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第6話 神の子、書類で詰む

 ローマに行く、と決めた翌朝。俺は、世界宗教の中心へ向かう前に、日本の制度に止められていた。


 田村家の居間。低い机の上には、書類が積まれている。法務担当が、黒いペンを持って座っている。神父は隣で資料を整理している。山辺先生はノートパソコンを開いている。田村さんは新聞を読んでいるふりをして、明らかに聞き耳を立てている。奥さんは台所で弁当の準備をしている。


 法務担当が言った。


「まず、確認します」


「はい」


「あなたには、戸籍がありません」


「ありません」


「住民票もありません」


「ありません」


「パスポートもありません」


「ありません」


「在留資格もありません」


「中東出身ではあります」


「現在の国家単位で言わないでください。余計に複雑になります」


「すみません」


「出生証明書もありませんね」


「たぶん、ありません」


「洗礼証明書は?」


「俺がですか?」


「ありませんね」


「ありません」


「死亡証明書は?」


「あるんですかね」


「もしあっても、二千年前です」


「有効期限切れですか」


「そういう問題ではありません」


 法務担当は額に手を当てた。


「あなたは、法制度上、かなり扱いにくい存在です」


「神学でもそう言われました」


「今回は行政です」


 俺は畳の上で正座していた。足がしびれてきた。


 法務担当は続けた。


「仮にあなたを日本国内で保護するにしても、本人確認が必要です」


「本人です」


「その本人確認ができません」


「だから本人です」


「循環しています」


「神学でも循環しました」


「行政では通りません」


 行政は強い。三位一体より強いかもしれない。


 神父が資料を見ながら言った。


「教会として身元保証のようなことはできないのですか」


 法務担当は首を振った。


「身元保証はできます。ただし、保証する対象の身元が不明です」


「自称イエス」


「それを公的書類に書けません」


 山辺先生がぽつりと言った。


「仮名での保護は?」


「短期的にはありえます。ただし、国外渡航は難しいです」


「ローマ側が特別に呼ぶ場合は?」


「それでも航空会社、出入国、各国当局を通ります」


「奇跡で移動するという選択肢は?」


 田村さんが新聞の向こうから言った。全員が田村さんを見た。


「冗談だよ」


 法務担当は真顔で答えた。


「仮に可能でも、入国記録が残らないので問題です」


「そこ真面目に返すのか」


「法務ですので」


 俺は感心した。現代では、奇跡にも手続き上の問題がある。


 朝食が終わると、奥さんが弁当の試作を出してくれた。おにぎり。卵焼き。焼き鮭。漬物。小さな唐揚げ。


「豚は避けました」


 奥さんが言った。


「なぜですか」


「中東の方だから、念のため」


「俺は大丈夫です」


「でも、誰かと一緒に食べるかもしれないでしょう」


 その配慮が、自然だった。宗教かどうかを問わない。食べられるかどうかも深追いしない。ただ、避けられるなら避ける。できる範囲で調整する。


「ありがとうございます」


 俺はおにぎりを取った。


「でも、飛行機に持ち込めるかどうかは法務さんに聞いてくださいね」


 奥さんが言う。法務担当は弁当箱を見た。


「液体物は注意が必要です。味噌汁は無理です」


「味噌汁、持っていけないんですか」


「国際線では厳しいです」


「ローマより味噌汁の方が遠い」


 田村さんが笑った。


 俺はおにぎりを食べた。うまい。世界中で俺について議論が起きていても、おにぎりはうまい。これはかなり救いだ。


 昼前、司教からオンライン通話があった。今度は田村家の居間だ。背景に仏壇と十字架が映り込むと、神父が少し慌てた。


「背景を変えた方が」


 田村さんが言った。


「なんでだ。うちはこれでやってる」


 司教は画面越しにそれを見て、少しだけ笑った。


「日本らしいですね」


「失礼があればすみません」


 奥さんが頭を下げる。司教は穏やかに言った。


「いいえ。むしろ、今の状況にはふさわしいかもしれません」


 法務担当が話を戻した。


「渡航についてですが、現実的には時間がかかります」


 司教は頷いた。


「ローマ側にもその旨を伝えています。ただ、向こうは非常に関心を持っています」


「関心というより、警戒では?」


 俺が聞くと、司教は否定しなかった。


「両方です」


「俺が本物なら困る。偽物でも困る」


「その通りです」


「どちらにしても困る存在」


「はい」


「存在が迷惑ですね」


 司教は少しだけ困った顔をした。


「迷惑というより、問いです」


「問い」


「あなたが本物であれ偽物であれ、教会は問われています」


「何を?」


「私たちは、キリスト本人が来た時、本人を受け入れるのか。それとも、本人を教義で審査するのか」


 部屋が静かになった。山辺先生が画面を見つめる。神父も黙っている。


 司教は続けた。


「もちろん、詐称者を受け入れるわけにはいきません。教会には信徒を守る責任があります。しかし同時に、もし神が私たちの想定外の形で来られた時、私たちはそれを見逃すのではないかという恐れもあります」


