6話 再輝の刃と、少女の初陣
※イラストは生成AIによるものです。
ひゅっ、と木片が宙を舞う。
くるくると回転するその小さな板切れには、墨で大きく数字が書きつけてある。
「――七!」
アセナが、鋭く叫んだ。
俺は放物線を描いて落ちてきた木片を、ひょいと受け止め、表を確かめる。そこには確かに、「7」の字。
「正解だ」
「やった……! ねえテオ、当たりでしょ! ね、当たった!」
アセナが、ぱっと顔を輝かせた。頭の上の獣耳が、得意げにぴんと立っている。
これは、数字を書いた木片を放り投げ、落ちてくるまでの一瞬に、その数字を読み取らせる稽古だ。くるくると回りながら宙を舞う的から、目だけで細かい字をもぎ取る。
「もう一回! 次はもっと速いのでいいから!」
俺は今度、木片を高く、強く回転をかけて放った。目まぐるしく数字が裏返る。
「むむむ……三!」
落ちた木片の表は――「3」。
「ご名答。初日は、板を目で追うのがやっとだったのにな」
「でしょ? あたし、やればできるんだから」
大剣を鍛冶師ドヴァリンの工房に預けて、今日で三日。得物のないこの期間を、俺はまるごとアセナの仕込みに充てていた。宿は相部屋にして、浮いた金でしっかりとした食事を取らせている。
目の稽古の合間には、耳も鍛えた。雑踏の中から俺の足音だけを追わせ、木の葉が落ちるかすかな音まで拾わせる――そのどれもを、アセナは着実にこなしていった。
(さすがはリカント、目耳はもともと鋭いらしい)
もっとも、スキルはそう簡単に身につくものじゃない。才能と鍛錬、そして閃き。三つが噛み合って、はじめて発現する。三日やそこらで拾えるのは、せいぜいさわりだけだ。
アセナの手の内は、この三日で、おおよそ掴めていた。
身体強化の出力は低く、大型武器を扱うのは難しいだろう。癒術のほうは、軽い外傷を治癒する小回復を一日に数回。正直なところ、現状では大した戦力にはならない。
(ま、これからの成長に期待しようか)
そして――三日の稽古を終えた、その晩。
宿の一階の食堂で、俺は豆と燻し肉の煮込みを匙でつつきながら、切り出した。
「なあ、アセナ。大剣が戻ってきたら、そろそろ実戦の稽古に移ろうと思ってる」
「実戦……?」
「ああ。F級魔獣を前にして、回避と防御に専念する稽古だ」
匙を止めて、アセナがぽかんと俺を見た。
「……え。あたしが、魔獣と、戦うわけ……?」
「戦うっていうか、逃げ回るんだ。斬らなくていい。ただ、相手の攻撃を見て、躱す。危なけりゃ短剣で受ける。それだけだ」
「む、無理に決まってるでしょっ!」
アセナの声が、ひっくり返った。獣耳が、ぺたんと伏せられる。
「あたし、魔獣となんて、戦ったこと一度もないんだから……! てっきり、あたしは……その、後ろで怪我を治したり、荷物を運んだり……そういう役だと思ってたのに」
(ああ、なるほど。サポート専門のつもりだったのか)
でも、俺の描いてる絵は、少し違う。
(避けて受けて、隙を見て治療する。そんな前衛ヒーラーに育って欲しいんだよな。それに、一匹二匹を避けるだけの稽古なんて、初心者にはむしろ丁度いいくらいだろう)
だが、アセナの顔には、はっきりと怯えが浮かんでいた。俺の「当たり前」と、この子の「当たり前」は、どうやら、だいぶ食い違っているらしい。
「大丈夫だ」
俺は、できるだけ穏やかに言った。
「いきなり群れに放り込んだりしない。数はこっちで削るし、俺がすぐ横についてる。危なくなったら、俺が全部片づける。アセナは、避けることだけに集中すればいい」
「……ほんとに、そばにいてくれるの?」
「ああ。約束する」
アセナは、しばらく煮込みの椀を見つめていたが、やがて、こくりと小さく頷いた。
「……わかった。テオが、そばにいてくれるなら……やってもいいよ」
*
四日目の朝。俺はアセナを連れて、貧民街の外れ――ドヴァリンの工房を訪ねた。
石積みの無骨な建物を見て、アセナの耳が、心なしか後ろへ倒れる。
「……ねえテオ。ほんとにここ、お店なの? 小さな砦みたいなんだけど」
