第5話 客間の神さま
車は山を下り、住宅地へ入った。朝の光が、少しずつ街を起こしていく。通勤の車。犬の散歩をする人。ごみ袋を持った人。制服の子どもたち。世界は、俺の問題など知らない顔で動いていた。それが少しありがたかった。
山辺先生は隣でスマホを見ていた。顔が険しい。
「もう出ています」
「動画ですか」
「はい」
俺は聞く前から胃が痛くなった。
「タイトルは?」
山辺先生は一瞬ためらった。
「言わない方がいいかもしれません」
「言ってください」
山辺先生はため息をついた。
「自称キリスト、病児に『治せない』と宣言 奇跡拒否で現場騒然」
俺は窓にもたれた。
「まあ、そうなりますよね」
「切り取りです」
「でも嘘ではない」
「嘘ではありませんが、文脈がありません」
「人間は文脈を持ち運ぶのが下手ですね」
「現代は特に」
山辺先生はスクロールしながら続けた。
「別の動画では、あなたの祈りの部分だけが切り抜かれています」
「そちらは?」
「本物か? 自称キリスト、涙の祈り」
「忙しいですね、俺の評価」
「同じ出来事が、拒絶にも慈悲にも見えています」
「解釈で割れる」
「はい」
俺は目を閉じた。まただ。俺の言葉は俺から離れていく。そして、人々の欲しい形に切られていく。拒否した男。祈った男。偽物。本物。冷たい。誠実。危険。希望。全部、俺であって俺ではない。
神父が運転席から言った。
「でも、あの場で『治る』と言わなかったことは、正しかったと思います」
「母親は傷つきました」
「はい」
「俺も傷つきました」
「はい」
「正しいことって、あまり人を救わないですね」
神父は少し黙った。
「間違った希望よりは、救うかもしれません」
「それも痛い」
「信仰は、時々痛いものです」
俺は窓の外を見た。
信仰。人は、答えが欲しくて神に近づく。でも、神が答えない時、答えられない時、その沈黙に耐えられない。なら、神は何をすればいいのか。答えを与えれば、依存が生まれる。答えなければ、絶望が生まれる。どちらにしても、人間は苦しい。
そして俺は今、人間として苦しかった。
老夫婦の家は、古い木造の一軒家だった。庭には小さな畑がある。玄関の横には、鉢植えの花。軒先に干された大根。表札は、田村。
車が止まると、玄関が開いた。白髪の男性と、背の低い女性が出てきた。二人とも、俺を見ると少し緊張した顔になった。
神父が先に降りる。
「田村さん。急なお願いをして申し訳ありません」
男性が首を振った。
「いえいえ。困った時はお互いさまです」
女性が俺を見た。
「寒かったでしょう。中へどうぞ」
その言い方が、普通だった。神としてではなく、客として。俺は少しだけ胸が軽くなった。
「お世話になります」
頭を下げる。女性はにこりと笑った。
「何もない家ですけど」
この国の人は、何もないと言いながら、だいたい何かある。
玄関に入ると、木の匂いがした。廊下。畳の部屋。台所から味噌汁の匂い。壁には家族写真。仏壇。その横に小さな十字架。
俺は足を止めた。
「仏壇と十字架が並んでますね」
田村さんの男性、つまり田村さんが笑った。
「うちは妻が教会で、私は実家の仏壇係でしてね」
「両方あるんですか」
「両方あります」
「揉めませんか」
「たまに」
奥さんが台所から言った。
「揉めるほど立派に信仰してないでしょう」
「まあ、そうだな」
田村さんは笑った。
俺は、その空気に少し驚いた。教義の境界が、家の中で畳まれている。仏壇。十字架。味噌汁。干し大根。この家では、宗教が戦っていない。並んでいる。というより、暮らしの中で、それぞれの置き場所に収まっている。
「客間はこちらです」
案内された部屋は、六畳の和室だった。畳。押し入れ。低い机。布団。窓から庭が見える。
「本当に客間ですね」
「たまに孫が泊まりに来るんです」
奥さんが布団を整えながら言った。
「お茶を入れますね」
「ありがとうございます」
俺は畳に座った。畳の匂いは、不思議に落ち着く。
神父と山辺先生と法務担当は、居間で田村夫妻と打ち合わせを始めた。俺は一人、客間に残された。
客間。その言葉が、妙に染みた。