「信頼できる恐れですね」


 俺が言うと、司教は小さく笑った。


「あなたに返されるとは思いませんでした」


「便利な言葉だったので」


「乱用しないでください」


「はい」


 司教は真剣な顔に戻った。


「ローマに行く前に、あなたと直接、もう少し話したいという人がいます」


「誰ですか」


「日本のカトリック内部だけではありません。プロテスタント、正教会、宗教学者、哲学者、そして他宗教の方々です」


「増えた」


「はい」


「俺についての会議が、また宗派を超えた」


「世界は、あなたを一つの教会だけに閉じ込めてはくれません」


「俺が閉じ込められたいわけではないです」


 山辺先生が静かに言った。


「エキュメニカルな問題になっていますね」


「えきゅ……?」


「教派を超えたキリスト教全体の問題という意味です」


「単語が増える」


 神父が補足した。


「さらに、宗教一般の問題にもなっています」


「なぜ?」


「あなたが本物かどうかより、もし宗教の中心人物が現代に現れたら、後世の制度はどう応答するのか、という問いになっているからです」


 田村さんがぼそりと言った。


「死んだ親父が帰ってきた問題だな」


 司教が画面越しに頷いた。


「ある意味では、そうです」


 強い。田村さんの親父理論は、宗教史に食い込み始めていた。


 午後、田村家に来客があった。近所の女性だった。奥さんの友人らしい。


「お醤油を借りに来た」


 という古典的な口実だったが、明らかに様子を見に来ていた。奥さんは普通に迎えた。


「今、ちょっとお客さんがいるの」


「ニュースの?」


「そう」


 隠さないのか。俺は居間の隅で固まっていた。


 女性は俺を見た。しばらく見た。それから、こう言った。


「まあ、普通の人ね」


 俺は少し救われた。


「はい。普通です」


 神父が横で小さく咳払いした。山辺先生が下を向いた。法務担当は顔を押さえた。


 奥さんは笑った。


「お茶飲んでいく?」


「いいの?」


「いいわよ」


 近所の女性は普通に座った。俺の前に、普通にお茶が置かれた。


「あなた、本当にキリストさん?」


「自分ではそう思っています」


「ふうん」


 軽い。田村家周辺の人たちは、世界宗教の問題を「ふうん」で受ける力がある。


 女性はせんべいを食べながら言った。


「大変ねえ」


「はい」


「神さまって、もっと偉そうなのかと思ってた」


「偉そうにした方がいいですか」


「いや、やめた方がいいわよ。近所で嫌われるから」


 近所で嫌われる神。かなり現代日本だ。


「あなた、何かしてくれるの?」


「今のところ、畑の草むしりなら」


「あら、助かるじゃない」


 奥さんが言った。


「昨日やってもらったのよ」


「じゃあ、うちの庭もお願いしようかしら」


 法務担当が鋭く言った。


「外出は控えてください」


 女性は法務担当を見た。


「あなたは?」


「法務です」


「神さまにも法務がいるの?」


「現代では必要です」


 女性は感心したように頷いた。


「大変ねえ、神さまも」


 その一言で、居間の緊張が少しほどけた。


 俺は思った。世間話は強い。神学も法務もSNSも、世間話の前では少しだけ力が弱まる。


「でもね」


 女性は急に真顔になった。


「もし本当に神さまなら、うちの孫の受験、お願いします」


 法務担当が身構えた。神父も身構えた。俺は答えた。


「勉強してください」


 女性は笑った。


「そりゃそうだ」


「祈ることはできます」


「合格を?」


「努力が実りますように、と」


「それで十分よ」


 十分。そう言ってくれる人がいると、助かる。


 女性は醤油を借りて帰っていった。去り際に言った。


「また草むしりに来てね。神さまじゃなくてもいいから」


 俺は頭を下げた。


「はい」


 法務担当が即座に言った。


「行きません」


 現代の法務は、奇跡より早い。


 夕方、俺は田村さんと庭にいた。柿の木の下で、落ち葉を集めている。


「近所に広まりますね」


 俺が言うと、田村さんは箒を動かしながら答えた。


「もう広まってる」


「まずくないですか」


「まずいな」


「落ち着いてますね」


「慌てても広まる」


 それは真理だった。


「でも、不思議ですね」


「何が」


「ネットでは、俺は本物か偽物かで燃えている。教会では、教義と本人性で揉めている。ローマは警戒している。でも、近所では草むしり要員です」


 田村さんは笑った。


「その方がいいだろ」


「はい」


「神さまを神さまのまま置いとくと、みんな面倒になる。人手として使った方がいい」


「神の子、仕事は草むしり」


「世の中、大体そんなもんだ」


 俺は落ち葉を袋に入れた。田村さんは柿の木を見上げた。


「この木もな、毎年実をつけるけど、全部は食えん」


「もったいないですね」


「そう。だから近所に配る」


「捨てない」


「捨てると、なんか悪い」


「権利としては捨ててもいい」


「そういう話じゃない」


「はい」


 俺は頷いた。


 もったいない。この言葉が、少しずつ分かってきた。所有権の話ではない。物が持つ関係を、粗末にしない感覚。柿は、自分のものではある。でも、木と季節と雨と土と時間から来ている。だから、余ったら配る。捨てると、なんか悪い。


