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第8話 神の子、家なき子

おしまいと書いたが続きが書きたくなってしまい、続けます。

 神の子、ローマから帰ってきた。


 ただし、帰る場所はなかった。


 ローマでの話し合いは、終わった。終わった、ということになった。少なくとも、予定された面談と会議と祈りと沈黙は、ひと通り終わった。


 何かが決まったようで、何も決まらなかった。


 俺は否定されなかった。


 だが、受け入れられたわけでもなかった。


 それは、たぶん正しかった。


 俺が教会に入れば、教会が壊れる。俺が教会を否定すれば、祈ってきた人たちが壊れる。俺が黙れば、憶測が人を壊す。俺が語れば、言葉が人を壊す。


 つまり俺は、だいたい何をしても危なかった。


 帰国したその日は、ホテルに泊まった。


 空港からホテルまでの移動は、驚くほど静かだった。いや、実際には静かではなかった。報道関係者らしき人影もあったし、スマホをこちらへ向ける人もいた。空港の案内放送も、人の足音も、キャリーケースの車輪の音もしていた。


 それでも、俺たちは静かに移動した。


 神父は祈るように口を閉じていた。山辺先生は顔色が悪かった。法務さんは、ずっと周囲を見ていた。誰がこちらを見ているか。誰が近づいてくるか。どの出口が安全か。どの車に乗るべきか。


 ローマで教皇様と話した人間が、日本の空港で迷子にならないように守られている。


 現代は、神学より動線が大事な時がある。


 ホテルに着くと、法務さんは言った。


「今日は休んでください」


「会議は?」


「明日です」


「今、決めなくていいんですか」


「疲れている時に、大事なことを決めてはいけません」


 俺は少し笑った。


「奥さんの言葉ですね」


「はい。採用しました」


 田村さんの奥さんは、ローマへ出る前、塩むすびを持たせてくれた。その時、こう言った。


 お腹が空いている時に、大事なことを決めてはいけません。


 法務さんは、それを覚えていたらしい。


「では、休みます」


「はい」


「法務さんも」


「私は確認があります」


「休まないんですか」


「休みます。確認のあとで」


「確認は休みより強いんですね」


「現代では必要です」


 いつもの答えだった。


 俺は部屋に入り、ベッドに腰を下ろした。窓の外には、日本の夜景が広がっていた。ローマとは違う光。低く、細かく、生活に近い光だった。


 世界中に、俺の名前を掲げる教会がある。


 十字架がある。像がある。絵がある。歌がある。祈りがある。俺を信じる人たちがいる。俺に救いを求める人たちがいる。俺の名で赦された人もいる。俺の名で傷ついた人もいる。