ここは、信者の家だ。だが、教会ではない。ここでは、俺は審査されない。説教もしなくていい。奇跡も起こさなくていい。広報文も書かなくていい。泊まるだけ。布団がある。お茶が出る。食事の匂いがする。
人間は、これだけでだいぶ救われる。
昼食は、焼き魚と味噌汁と白いご飯だった。田村夫妻、神父、山辺先生、法務担当、そして俺。全員で食卓を囲む。
食べる前、奥さんが手を合わせた。
「いただきます」
田村さんも手を合わせた。神父は小さく十字を切った。法務担当は無言で箸を持った。山辺先生は、どちらに合わせるべきか一瞬迷ってから、手を合わせた。俺も手を合わせた。
「いただきます」
この家の食卓では、祈りが喧嘩していなかった。それぞれが少しずつ違う方向を向いているのに、食事は一緒にできる。これは、かなりすごいことではないか。
奥さんが俺に魚を勧めた。
「お口に合うか分かりませんけど」
「おいしいです」
本当においしかった。
「よかった。キリスト様に魚を出すの、ちょっと緊張しました」
「魚は助かります」
「パンの方がよかったですか」
「今はご飯がいいです」
田村さんが笑った。
「神さまも米を食うんだな」
奥さんが肘でつついた。
「あなた、失礼よ」
「すみません」
俺は首を振った。
「いえ。食べます」
「おかわりは?」
「いただきます」
奥さんは満足そうに茶碗を受け取った。
法務担当が小声で言った。
「食べ過ぎると、後で動きにくくなります」
「逃亡中でしたね」
「はい」
「ご飯がうまいので忘れてました」
「忘れないでください」
現代の逃亡生活は、食事管理も含むらしい。
食事の途中、田村さんが尋ねた。
「それで、あんたは本当にキリスト様なのかい」
食卓が止まった。神父の箸が空中で止まる。山辺先生が咳払いする。法務担当の目が鋭くなる。
俺は味噌汁の椀を置いた。
「自分では、そうだと思っています」
田村さんは「ふうん」と言った。軽い。あまりにも軽い。
「それで、何しに来たんだい」
「それが、よく分からなくて」
「神さまなのに?」
「神さま扱いされてますが、本人としてはだいぶ困っています」
田村さんはご飯を食べながら言った。
「まあ、みんな勝手なこと言うからな」
「はい」
「死んだ後なんて、特にそうだ」
その言葉に、俺は箸を止めた。
田村さんは続けた。
「うちの親父も、死んだ後に親戚があれこれ言ってたよ。親父はこう思ってたはずだ、いや違う、ああだった、こうだったってな」
「それは、大変ですね」
「本人いないから、言いたい放題だ」
「分かります」
「分かるのか」
「かなり」
田村さんは俺を見て、少し笑った。
「じゃあ、キリスト様も大変だな」
「はい」
奥さんが静かに言った。
「でも、残された人は、そうするしかないんですよ」
食卓が少し静かになった。
「いなくなった人の言葉を、思い出して、つなげて、勝手に意味を足して、それで何とか生きるんです」
奥さんは味噌汁を見つめていた。
「夫を亡くした友達も、よく言います。あの人ならこう言う、って。本当は分からない。でも、そう思わないと決められないことがある」
俺は黙った。
本人不在の解釈。俺はそれを、ずっと困ったものとして見ていた。俺の言っていない言葉。俺についての後世の教義。俺を使った制度。俺の名での戦い。
でも、残された人は、本人がいないから解釈するしかない。解釈は、勝手さでもある。同時に、喪失を生き延びる手段でもある。
「俺は、戻ってきてしまったから」
俺は言った。
「残された人たちの解釈を、邪魔しているのかもしれません」
奥さんは首を振った。
「邪魔じゃないですよ」
「そうですか」
「でも、びっくりはします」
それはそうだ。
田村さんが笑った。
「死んだ親父が急に帰ってきて、『俺はそんなこと言ってない』って言い出したら、まあ困るわな」
「ですよね」
「でも、一回くらい聞いてみたい気もする」
「何を?」
「親父、本当はどう思ってたんだって」
俺は、胸の奥が少し痛くなった。
人は、本人の真意を知りたい。でも、知ったら今までの解釈が壊れるかもしれない。それでも聞きたい。俺が今、世界に突きつけているのは、それなのかもしれない。
午後、俺は田村家の庭に出た。庭には小さな畑がある。ネギ。大根。何かの葉物。端には柿の木。
田村さんが軍手を投げてきた。
