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第3話 司教様、本人を審査する

 翌朝、ホテルのロビーに神父が来た。昨日と同じ黒い服。白い襟。少し寝不足の顔。


「おはようございます」


「おはようございます。眠れましたか」


「祈ったら寝られました」


「何を祈ったのですか」


「炎上しませんように、と」


 神父は目を伏せた。


「現代的な祈りですね」


「効きますかね」


「神の御心次第です」


「便利な返答ですね」


「神学は便利な返答をたくさん持っています」


 神父はそう言って、少しだけ笑った。


 教会の車に乗る。窓の外には、朝の街が流れていた。通勤する人々。コンビニの配送車。ランドセルを背負った子ども。信号。自転車。街路樹。誰も俺を見ていない。それがありがたかった。


 スマホを見ると、昨日の動画はすでに再生数が伸びていた。


 【衝撃】現代にキリスト再臨!? 教会関係者が困惑か


 コメント欄は、さらに育っていた。


「本物なら水をワインにして」

「まず納税してる?」

「教会が隠蔽してる」

「これ絶対新興宗教の仕込み」

「イエス本人ならキリスト教徒なの?」

「本人が異端判定されたら笑う」

「いや笑えない」


 最後の人は、たぶん分かっている。


 俺はスマホを伏せた。


「神父様」


「はい」


「俺が本物かどうか、どう判断するんですか」


 神父はハンドルを握ったまま、しばらく黙った。


「教会としては、慎重に判断するしかありません」


「奇跡ですか」


「奇跡だけでは危険です」


「なぜ?」


「奇跡らしきものは、誤認もあります。詐欺もあります。人々の熱狂もあります。それに、聖書にも偽預言者への警戒があります」


「なるほど。俺、偽者候補なんですね」


「手続き上は」


「本人としては複雑です」


「分かります」


「本当に?」


 神父は一瞬だけこちらを見た。


「すみません。分かりません」


「正直でよろしい」


 車は大きな道路に出た。


「では、教義ですか?」


 俺は続けた。


「俺が教義に完全一致したら本物。ズレたら偽物」


「それも難しいです」


「なぜ?」


「本物なら、教義の方を問い直す必要が出るかもしれないからです」


 神父は小さく言った。俺は少し驚いた。


「それ、言っていいんですか」


「司教様の前では、あまり言いたくありません」


「なぜ今言ったんですか」


「車の中なので」


 車内は告解室ではないと思うが、似たようなものなのかもしれない。


 神父は続けた。


「ただ、教会は二千年の信仰を背負っています。あなたが本物だとしても、その二千年を一言で壊すことはできません」


「俺の言葉でも?」


「はい」


 その返答は、昨日よりもはっきりしていた。


「教会は、あなたを信じてきた人々の共同体です。もしあなたが現れて、『全部違う』と言えば、何億もの祈りが崩れるかもしれない」


「俺が言ってないことでも?」


「それで救われた人がいるなら」


 俺は、昨日の老婦人を思い出した。神は乗り越えられない試練を与えない。俺の言葉ではない。でも、彼女はそれで立っていた。


「俺は、厄介な遺産を残したんですね」


「遺産というより、種だと思います」


「種」


「種は、蒔いた人の手を離れると、土と雨と時間で姿を変えます」


 神父は前を見たまま言った。


「蒔いた人が戻ってきたとき、育った木を見て、これは私の蒔いた種ではない、と言えるのか。私は、それを考えています」


 俺は窓の外を見た。街路樹が並んでいた。誰かが植えた木。誰かが剪定した木。通行人に日陰を作る木。鳥がとまる木。落ち葉で掃除が必要になる木。種を蒔いた者は、全部を支配できない。


「でも、毒の実がなったら?」


 俺は言った。


「切る必要があります」


 神父は答えた。


「誰が判断しますか」


「それが、教会の仕事です」


「そして、その教会を俺が判断する」


「はい」


「円環ですね」


「信仰は、時々円環になります」


「論理としては危ない」


「祈りとしては、逃げ場になることもあります」


 俺は少し笑った。この人は、思ったより手強い。


 司教館は、教会よりも大きかった。門。庭。古い建物。静かな廊下。壁には十字架と絵画があった。俺は絵の一つの前で足を止めた。俺が描かれていた。長い髪。白い衣。悲しげな目。胸のあたりから光が出ている。


「俺、ずっと光ってますね」


 神父が言った。


「聖心のイエスです」


「心臓を見せてるんですか」


「象徴です」


「本人からすると、かなり大胆なデザインです」


 神父は聞こえなかったふりをした。


 応接室に通される。そこには三人いた。一人は白髪の老人。柔らかい顔だが、目が鋭い。この人が司教だろう。もう一人は昨日の山辺先生。ノートパソコンを開いている。最後の一人は、スーツ姿の女性。表情が固い。


