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第7話 塩むすびをローマへ

 出発日は、三日後になった。早いのか遅いのか分からない。


 法務担当によると、これは「異例の調整速度」らしい。


「普通はこんなに早く進みません」


「なぜ進んだんですか」


「世界中が見ているからです」


「圧力ですね」


「はい」


「神学より世論が強い」


「場合によります」


「今回は?」


「かなり強いです」


 現代では、神学も行政も世論の天気を見ながら動くらしい。台風と同じだ。発生したら進路を読む。消せない。備える。逃げる。被害を減らす。


 俺という台風が発生してしまったのだろう。かなり迷惑な話だ。


「俺、低気圧扱いですね」


 法務担当は書類から目を上げずに言った。


「むしろ高気圧では」


「なぜ?」


「周囲の空気を乱しているので」


「気象にも詳しいんですか」


「法務です」


 答えになっていないが、もう慣れた。


 出発までの三日間、田村家は妙な忙しさに包まれた。


 神父は電話をし続けた。


「はい。本人の安全が最優先です」


「いえ、本人性については判断していません」


「はい。対話です」


「公開討論ではありません」


「奇跡の検証会でもありません」


 山辺先生は、俺の発言メモを整理していた。


「この表現は危険です」


「どれですか」


「『教義は漬物』」


「だめですか」


「だめではありませんが、ローマで最初に出す比喩ではありません」


「後半なら?」


「状況次第です」


「『杖で殴るな』は?」


「強いですが、残しましょう」


「『神の名を持ち出す時、人は自分の残酷さを見失いやすい』は?」


「かなり強いです」


「だめ?」


「必要です」


 山辺先生は胃薬を飲んだ。


「必要な言葉ほど、胃に悪いですね」


「先生、大丈夫ですか」


「大丈夫ではありません」


「祈ります」


「ありがとうございます。ただ、できれば表現も少し柔らかくしてください」


 法務担当は、俺の存在を制度上どう扱うかで戦っていた。


「仮名での移動は可能です。ただし、国際移動では正式な身分確認が必要です」


「俺、正式には何ですか」


「現時点では、保護対象者です」


「神の子ではなく」


「法務上は」


「保護対象者、いいですね。軽い」


「軽くありません」


「そうですか」


「かなり重いです」


 奥さんは、弁当の研究をしていた。


「検疫に引っかからないもの、汁気がないもの、匂いが強すぎないもの、日持ちするもの」


「大変ですね」


「ローマへ持っていくお弁当ですから」


「儀式みたいになってませんか」


「少しだけ」


 田村さんは風呂敷の結び方を俺に教えた。


「真結びだ。縦結びにするな」


「縦結びはだめなんですか」


「ほどけにくいし、見た目も悪い」


「教義みたいですね」


「すぐそういう話にするな」


「すみません」


「でも、まあ、そうだな」


 田村さんは風呂敷をほどいた。


「きつくしすぎるとほどけない。ゆるすぎると中身が落ちる。ちょうどよく結べ」


「ちょうどよく」


「だいたい世の中それだ」


 強い。またローマに持っていきたい言葉が増えた。法務担当に言ったら、公式文書には入れないと言われるだろう。


 出発前日の夜。田村家で、ささやかな夕食会が開かれた。特別な料理ではない。ご飯。味噌汁。焼き魚。煮物。漬物。そして卵焼き。いつもの食事だった。


 でも、そのいつもがありがたかった。


 食卓には、全員がいた。田村夫妻。神父。山辺先生。法務担当。俺。テレビは消えている。スマホも見ない。ただ食べる。


 奥さんが言った。


「明日は早いですから、しっかり食べてください」


「はい」


 田村さんが言った。


「ローマの飯が合わなかったら困るからな」


「イタリア料理はおいしいと聞きます」


「味噌汁はないだろ」


「ないでしょうね」


「やっぱり困るな」


 神父が少し笑った。


「ローマにも日本食店はあります」


「あるんですか」


「あります」


「世界は広いですね」


