農夫タバータの朝
土が、温かい。
畑に膝をついて両手を差し込むと、朝の冷えた空気の中で、そこだけが人の体温みたいに柔らかかった。
二十年、毎朝やっていることだ。
夜明け前に起きて、井戸の水を汲んで、畑に出て、土に触る。触ってから、今日やることを決める。畝を直すか、間引きをするか、何もしないか。土が教えてくれる、と言うと村の連中は笑うけれど、僕は本気でそう思っている。
辺境ウグイス村。王都から馬車で五日。地図の端に、名前が小さく載っているだけの村だ。
僕、タバータはここで農夫をしている。四十になった。
畑は家の裏に広がっていて、大きくはない。けれど、この村で一番よく採れる。芋も、豆も、根菜も。周りの畑が虫にやられる年も、うちの畑だけは何事もなかったように実をつける。
「土がいいんだよ」
聞かれるたび、僕はそう答えている。
本当のところは分からない。ただ、父から受け継いだこの畑を、僕は一日も休まず耕してきた。それだけだ。
両手を土から抜いて、指の間の黒いかけらを払う。
「今日は、間引きだな」
空が白み始めていた。
家に戻ると、台所から湯気と、パンの焼ける匂いがした。
「おはよう、タバータ」
妻のキノが振り返って笑う。
腰まである黒髪を後ろでひとつに束ね、袖をまくって鍋をかき回している。四十に近いのに、若い頃とほとんど変わらない。透き通るような肌も、大人びた微笑みも。
村一番の美人だと言われて育った女だ。その女が、僕の妻になってくれた。
「おはよう。手を洗ってくる」
「早くね。アイルが起きてくるから、パンが取られちゃう」
「食べ盛りだからな」
「もう二十歳よ」
「知ってる」
知ってるけれど、僕の中ではまだ、抱き上げれば持ち上がる娘のままだ。
井戸で手を洗って戻ると、案の定、階段を降りてくる軽い足音がした。
「パパ、おはよう」
娘のアイル。
母親譲りの黒髪と、猫のように大きな目。寝起きなのに、その顔は朝の光を集めたみたいに整っていて、我が娘ながら見慣れない。村では「ウグイスの聖女」なんて呼ばれているらしい。恥ずかしいから、本人の前では言わない。
「おはよう。顔を洗ってきなさい」
「うん。その前に、おはようのちゅー」
「しない」
「なんで」
「二十歳だから」
「二十歳だからしていいんじゃないの?」
「二十歳だからしないんだよ」
「理屈が分からない」
「分からなくていい」
アイルは頬を膨らませて、それでも僕の横を通るときに、こっそり僕の袖の匂いを嗅いでいった。
「……スン」
「アイル」
「土の匂い。落ち着く」
「顔を洗ってきなさい」
「はーい」
キノが鍋をかき回しながら、くすくす笑っている。
「タバータに甘えてばっかり。私には全然なのに」
「僕にはきついよ。毎朝あれだ」
「羨ましいわ」
そう言って、キノは僕のためにスープを注いでくれた。
三人で食卓に座る。
焼いたパン。うちの芋の入ったスープ。キノが漬けた酢漬けの野菜。豪華ではないけれど、僕にはこれで十分だった。
「今日は市場に行くわ。塩と、油と、それから針を買い足したいの」
「ああ。頼む」
「アイルも一緒に来る?」
「行く。パパのシャツの糸がほつれてたから、糸も買う」
「そんなの、私がやるわ」
「私がやる」
「アイル」
「私がやるの」
娘の声が、少しだけ硬くなった。
キノは困ったように笑って、「じゃあ、お願いね」と引いた。
最近、たまにこういうことがある。母と娘の間に、僕には見えない細い線が引かれているような。
けれど、それも年頃の娘にはあることだろう。僕はそう思って、パンをちぎった。
食べながら、僕はふと、この食卓のことを考える。
僕は、この村で一番みじめな少年だった。
ガロダート伯爵の館で下働きをしていた頃、僕は嫡男のレオンに、毎日のように踏みつけられていた。泥を食わされ、靴を捨てられ、大勢の前で笑われた。ずっと想いを寄せていた幼なじみ――キノへの気持ちすら、見世物にされた。
その頃の僕に、今の食卓を見せたら、きっと信じない。
好きだった女性と結婚して、娘が生まれて、畑が毎年よく採れる。
これが、僕のささやかな勝利だ。
誰かに勝ったわけじゃない。けれど、僕は、あの頃の自分に勝った。そう思っている。
「パパ、何笑ってるの」
「いや」
「気持ち悪い」
「ひどいな」
「気持ち悪いけど好き」
「はいはい」
「本気なんだけど」
「顔を洗ってきなさいって言っただろう」
「洗ったよ」
「じゃあ、食べなさい」
アイルがスープの芋を口に入れて、幸せそうに目を細めた。
「パパの芋、おいしい」
「土がいいんだよ」
「パパが育てたからだよ」
「同じことだ」
「違うよ」
娘は真面目な顔で言った。
「パパが育てたものは、全部おいしくなるの。私もそう」
「その理屈はやめなさい」
食卓が笑いに包まれる。キノも笑っている。
幸せな朝だった。
ただ、一つだけ。
食べ終えて畑に戻ったとき、隣の畑のダンじいさんが、垣根越しに声をかけてきた。
「たばた、お前んとこの芋、今年も無事か」
「ええ。もう葉が茂ってますよ」
「うちは去年に続いて、半分やられた。隣村もそうだ。おかしいと思わんか」
「土の具合でしょう」
「お前の畑だけ、二十年、一度も病気が出とらん。それはもう、土の具合とは言わんぞ」
じいさんは首を振って、自分の畑に戻っていった。
僕は畝の間にしゃがんで、もう一度、土に手を置いた。
温かい。
朝より、少しだけ温かい気がした。
日差しが強くなったからだろう。僕はそう思って、間引きを始めた。




