第9話 名前を教えてください
ナザレさん。
そう呼ばれることには、思ったより早く慣れた。
正確には、慣れたというより、便利だった。
イエスと呼ばれると、周囲の空気が一瞬止まる。キリストと呼ばれると、誰かが冗談なのか本気なのか確認したくなる。主と呼ばれると、俺より先に神学が部屋に入ってくる。
だが、ナザレさんなら、ただの外国人の名前で済む。
少し珍しいが、ありえないほどではない。少なくとも、ホテルの受付で呼ばれても、ロビー全体が振り向くほどではない。
「ナザレ様」
ホテルのスタッフが、丁寧にそう言った。
俺は少し遅れて、自分のことだと気づいた。
「はい」
返事をする。
隣にいた法務さんが、小さく頷いた。合格らしい。
チェックアウトは、法務さんがほとんど進めてくれた。俺は横で立っているだけだった。宿泊明細。領収書。本人確認。支払い。移動時間。荷物の確認。
人がどこかに泊まって出るだけで、こんなに多くの確認があるのかと感心した。
昔は、泊まるなら泊まる。出るなら出る。礼を言う。それくらいだった。
現代では、人は泊まった証拠を紙にして残す。
「領収書は必要ですか」
スタッフが聞いた。
「はい」
法務さんは即答した。
「宛名は」
スタッフが聞いた。法務さんは一瞬だけ止まった。
「……空欄でお願いします」
「上様ではないんですね」
俺が小声で言うと、法務さんがこちらを見た。
「どこで覚えたんですか」
「検索しました」
「検索結果を不用意に実務へ持ち込まないでください」
「はい」
領収書が渡される。法務さんはそれを確認し、封筒に入れた。
「大事なんですね」
「大事です」
「俺の書類も、大事ですか」
「大事です」
「御神体になりそうなくらい?」
「なりません」
即答だった。
俺は頷いた。
書類は、書類である。
現代では、それだけで十分に重い。
ホテルを出ると、朝の空気が少し冷たかった。車寄せには、黒いワゴン車が停まっている。運転手は教区側の人らしい。神父と山辺先生は、すでに乗っていた。
「おはようございます、ナザレさん」
神父が言った。少し言いにくそうだった。
「おはようございます」
「……慣れませんね」
「俺もです」
山辺先生は、ノートパソコンを膝に置いていた。移動中も仕事をする気らしい。
「歴史的には、ナザレのイエスという呼び方は古くからありますから、完全に不自然ではありません」
「先生」
法務さんが言った。
「移動中は神学解説を最小限にしてください」
「はい」
山辺先生は素直に閉じた。
車はホテルを出た。
目的地は、俺には知らされていなかった。そういう方針らしい。俺が知らなければ、俺から漏れることもない。俺がうっかり誰かに話すこともない。
自分の行き先を知らない旅というのは、少し不思議だった。
俺は窓の外を見た。ビル。信号。コンビニ。歩道橋。朝の通勤の人たち。誰も俺を見ていない。
ありがたい。
誰も見ていないということが、これほどありがたいとは思わなかった。
「ナザレさん」
法務さんが言った。
「はい」
「しばらくは、外で不用意に反応しないでください」
「反応?」
「名前を呼ばれた時、周囲を見てから返事をしてください」
「俺の名前なのに」
「通称です」
「そうでした」
「また、誰かに宗教を聞かれた場合は、私が対応します」
「宗教」
「見た目で聞かれる可能性があります」
「見た目で祈りの方向を推測されるんですね」
「言い方に注意してください」
「はい」
法務さんは、端末で何かを確認していた。
俺は彼女を見た。
昨日からずっと、彼女はほとんど休んでいない。ローマでも、日本でも、ホテルでも、会議でも、移動中でも、ずっと確認している。
誰が見ているか。誰が近づくか。どの言葉が危険か。どの書類が必要か。どの費用がどの名目になるか。
俺がナザレさんになるために、彼女はずっと法務さんでいる。
それは、少しおかしい気がした。
「法務さん」
「はい」
「俺は、ナザレになりました」
「はい」
「でも、あなたはずっと法務さんなんですね」
彼女の指が、一瞬だけ止まった。
「職務上、そう呼んでいただいて構いません」
「構うというより」
「はい」
「旅先で、俺があなたを法務さんと呼ぶのは、不自然ではありませんか」
車内が、少し静かになった。
神父が窓の外を見た。山辺先生が、閉じたノートパソコンをさらにしっかり閉じた。
法務さんは、俺を見なかった。
「……不自然です」
「ですよね」
「はい」
「では」
俺は、できるだけ普通に言った。
「名前を教えてください」
法務さんは、すぐには答えなかった。
車のエンジン音だけが続いた。
「どの手続きに必要ですか」
やがて、彼女はそう聞いた。
「手続きではありません」
「では、何のために」
「あなたを、役割ではなく、あなたとして呼ぶために」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
でも、間違ってはいないと思った。
彼女は、俺を役割で処理しながら、役割以上のことをしている。なら、俺だけが彼女を役割で呼び続けるのは、少し違う気がした。
神父が、静かに目を閉じた。
山辺先生は、明らかに何かを記録したそうな顔をしていたが、耐えていた。
法務さんは、窓の外を見たまま言った。
「榊原です」
「榊原さん」
「はい」
名字だった。日本では、まず名字から入るらしい。
「下の名前も、聞いていいですか」
「必要ですか」
「手続きではありません」
「それは、先ほど聞きました」
法務さん、いや、榊原さんは小さく息を吐いた。
「玲子です」
「玲子さん」
口に出すと、法務さんよりずっと人の名前だった。当たり前だが。
「いい名前ですね」
「評価しないでください」
「すみません」
「いえ」
榊原さんは、端末に視線を戻した。
「業務中は、榊原でお願いします」
「玲子さんでは?」
「段階を踏んでください」
山辺先生が、咳き込んだ。神父が、なぜか祈り始めた。
「段階があるんですね」
「あります」
「法務ですか」
「社会生活です」
「難しい」
「慣れてください」
俺は頷いた。
「分かりました。榊原さん」
「はい」
それだけのことだった。
名前を一つ聞いただけ。
でも、車内の空気は少し変わった。
俺はイエスという名前をしまい、ナザレになった。
彼女は法務さんという役割から、少しだけ榊原玲子になった。
たぶん、俺たちはどちらも、少し危ないことをした。
名前は、人を近づける。
だから、名前は危険だ。
だが、名前がなければ、人は近づけない。
神の名で人が傷つくことがある。神の名で人が救われることもある。俺はそれを、嫌というほど見てきた。
それでも、人は名前を呼ぶ。
その人を、役割ではなく、その人として呼ぶために。
「榊原さん」
「はい」
「これから、よろしくお願いします」
「先ほども聞きました」
「名前を聞いた後なので、もう一度」
榊原さんは、少しだけ黙った。
「こちらこそ」
それから、いつもの声で付け足した。
「ただし、問題行動は控えてください」
「はい」
車は高速道路へ入った。
行き先はまだ知らされていない。
俺はナザレさんとして、どこかへ向かっている。
隣には、榊原さんがいる。法務さんではなく。いや、もちろん法務さんでもある。
人間は、名前が増えるほど面倒になる。
神も、たぶん同じだ。