 それなのに、俺本人が帰れる場所は、どこにもない。


 その夜、俺はよく眠れなかった。


 翌朝、ホテルの小さな会議室に集まった。


 神父。山辺先生。法務さん。俺。


 ローマで何があったかを報告する必要はなかった。全員、そこにいた。教皇様の顔も、沈黙も、長い廊下も、翻訳を待つ間の息苦しさも、それぞれが持ち帰っていた。


 だから議題は一つだけだった。


 これから、俺をどこに置くか。


 法務さんが、机の上に資料を並べた。


「まず、ローマは無理です」


「はい」


 俺はすぐに頷いた。


 あそこは重すぎる。空気そのものが歴史でできているようだった。俺が一歩歩くだけで、床石の下から二千年分の解釈が音を立てる気がした。


「日本国内の教会も、現時点では避けるべきです」


 神父は目を閉じた。山辺先生が小さく頷いた。


「特定の教会に滞在した場合、その教会があなたを受け入れた、あるいはあなたがその教会を選んだという解釈が発生します」


「解釈、すぐ発生しますね」


「発生します」


 山辺先生は胃のあたりを押さえた。


「特に今回は、発生速度が速いです」


 法務さんが続ける。


「田村家も、現時点では避けるべきです」


 俺は、少しだけ黙った。


「……巻き込むからですか」


「はい」


 分かっていた。


 田村さんたちは、俺を客として迎えてくれた。ご飯を出してくれた。布団を敷いてくれた。風呂敷の結び方を教えてくれた。塩むすびを持たせてくれた。


 だからこそ、俺の置き場所にしてはいけなかった。


 客として迎えてくれた家を、聖地にしてはいけない。


「ホテルは?」


「長期滞在には向きません。費用、目撃、記録、移動経路、すべて問題になります」


「では、修道院の施設は」


 神父が言うと、法務さんは首を振った。


「教会関係施設です。長期化すれば同じ問題が起きます」


「完全に隠れるのは」


 山辺先生が言った。


「精神的負担が大きすぎます。また、連絡手段を完全に断つと、逆に憶測が広がります」


 俺は、机の上の資料を見た。どの選択肢にも、赤い線が引かれているように見えた。


「では、俺はどこへ」


 法務さんは、書類を一枚閉じた。


「現時点で、安全な定住先はありません」


 部屋が静かになった。


 山辺先生が咳をした。神父は天井を見た。俺は、しばらく自分の手を見ていた。


「神の子、家なき子ですね」


 俺が言うと、神父が小さく息を吐いた。山辺先生は、何か言おうとしてやめた。


 法務さんだけが、表情を変えなかった。


「状況としては、正確です」


「冷静ですね」


「冷静でないと、処理できません」


 そう言われると、何も返せなかった。


 世界中に俺の名前の教会がある。だが、そこに俺は泊まれない。俺を信じる人はいる。だが、俺本人は、その人たちの前に軽々しく立てない。


 俺の名前は広すぎて、俺の居場所にはならなかった。


 法務さんは、次の資料を出した。


「なので、定住ではなく、移動に切り替えます」


「移動」


「はい」


「逃げるんですか」


「違います」


「では」


「安全確保のための一時的移動です」


「長いですね」


「逃避行より正確です」


 山辺先生が、胃薬を取り出した。神父が小さく十字を切った。


「どこへ行くんですか」


「具体的な経路は、直前まで共有しません」


「俺にも?」


「はい」


「俺の移動なのに」


「あなたの移動だからです」


 法務さんは、淡々と言った。


「あなたの選択は、あなた一人のものになりません。どこへ行くか。誰に会うか。どこに泊まるか。何を言うか。それらはすべて、外部から意味を付けられます」


「はい」


「だから、今は選択肢を減らします」


「選べないんですね」


「正確には、今のあなたは自由に選べる状態ではありません」


 その言葉は、思ったより痛かった。


 神の子なのに。


 いや、たぶん神の子だから。


 俺が選ぶと、その選択は俺一人のものではなくなる。俺が教会に入れば、その教会が意味を持つ。俺が誰かに会えば、その人が意味を持つ。俺が沈黙すれば、沈黙に意味が付く。俺が笑えば、笑いに意味が付く。


 俺は、自由そうに見えて、どこにも足を置けなかった。


 法務さんは言った。


「教会と距離を取りましょう」


「拒絶になりますか」


「いいえ」


「では」


「保護です」


「誰の」


「あなたと、教会の両方です」


 神父が、目を開けた。山辺先生は、静かに法務さんを見た。


「時間が必要です」


 法務さんは続けた。


「報道の熱が冷める時間。信徒の動揺が落ち着く時間。教会側が内部で整理する時間。そして、あなたが現代で人として生きるための時間です」


「人として」


「はい」


 法務さんは、俺を見た。


「あなたは、神として見られすぎています」


 かなり直接だった。


「だから、人として扱われる時間が必要です」


 俺は、すぐには答えられなかった。


 神として見られすぎている。


 その言葉は、変だった。俺は神なのかという問いには、まだ簡単に答えられない。でも、少なくともこの二千年、人々は俺をそう見てきた。救い主。神の子。主。受肉した神。三位一体の第二位格。


