第4話 神の子、逃亡計画に参加する
神父が迎えに来たのは、日が完全に落ちてからだった。教会の車ではなかった。小さな銀色の軽自動車。後部座席には、段ボール箱と古い毛布が積まれている。
「乗ってください」
神父は助手席のドアを開けた。
「これ、教会の車ですか」
「いいえ。信徒の方から借りました」
「教会の車だと目立つから?」
「はい」
「神の子、軽自動車で逃亡」
「未確定です」
「そこ、毎回訂正しますね」
「重要です」
俺は助手席に乗った。車内には、少しだけ線香のような匂いがした。いや、違う。芳香剤か。現代には、匂いをわざわざ置く文化があるらしい。
神父は車を出した。夜の街を走る。コンビニ。薬局。ファミリーレストラン。ガソリンスタンド。どの店も明るい。
「夜なのに、世界が寝ませんね」
俺が言うと、神父は頷いた。
「現代は、眠るのが下手です」
「神も人も?」
「人の方が、特に」
その答えは、少しだけ重かった。
しばらく無言で走った。スマホはずっと震えていた。見ないようにしても、震える。服のポケットの中で、小さな群衆が石を投げてくるようだった。
「切ってもいいですよ」
神父が言った。
「スマホを?」
「電源を」
「切ると、世界から切り離される気がします」
「今は、その方がいいかもしれません」
俺はスマホを取り出した。通知が積もっている。
あなたは本物ですか?
母が病気です。助けてください。
教会に騙されないでください。
あなたを信じます。
証拠を見せろ。
今のキリスト教を否定してください。
私の罪は赦されますか?
コラボしませんか?
最後のやつは本当に何なのか。
俺は電源を切った。黒い画面に、自分の顔が映る。疲れた顔だった。
「神父様」
「はい」
「祈りって、通知に似てますね」
「どういう意味ですか」
「世界中から届く。全部には返せない。でも、相手は返事を待ってる」
神父は、しばらく黙っていた。
「神が沈黙する理由が、少し分かりましたか」
「分かりたくなかったです」
車は住宅街に入った。
「どこへ行くんですか」
「教会ではありません」
「では?」
「山辺先生の知人が、しばらく使っていない修道院の研修施設を手配してくれました。山の方です」
「修道院」
「今はほとんど使われていません。通信も弱い」
「通信が弱いのは、現代では結界なんですね」
「そう言えるかもしれません」
俺は窓の外を見た。街の明かりが少しずつ減っていく。かわりに、黒い山の影が見えてきた。
山。この国の山には、何かがいる感じがする。俺の故郷の荒野とは違う。日本の山は、黙ってこちらを見ている。近づきすぎると、飲み込まれそうになる。
「山の神さまには挨拶した方がいいですか」
俺が聞くと、神父は困った顔をした。
「キリスト教的には、返答に困ります」
「個人的には?」
「した方が、地元の方とはうまくいくと思います」
「実務的ですね」
「日本の教会は、実務的でないと続きません」
それは少し面白かった。
車が山道に入ると、街灯が減った。窓の外は暗い。ヘッドライトが照らす範囲だけが、世界になる。その外は、木と闇。
「ここでゴジラが出たら逃げられませんね」
「出ないことを祈りましょう」
「ゴジラに祈るんですか」
「そこは主に祈ります」
「効きますかね」
「少なくとも、私の職務上はそうします」
神父は真面目に答えた。
山道をしばらく走ると、小さな建物が見えてきた。古い白い建物。十字架。その横に、木造の小さな倉庫。庭には枯れた花壇。修道院というより、古い学校のようだった。
玄関の前に、山辺先生が立っていた。コートを着て、手には懐中電灯。
「お疲れ様です」
神父が車を停める。
「こちらです」
山辺先生に案内され、中に入る。廊下は冷えていた。木の床がきしむ。壁には古い写真が飾られている。修道女たち。子どもたち。集合写真。畑。食堂。クリスマスらしき飾り。
「昔は、ここで修道女たちが地域の子どもたちの世話をしていました」
山辺先生が言った。
「今は?」
「人手がなくなりました。高齢化です」
「神に仕える人も高齢化するんですね」
「人間ですので」
その言い方が、少し優しかった。
小さな部屋に通された。ベッド。机。椅子。十字架。古い暖房器具。
「今夜はこちらで休んでください」
「ありがとうございます」