「俺の言葉も、もったいない扱いされたんですかね」


 俺が言うと、田村さんは箒を止めた。


「どういう意味だ」


「誰かが、俺の言葉を捨てずに残した。意味を足した。祈りにした。教義にした」


「うん」


「でも、残しすぎて、重くなった」


 田村さんは少し考えた。


「漬物みたいだな」


「漬物?」


「残すために漬けたら、味が変わる」


「ああ」


「生のままじゃ残らん。漬けたら別物になる。でも、それで冬を越せる」


 俺は笑った。


「教義は漬物」


「悪口か?」


「いいえ。かなり分かりやすいです」


 言葉も、そのままでは腐る。残すには、塩を入れる。器に入れる。重しをする。時間をかける。すると、元の野菜とは違うものになる。だが、それで冬を越える人がいる。


 教義も、そうなのかもしれない。生の言葉では二千年残らない。だから人は、教義という塩で漬けた。問題は、塩が強すぎると食べられなくなることだ。


「田村さん」


「なんだ」


「この話、ローマで使っていいですか」


「漬物の話か?」


「はい」


「ローマの偉い人に通じるのか」


「分かりません」


「味噌も持ってけ」


「持ち込み制限が」


「法務に聞け」


 田村さんは真顔だった。


 夜、俺たちは今後の計画を話した。法務担当は大きな紙に、やるべきことを書き出した。


 身分確認

 移動手段

 警備

 ローマ側連絡

 国内メディア対応

 偽物対策

 宗派間調整

 医療支援要請への対応

 手紙の配布

 田村家の保護


「田村家の保護?」


 俺が聞くと、法務担当は頷いた。


「ここが特定されれば、お二人に迷惑がかかります」


 奥さんが言った。


「迷惑はもうかかってますよ」


「申し訳ありません」


 俺が頭を下げると、田村さんが言った。


「飯を食わせた時点で共犯だ」


「共犯」


「神さま匿い罪だな」


「罪になるんですか」


 法務担当が真面目に答えた。


「現時点ではなりません」


「そこも真面目に返すのか」


 田村さんが笑った。神父は表情を引き締めた。


「偽物対策は本当に必要です」


「もう出ていますか」


 山辺先生がパソコンを見せた。そこには、SNSの投稿が並んでいた。


 我こそ真の再臨者である

 自称キリストは偽物、本物はこちら

 キリストの代理人を名乗る団体が寄付募集

 病気を治す祈祷会、参加費三万円


 俺は頭を抱えた。


「早すぎる」


 法務担当が言った。


「あなたの沈黙が、空白を生みました。その空白に、他者が入っています」


「俺が話すと燃える。黙ると偽物が増える」


「はい」


「詰み」


「だから、最小限の発信が必要です」


「何を言えば?」


 山辺先生が言った。


「奇跡を売るな。金を集めるな。病人を利用するな。私の名で他人を支配するな」


「それは言いたいです」


 神父が慎重に言った。


「ただし、あなたが『私の名で』と言えば、本人性を強く主張することになります」


「では、どう言えば?」


 法務担当が紙に書いた。


 いかなる人物・団体であれ、宗教的権威を名乗って医療や金銭を不当に要求する行為には注意してください。


「俺が消えた」


「公共安全情報としてはこの方がよいです」


「正しいけど、寂しい」


 山辺先生が言った。


「あなたが前に出るほど、あなた自身が燃料になります」


「神の子、可燃性」


「非常に」