「腕は本物さ……口も態度も偏屈だけど」
戸を叩くと、返事の代わりに「入れ」と一声。中は相変わらず、炉の熱気と鉄の匂いに満ちていた。
「来たか、小僧」
鍛冶師ドヴァリンは作業台から細長い布包みを取り上げると、どん、とこちらへ差し出した。
「ほらよ……見てみな」
布を解いて、俺は息を呑んだ。
(……別物だ)
あの錆にまみれた鈍らが、鈍色の刀身を静かに横たえている。磨き上げた鏡面じゃない。実用の、沈んだ光だ。それでいて刃先だけが、ぞっとするほど冷たく笑っていた。
「錆は落として、寝てた刃も研ぎ直した。逆手の握りは、籠手の上から掴みやすいよう、革を一枚厚くしといた」
「……完璧です」
軽く構えて、ゆっくりと振ってみる。重心は記憶のままなのに、振り抜きが、まるで違う。空気の抵抗が、一枚薄くなったみたいだった。
(ああ、こいつはいい……惚れ直したよ、相棒)
「……言い忘れてた。ドヴァリンさん、紹介します。パーティーを組んだ、アセナです」
「よろしくねっ、おじさん!」
アセナが、勢いよく頭を下げる。ドヴァリンは、ちらりと一瞥をくれただけだった。
「……リカントの嬢ちゃんか。ふん」
それだけ言って、炉のほうへ向き直る。素っ気ないにも程があるが、追い出されないのなら、それがこの人なりの「よろしく」なのだろう。
「それと、もう一つ相談が。アセナの得物がまだ無いんです。自衛用に簡素な短剣をと思ってるんですが……正直、いまは財布の中身が心細くて。研ぎを入れる前の、なまくらでもいいので――」
「ほれ」
言い終わるより早く、ドヴァリンは壁の武器掛けから一本を取り、無造作に放って寄越した。慌てて受け取る。鞘ごとでもずしりと重い、鍔の広い、無骨な短剣だった。
「え……いや、だから、金が」
「出世払いでいい」
「……いいんですか?」
「気分がいいんでな。俺の打った剣が、また狩り場に戻る。その祝いだ」
ドヴァリンは、髭の奥でにやりと笑った。
(この人、素直じゃないけど……とことん職人なんだな)
鞘から抜いてみる。厚めの刃に、大ぶりな鍔。斬れ味で魅せる造りじゃない。受けて、弾いて、折れない――守るための設計だ。
俺は短剣を鞘に納め、アセナへと差し出した。
「アセナ。こいつは、斬りかかるための武器じゃない。自分の身を守るための一本だ。きっと、アセナの窮地を救ってくれるぞ」
「……うん」
アセナは両手でそれを受け取ると、胸に抱えるようにして、ドヴァリンへ深々と頭を下げた。
「ありがとう、おじさん! 大切にする!」
「おう……錆びさせたら、承知しねえからな」
*
工房からの帰り道、俺たちはその足でギルドに寄った。得物が戻った以上、次は依頼だ。
相変わらず酒場じみた喧騒の中、壁の依頼書を端から検分していく……と、隅のほうで日に焼けた一枚が、目に留まった。
(走爪竜ヴェロクスの群れ討伐……南西方面の農村か)
依頼書に目を走らせる。雑食の走爪竜ヴェロクスの群れが、南西の農村の畑を荒らしているらしい。村人が総出で追い払っても、しばらくすればまた舞い戻ってくる。人を恐れなくなった群れに怯えて、村では農作業もままならない――そう書かれていた。
(ヴェロクスの素材は、二束三文だからな。割に合わないんで、ずっと貼りっぱなしになってたんだろう)
依頼には、もう一つ条件がついていた。都市とその農村を結ぶ、往復の荷馬車の護衛。街道沿いにもヴェロクスが出現するのだろう。
(ヴェロクスなら、アセナの練習相手に丁度いい)
ダチョウほどの体躯に、跳躍と俊足。だが、群れる以外に厄介な武器はない。数さえ間引いてやれば、一匹二匹を相手に「避ける稽古」をさせるには、おあつらえ向きだ。
俺はその依頼書を剥がして、受付へ持っていった。
「これ、受けたいんですけど」
受付嬢のイルゼは、依頼書をちらりと見て、気だるげに鼻を鳴らした。
「ヴェロクスの群れ討伐……ずいぶん不人気なのを選んだわね。素材が安いから、誰も手を出さないやつよ」
それから、ふと、俺の後ろに控えるアセナに目を留めた。イルゼの眉が、すっと吊り上がる。