「食事は簡単なものしかありません。パン、スープ、缶詰、冷凍ご飯」
「十分です」
「それから」
山辺先生は少し言いにくそうにした。
「スマホはできれば預けてください」
「没収ですか」
「保護です」
「言葉が柔らかいですね」
「法務担当に学びました」
俺はスマホを渡した。電源は切れている。山辺先生はそれを封筒に入れた。
「あなたが発信しなくても、位置情報や通知から場所が漏れる可能性があります」
「スマホ、弟子より口が軽いですね」
「弟子も口が軽かったのでは」
「否定できません」
山辺先生は少し笑った。神父は部屋の入口で言った。
「今夜は、私も隣の部屋にいます」
「見張りですか」
「護衛です」
「それも言葉が柔らかい」
「神学は言葉の仕事です」
そう言って、二人は部屋を出た。
一人になる。静かだった。スマホがないと、部屋が広く感じる。俺はベッドに腰を下ろした。
壁の十字架を見る。ここにもある。処刑具が、祈りの印になっている。それを見て、俺はまだ少し痛む。しかし、同時に、それを見て泣く人がいることも知った。同じ形が、人を傷つけ、人を救う。記号は、怖い。
眠ろうとしたが、眠れなかった。外の風の音がする。木が揺れている。建物がきしむ。
俺はコートを羽織り、廊下に出た。隣の部屋から、小さな明かりが漏れている。神父はまだ起きているようだった。声はかけなかった。
玄関を出ると、山の空気が冷たかった。庭には小さなマリア像があった。白い像。手を広げている。顔は優しい。
俺はその前に立った。
「母さん、ずいぶん白くされてるよ」
もちろん返事はない。母は、もっと生活感のある人だった。水を汲む。食事を作る。心配する。怒る。泣く。俺を見て、時々困った顔をする。それが、後世では白い像になっている。
母もまた、俺と同じように、人々の祈りの中で変わっていた。
「母さんは、これをどう思うかな」
冷たい風が吹いた。山の向こうで、何かの鳥が鳴いた。
すると、背後から声がした。
「眠れませんか」
山辺先生だった。
「はい」
「私もです」
「俺のせいですか」
「だいたいそうです」
正直だった。山辺先生はマリア像の横に立った。
「あなたは、この像を見ると違和感がありますか」
「あります」
「偶像崇拝に見えますか」
「それより、母が遠くなった感じがします」
「遠く」
「人間だったのに、きれいになりすぎた」
山辺先生は頷いた。
「信仰は、時々人間を磨きすぎます」
「磨くと、削れますね」
「はい」
しばらく二人で像を見ていた。山辺先生が言った。
「私は、あなたが本物かどうか、まだ分かりません」
「はい」
「ただ、もし偽物なら、かなり厄介な偽物です」
「どういう意味ですか」
「偽物なら、もっと分かりやすい奇跡や権威を主張するでしょう。自分に従え、と言うでしょう。教会を否定するか、乗っ取ろうとするでしょう」
「俺、してませんね」
「はい。あなたはずっと、責任の範囲を気にしている」
「職業病でしょうか」
「元大工でしたね」
「大工は、柱の位置を間違えると家が倒れます」
「神学も似ています」
山辺先生は言った。
「言葉の柱を間違えると、人が倒れる」
その言葉は、かなり真剣だった。
「先生は、なぜ神学を?」
俺が聞くと、山辺先生は少し空を見た。
「若いころ、私は信仰が嫌いでした」
「嫌いなのに神学を?」
「だからです。信仰が人を救うことも、人を壊すことも知りたかった」
「分かりましたか」
「少しだけ」
「教えてください」
山辺先生は、考えながら言った。
「信仰は、人間の限界を受け入れる道具にもなります。自分は神ではない。全てを支配できない。全てを証明できない。それを知ることで、人は楽になる」
「はい」
「でも逆に、信仰は、人間に神の代理人の顔をさせることもあります。神の名で、他人を裁く。神の名で、他人を黙らせる。神の名で、自分の不安を正義に変える」
俺は黙った。
「教会は、その両方を持っています」
山辺先生は続けた。
「だから、私は教会を愛していますが、信用しすぎないようにしています」
「それ、信仰として大丈夫なんですか」
「大丈夫ではないかもしれません」
「異端ですか」
「内緒です」
山辺先生は少し笑った。俺も笑った。
夜の山で、神学者と自称キリストが、互いに異端疑惑を抱えて立っている。人類は面白い。