「暇なら手伝え」
神父が驚いた。
「田村さん」
「泊まるなら働け」
奥さんが笑った。
「あなた、キリスト様に畑仕事させるの?」
「大工だったんだろ。土いじりくらいできるだろ」
俺は軍手をはめた。
「やります」
法務担当が言った。
「外から見えない範囲でお願いします」
「畑にも広報リスクがあるんですね」
「あります」
俺は畑の草を抜いた。土は冷たかった。久しぶりに、手が汚れる。よかった。
人間の手は、汚れると安心する。神として見られる手は、清すぎて使いにくい。土のついた手なら、何かできる気がする。
田村さんは隣で鍬を動かしていた。
「上手いじゃないか」
「昔、似たようなことはしてました」
「大工じゃなかったのか」
「生活にはいろいろあります」
「神さまも生活してたんだな」
「してました」
田村さんは黙って土を掘った。しばらくして、ぽつりと言った。
「うちの妻はな、若いころに子どもを亡くしてる」
俺は手を止めた。
「そうですか」
「それで教会に行くようになった」
「はい」
「俺は、神さまなんて何してたんだと思った」
田村さんは鍬を土に刺した。
「子どもを助けない神なんて、何の役に立つんだってな」
俺は何も言えなかった。今朝の母親の顔が浮かぶ。治りますか。分かりません。
「でも妻は、教会に行った」
田村さんは続けた。
「神さまが答えてくれたわけじゃない。ただ、泣いてても怒られない場所だったんだと」
「泣いてても怒られない場所」
「家だと、俺もつらいし、親戚も気を使うし、みんな前を向けって言う。教会だけは、しばらく泣かせてくれたらしい」
俺は土を見た。
教会。俺についての教義を守る場所。俺を審査する場所。俺を信じる場所。そして、泣いても怒られない場所。
「俺は信者じゃない」
田村さんは言った。
「でも、それはありがたかった」
「はい」
「だから、あんたが本物かどうかは、正直よく分からん」
「はい」
「でも、妻が泣けた場所を作った元なら、飯くらい出す」
俺は、軍手をした手で目を押さえた。泣きそうだった。田村さんは見ないふりをして、また鍬を動かした。
「神さまも泣くのか」
「泣きます」
「なら、人間だな」
「そうですね」
「神さまだとしても、人間だ」
その言葉が、変にしっくり来た。
夕方、俺は縁側に座っていた。奥さんが熱いお茶を持ってきてくれた。
「疲れたでしょう」
「畑仕事は、ありがたいです」
「ありがたい?」
「何も考えなくて済むので」
奥さんは隣に座った。庭の向こうに、夕日が沈みかけている。
「主人、変なこと言いませんでした?」
「いいことを言ってくれました」
「なら、珍しいです」
俺は笑った。奥さんはお茶を飲んだ。
「私は、あなたが本物かどうか、分かりません」
「みんなそう言います」
「でも、もし本物なら、少し文句を言いたいです」
「どうぞ」
奥さんは夕日を見たまま言った。
「どうして、あの子を助けてくれなかったんですか」
俺は息を止めた。あの子。亡くした子ども。
俺は湯呑みを握った。
「分かりません」
それしか言えなかった。
「神さまなら、分かるんじゃないんですか」
「分からないことがあります」
「神さまなのに?」
「神さま扱いされている俺には、分からない」
奥さんは黙っていた。
俺は続けた。
「助けられたらよかったと思います」
「はい」
「でも、助けられなかった」
「はい」
「それを、意味があったとか、神の計画だとか、簡単に言いたくない」
奥さんの目から、涙が落ちた。
「教会の人は、悪気なく言うんです」
「はい」
「神さまの御心です、とか、天国にいます、とか、また会えます、とか」
「はい」
「ありがたい時もありました。でも、腹が立つ時もありました」
「はい」
「私が欲しかったのは、意味じゃなくて、あの子だったから」
俺は何も言えなかった。夕日が庭を赤くしていた。
奥さんは涙を拭いた。
「ごめんなさい。こんなこと」
「いいえ」
「あなたに言っても、困りますよね」
「困ります」
俺は正直に言った。
「でも、言ってくれてよかった」
奥さんは少し笑った。
「変な方ですね」
「よく言われます」
俺は湯呑みを置いた。
「俺は、神の計画という言葉を、今は使いたくありません」