「……ちょっと待ちなさい。あんた、まさか、その子にやらせる気じゃないでしょうね」
「まあ、練習を兼ねて」
「練習っ⁉」
イルゼが、ばん、とカウンターを叩いた。
「群れ討伐よ⁉ ヴェロクスは跳ぶし、群れで囲むの! そんなの、その子を死なせに行くようなもんじゃない!」
「一匹か二匹、残して相手させるだけですよ。残りは俺が狩ります」
二人の剣幕に挟まれて、アセナが、あわあわと視線を泳がせている。獣耳が、忙しなく前後した。
(ヴェロクスくらいで、大げさだな……まあ、心配してくれてるのは分かるけど)
俺は、努めて穏やかに言った。
「俺が、ずっとすぐ横についてます。危なくなったら、即座に割って入る。この子には、避けることと受けることしかさせません。絶対に、死なせはしませんよ」
イルゼは、しばらく俺を睨んでいたが、やがて、はぁ、と長いため息をついた。
「……あんたが、あのアルミラージの群れをやった変人じゃなかったら、絶対に通さないところよ」
イルゼは、乱暴に受諾の印を押した。
「死なせたら、承知しないから……特に、その子のほうは」
「わかりました。肝に銘じておきます」
*
翌朝、俺たちはギルドの裏手で、村へ向かう荷馬車と合流した。
荷台の隅で、アセナと並んで小刻みに揺られる。道中は常に周囲へ意識を張っていたが、幸い、ヴェロクスの襲撃どころか、その影すら見かけなかった。
数時間の旅路の末、馬車は無事、目的の村の入り口へと滑り込んだ。
「助かったよ、ハンターさん。それじゃ、復路もよろしく頼むよ」
御者に礼を言われ、俺たちは荷台から飛び降りた。
村外れの畑は、一面の金色。そして、その金色は――ところどころで、黒く崩れ始めていた。
重く実った麦の穂が、刈られることなく倒れ伏し、折り重なって、饐えた匂いを放っている。実りの匂いと、腐敗の匂い。それが同じ風に乗って届くのが、なんとも言えず、胸に悪かった。
実りの季節だというのに、畑には、鎌を持つ手がひとつも無い。
重い足取りで、俺たちは村の奥へ向かった。
村長の家は、他より少しだけ大きいだけの、粗末な平屋だった。柵の内から出てきたのは、頬のこけた白髪の老人――この村の長だという。
老人は、俺の差し出した依頼書を、落ちくぼんだ目でしばらく眺めた。俺の歳や、ボロ装備を疑う言葉は、ひとつも出てこない。疑う元気さえ、もう残っていないのかもしれない。
「……よく、来てくれた。群れの縄張りは、村の南。あの麦畑の奥さ」
しゃがれた声で、老人は畑の方を指差した。
「はじめは、畑の作物を荒らすだけだったんだ。それが、追い払ううちに、儂らを見る目が変わってな。いまじゃ、柵の外へ出た者から順に狙われる。儂らは柵の中から、実りが腐っていくのを、見てることしかできんのだ」
「……わかりました。畑は、俺たちが取り返します」
老人の落ちくぼんだ目が、わずかに揺れた。それきり何も言わず、ただ、深く頭を下げた。
*
俺とアセナは、二人で麦畑へと踏み入った。
刈られることなく倒れ伏した穂を踏みしめ、ちょうどいい開けた場所を探す。見通しが利いて、伏兵の死角がない――そんな一角に、狩り場を定めた。
畑の縁には、雨風をしのぐためのものだろう、粗末な納屋がぽつんと建っていた。
「まずアセナは、あの納屋に隠れてろ」
「え……テオは? いっしょじゃ、ないの?」
「最初はな。いいか、よく聞け」
俺は膝を折って、アセナと目の高さを合わせた。
「今日の相手は、依頼書だと十数頭。さすがに、いきなりその全部の前へ立たせる気はない。まずは俺が数を減らす。アセナはそのあいだ、納屋の陰で息を潜めてろ」
「隠れて、待つだけ……?」
「目と耳は、開けておけ。俺がどう動いて、どいつをどう狩るか――全部、見て、聞いておくんだ。それも稽古のうちだからな」
「アセナでも捌けるところまで数を削ったら、呼ぶからな。そしたら出てくるんだ。――そこからが初陣だ」
アセナは、ぎゅっと短剣の柄を握りしめた。伏せた耳の先が、小刻みに震えている。それでも、こくりと頷いた。
「……わかった。ちゃんと、見てるから」