 俺はため息をついた。現代で神をやるには、防火対策が必要らしい。


 その夜、俺は奥さんの手伝いで弁当の下準備をした。米を研ぐ。卵を割る。鮭を焼く。


「上手ですね」


 奥さんが言った。


「料理は少しできます」


「キリスト様が台所にいるの、不思議ですね」


「俺はかなり台所向きだと思います」


「なぜ?」


「人は、食べると少し落ち着くので」


 奥さんは頷いた。


「本当にそうです」


 卵焼きを巻きながら、奥さんが言った。


「ローマに行くの、怖いでしょう」


「怖いです」


「行かなくてもいいんですよ」


「田村さんにも、神父様にも、逃げていいと言われました」


「ええ」


「でも、逃げ続けると、俺の名前が勝手に働き続けます」


「もう働いていますね」


「はい」


「それを止めたい?」


「止めるというより、弱めたい」


「弱める」


「俺の名前が強すぎるんです」


 奥さんは卵焼きを皿に置いた。


「強い名前は、人を守ることもあります」


「はい」


「でも、押しつぶすこともあります」


「はい」


「なら、軽くしてきてください」


「軽く」


「神さまを軽くするなんて、変ですけど」


 奥さんは笑った。


「でも、あなたを見ていると、重すぎるものは少し軽くした方がいい気がします」


 神を軽くする。それは、かなり危ない言葉だ。でも、俺には分かる気がした。


 神の名。教義。救い。罪。裁き。使命。重すぎると、人は潰れる。軽すぎると、支えにならない。杖としての重さ。武器にならない軽さ。その調整が必要なのかもしれない。


「奥さん」


「はい」


「卵焼き、ローマで出したら怒られますかね」


「なぜ?」


「教義の話をしに行って、卵焼き出すのは」


「いいじゃないですか。難しい話は、お腹が空いていると悪くなります」


 これは真理だ。俺はメモした。難しい話は、お腹が空いていると悪くなる。


「それは俺の言葉じゃなくて、奥さんの言葉です」


「じゃあ、私の名言ですね」


「はい」


「使っていいですよ」


「ありがとうございます」


 翌日、教区から正式な発表が出た。俺の名前は出なかった。だが、明らかに俺の件だった。


 現在、宗教的権威を名乗る人物や団体による寄付・医療的効能の主張・奇跡の約束等が確認されています。いかなる場合も、病気や困難を抱える方の不安につけ込む行為は許されません。教会は、必要な医療・行政・福祉への接続を妨げるものではなく、むしろ支援へつながることを願います。不確かな情報に基づく金銭の支払い、個人情報の提供、治療の中断等には十分ご注意ください。


 俺は発表文を読んだ。


「かなり現代的ですね」


 法務担当が言った。


「必要です」


「奇跡の約束等」


「そこは外せません」


「俺、奇跡に警告する側になってる」


 神父が言った。


「奇跡は、信仰の中心ではありません」


「でも昔から人気です」


「はい。だから危険です」


 発表後、反応は割れた。


「教会がついに偽者を警告」

「本物を隠すための煙幕」

「医療につなげる姿勢は評価」

「奇跡否定は信仰の敗北」

「金集め団体への牽制か」

「神の子、消費者庁案件へ」


 最後のやつは少し笑った。消費者庁。現代の異端審問は、消費者保護とも接続するらしい。


 その日の午後、俺は田村家の近所を少しだけ歩く許可をもらった。もちろん、神父と法務担当付き。帽子とマスク。五分だけ。誰かに話しかけられたら戻る。ほとんど散歩というより、護送だった。