翌朝、修道院の食堂で簡単な朝食を取った。パン。スープ。ゆで卵。小さなジャム。食堂には、長い木のテーブルがあった。かつてここで、たくさんの人が食事をしていたのだろう。
神父が祈りを捧げた。
「主よ、この食事を感謝します」
俺は少しだけ落ち着かなかった。主、と呼ばれるたびに、視線がこちらに向いている気がする。
祈りが終わると、山辺先生がパンを割った。
「今日は、今後の方針を話します」
「方針」
神父が紙を広げる。
「まず、あなたの安全確保。次に、教会としての対応。そして、外部への説明です」
「外部への説明は必要ですか」
法務担当が昨日の夜から到着していたらしく、食堂の端から答えた。
「必要です。沈黙すると、憶測が増えます」
「話すと?」
「炎上します」
「詰みでは?」
「だから言葉を選びます」
現代の異端審問は、火あぶりではなく広報文で行われるのかもしれない。
法務担当は資料を配った。
想定される対応案
一、完全否定
二、精神的ケアが必要な人物として保護
三、宗教的判断を保留し、私人として扱う
四、バチカンへ照会
五、沈黙
「二番、俺がかわいそうな人になってますね」
「安全確保には有効です」
「教会が俺を病人扱いするんですか」
「断定はしません」
「柔らかい」
山辺先生が口を開いた。
「私は三番を推します」
「私人として扱う」
「はい。あなたの本人性について教会は現時点で判断しない。ただし、あなたを危険人物や詐欺師としても扱わない。私人として保護し、必要に応じて話を聞く」
「俺が本物かどうかは?」
「保留」
「便利ですね、保留」
神父が言った。
「信仰には保留も必要です」
「昨日も聞きました」
「大事なので」
法務担当は少し渋い顔をした。
「ただし、外部は納得しません」
「なぜ?」
「人々は結論を求めます。本物か偽物か。奇跡か詐欺か。救いか危険か。はっきりした箱に入れたがります」
「グラデーションは嫌われるんですね」
山辺先生が言った。
「制度も群衆も、箱が好きです」
俺はパンを見た。
「俺も箱に入れられるんですか」
「入れようとする人は多いでしょう」
「本物。偽物。異端。救世主。詐欺師。病人。政治利用。陰謀」
神父が並べた。
「箱が多い」
「はい」
「でも、どの箱にも入らない場合は?」
法務担当が言った。
「その他になります」
俺は思わず笑った。
「神の子、その他」
誰も笑わなかった。
「すみません」
法務担当は真面目に言った。
「その他は危険です。制度上は便利ですが、責任の所在が曖昧になります。誰が保護するのか。誰が判断するのか。どのルールを適用するのか」
「その他の箱が一番怖いんですね」
「はい」
俺は昨日までの議論を思い出した。属性欄。その他。包摂と排除。箱を増やすことは、逃げ場を作ると同時に、隔離箱を作ることでもある。
俺も今、その他箱に入れられようとしている。本物とも言えない。偽物とも言えない。病人とも言えない。神とも言えない。人とも言い切れない。その他。便利で、怖い箱。
午前中、修道院の古い礼拝堂で、司教とオンライン会議をすることになった。オンライン。この時代、人は離れた場所でも会議をする。つまり、逃げても会議が追ってくる。
礼拝堂の祭壇前に、ノートパソコンが置かれた。画面に司教の顔が映る。
「聞こえますか」
「聞こえます」
「見えますか」
「見えます」
「神の御前でオンライン会議とは、時代ですね」
司教が少し笑った。
画面の向こうには、さらに数人いた。知らない司祭。広報担当。おそらく法務関係者。それから、ローマと連絡を取っているという人物。
増えている。俺についての会議が、また増殖している。
司教が言った。
「結論から言います。教区としては、あなたの本人性について判断を保留します」
「はい」
「外部には、個人のプライバシー保護を理由に、詳細を公表しません」
法務担当が頷く。
「ただし、あなたにもお願いがあります」
「何でしょう」
「しばらく、公の場で自分がイエスであると語らないでください」
俺は少し黙った。
「俺の本人性を、俺が言わない」
「はい」
「それは、俺にとっては嘘になりませんか」
司教は静かに答えた。
「言わないことは、必ずしも嘘ではありません」
「ペテロに聞かせたいですね」
神父が硬直した。山辺先生が下を向いた。司教は目を閉じた。
「その冗談は、少し強すぎます」
「すみません」