アセナが納屋の陰へ身を隠したのを見届けて、俺は畑の只中へと進み出た。
(さて……いつでもどうぞ、だ)
俺は足を踏み鳴らして地面を叩き、大声を上げた。
「でてこい! ヴェロクスども! エサがここにあるぞ!」
案の定だった。ざわ、と麦の海が波打ち、遠くで――甲高く、呼び交わすような鳴き声が上がった。縄張りに入り込んだ「獲物」の気配を、群れが嗅ぎつけたのだ。
続けて、大地を叩く、無数の足音。
(……来た)
畑の南――なだらかな稜線を越えて、そいつらは現れた。
青みかかった鱗の上に、粗い羽毛を背負った、走爪竜ヴェロクス。ダチョウほどの体躯を前に倒し、長い尾で舵を取りながら駆けてくる。後ろ脚の内側では、鎌のような大爪が、鈍く光っていた。
一、二……ざっと数えて、九つ。
(……九匹か。依頼書だと十数頭のはずだが、少ないな)
引っかかりはしたが、いま目の前の獲物を捌くのが先だ。俺は視覚強化と聴覚強化を灯し、全周へ意識を張り巡らせた。
群れは俺の周囲をぐるぐると回り、徐々に包囲を狭めてくる。だが、そのまま圧迫されるつもりはない。俺は囲いが一番薄いところへ、鋭く踏み込んだ。
相対する二頭が、横に跳躍して俺の初撃を避けようとする。
(直線で来ないのは厄介だ……だが、空中じゃ舵は切れない)
俺は斬撃の勢いを殺さぬまま、右の一頭の落下点へさらに一歩踏み出し、身体強化を焚いて大剣を薙いだ。
(――軽いっ!)
刃が肉と骨の間を滑るように通り、そこから遅れて刃先に重さが乗る。
(斬れた……! これが、研ぎ上がった刃か)
返す刀で、左の一頭。着地際の首筋を、ひと息に断つ。二つの骸が、ほとんど同時に土へ沈んだ。
そこからは、一方的だった。時間差で仕掛けてくる群れを、着地を斬り、すれ違いを斬り、深追いはせず、円の内側から削り続ける。
納屋の陰からは、こちらを食い入るように見つめる視線を感じる。アセナは、約束を守っている。
やがて、九頭のうち七頭までを削り切った。残るは――二頭。俺の一方的な狩りに怯えたか、大きく距離を取り、間合いの外で様子を窺っている。
(よし。ここまでだ)
「アセナ! 出てこい! ――ここからが、お前の番だ!」
納屋の陰から、アセナが飛び出してくる。短剣を両手で握りしめ、青い顔で、それでも駆けてきた。
「テオ……!」
「落ち着け。残りは二頭。お前の目でも、ちゃんと追える数だ」
俺はすっと後ろへ――数歩退いた。
「いいか。斬らなくていい。仕留めるのは俺がやる。アセナの仕事は――避けることと、受けること。それだけだ」
「避ける……受ける……」
「大丈夫だ。俺が、ずっと声で誘導してやる」
一頭が、地を蹴った。まっすぐ、アセナへ。
「右だ、アセナ! 跳べ!」
「――っ!」
アセナの体が、右へ転がる。爪が、さっきまで彼女のいた土を、深く抉った。
「上出来だ! 次、来るぞ、左!」
声を出しながら、俺はアセナのすぐ斜め後ろで、いつでも刃を割り込ませられるよう構えていた。危うくなれば、即座に潰す。だが――その出番は、思ったより来なかった。
アセナは俺の声に半拍遅れて、けれど確かに、ヴェロクスの爪を避け続けていた。
(……いいぞ。呑み込みが、早い)
一度、避けきれずに、爪の先が肩をかすめた。ぷつりと血が滲む。だがアセナは、悲鳴の代わりに、空いた手をその肩へかざした。
「――小回復」
木漏れ日みたいな、淡い光。滲んだ血が止まり、裂けた皮膚が、ゆっくりと閉じていく。避けて、受けて、掠られたら自分で塞ぐ。その一連が、危なっかしくも、回り始めていた。
――そのときだった。
強化した耳が、遠く、稜線の向こうから、新たな地鳴りを拾った。
(……この足音の数。さっき数が足りなかった分か)
畑の南――さっきと同じ稜線の上に、土煙が立っている。麦を蹴散らし、駆けてくる第二の集団。数は――六。
だが、そいつら向かった先は、俺でも、アセナでもなかった。
第二陣は、俺たちを大きく外れ――村の柵と畑の境、その一点へ向かって、まっすぐに駆けていく。
(行き先が、おかしい……なんであっちに?)