「なぜ?」
「それで人が耐えられる時もある。でも、人の痛みを黙らせる時もあるから」
奥さんは黙っていた。
「痛いものは痛い。失ったものは戻らない。理不尽なものは理不尽です。それを、きれいな言葉で塞ぎたくない」
「では、神さまは何をするんですか」
俺は庭を見た。
「一緒に泣くくらいしか、できない時がある」
奥さんは、また泣いた。俺も、少し泣いた。
奇跡は起きなかった。死んだ子どもは戻らない。過去は変わらない。意味も降ってこない。ただ、縁側で二人、泣いた。それだけだった。
でも、もしかすると、信仰とはそれくらいでいい時があるのかもしれない。
夜、田村家の居間で、テレビがついていた。ニュース番組が、俺の話をしていた。画面にはぼかし入りの映像。修道院の外で祈る俺。泣く人々。専門家のコメント。
司会者が言う。
「この人物は本当に宗教的存在なのか、それとも支援が必要な人物なのか。教会側の対応が問われています」
専門家が言う。
「信教の自由と社会的混乱のバランスが重要です」
別の専門家が言う。
「現代ではSNSによる拡散で、宗教的熱狂が短時間で広がる可能性があります」
田村さんがせんべいを食べながら言った。
「大変だな、テレビの中のあんた」
「他人事みたいに見えます」
「実際、半分他人だろ」
「どういう意味ですか」
「テレビの中のあんたは、もうあんたじゃない。テレビの都合で作られたあんただ」
俺は画面を見た。その通りだった。
画面の中の俺は、俺ではない。報道の素材。解説の対象。不安の象徴。信仰の話題。炎上コンテンツ。俺は畳の上に座って、お茶を飲んでいる。それなのに、画面の中では別の俺が増殖している。
奥さんがリモコンを手に取った。
「消しましょうか」
俺は少し迷った。
「お願いします」
テレビが消えた。居間が静かになる。
田村さんが言った。
「見ない自由もある」
「それ、かなり大事ですね」
「年寄りは、すぐテレビを消せる」
「現代の修行ですか」
「ただの節電だ」
奥さんが笑った。
法務担当はノートパソコンで何かを書いている。神父は電話対応に追われている。山辺先生は本を読んでいるように見えて、たぶん考え込んでいる。
俺は、仏壇と十字架を見た。並んでいる。
この家では、解釈の戦争が起きていない。それは、思想が一致しているからではない。互いに相手の内側まで踏み込まないからだ。
奥さんは教会に行く。田村さんは仏壇を守る。食事は一緒にする。子どものことは、二人で泣く。それで足りることもある。
多文化共生の最大値は、たぶんここだ。統合ではない。理解の強制でもない。相手の内心を正すことでもない。一緒に飯を食える距離に、踏み込みすぎずにいること。
その夜、客間に布団を敷いてもらった。奥さんが押し入れから毛布を出す。
「寒くないですか」
「大丈夫です」
「何かあったら呼んでください」
「ありがとうございます」
奥さんは少し迷ってから言った。
「今日、文句を言ってごめんなさい」
「謝らないでください」
「でも、あなたが本物なら、失礼でした」
「本物なら、なおさら聞くべきことです」
奥さんは黙って頭を下げ、部屋を出ていった。
俺は布団に入った。畳の匂い。遠くで時計の音。台所の片付けの音。誰かが普通に暮らしている音。
俺は、紙を取り出して書いた。
教義は、残された人の杖。でも、杖で殴るな。
神は答えではなく、泣ける場所かもしれない。
奇跡を起こさないことも苦しい。
人として助けるとは、相手を箱に入れず、今日を越える横にいること。
書きながら、手が止まった。
俺は、少しずつ分かってきている。俺が戻ってきた意味は、教会を裁くことではない。教義を全部直すことでもない。世界に向かって本物宣言をすることでもない。
たぶん、俺自身が、俺について育った世界を見に来たのだ。そして、できるところだけ、ほどく。強すぎる言葉を弱める。武器になった教義を杖に戻す。神の名で黙らされた人の横に座る。
それくらいなら、できるかもしれない。
俺は目を閉じた。眠りかけた時、廊下で足音がした。静かな足音。ふすまが少し開く。田村さんだった。
「起きてるか」
「はい」
「ちょっといいか」
「どうぞ」
田村さんは部屋に入り、畳に座った。手には小さな木箱を持っている。
