。
玄関の扉が閉まった瞬間。
「パパ、シャツ」
「え?」
「それ、汗かいてるでしょ。脱いで」
「着替えるよ。自分で――」
言い終わる前に、アイルの手が僕のシャツの裾を掴んでいた。
「着替えるなら脱ぐでしょ。ちょうだい」
「洗濯籠に入れるから」
「私が入れる」
「自分で入れる!」
「いいから!」
結局、僕は台所の隅でシャツを脱いで、娘に手渡すことになった。
アイルはそれを両手で受け取って、顔に押し当てた。
「スン、スン……」
「アイル」
「パパの匂いだぁ……」
「アイルさん」
「今日も畑で頑張った匂い」
「人をアロマディフューザーみたいに扱わないでくれるかな」
「あろま……何?」
「なんでもない。返しなさい」
「洗濯籠に入れるんでしょ?」
「そうだけど」
「じゃあ私が入れる。パパは着替えて」
娘はシャツを抱えたまま、上機嫌で洗濯場へ消えていった。
着替えて戻ると、キノが油の樽を棚に収めていた。
「あの子、また?」
「またです」
「困った子。私が拾って洗うから、って言っても聞かないの」
「僕が言っても聞かないよ」
「ふふ。私のシャツには見向きもしないのにね」
キノは笑っていた。
その笑いに、僅かな棘があったような気もしたけれど、僕は気にしなかった。
夕方、アイルが庭で洗濯物を取り込んでいるとき、僕は薪を割りながら聞いた。
「アイル。あれは、いつまで続けるつもりだ」
「あれって?」
「シャツを嗅ぐやつ」
「パパの子を産むまで」
「関係が分からない」
「下準備だよ」
「何の準備!?」
「相性の確認」
「一般家庭では絶対に採用されていない確認方法だ!」
アイルは洗濯物を抱えて、けらけら笑った。
笑いながら、僕を見る目が、少しだけ真剣だった。
「パパ」
「何かな」
「私、本気だよ」
「……アイル」
「ううん、いい。今はいい」
娘はそう言って、家の中に入っていった。
僕は斧を振り下ろし損ねて、薪を割り損ねた。
二十歳だ。
あの子はもう二十歳で、綺麗になって、村の男たちが夢中になっていて、それでも、父親にばかりああいうことを言う。
父親として、正すべきだと思っている。
思ってはいるのだけれど、どう正せばいいのか、僕は分からなかった。
その日の夕食が終わった頃、扉が叩かれた。
「夜分に失礼します。神殿から参りました」
開けると、白い法衣の若い神官が立っていた。司祭シサーイ様の使いだという。
「アイルさんの成人の儀について、お伝えに参りました。一月後の満月の日、村の神殿にて執り行います。血脈の鏡による登録がありますので、ご両親もご同席ください」
「はい。承知しました」
「では、失礼いたします」
神官は丁寧に頭を下げて帰っていった。
「成人の儀か。早いな」
振り返ると、アイルが食卓の椀を片づける手を止めていた。
「一月後」
「ああ」
「うん」
娘は頷いた。
その目が――一瞬だけ、冷えた。
炉の火が揺れて影が走っただけかもしれない。次の瞬間には、アイルはいつもの顔で「パパ、お茶飲む?」と聞いていた。
「もらうよ」
「うん」
キノは、洗い場に背を向けたまま、何も言わなかった。
水音だけが、しばらく続いた。