本当にすみません。
司教は続けた。
「あなたが公に名乗れば、人々はあなたに意味を求めます。教会への評価、政治への意見、戦争への態度、教義への判断、奇跡、裁き、救い」
「はい」
「あなたはそれに答えられますか」
俺は答えられなかった。答えたい人はいる。助けたい人もいる。でも、全てに答えることはできない。
「答えられません」
「なら、沈黙もまた責任です」
司教は言った。
「神が沈黙することに、人間はよく怒ります。しかし、語れば語ったで、人間はそれを武器にします」
俺は頷いた。
「分かります」
「あなたが本物かどうか、私はまだ分かりません。しかし、少なくともあなたは、自分の言葉が武器になることを恐れている。それは、信頼できる恐れです」
信頼できる恐れ。また名言になりそうなことを言う。俺は記録しないでおいた。
その時、画面の向こうの広報担当が言った。
「外部向け文案を読み上げます」
全員が静かになった。広報担当が紙を見ながら読む。
現在、当教区に関して一部インターネット上で憶測が流れております。当教区は、個人のプライバシーと安全を最優先に考え、個別事案の詳細については回答いたしません。また、いかなる人物についても、十分な確認を経ないまま宗教的判断を公表することはありません。信徒の皆さまには、根拠のない情報の拡散を控え、冷静にお祈りくださいますようお願いいたします。
俺は感心した。
「すごい。何も言ってないのに、ちゃんとして見えます」
広報担当は真顔で言った。
「広報文とはそういうものです」
現代、奥が深い。
司教が尋ねた。
「異議はありますか」
俺は手を上げた。
「冷静にお祈り、というのは可能なんですか」
「理想です」
「なるほど」
異議はなかった。
会議が終わった後、俺は礼拝堂に一人残った。古い木の長椅子。ステンドグラス。祭壇。十字架。静かな場所だった。
俺は長椅子に座った。ここでは、祈りが積もっている感じがした。小さな神社とは違う。神社は、そこに土地がある感じだった。ここは、言葉が積み重なっている感じがする。祈り。懺悔。歌。説教。沈黙。涙。許し。怒り。疑い。人間が、神に向かって投げ続けたもの。それが壁や床に染み込んでいる。
俺は目を閉じた。
「父よ」
今日は、少しだけ言えた。
「俺は、黙るべきでしょうか」
返事はない。もちろん、いつも返事があるわけではない。神の沈黙は、昔からあった。でも今日は、沈黙の意味が少し違って聞こえた。語れば、人はそれを使う。黙れば、人は勝手に解釈する。どちらにせよ、人間は解釈する。なら、神にできることは何なのか。
その時、礼拝堂の扉が開いた。入ってきたのは、若い女性だった。見覚えはない。黒いコート。小さな鞄。顔は青白い。彼女は俺に気づいて、少し驚いた。
「すみません。誰もいないと思って」
「大丈夫です」
「ここ、開いてたので」
「祈りに?」
彼女は迷ってから、頷いた。
「はい」
俺は立ち上がろうとした。
「邪魔なら出ます」
「いえ。大丈夫です」
彼女は少し離れた長椅子に座った。しばらく沈黙があった。俺は前を向いたまま座っていた。やがて、彼女が小さく言った。
「神さまって、いるんですかね」
俺は困った。その質問は、今の俺にはかなり複雑だった。
「どうでしょう」
「教会の人ですか?」
「関係者ではあります」
「神父様?」
「違います」
「信者さん?」
「入れてもらえませんでした」
彼女は少しだけ笑った。
「何したんですか」
「本人確認で揉めました」
「意味分かんない」
「俺もです」
彼女は前を向いたまま言った。
「私、もう疲れました」
俺は黙った。
「家族にも言えないことがあって。友達にも言えなくて。ネットで相談したら、余計に怖くなって。ここに来たら何かあるかなって思ったけど、何もないですね」
「何もない場所も、時々必要です」
「神さま、答えてくれないし」
「答えたら、困ることもあります」
「なんで?」
「答えが来ると、人はそれに従わなければならないと思うから」
彼女は俺を見た。
「じゃあ、神さまって何のためにいるの」
俺は少し考えた。
「全部に答えるためではないと思います」
「じゃあ?」
「答えがない時に、それでも一人ではないと思うためかもしれません」
彼女は黙った。俺も黙った。これは教義ではない。俺の今の言葉だ。