強化した視界が、捉えた。麦の陰に、小さな影。村の子どもだ。好奇心に駆られて大人の目を盗み、狩りを間近で見ようと抜け出してきたのだろう。
子どもは、六頭の群れが自分めがけて突っ込んでくるのに気づき、その場で凍りついていた。腰が抜けたのか、逃げようともしない。
(まずい!)
考えるより先に、地を蹴っていた。子どもと群れのあいだへ、最短の直線で向かう。
「アセナ、すまん! そっちの二頭、任せた!」
叫ぶと同時に、俺はヴェロクスの進路へ飛び込んだ。
「――こっちだ、トカゲ野郎ォ!」
大剣を、先頭の一頭へ真横から叩きつける。骸が麦を巻き込んで吹き飛び、群れの鼻先が、子どもから逸れて、俺へと向いた。
(よし引きつけた……! さっさと片づけて、アセナのもとに戻らないと……!)
振り向く余裕はない。子どもを背にかばう位置を保ったまま、六頭を最速で処理しにかかる。
一頭の跳躍を掻い潜り、着地を斬り伏せる。すぐ次の爪が来る。受けて、弾いて、返しで薙ぐ。――手は、一瞬も止められない。それでも、強化した耳だけはアセナを追っていた。
土を蹴る、軽い足音。ひとつ、ふたつ――避けている。まだ、立っている。短剣が爪を弾く、硬い金属音。
(受けている……辛うじて保っているな)
しかし、俺が四頭目を斬り伏せた、その刹那。
背後の空気が、ひゅっ、と鋭く鳴った。
(――跳んだ!)
風を裂くその音と同時に――地を蹴る、アセナの足音が聞こえた。
爪が土を抉る、重い音。そのわきを、転がって逃れる、小さな体の気配。彼女は、致死の一撃を、自分の耳で捉えて躱したのだ。
「まだまだぁ! かかってきなさいよ、くそ鳥ども!」
(良かった……まだ生きてる)
胸の底から、熱いものが突き上げる。それを、刃に乗せた。
残る二頭を、立て続けに斬り伏せる。子どもの無事を目の端で確かめ、六頭目が倒れるのを見届けるより早く、俺はアセナのもとへ向かう。
(間に合え……!)
アセナは、二頭のヴェロクスに挟まれ、身動きが取れなくなっていた。剣を盾のように構え、肩で息をして、それでも――その目は、まだ死んでいない。
「――伏せろ、アセナ!」
アセナが、ぱっと地に伏せる。その頭上を、俺の大剣が薙いだ。
一頭。返す刃で、もう一頭。
二つの骸が、地に沈む。
……耳を澄ます。もう獣の気配はない。稜線の向こうにも、畑の中にも。
十五頭。群れはこれで、打ち止めだった。
「アセナ……!」
俺が駆け寄ると、張り詰めていた糸が切れたように、アセナはへなへなと、その場にへたり込んだ。
「お……終わっ、た……?」
「ああ、終わった。全部で、十五頭……よく、凌ぎ切ったな。たった一人で、二頭を相手に」
膝は笑い、尻尾の毛は逆立ったまま。それでも、大きな怪我はどこにも見当たらない。掠り傷は、みんな自分で塞いだのだろう。
アセナは、へたり込んだまま、自分の両手を見下ろした。まだ小刻みに震えている、その手のひらを。
「……見た? あたし、なんとかできたんだから。テオが、いなくても」
「ああ、立派だったぞ。……すまなかった、完全に俺の誤算だ。約束したのに、そばを離れて」
「……ううん」
アセナは、首を横に振った。
「あたし……死ななかった。避けて、受けて……ちゃんと、生き延びたもん」
「ああ。アセナは自分の身を、自分で守り切った。――そこは、胸を張っていい」
「……っ、うん!」
震える手のまま、アセナはぐっと拳を握った。伏せられていた獣耳が、ゆっくりと持ち上がっていく。
そこへ、村のほうから、血相を変えた大人たちが駆けてきた。腰を抜かした子どもを抱き起こし、幾度も俺たちへ頭を下げてくる。
「すまねえ、ハンターさん……! うちのが、勝手に……!」
「無事なら、いいんです。本当によかった。……さて。ここからが、ハンターの後半戦だ。日のあるうちに、剥ぎ取りを済ませるぞ」