「広くて狭いです」


 法務担当が言った。


「現地では自由行動はできません」


「日本食店は?」


「無理です」


「厳しい」


「あなたは観光客ではありません」


「では何ですか」


「国際宗教危機の中心人物です」


 食卓が少し静かになった。


 田村さんが漬物を噛みながら言った。


「飯がまずくなる言い方だな」


「事実です」


「事実でも飯の時に言うな」


 法務担当は一瞬止まり、少しだけ頭を下げた。


「失礼しました」


 この家では、法務も食卓の作法に従う。強い。


 夕食の最後、奥さんが小さな包みを出した。風呂敷に包まれた弁当。


「これは明日の朝、持っていってください」


「ありがとうございます」


「中は塩むすびです。具は入れていません」


「検疫対策ですね」


「それもあります。でも、余計なものを入れない方がいい気がして」


 塩むすび。米と塩だけ。


 俺は包みを両手で受け取った。ずしりと重い。世界宗教の中心に持っていくには、あまりに小さい。でも、今の俺にはこれが一番必要だった。


「ローマで、もし何を言えばいいか分からなくなったら」


 奥さんは言った。


「これを食べてください」


「はい」


「お腹が空いている時に、大事なことを決めてはいけません」


「奥さんの名言ですね」


「そうです」


 山辺先生が真面目にメモを取った。法務担当が止めた。


「公式文書には入れません」


「分かっています」


 全員が笑った。笑いがあると、神の名は少し軽くなる。それは悪いことではないと思った。


 その夜、俺は眠れなかった。客間の布団に横になり、天井を見ていた。


 明日、田村家を出る。この家にいたのは数日だけだ。それなのに、長くいた気がする。


 畳。味噌汁。仏壇。十字架。庭の土。柿の木。塩むすび。客間。


 俺は、この家で神ではなく客だった。それが、とてもよかった。


 神として人を見ると、すべてが重くなる。救うべき人。導くべき人。赦すべき人。裁いてはいけない人。祈るべき人。


 でも客として見ると、まず礼を言える。泊めてくれてありがとう。飯をありがとう。布団をありがとう。話を聞いてくれてありがとう。神は、感謝する側に立つと少し人間に戻れる。


 いや、俺はもともと人間だった。それを忘れていたのは、俺ではなく、世界の方かもしれない。


 ふすまの向こうで、足音がした。田村さんだった。


「起きてるか」


「はい」


「またか」


「すみません」


 田村さんは部屋に入り、畳に座った。手には小さな紙袋を持っていた。


「これも持ってけ」


 中には、柿の干したものが入っていた。


「干し柿ですか」


「去年のやつだ。今年のじゃない」


「いいんですか」


「余ってる」


「もったいないから?」


「そうだ」


 俺は紙袋を受け取った。


「ローマに持ち込めますかね」


「知らん。法務に聞け」


「たぶん怒られます」


「じゃあ今食え」


 田村さんは一つ取り出して、俺に渡した。俺は食べた。甘い。時間の味がした。


「うまいです」


「そうか」


 田村さんは自分も一つ食べた。しばらく二人で干し柿を食べた。神学も法務もない。ただ、干し柿。


「キリストさん」


「はい」


「ローマで偉い人たちに会っても、あんまり偉そうにするなよ」


「はい」


「でも、へりくだりすぎるな」


「難しいですね」


「そうだ。だから、普通にしろ」


「普通」


「飯を食って、礼を言って、違うことは違うと言え」


「それでいいんですか」


「だいたいそれでいい」


 田村さんは膝を叩いて立ち上がった。


「あと、神さまでも靴はそろえろ」


「はい」


「玄関で分かるからな」


「何が?」


「人間が」


 田村さんはそれだけ言って出ていった。俺はしばらく、ふすまを見ていた。


 靴をそろえる。ローマで最初にやることが決まった。


 出発の朝。まだ暗いうちに起きた。


 田村家の台所には、すでに明かりがついていた。奥さんが弁当を包んでいる。田村さんは玄関で靴を磨いている。神父は電話。山辺先生は資料。法務担当はチェックリスト。全員が、それぞれの祈り方をしているようだった。