彼女は、ゆっくり息を吐いた。
「一人じゃないなら、何か変わりますか」
「すぐには変わらないと思います」
「ですよね」
「でも、今日を越える理由になることはあります」
彼女は下を向いた。肩が震えていた。
俺は、近づかなかった。触れなかった。奇跡も起こさなかった。名前も聞かなかった。ただ、同じ礼拝堂にいた。
やがて彼女は小さく言った。
「私、明日も来ていいですか」
「いいと思います」
「あなた、明日もいますか」
俺は少し困った。
「分かりません」
「そっか」
彼女は立ち上がった。
「でも、少し楽になりました」
「よかった」
「ありがとう」
「どういたしまして」
彼女は礼拝堂を出ていった。扉が閉まる。俺は長椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。
神としてではなく。人として。助けるとは、たぶんこういうことなのだ。答えを与えない。裁かない。分類しない。ただ、その人が今日を越えるまで、少し横にいる。
俺は十字架を見た。
「これなら、できるかもしれない」
その時、後ろから声がした。
「今の方は、誰ですか」
振り返ると、山辺先生が立っていた。
「知りません」
「知りません?」
「名前も聞いていません」
「なぜ?」
「聞かなくていいと思ったので」
山辺先生は少し黙った。
「不問、ですか」
「はい」
「あなたは、本当に日本に適応していますね」
「神社で学びました」
「教会で学んでほしかったです」
俺は少し笑った。
山辺先生は、礼拝堂の扉を見た。
「彼女は、また来るでしょうか」
「来るかもしれません」
「その時、あなたがいなかったら?」
「この場所があればいい」
山辺先生は静かに頷いた。
「それが教会の役割かもしれません」
「俺ではなく?」
「はい」
その答えに、俺は救われた気がした。俺が全部に答えなくてもいい。俺が全部を背負わなくてもいい。俺が神であるかどうかに関係なく、人が少し休める場所があればいい。
「先生」
「はい」
「俺、教会に入れないかもしれません」
「そうですね」
「でも、教会は少し好きです」
山辺先生は、少し驚いた顔をした。そして、小さく言った。
「それは、教会にとってかなり光栄なことです」
その日の夕方、広報文が出た。教区は何も認めなかった。何も否定しなかった。冷静に祈るよう求めた。
結果、冷静にはならなかった。ネットはさらに燃えた。
教会、否定せず!自称キリスト保護か
バチカン沈黙
本人はどこに?奇跡は?
異端審問2026
神の子その他説
最後の見出しは、誰が考えたのか。
法務担当は頭を抱えた。神父は祈った。山辺先生は胃薬を飲んだ。俺は、スマホを返してもらえなかった。
夜、食堂で三人と一緒に夕食を食べた。缶詰の魚。冷凍ご飯。味噌汁。漬物。
「和食ですね」
俺が言うと、神父が頷いた。
「修道院ですが、日本なので」
「パンと魚じゃないんですね」
「毎回それだと、あざといです」
俺は味噌汁を飲んだ。美味しかった。この国の汁物は、体に染みる。
食後、法務担当が言った。
「明日以降の方針ですが、さらに場所を移す必要があります」
「また逃げるんですか」
「はい」
「どこへ?」
法務担当は少し黙った。
「候補が二つあります」
「一つ目は?」
「別の修道院。より秘匿性が高い場所です」
「二つ目は?」
「一般家庭です」
「一般家庭?」
「信頼できる信徒の方が、しばらく匿ってもよいと」
神父が説明した。
「どんな方ですか」
「高齢のご夫婦です。長年、教会に通っておられます」
「迷惑では?」
「迷惑でしょう」
正直。
「でも、お二人はこう言いました」
神父は少し微笑んだ。
「主が来られるなら、客間くらい空けます、と」
俺は箸を止めた。
その言葉は、あまりに素朴だった。神学でもない。広報でもない。法務でもない。異端審問でもない。ただ、客間を空ける。
「俺が本物じゃなかったら?」
俺が聞くと、神父は答えた。
「それでも、困っている人を泊めるだけだ、と」
俺は黙った。人として助ける。ここにもあった。
「そちらに行きたいです」
俺は言った。法務担当が眉を上げた。
「安全上は修道院の方が上です」
「分かります」
「一般家庭はリスクがあります」
「はい」
「なぜですか」
俺は少し考えた。
「神として扱われる場所より、人として泊めてもらえる場所に行きたい」