*
剥ぎ取りを終える頃には、日はとっぷりと暮れていた。
宴を張る蓄えは、もうこの村に残っていない。それでもと差し出された一杯の麦粥が、どんな馳走よりも重かった。
翌朝、村へ来ていた商人の空荷馬車に、ヴェロクスの素材を積みこんで帰路についた。がたごとと揺れる荷台で、アセナは素材袋にもたれて、ことんと眠っている。
(……今回は、はっきりと俺のミスだった。この世界はゲームじゃない。死んだら終わりの現実だ。アセナの育成には、もっと慎重にならないとな)
車輪の軋みに紛れて、アセナが小さく身じろぎした。素材袋に頬を埋めたその寝顔は、狩りのときの気迫が嘘みたいに、あどけなかった。
*
エツァに着いたその足で、俺たちはギルドへ向かった。
「十五頭。魔石と大爪、革まで全部回収……はいはい、あんたは、そういう奴だったわね」
イルゼは呆れ半分に素材を検分し、それから俺の後ろへ目をやった。
「で、そっちの新入りも五体満足、と……上出来じゃない」
アセナの耳が、ぴこんと跳ねた。
査定は、村からの討伐報酬も合わせて、総額六百ゴールド。折半で、一人三百ゴールドだ。
イルゼが数え分けた金貨の袋を、アセナは両手で受け取ると、ぎゅうっと胸に抱きしめた。
「三百ゴールド……あたしの……あたしが、稼いだお金だ……」
震える声だった。ぴんと立った耳の先まで、震えていた。
宿へ戻ってからもずっと、アセナは稼いだ三百ゴールドの袋を大事そうに抱えていた。その横顔に水を差すのは気が引けたが、俺は現実の話をすることにした。
「アセナ。お前の母さんを診てもらう、街の癒術士のことなんだけどな」
「うん」
「……正直に言う。一流の癒術士に、病を根から治してもらおうと思ったら、その依頼料は、かなり高い。今日の稼ぎを十回ぶん積み上げて、ようやく届くかどうか、って額だ」
アセナの手が、ぴたりと止まった。
「……十回」
ぴんと張っていた獣耳が、しゅん、と力なく垂れる。
「そんなに、かかるの……それじゃ、母さんの治療、間に合わないかもしれないじゃない……」
うつむいた声が、細く震えた。
「あたし……ほんとは、家族に黙って、村を出てきたんだ。心配かけたくなくて。でも……あたしが何十回も狩りに行ってるあいだに、もし、母さんが死んじゃったら……家族だって、あたしがどこにいるかも分からなくて、きっと心配してる……」
膝の上で、金貨の袋を握る手に、ぎゅっと力がこもる。
(……だろうな。だいたい、想像していたとおりだ)
一人で街に飛び出してきた時点で、そのへんの事情は、なんとなく察しがついていた。だから、驚きはない。
「なあ、アセナ」
俺は、努めて軽く言った。
「だったら、まずは一度、村に顔を出しに行こう。お母さんに、家族に、アセナの無事な顔を見せて、ちゃんと事情を話そう」
「……うん」
「よし。ついでに近場で受けれそうな依頼がないか、明日探してみるか。狙うは一石二鳥だ」
アセナが、はっと顔を上げた。
「それに――この金で、街で手に入るちょっとした薬を買っていこう。少しは、楽にしてやれるかもしれない」
「……いいの? このお金、母さんの、治療費に……」
「その金は正真正銘アセナのもんだ。好きに使えばいいさ」
アセナは、大きな目に、みるみる涙を溜めていった。それを、袖でごしごしと乱暴に拭う。
「……っ、うん。ありがとう、テオ……!」
垂れていた獣耳が、ゆっくりと持ち上がる。その顔には、泣き笑いみたいな、くしゃくしゃの笑みが浮かんでいた。
ここまでお読みいただき有難う御座います。戯演です。
アセナにはちょっと無理をさせました。これを糧に大きく成長して欲しいです。
もしお気に召しましたら是非ご評価いただき、気長に次話をお待ちいただけますと幸いです。




