第3話 血脈の鏡
村の神殿は、広場の奥の、小さな石造りの建物だ。
祭壇の奥に、人の背丈ほどの鏡が立っている。縁は古い銀で、表面は曇っていて、普段は何も映さない。子どもの頃、悪さをするとあの鏡に映される、と脅されて育った。
成人の儀を月末に控えた午後、司祭のシサーイ様が、村の者を神殿に集めた。
「今年、成人を迎える者が三名おります。ご存じの方も多いでしょうが、儀の意味を、改めてお話ししておきます」
シサーイ様は白髪の穏やかな老人だ。声は静かで、それでいて石壁の隅までよく通る。
「これは、血脈の鏡です」
鏡を示す。
「この国のすべての民は、二十歳になった日、この鏡の前に立ちます。鏡は、その者の父と母の血脈を映し、神より授かった加護を映します。それを神殿の台帳に登録することで、その者は、この国の成人となります」
村人たちが頷く。ほとんどの者が、自分も通ってきた道だ。
「鏡が映すものは、神の裁定です。人の手では曇らせることも、書き換えることもできません。したがって、貴族の方々は、この鏡をもって血統を管理しておられます。誰が誰の子であるか。誰に爵位を継ぐ権利があるか。すべては鏡が決めます」
「司祭様」
若い男が手を挙げた。
「鏡が、親を間違えることはないんですか」
「ありません」
シサーイ様は即答した。
「鏡は間違えません。間違えるのは、人だけです」
神殿が静かになった。
「ゆえに、いくつかの定めがあります。覚えておいてください」
シサーイ様は指を一本立てた。
「一つ。神前において、婚姻の外にある子を自らの子と認める言葉を口にした者は、その瞬間、姦通を自白したものとして記録されます。これは貴族であっても同じです。相手が既婚の女性であれば、罰は罰金と、爵位継承権の停止」
二本目。
「二つ。婚姻にある女が、夫でない男の子を産み、夫に育てさせていたと鏡が示した場合。離縁は即時に成立し、持参金と家財は没収され、その地からの追放と、王領での労役が科されます」
村人がざわめいた。
「そんな恐ろしい話、うちの村には関係ないだろう」
誰かが笑い、周りも笑った。
僕も笑った。
そのとき、隣に座っていたキノが、小さく息を吐いたのが分かった。
「キノ?」
「ううん。少し、空気が悪いから」
「外に出るか」
「大丈夫」
顔色が、少し悪かった。
神殿の中は人が多くて、確かに空気がこもっていた。僕は妻の背中に手を置いて、それ以上は気にしなかった。
「加護についても、お話ししましょう」
シサーイ様が続けた。
「鏡は、神より授かった加護を映します。多くの者は、小さな加護です。火を扱うのが上手い。数に強い。歌がうまい。そういったものです。まれに、大きな加護を授かる者がおります。その場合は、王都の大神殿へ届け出ることになっています」
「大きな加護って、どんなのですか」
子どもが聞いた。
「たとえば、百年前にこの地方で、雨を呼ぶ加護を授かった娘がおりました。彼女は王都に招かれ、旱魃の年に国を救ったと伝えられています」
「すごい」
「大きな加護は、大きな責任を伴います。ですから、授かった者は、それをどう使うか、自分で決めなければなりません」
シサーイ様の目が、ふと、僕たちの列を見た。
アイルを見た、ように思えた。
「儀は、一月後の満月の日。成人を迎える三名と、そのご両親は、必ずご同席ください。それから――」
シサーイ様が、少し言いにくそうに、咳払いをした。
「今年は、領主様のご名代として、ご嫡男のレオン・イステンデット=ガロダート様が、儀の視察にお越しになります」
その名前を聞いた瞬間、僕の背筋を、冷たいものが走った。
二十年以上前の感覚だ。
泥の味。
靴を失った足の裏の、石の冷たさ。
大勢の笑い声。
「タバータ?」
キノが僕の腕に手を置いていた。
「……いや。何でもない」
「顔色が悪いわ」
「君こそ」
「私は大丈夫」
キノは微笑んだ。いつもの、大人びた微笑みだった。
説明が終わって、村人が三々五々、神殿を出ていく。
僕は立ち上がりながら、反対側に座っていた娘を見た。
アイルは、鏡を見ていた。
曇った、何も映さない鏡を、まっすぐに見ていた。
「アイル、帰ろう」
「うん」
「どうした。鏡が怖いか」
「ううん」
娘は首を振って、僕を見上げた。
その目は、怖がっているどころか、輝いていた。
「私、絶対に受ける」
「当たり前だ。成人の儀なんだから」
「うん。絶対に」
「……随分、楽しみなんだな」
「楽しみだよ」
アイルは、僕の腕を取った。
「どんな加護が出ると思う?」
「そうだな。畑仕事が上手い加護とか」
「それはパパのでしょ」
「僕は鏡に何も映らなかったよ。加護なし。普通の農夫だ」
「パパは普通じゃないよ」
「普通だよ」
「普通じゃない」
「なんで」
「私が好きだから」
「それは加護と関係ないだろう」
娘は笑った。
僕も笑った。
娘が儀式を楽しみにしている。それは、いいことだ。二十歳になるのが待ちきれないのだろう。
そう思って、僕は娘と妻を連れて、神殿を出た。
夕暮れの広場に、長い影が三本、並んで伸びていた。
三本のうちの一本が、僕の一歩後ろで、ほんの少し遅れて歩いていたことに、僕は気づかなかった。