 近くの公園まで歩く。子どもたちが遊んでいる。母親たちがベンチで話している。老人が鳩を見ている。誰も俺に気づかない。それが、とても嬉しい。


 ベンチに座ると、小さな男の子がボールを転がしてきた。俺の足元で止まる。俺は拾って渡した。


「はい」


「ありがとう」


 男の子は走って戻っていった。


 それだけ。奇跡でもない。説教でもない。救済でもない。ただ、ボールを拾った。


 俺はその小ささに、少し泣きそうになった。


 神父が隣に座った。


「どうしました」


「こういうのでいい気がします」


「ボールを拾うことですか」


「はい」


 神父は公園を見た。


「神学にはなりにくいですね」


「だからいいのかもしれません」


 法務担当が少し離れて周囲を見ている。完全に警護だ。


 俺は小さく言った。


「神父様」


「はい」


「俺、ローマで何を言えばいいんでしょう」


「もう決まっているのでは?」


「杖で殴るな」


「それは大事です」


「でも、それだけで足りますか」


 神父は少し考えた。


「足りないでしょう」


「ですよね」


「でも、全部を言おうとすると、何も届きません」


「では?」


「一つだけ、ちゃんと言う」


「一つだけ」


「はい。あなたの名が重くなりすぎたなら、一つだけ軽くする」


 俺は公園の子どもたちを見た。


「何を軽くすればいいんでしょう」


 神父は答えた。


「裁きではないですか」


 俺は神父を見た。


「裁き」


「人は、神の名で裁きたがります。自分ではなく神が裁いている、と言えれば、自分の残酷さを見なくて済む」


 神父の声は静かだった。


「でも、あなたが来て、まず言うべきことがあるとすれば、それは『私の名で安易に裁くな』ではないでしょうか」


 俺は黙った。


 裁き。俺の名で、人は裁いた。異端。罪人。不信仰。堕落。敵。救われない者。そのたびに、俺の名前は重くなった。


「俺も、裁く言葉を使いました」


 俺は言った。


「はい」


「厳しいことも言いました」


「はい」


「だから、後世がそれを使うのも分かります」


「だからこそ、あなたが言う必要があるのだと思います」


 神父は俺を見た。


「裁きの言葉は、本人が使っても危険です。弟子が使えばもっと危険です。制度が使えば、さらに危険です」


 俺は息を吐いた。


「俺の言葉は、制度になると思っていなかった」


「でも、なりました」


「はい」


「なら、制度になった時の注意書きが必要です」


 注意書き。薬の副作用みたいだ。


 この教義は、他者を裁くために使用しないでください。用法・用量を守って祈ってください。副作用として、自己義認が生じる場合があります。


 少し笑えた。でも、かなり本質だ。


「神父様」


「はい」


「ローマで、教義の副作用について話したら怒られますか」


「怒る人はいるでしょう」


「ですよね」


「でも、必要かもしれません」


 法務担当がこちらを見た。


「時間です」


 散歩は五分で終わった。帰り道、俺は男の子のボールを思い出していた。


 神の名で世界を変えるより、転がってきたボールを返す方が、今の俺には確かだった。


 夜、田村家で小さな会議をした。ローマに向けた俺のメッセージを整理するためだ。


 山辺先生がホワイトボード代わりに大きな紙を出した。


「要点を絞りましょう」


「はい」


「あなたが言いたいことは?」


 俺は考えながら言った。


「俺の名で人を殴るな」


 山辺先生が書く。


 1. 名による暴力の禁止


 神父が言った。


「もう少し柔らかく」


 山辺先生が書き直す。


 1. キリストの名を、他者を傷つける道具にしない


 法務担当が頷いた。


「対外的にはこちらです」


「次は?」


 俺は言った。


「教義は杖であって、武器ではない」


 山辺先生が書く。


 2. 教義は支えるためのもの


 田村さんが言った。


「漬物は?」


「ローマで漬物は通るでしょうか」


 神父が微妙な顔をした。山辺先生は楽しそうに書いた。


 補助比喩:教義は保存食。塩が強すぎると食べられない。


 法務担当が言った。


「これは外向けには危険です」


「内輪用ですね」


「はい」


 神父が言った。


「他には?」


 俺は、縁側の奥さんを思い出した。


「神の計画で、人の痛みを黙らせるな」


 部屋が静かになった。山辺先生がゆっくり書いた。


 3. 苦しみに、安易な意味を強制しない


 奥さんが小さく頷いた。


「それは、言ってほしいです」