「これ、見せておこうと思ってな」
箱を開ける。中には、古い写真と、小さな十字架と、子どもの靴が入っていた。奥さんが亡くした子どものものだろう。
田村さんは言った。
「妻は教会で泣いた。俺は仏壇の前で黙った。どっちが正しいかは知らん」
「はい」
「でも、この靴は捨てられなかった」
小さな靴。履く人のいない靴。
「もったいない、とは違うんだが」
田村さんは言葉を探した。
「捨てると、あの子が本当にいなくなる気がしてな」
俺は靴を見ていた。物には、ただの物ではない時がある。所有物ではなく、残った関係になる時がある。
「それを、何というんでしょうね」
俺が言うと、田村さんは少し考えた。
「祀る、かな」
その言葉は、静かに落ちた。
子どもの靴を祀る。神ではない。でも、捨てられない。粗末にできない。そこにいたことを、なかったことにしない。
俺は、今日の母親を思い出した。治りますか、と聞いた人。俺に祈ってほしいと言った人。俺は治せなかった。でも、なかったことにはしないと言った。
それは、祀ることに少し似ているのかもしれない。
「田村さん」
「なんだ」
「俺、明日、あの修道院に来た人たちに手紙を書きたいです」
「治すって?」
「いいえ」
「じゃあ何を?」
「約束できないことは約束しない。でも、あの場に来たことを、なかったことにはしないと」
田村さんは頷いた。
「書けばいい」
「届きますかね」
「知らん」
「知らん、ですか」
「届くようにできるところまでやる。届かなかったら、しょうがない」
しょうがない。やっぱり深い。
田村さんは木箱を閉じた。
「寝ろ。明日も逃げるかもしれん」
「はい」
「神さまも体力いるだろ」
「いります」
田村さんは立ち上がり、部屋を出ていった。ふすまが閉まる。
俺は布団の中で、しばらく天井を見ていた。
神は、いるか。この国では、たぶんいる。小さな靴の中にも。仏壇の前にも。十字架の下にも。畑の土にも。泣いても怒られない場所にも。
神とは、答えではないのかもしれない。なかったことにしないための場所。
そう思ったら、少し眠れた。
翌朝、俺は手紙を書いた。田村家の低い机に座り、便箋に向かう。スマホもパソコンも使わなかった。手で書きたかった。
文字は少しぎこちない。現代日本語の書き方には、まだ慣れない。それでも書いた。
昨日、山の施設まで来てくださった方へ。
私は、あなたの病気や苦しみを、その場で治すことはできません。奇跡を約束することもできません。
それでも、あなたがそこまで来たこと、助けを求めたこと、泣いたことを、なかったことにはしません。
どうか、医療や支援につながってください。必要なら、教会の人たちがその手伝いをします。私は、あなたが今日を越えられるように祈ります。治ると約束するためではありません。あなたが一人で苦しまなくていいようにです。
最後に署名しようとして、手が止まった。
イエス、と書くべきか。それは、また重くなる。
しばらく考えて、こう書いた。
ひとりの祈る者より
法務担当に見せると、彼女は長く読んだ。
「問題は少ないです」
「法務的に?」
「はい」
「信仰的には?」
「私の担当外です」
神父が横から読んで、静かに頷いた。
「よいと思います」
山辺先生も読んだ。
「署名がいいですね」
「名前を書かない方がよいかと」
「はい。名前は時々、内容より強くなります」
田村さんは読まずに言った。
「届くようにしろよ」
法務担当が頷いた。
「教会経由で渡せる範囲に渡します。個人情報に配慮しながら」
「個人情報、強いですね」
「現代の守護神の一つです」
俺は少し笑った。
しかし、手紙を出す前に、また問題が起きた。
午前十時。法務担当の電話が鳴った。彼女は短く応答し、顔色を変えた。
「分かりました。すぐ確認します」
電話を切る。全員が彼女を見る。
「何ですか」
神父が聞いた。法務担当は俺を見た。
「ローマからです」
部屋が静かになった。
「バチカンが、正式に関心を示しました」
「関心」
俺は繰り返した。
「はい。あなたに関する情報提供を求めています」
山辺先生が額に手を当てた。
「早すぎる」
神父が言った。
「海外メディアが動いたからでしょう」