 俺は顔を洗い、客間を片付けた。布団を畳む。机を拭く。使った部屋を戻す。神の子が泊まった部屋、ではなく、客が使った部屋として。


 荷物は少なかった。着替え。手紙。メモ。塩むすび。風呂敷。それから、田村家の小さな庭の土が少しついた靴。


 玄関に立つ。田村夫妻が見送ってくれた。


 奥さんは弁当を渡した。


「忘れ物はないですか」


「たぶん」


「たぶんは危ないですね」


「すみません」


 田村さんが言った。


「靴」


 俺は足元を見た。片方が少し斜めだった。そろえる。田村さんが頷いた。


「よし」


 神父が外で待っている。車が来ている。空はまだ薄暗い。


 俺は田村夫妻に頭を下げた。


「お世話になりました」


 奥さんは目を潤ませていた。


「また来てください」


「来てもいいんですか」


「もちろんです」


 田村さんが言った。


「草むしりが残ってる」


「はい」


 俺は笑った。


「戻ってきます。神としてではなく、草むしり要員として」


「それでいい」


 奥さんは、小さく十字を切った。田村さんは、仏壇の方をちらりと見た。それから二人で頭を下げた。


 宗教は違う。作法も違う。でも、見送りは一つだった。


 俺は車に乗った。窓から田村家を見る。小さな家。仏壇と十字架が並ぶ家。神を客間に泊めた家。いや、違う。人間を泊めた家。


 車が動き出す。田村夫妻が手を振っている。俺も手を振った。そして、田村家は角を曲がって見えなくなった。


 空港へ向かう道は、まだ混んでいなかった。法務担当が助手席で書類を確認している。神父が運転している。山辺先生は隣で、俺の手紙を読み直していた。


「少し短くしました」


「どこを?」


「『神の名を持ち出す時、人は自分の残酷さを見失いやすい』を、少し後ろに移しました」


「なぜ?」


「最初に出すと、場が凍ります」


「後なら凍らない?」


「もう少しゆっくり凍ります」


「凍るんですね」


「はい」


 俺は風呂敷の包みを抱えていた。中には塩むすび。


 法務担当が振り向いた。


「お弁当ですが、保安検査前に食べた方が安全です」


「ローマに持っていけないんですか」


「リスクがあります」


「奥さんは、分からなくなったら食べろと」


「空港で分からなくなってください」


「厳しい」


「制度です」


 空港に着く前から、塩むすびはローマに届かない可能性が出てきた。だが、それも少し日本的だ。すべては持っていけない。持っていけないものは、食べてから行く。


 空港の近くに着くと、車が増えた。大型バス。タクシー。スーツケースを引く人々。空港は巨大だった。人が移動するための神殿のようにも見える。


 行き先の表示。チェックインカウンター。保安検査。ゲート。飛行機。現代人は、空を通る。昔なら、かなり神に近い領域だった。


「人間、飛べるようになったんですね」


 俺が言うと、山辺先生が言った。


「飛行機で」


「それでもすごいです」


「はい」


「でも、出入国で止まる」


 法務担当が言った。


「飛べても、書類がないと越えられません」


 人類は空を飛べるようになったが、国境は紙で守っている。すごいのか、すごくないのか分からない。


 空港内では、俺たちは目立たないように動いた。帽子。マスク。眼鏡。変装三点セット。


 法務担当が事前に調整した通路を進む。一般のカウンターではなく、別室へ案内された。


 そこには、数人の関係者が待っていた。空港職員。教区関係者。警備担当。そして、国の役所の人らしき人物。


 俺は小さく頭を下げた。


「お世話になります」


 役所の人は、非常に慎重な顔をしていた。


「事情は伺っています」


「どう扱うんですか、俺を」


 法務担当がすぐに言った。


「余計な質問は控えてください」


 役所の人は書類を見た。


「現時点では、特別な人道上の保護対象として扱います」


「人道上」


「はい」


「宗教上ではなく?」


「公的には、人道上です」


 法務担当が小さく頷いた。これは重要らしい。


 宗教上の特別扱いではない。人道上の保護。つまり、俺が本物かどうかは問わない。困っている人として処理する。


「それは、かなりいいですね」


 俺が言うと、役所の人は少しだけ驚いた。


「よいのですか」


「はい。俺が誰かより、今何に困っているかを見ているので」


 役所の人は、少し表情を緩めた。


「その方が、制度上は扱いやすいです」


「制度は、神より困りごとに強い」


「その表現は控えた方が」


 法務担当が即座に言った。


「はい」


 俺は黙った。


 別室で本人確認が行われた。本人確認。何度目だろう。


 しかし、今回は「イエス本人か」ではなかった。身長。顔写真。同行者。移動経路。安全確保。滞在予定。緊急連絡先。かなり具体的だった。


 誰かが言った。


「宗教的判断は、こちらでは扱いません」


 俺は頷いた。


「それでいいです」