 俺は奥さんを見た。


「はい」


 神父が言った。


「もう一つ」


「何ですか」


「あなたは、自分が神として支配するためではなく、人として横にいるために来た、と書いていました」


 俺は少し恥ずかしくなった。


「はい」


「それは大事です」


 山辺先生が書く。


 4. 支配ではなく同伴


 法務担当が眉を寄せる。


「神性否定と取られる可能性があります」


「ですよね」


「表現を変えましょう」


 山辺先生が考える。


「神の権威を振りかざすのではなく、苦しむ人の隣に立つ」


 法務担当が頷く。


「それなら多少安全です」


「多少」


「安全な宗教的発言などありません」


 強い。


 田村さんが言った。


「あと、腹が減ってる時に難しい話をするな」


 奥さんが笑った。


「それは大事よ」


 山辺先生は真面目に書いた。


 5. 重要な対話の前に食事を取る


 法務担当が即座に言った。


「削除」


「なぜ」


「ローマ向けの公式要点ではありません」


 田村さんが不満そうだった。


「一番大事だろ」


 俺は笑った。


「俺の中では残します」


 会議が終わった後、俺は客間に戻った。紙に、ローマで話すかもしれない言葉を書き始めた。


 私は、あなたがたの教義を壊しに来たのではありません。

 しかし、教義が人を壊す時、立ち止まってほしいのです。


 私は、あなたがたの祈りを否定しに来たのではありません。

 しかし、祈りが他人への裁きに変わる時、思い出してほしいのです。


 私の名は、泣いている人を黙らせるためにあるのではありません。

 罪人を探して安心するためにあるのでもありません。


 教義は杖であってください。武器ではなく。

 傘であってください。石ではなく。


 神の名を持ち出す時、人は自分の残酷さを見失いやすい。だから、私の名を使う時ほど、自分の手を見てください。その手は、支えていますか。それとも、殴っていますか。


 書いて、手が止まった。


 強い。強すぎるかもしれない。でも、これくらい言わないと届かない気もした。神の名は重い。重いものは、落とすと人を潰す。


 俺は最後にこう書いた。


 私が戻ったとしても、あなたがたの代わりに世界を判断するためではありません。あなたがたが、自分の判断を神の名に隠さないようにするためです。


 これも強い。ローマで言ったら、何人か胃を押さえるだろう。山辺先生も押さえるかもしれない。


 だが、俺は紙を畳まなかった。そのまま机の上に置いた。逃げずに、言葉を見ておきたかった。


 深夜。客間のふすまが少し開いた。今度は奥さんだった。


「まだ起きてますか」


「はい」


「お夜食、いります?」


「いただきます」


 奥さんは小さなおにぎりを二つ持ってきた。梅干し入り。


「難しいことを考えていると、お腹が空くでしょう」


「はい」


 俺はおにぎりを受け取った。温かい。


 奥さんは、机の紙をちらりと見た。


「読んでも?」


「どうぞ」


 奥さんは座って、ゆっくり読んだ。読み終えると、しばらく黙っていた。


「怖いことを書きますね」


「はい」


「でも、言ってほしいです」


「本当に?」


「はい」


 奥さんは紙を机に戻した。


「私は、教会に救われました。でも、教会の言葉に傷ついたこともあります」


「はい」


「どちらも本当です」


「はい」


「だから、どちらかだけにしないでほしい」


「どちらかだけ?」


「教会は悪い、でもない。教会は正しい、でもない。救われた人もいる。傷ついた人もいる。それを両方持って行ってください」


 俺は頷いた。


「持って行きます」


 奥さんは微笑んだ。


「じゃあ、食べて寝てください」


「はい」


「あと、ローマで偉い人に会っても、ちゃんとご飯を食べてください」


「分かりました」


「空腹の神さまは、きっと機嫌が悪いです」


「たぶんそうです」


 奥さんは部屋を出ていった。俺はおにぎりを食べた。梅干しは酸っぱかった。目が覚める味だった。


 神は目を覚ますと厄介だ、と田村さんは言った。でも、少しだけ起きるなら。暴れるのではなく、静かに歩くなら。それくらいは、許されるだろうか。


 翌朝、事態はさらに進んだ。ローマから、正式な文書が届いた。日本語訳付き。そこには、丁寧な言葉でこう書かれていた。


 当該人物について、現時点でいかなる宗教的判断も下すものではない。しかし、世界的な混乱と信徒の動揺を鑑み、本人とされる人物の安全を確保したうえで、教会関係者との非公開対話を行うことを希望する。