食堂が静かになった。神父は目を伏せた。山辺先生は小さく頷いた。法務担当はため息をついた。
「分かりました。リスク評価をやり直します」
「すみません」
「謝るくらいなら、最初から安全な方を選んでください」
「すみません」
「二回言わないでください」
法務担当は紙を取り出した。
「では、明朝移動します。移動経路は私が組みます。スマホは引き続き預かります。外出は禁止。窓にも近づかないでください」
「軟禁ですね」
「保護です」
「言葉が柔らかい」
「法務ですので」
その夜、俺はまた眠れなかった。部屋の窓から、山の闇が見える。外では風が吹いている。
俺は机に向かい、紙に書いた。スマホはない。だから紙に書くしかない。
俺が言ったこと。俺について言われたこと。俺の名で救われた人。俺の名で傷ついた人。教会が守ったもの。教会が壊したもの。神として答えること。人として横にいること。
書いても、整理しきれなかった。でも、一つだけ分かってきた。
俺は、俺についての全てを取り戻すことはできない。二千年は大きすぎる。教義も、絵画も、祈りも、戦争も、慈善も、名言も、誤解も、涙も、歌も、全部をほどくことはできない。それは、もう俺だけのものではない。俺から生まれた。でも、俺だけのものではない。
子どもが、親の所有物ではないように。種から育った木が、種の所有物ではないように。
なら、俺にできることは何か。全部を訂正することではない。今、目の前にいる人を、人として助けること。それしかないのかもしれない。
俺は紙の最後に、こう書いた。
神として戻るな。人として歩け。
書いた瞬間、少しだけ眠くなった。ベッドに横になる。電気を消す。
暗闇の中で、俺は小さく祈った。
「明日、客間がありますように」
そして、眠った。
翌朝。俺たちは、夜明け前に修道院を出る予定だった。しかし、予定は壊れるためにあるらしい。
廊下が騒がしかった。ドアがノックされる。
「イエスさん、起きてください」
神父の声。俺は起き上がった。
「何かありましたか」
「外に人がいます」
「配信者?」
「違います」
神父の声が硬かった。
「誰ですか」
神父は扉の向こうで言った。
「あなたに会いたいという人たちです。病気の家族を連れてきています」
俺は息を止めた。
「何人ですか」
「今は三組。でも、増えています」
血が冷えた。母が病気です。助けてください。昨日の通知が蘇る。
神父は続けた。
「場所が漏れました」
「どうして」
「分かりません。近隣からの目撃か、車か、通信か」
法務担当の声が廊下から聞こえた。
「すぐ移動します」
俺は立ち上がった。
「外の人たちは?」
「対応できません」
法務担当がきっぱり言った。
「ここで会えば、さらに人が集まります。医療行為もできません。奇跡を期待されれば、収拾がつきません」
正しい。完全に正しい。
でも、扉の向こうで、かすかに声が聞こえた。
「お願いします」
「一目だけでも」
「子どもが」
「助けて」
俺は動けなかった。神父が低い声で言った。
「イエスさん」
「はい」
「逃げましょう」
逃げる。正しい。群衆は災害になる。期待は津波になる。奇跡は燃料になる。逃げるべきだ。俺は昨日、そう決めた。神として戻るな。人として歩け。
だが。
人としてなら、泣いている人を見捨てて逃げられるのか。
法務担当が扉を開けた。
「時間がありません」
俺は外の声を聞いた。そして、小さく言った。
「会います」
法務担当の顔が固まった。
「だめです」
「分かっています」
「分かっているなら」
「でも、会います」
神父が俺を見た。
「奇跡を起こすつもりですか」
「いいえ」
「では、何をするんですか」
俺は答えた。
「できない、と言います」
廊下が静かになった。
「助けられない人に、助けられないと言うのはつらいです」
俺は言った。
「でも、黙って逃げると、その人たちは俺にまだ期待します。追いかけます。もっと危険になる」
法務担当は歯を食いしばった。
「あなたが出れば、動画になります」
「でしょうね」
「切り取られます」
「はい」
「炎上します」
「はい」
「それでも?」
俺は頷いた。
「神として奇跡は見せません。人として、できないことを伝えます」
神父は目を閉じた。山辺先生が後ろから来て、静かに言った。