 内心を問わない。外部条件を見る。安全に移動できるか。誰が責任を持つか。どこへ行くか。


 日本型の強さが、ここで出ていた。神の子かどうかを問われるより、渡航上の保護対象として扱われる方が、ずっと落ち着く。


 手続きが終わると、少し時間ができた。保安検査の前。


 法務担当が言った。


「今です」


「何が?」


「塩むすび」


 奥さんの弁当を開く。風呂敷を広げる。中には、竹皮風の包みに入った塩むすびが三つ。小さな漬物は入っていない。検疫と汁気への配慮だろう。


 塩むすび。米と塩。


 空港のベンチに座って、俺はそれを食べた。神父、山辺先生、法務担当も一つずつ食べた。


「これ、俺の分では?」


「一人で三つ食べると眠くなります」


 法務担当が言った。


「合理的ですね」


「はい」


 山辺先生は塩むすびを見つめていた。


「これをローマに持っていけないのは、惜しいですね」


「もったいない?」


「はい」


「なら、ここで食べるのが一番です」


 神父はゆっくり噛んでいた。


「おいしいですね」


「はい」


 空港のベンチで、四人で塩むすびを食べる。周囲には旅行者が行き交う。誰も俺たちを見ていない。


 世界宗教の大問題は、空港の隅で塩むすびを食べていた。それが、少しおかしかった。


 俺は最後の一口を飲み込んだ。


「分かりました」


「何がですか」


 神父が聞く。


「ローマに塩むすびは持っていけません」


「はい」


「でも、食べたので持っていけます」


 山辺先生が顔を上げた。俺は腹を軽く叩いた。


「中に」


 法務担当は一瞬黙った。


「詩的には許容します」


「法務的には?」


「ただの食事です」


 それで十分だった。


 塩むすびは、荷物としては持ち込めない。でも、食べれば体になる。


 言葉もそうかもしれない。持っていくのではなく、食べる。体にしてから話す。


 教義も、そうであればいい。外から掲げるものではなく、食べて、消化して、歩き方に変わるもの。塩が強すぎれば喉が渇く。弱すぎれば保たない。ちょうどいい塩で、今日を越える。


 俺は風呂敷を畳んだ。田村さんに教わった通り、きつすぎず、ゆるすぎず。


 搭乗前、神父が小さな祈りをした。


「主よ、この旅を守ってください」


 俺は、少しだけ困った。主よ。俺のことなのか、父のことなのか、教義上は複雑だ。でも、今日は深く考えなかった。祈りは、時々、厳密でなくてもいい。


 空港のアナウンスが流れる。搭乗開始。俺たちはゲートへ向かった。飛行機の入口で、客室乗務員が微笑んだ。


「いらっしゃいませ」


 俺は頭を下げた。


「よろしくお願いします」


 飛行機の中は、不思議な空間だった。細い通路。並ぶ座席。小さな窓。頭上の荷物入れ。人々が黙々と座っていく。


 誰も、これから空を飛ぶことに驚いていない。人間は、奇跡に慣れる。水が蛇口から出ること。夜が明るいこと。遠くの人と話せること。空を飛ぶこと。奇跡は、日常になると奇跡と呼ばれなくなる。


 それは、悪いことではない。むしろ、人間の勝利だ。


 俺は窓側の席に座った。隣は神父。通路側に法務担当。山辺先生は後ろの席。


 安全説明が始まった。酸素マスク。救命胴衣。非常口。人間は、空を飛ぶ時も、落ちた時の対処を考えている。対策と対処。やはり、人間はすごい。


 飛行機が動き出す。滑走路へ向かう。エンジン音が大きくなる。神父が少し緊張している。


「飛行機、苦手ですか」


「少し」


「神に祈りますか」


「はい」


「俺も祈りましょうか」


「今はやめてください。複雑になります」


 俺は笑った。


 飛行機が加速する。体が座席に押し付けられる。地面が離れる。街が小さくなる。


 田村家も、あの小さな神社も、教会も、修道院も、空港も、全部下に遠ざかる。


 人間は、本当に空を飛んでいる。


 俺は窓の外を見た。雲が近い。昔、人は空を見上げて神を考えた。今、人は空を飛びながら機内食を待つ。


 それでも、空は空だった。広く、遠く、人間より大きい。


 俺は小さくつぶやいた。


「行ってきます」


 誰に言ったのかは分からない。父に。田村家に。日本の小さな神々に。俺について二千年祈ってきた人々に。俺の名で傷ついた人々に。あるいは、自分に。


 飛行機は雲の上へ出た。空が明るくなった。


 ローマへ向かう。俺についての家へ。俺の名が重くなりすぎた場所へ。


 俺は、風呂敷を膝の上に置いた。中は空だ。でも、塩むすびはもう体の中にある。それでいい。


 空の上で、俺は目を閉じた。そして、ローマで最初に言うべき言葉を、もう一度だけ心の中で確認した。


 私の名を、杖ではなく武器にしないでください。


 いや、違う。もっと短く。もっと人間の言葉で。


 俺は小さく息を吐いた。


 俺の名前で、人を殴らないでくれ。


 たぶん、これでいい。


この話はここでおしまい。

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