田村さんがのんきに言った。
「ローマって、あのローマか」
奥さんが小声で言った。
「すごいわねえ」
俺は全然すごく感じなかった。むしろ、また俺についての会議が増えるだけだった。
「俺、ローマに行くんですか」
法務担当は答えた。
「まだ分かりません」
「呼ばれたら?」
「教区としては、あなたの安全と意思を優先します」
「俺の意思」
「はい」
俺は少し驚いた。
今まで、俺はずっと判断される側だった。本物か。偽物か。異端か。危険か。保護対象か。でも、ここでは俺の意思が問われている。
「行きたくないと言えば?」
「行かない選択肢もあります」
法務担当は言った。
「ただし、逃げ続けることになります」
「行けば?」
「審査されます」
「どちらもつらい」
「はい」
田村さんが茶をすすった。
「行っても行かなくても面倒なら、飯食ってから考えろ」
奥さんが頷いた。
「お昼、うどんにしますね」
ローマより先に、うどん。俺は少し笑った。
この家の強さはすごい。世界がどれだけ大きな問いを投げてきても、昼飯がある。神学、法務、バチカン、SNS、奇跡、異端。その全部の前に、うどん。人間は、食べないと考えられない。
「いただきます」
俺は言った。まだ昼前だったが、すでに祈りのようだった。
昼食のうどんを食べながら、俺は考えた。
ローマ。俺についての巨大な記憶装置。教会の中心。公会議の歴史。教義の保存庫。聖人。殉教者。権力。信仰。罪。芸術。祈り。
そこに行けば、俺は間違いなく「本人」としてではなく、「対象」として扱われる。調査。確認。審査。神学的検討。広報対応。危機管理。俺はまた箱に入れられる。本物。偽物。判断保留。秘匿。異端。奇跡。詐称。精神的問題。神秘。
でも、行かなければ?
世界は勝手に解釈する。陰謀論が育つ。教会が隠していると言われる。偽物が増える。俺の名前で金を集める者も出るかもしれない。俺の言葉が、また俺から離れていく。
どちらにしても、俺は俺を失う。
うどんの湯気の向こうで、田村さんが言った。
「行きたくない顔してるな」
「分かりますか」
「分かる」
「行くべきですかね」
「知らん」
「またそれですか」
「俺が決めることじゃない」
それはそうだった。
奥さんが言った。
「行くなら、お弁当を作ります」
「ローマに?」
「飛行機で食べられるかは分かりませんけど」
神父が少し笑った。
「機内食があります」
「でも、知らない場所に行くなら、いつもの味があると安心でしょう」
俺は、うどんを見た。
いつもの味。俺には、この時代のいつもの味はまだない。でも、この家の味は、少しだけ俺のものになり始めている。
「ありがとうございます」
奥さんは微笑んだ。
法務担当が言った。
「ローマに行く場合、身分証明が問題になります」
「また本人確認ですね」
「はい」
「イエス・キリストです、では飛行機に乗れない?」
「乗れません」
「厳しい」
「国際線は特に」
「神の子でもパスポートが必要」
「必要です」
「パスポート、ないです」
「でしょうね」
山辺先生が真面目に言った。
「そもそも戸籍も住民票もありません」
「俺、制度上は存在しないんですね」
「はい」
「なのに世界中で話題になってる」
「制度より先に噂が走っています」
俺はため息をついた。存在とは何か。神学ではなく、行政の問題として。
法務担当はメモを取った。
「まず、あなたの法的身分をどう扱うかが課題です」
「その他ですか」
「残念ながら」
「神の子、行政上その他」
田村さんが笑った。
「日本の役所は強いぞ」
「神より?」
「少なくとも書類には強い」
これは、たぶん本当だ。
その日の午後、俺は田村家の仏壇の前に座っていた。奥さんに許可をもらった。
仏壇の中には、位牌と写真がある。小さな花。線香。供え物。隣には、小さな十字架。
「一緒に置いていいんですか」
俺が聞くと、奥さんは言った。
「うちでは、ここが一番静かなので」
理由が強い。宗教的整合性ではない。静かだから置く。この家は、神学より配置が優先されている。俺は、そこがとても日本的だと思った。
仏壇の前で、手を合わせる。何を祈っているのか、自分でも分からない。だが、ここには死者がいる。もちろん、物理的にはいない。でも、記憶と名前と写真と線香の中にいる。