「非公開対話」


 俺は読んだ。


「また会議ですね」


 山辺先生が言った。


「はい。ただ、これはかなり慎重な表現です」


 法務担当も頷いた。


「あなたを本物とも偽物とも言っていません。まず安全確保と対話です」


「ローマも保留」


 神父が言った。


「信仰には保留も必要です」


「その言葉、何回目でしょう」


「大事なので」


 田村さんが新聞を畳んだ。


「行くのか」


「はい」


「そうか」


 田村さんは立ち上がり、押し入れから何かを出してきた。古い風呂敷だった。


「これ、持ってけ」


「何ですか」


「弁当包むやつ」


「ありがとうございます」


「派手なカバンより、風呂敷の方がいい」


「なぜ?」


「ほどけるから」


「ほどける」


「結ぶのもほどくのも簡単だ。きつく縛りすぎると、物は壊れる」


 俺は風呂敷を受け取った。


 教義も、そうかもしれない。結ぶ必要はある。でも、ほどけないほど縛ると、中身が壊れる。


 田村さんは言った。


「ローマで偉い人が難しいこと言ったら、それ広げて弁当食え」


「それで大丈夫ですか」


「空気は壊れる」


「まずいのでは」


「固まりすぎた空気は、一回壊した方がいい」


 田村さんは本気だった。俺は風呂敷を握った。


「使います」


 法務担当が言った。


「公式会議中の飲食は控えてください」


「そこは調整します」


「本当にお願いします」


 移動の準備が始まった。まだ出発日は決まっていない。だが、もう後戻りはできないように見えた。


 俺は、田村家の仏壇と十字架の前に座った。手を合わせる。祈る。


 ローマへ行きます。俺についての家へ行きます。俺の名で救われた人と、俺の名で傷ついた人の両方を持って行きます。


 どうか、俺の言葉がまた武器になりませんように。できれば、杖になりますように。


 返事はない。だが、返事がないことに、もう少し慣れてきた。祈りは、答えを受け取るためだけではない。自分が何を背負っているかを、置いて見直すためにもある。


 俺は立ち上がった。


 居間では、奥さんが弁当の中身を相談している。法務担当が持ち込み制限を調べている。神父がローマと連絡を取っている。山辺先生が俺のメモを読んで、頭を抱えている。田村さんが風呂敷の結び方を実演している。


 世界宗教の中心へ向かう準備としては、かなり妙だった。でも、俺にはそれがよかった。


 俺は神としてローマへ行くのではない。客間で飯を食わせてもらい、畑の草を抜き、泣く人の横に座り、おにぎりを持たされた人間として行く。


 その方が、たぶんいい。神の名は重い。だから、少しでも人間の匂いを持っていく。味噌汁は持ち込めない。でも、おにぎりなら何とかなるかもしれない。


 法務担当が言った。


「おにぎりも国際線では注意が必要です。具材によっては検疫で問題になる可能性があります」


「ローマ、遠いですね」


「制度的に」


 田村さんが言った。


「じゃあ、梅干しはやめとけ」


 奥さんが言った。


「塩むすびにしましょう」


 塩むすび。教義は漬物。言葉には塩がいる。でも、塩が強すぎると食べられない。


 俺は笑った。


「塩むすびで行きます」


 神父が尋ねた。


「なぜ笑っているのですか」


「ローマに持っていく教義として、ちょうどいい気がして」


「塩むすびが?」


「はい」


 山辺先生が、少しだけ真顔で言った。


「比喩としては、悪くありません」


 法務担当が即座に言った。


「公式文書には入れません」


 田村さんが笑った。奥さんも笑った。俺も笑った。


 その笑いが、少しだけ祈りに似ていた。


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