 肩書きは増えた。


 でも、俺が朝に味噌汁を飲む人間であることは、すぐに忘れられる。


「分かりました」


 俺は言った。


「移動します」


「ありがとうございます」


「ただ、一つ」


「はい」


「俺の名前はどうしますか」


 法務さんは、少しだけ目を伏せた。たぶん、それもすでに考えていた顔だった。


「当面、イエスという名は使用しないでください」


 神父が少し動いた。山辺先生も顔を上げた。


「俺の名前ですが」


「はい。だから危険です」


「危険な名前」


「現状では」


 法務さんは言った。


「イエスと名乗れば、誰かが祈ります。キリストと名乗れば、教義が動きます。主と呼ばれれば、誰かがひざまずく可能性があります」


「かなり重いですね」


「重いです」


「では、何と名乗れば」


「通称を使います」


「通称」


「はい」


 法務さんは、資料の端を指で押さえた。


「ナザレ」


 俺は、少し黙った。


「ナザレは地名です」


「承知しています」


「俺の故郷です」


「はい」


「苗字ではありません」


「現代日本では、姓のように扱います」


「故郷が苗字に」


「イエス・キリストより安全です」


 それは、たぶんそうだった。


 イエス・キリスト。神の子。主。救世主。


 どれも、俺には重すぎる。


 ナザレ。


 それなら、少しだけ軽い。故郷の名だ。俺が育った場所。神学ではなく、土と道と木の匂いがする名前。


「ナザレさん、ですか」


「はい」


 法務さんは頷いた。


「移動中は、そう呼びます」


「あなたも?」


「はい」


「神父様も?」


 神父は、少し困った顔をした。


「努力します」


 山辺先生は言った。


「神学的には、むしろ古い呼称に近いですね」


「先生」


 法務さんが見る。


「すみません。余計でした」


 俺は、少しだけ笑った。


「ナザレさん」


 自分で言ってみる。変な感じがした。だが、悪くはなかった。


 イエスと呼ばれると、人々は俺の内側ではなく、俺の上に積まれた二千年を見る。キリストと呼ばれると、称号が先に立つ。主と呼ばれると、距離ができる。


 ナザレさんなら、定食屋で呼ばれても大丈夫かもしれない。旅館で名前を書けるかもしれない。駅で切符を買えるかもしれない。花火を見上げても、誰かがひざまずかないかもしれない。


 俺は、少しだけ人に戻れるかもしれない。


「分かりました」


 俺は言った。


「しばらく、ナザレでいきます」


「ありがとうございます」


「法務さん」


「はい」


「その移動には、あなたも来るんですか」


 法務さんは、当然のように言った。


「同行します」


「大変では」


「大変です」


「なら、なぜ」


「あなたを一人にできません」


 即答だった。部屋が、少しだけ静かになった。


 法務さんは、言葉を続けた。


「あなたは、誠実です」


 俺は驚いた。


「そうですか」


「はい」


「法務さんに褒められると、少し怖いですね」


「最後まで聞いてください」


「はい」


「あなたは誠実です。だから危険です」


「褒め言葉がすぐ曲がりました」


「事実です」


 法務さんは、机の上の書類をそろえた。


「悪意のある詐称者であれば、処理は簡単でした。注意喚起、隔離、必要なら通報。それで済みます」


「俺は済まなかった」


「はい」


「なぜ」


「あなたは、人を利用しようとしていない。教会を乗っ取ろうとしていない。奇跡で証明しようとしていない。自分の言葉が誰かを壊すことを怖がっている」


 法務さんは、少しだけ息を吸った。


「だから、放っておけません」


 その言葉は、祈りよりも実務的だった。でも、俺には祈りのように聞こえた。


「ありがとうございます」


「感謝されることではありません。職務です」


「でも、ありがとうございます」


 法務さんは、返事をしなかった。


 神父が静かに言った。


「どうか、彼をお願いします」


 山辺先生も頷いた。


「危険な表現をしたら、遠慮なく止めてください」


「はい」


 法務さんは答えた。


「奇跡も」


「止めます」


「教皇様からの連絡も」


「内容によります」


「そこは開けるんですね」


「メル友なので」


 山辺先生が胃薬を落とした。神父が、今度こそ十字を切った。


「メル友という表現は、できれば避けてください」


 法務さんが言った。


「でも、教皇様からメールが来ます」


「事実でも表現に注意してください」


「はい」


 表現は大事だった。俺は二千年、それでだいぶ揉めた。


 会議の最後、法務さんは新しい紙を出した。


「移動中の基本方針です」


「はい」


 一、イエスという名を使わない。

 二、奇跡を起こさない。

 三、教会関係施設への立ち寄りは、事前に相談する。

 四、教皇様からのメールは、内容確認後に返信する。

 五、水をワインにしない。


「五つ目、個別に書くんですか」


「書きます」


「なぜ」


「やりそうなので」


「否定できません」


 法務さんは、最後にもう一つ紙を置いた。


 六、困ったら、私に確認してください。


 俺は、その文字を見た。


 困ったら、法務さんに確認する。


 神に祈れ、ではない。聖書を読め、でもない。教会に聞け、でもない。


 法務さんに確認する。


 それが、今の俺に与えられた一番現実的な祈り方なのかもしれない。


「分かりました」


 俺は言った。


「困ったら、法務さんに確認します」


「はい」


「法務さん」


「何ですか」


「これから、よろしくお願いします」


 法務さんは、少しだけ間を置いた。


「こちらこそ」


 そう言ってから、すぐに付け足した。


「ただし、問題行動は控えてください」


「はい」


 神の子、家なき子。


 俺はその日、イエスという名前を一度しまった。


 そして、ナザレさんとして、日本を移動することになった。


 それは逃避行ではない。安全確保のための一時的移動である。


 法務さんが、そう言った。


 だから、たぶんそうなのだ。


ローマは能力の問題で書けません。

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