死者は、解釈される。生きている人が、死者の言葉を思い出し、意味を足し、時々間違え、それでも一緒に生きようとする。
俺も、死者だった。俺の言葉も、思い出され、意味を足され、時々間違えられ、それでも誰かと一緒に生きてきた。
なら、俺がすべきことは、全部の間違いを怒ることではないのかもしれない。ただ、危ない使われ方をした時に、少しだけ止める。
「それは俺の言葉ではない」と言う。
「それで人を殴るな」と言う。
「泣く人を黙らせるな」と言う。
「答えを持っていない人を、信仰が足りないと責めるな」と言う。
それくらいなら。全部を正すためではない。俺についての巨大な解釈に、少しだけ本人として言うために。
杖で殴るな。
それを言うために。
夕方、俺はみんなを居間に集めた。田村夫妻。神父。山辺先生。法務担当。
テレビは消えている。仏壇と十字架が並んでいる。
俺は畳に座り、頭を下げた。
「ローマに行きます」
部屋が静かになった。
最初に口を開いたのは法務担当だった。
「手続き上、すぐには無理です」
「分かっています」
「身分証明、渡航手段、警備、教会側との調整、報道対応、滞在先、医療確認、法的保護。全部必要です」
「お願いします」
「簡単に言わないでください」
「すみません」
神父が聞いた。
「なぜ、行くのですか」
俺は少し考えた。
「逃げるのは正しいと思います」
「はい」
「でも、逃げ続けると、俺の空白を誰かが使う」
山辺先生が頷いた。
「陰謀論や偽者が増えるでしょう」
「はい。だから、一度だけ、俺の口で言います」
「何を?」
俺は言った。
「俺を使って人を殴るな、と」
誰もすぐには話さなかった。田村さんが、ぽつりと言った。
「それだけか」
「はい」
「世界中の教会に?」
「できれば」
「大きく出たな」
「本人なので」
田村さんは笑った。奥さんは少し心配そうだった。
「怖くないですか」
「怖いです」
「それでも?」
「はい」
奥さんは立ち上がった。
「では、お弁当を考えないと」
神父が言った。
「本当に作るのですか」
「もちろんです。ローマでもお腹は空くでしょう」
山辺先生が小さく笑った。法務担当は頭を抱えた。
「機内持ち込み制限を確認します」
この人は本当に頼りになる。
田村さんは俺を見た。
「キリストさん」
「はい」
「ローマで暴れるなよ」
「努力します」
「寝てる神さまが一番いいんだからな」
「でも、少し起きます」
「なら、歩く時は静かに歩け」
「はい」
それは、かなり良い助言だった。
その夜、俺は客間で手紙の続きを書いた。今度は、ローマへ持っていくための言葉。
長い教義書ではない。宣言でもない。奇跡の証明でもない。ただ、自分の言葉として。
私について語るなら、語ってよい。
私について祈るなら、祈ってよい。
私について教えるなら、教えてよい。
しかし、私の名で人を黙らせないでほしい。
私の名で、泣いている人に意味を強制しないでほしい。
私の名で、正しい者と捨ててよい者を分けないでほしい。
教義は杖であってほしい。武器ではなく。
そこまで書いて、手が止まった。
これは、俺の言葉だ。だが、ローマに持っていけば、また解釈される。翻訳される。要約される。批判される。支持される。利用される。
それでも、書くしかない。言葉は危ない。でも、沈黙もまた、誰かに使われる。
俺は最後に、こう書いた。
私は、神として世界を支配するために戻ったのではない。人として、私の名で傷ついた人の横に座るために来た。
書き終えて、しばらく見つめた。
たぶん、これもまた切り取られる。
「キリスト、人として来たと宣言」
「神性否定か」
「異端疑惑」
「新教義か」
「ローマ困惑」
見出しが浮かぶ。それでもいい。いや、よくはない。でも、しょうがない。
俺は紙を畳んだ。布団に入る。
廊下の向こうで、田村夫妻の話し声がする。台所で、奥さんが弁当の下準備をしている音がする。庭では、風が柿の木を揺らしている。
明日から、また大きなものが動く。教会。ローマ。世界。噂。祈り。
でも今夜だけは、客間で眠る。神ではなく、客として。
それが、今の俺には一番ありがたかった。