「それは、かなり残酷です」
「はい」
「でも、誠実です」
法務担当は深く息を吐いた。
「三分です」
「ありがとうございます」
「録画は禁止できません。だから、こちらでも記録します。発言は短く。約束しない。触れない。医療判断をしない。祈ると言うなら、祈るだけ。奇跡を示唆しない」
「はい」
「いいですか。あなたが一言『治る』と言えば、世界中から人が来ます」
「言いません」
「『神は見捨てない』も危険です」
「なぜ?」
「相手はそれを治癒の約束として受け取ります」
俺は黙った。言葉は、重い。
山辺先生が言った。
「なら、こうです」
彼は紙に短く書いた。
私は医師ではありません。ここで治すことはできません。でも、あなたが一人で苦しんでいることは、なかったことにしません。必要なら、医療機関につなぐ手伝いをします。祈ることはできます。
法務担当が読んで、頷いた。
「これならギリギリです」
神父が俺を見た。
「言えますか」
俺は紙を受け取った。
「言います」
玄関の外には、朝の冷たい空気があった。
門の前に、人がいた。若い母親。抱かれた子ども。老いた男性を支える女性。車椅子の人。スマホを構える人。泣いている人。好奇心で見ている人。
人々が一斉に俺を見た。その視線の重さに、足が止まりそうになった。
神父が横に立った。山辺先生も。法務担当は少し後ろで録画している。
誰かが叫んだ。
「本物ですか!」
別の誰かが。
「この子を助けてください!」
胸が痛んだ。俺は紙を握った。しかし、紙は見なかった。
人々の前に立つ。昔と同じだ。違うのは、石の代わりにスマホが向いていること。
俺はゆっくり口を開いた。
「私は、医師ではありません」
ざわめき。
「ここで、あなたたちを治すことはできません」
泣き声。
「奇跡を約束することもできません」
誰かが「嘘だ」と言った。
「でも」
俺は声が震えないようにした。
「あなたが苦しんでいることを、なかったことにはしません」
静かになった。
「助けが必要なら、医師に、病院に、支援につながる手伝いをします」
若い母親が泣きながら言った。
「祈ってください」
俺は頷いた。
「祈ります」
「治りますか」
その問いが、胸に刺さった。治ると言いたかった。でも、それを言ったら嘘になる。もしくは、呪いになる。
俺は答えた。
「分かりません」
母親の顔が崩れた。
「でも、祈ります」
俺は言った。
「治すための約束としてではなく、あなたが一人で抱えなくていいように」
母親は声を上げて泣いた。
俺は、近づかなかった。触れなかった。ただ、その場で祈った。短い祈りだった。
「この人たちが、今日を越えられますように。必要な助けに届きますように。孤独に押しつぶされませんように」
それだけだった。
奇跡は起きなかった。空は割れなかった。病は消えなかった。子どもは起き上がらなかった。光も降らなかった。
ただ、朝の山に、泣き声と祈りが残った。
そして俺は、初めてはっきり理解した。奇跡を起こさないことも、時に苦しい。神であることより、人でいることの方が、ずっと痛い。
法務担当が小さく言った。
「時間です」
俺は一礼した。そして、逃げた。
裏口から車に乗り込む。車が走り出す。窓の外で、人々が小さくなっていく。誰かが追いかけようとして、神父が止めていた。
俺は後部座席で、両手を握りしめた。山辺先生が隣に座っていた。
「よく言いました」
「よかったんですか」
「分かりません」
「分からないことばかりですね」
「はい」
俺は窓の外を見た。山が遠ざかる。朝日が、少しだけ雲の隙間から出ていた。
「先生」
「はい」
「俺は、救い主失格ですかね」
山辺先生は、すぐには答えなかった。しばらくして、静かに言った。
「救い主を、人間の願いを全部叶える存在だと定義するなら、そうかもしれません」
「では?」
「人間に、自分が神ではないと知らせる存在なら、今日のあなたはかなりそれでした」
俺は黙った。涙が出そうだった。でも、泣かなかった。
車は山を下りていく。次の行き先は、老夫婦の家。客間があるという。
俺は、神としてではなく、人として泊めてもらいに行く。
ただし、世界はすでに、新しい動画を上げていた。タイトルは、たぶんこうなる。
自称キリスト、奇跡を拒否
そして俺は思った。また、俺の言葉は俺から離れていく。