 司教が立ち上がった。


「ようこそ」


「お招きありがとうございます」


「あなたが、イエスさんですね」


「はい」


「お座りください」


 全員が座る。司教は俺をじっと見た。その目は、昨日までの人たちとは少し違った。疑いだけではない。期待でもない。恐れでもない。もっと古いものを見る目だった。


「まず、確認しておきます」


 司教は言った。


「ここでの話は、あなたを裁くためだけのものではありません」


「だけ?」


「裁きの要素がないとは言いません」


 正直な司教だ。


「しかし、それ以上に、私たちは混乱を避けたい。あなた自身を守りたい。信徒を守りたい。そして、真実に対して不誠実でありたくない」


「真実」


「はい」


 司教はゆっくりと言った。


「あなたが本物である可能性を、完全には否定できない。だからこそ、危険なのです」


 俺は少し驚いた。


「否定しないんですか」


「否定して済むなら、もう帰っていただいています」


「俺、帰れるんですか」


 スーツの女性が口を開いた。


「その前に、守秘義務に関する確認をさせてください」


「あなたは?」


「教区の法務担当です」


 法務。神学の次は法務。俺についての問題は、ついに法律の香りを帯びてきた。


「今回の件は、すでに一部ネット上に出ています。あなたが自分をイエス・キリストと主張していることが拡散されると、あなたの安全、教区の安全、信徒の混乱に影響します」


「俺は投稿してません」


「承知しています」


 法務担当は紙を差し出した。


「この面談内容を、許可なく録音・録画・投稿しないことに同意いただけますか」


 俺は紙を見た。


「契約ですか」


「はい」


「神の子でもサインが必要ですか」


「必要です」


「現代、強いですね」


 俺はペンを取った。名前を書く欄で、少し迷う。イエス。それで足りるのか。苗字はない。ナザレの、と書くべきか。キリスト、と書くべきか。キリストは称号だ。自分で書くと、少し照れる。


 結局、こう書いた。


 イエス(本人)


 法務担当が眉を動かした。


「これは正式な氏名ですか」


「俺としては、かなり正式です」


「括弧書きは不要です」


「本人確認のために」


「むしろ混乱します」


 俺は括弧を消した。


 面談が始まった。司教は静かに尋ねた。


「あなたは、自分が何者だと思っていますか」


 またその問いだ。俺は昨日より少しだけ、答えを持っていた。


「俺は、イエスです」


「神ですか」


「それを人間の言葉で完全に言えるとは思いません」


 山辺先生がメモを取る。


「逃げているわけではありません。ただ、あなたたちが『神』という言葉に二千年分詰め込んだものを、俺がそのまま引き受けるのは怖い」


 司教は頷いた。


「では、父なる神との関係は?」


「近い。近すぎる。けれど、同じという言葉が正しいのか、分からない」


 山辺先生のペンがさらに動く。


「異端っぽいですか」


 俺が聞くと、山辺先生は困った顔をした。司教は少し笑った。


「正統と異端の境目を、本人に聞かれるとは思いませんでした」


「俺も聞く日が来るとは思いませんでした」


 司教は、机の上の聖書に手を置いた。


「もし、あなたが本当にイエスであるなら、私たちはあなたの言葉を聞かなければなりません」


「はい」


「しかし同時に、私たちは教会が受け継いできた信仰を、軽々しく捨てることはできません」


「分かります」


「あなたは、その信仰を否定しますか」


 俺は少し考えた。


「否定はしません」


 部屋の空気が少し緩んだ。


「ただ、全部を俺の発言として扱われるのは困ります」


 空気がまた張った。


「たとえば?」


 司教が尋ねる。


「俺が直接言ったこと。俺の行動。弟子たちが俺をどう理解したか。教会が後から整理した教義。信徒が祈りの中で受け取った言葉。さらに、その後の政治や制度が俺の名でやったこと」


 俺は指を折りながら言った。


「これ、全部レイヤーが違います」


 神父が小さく頷いた。山辺先生も、少し目を細めた。


「レイヤー」


 司教が繰り返す。


「はい。俺は、俺の言葉には責任があります。俺の行動にも。でも、俺の死後に人間が作った説明のすべてを、俺の内心として扱われると困ります」


「それは、教義批判ですか」


「責任の分界です」


 法務担当が顔を上げた。その言葉には反応するらしい。


「たとえば、俺の名で誰かが救われた。それは尊い。否定したくない。でも、俺の名で誰かが傷ついた。それを『俺が望んだ』と言われると、待ってくれとなる」


 部屋は静かだった。


「そして、俺について後世の人間が解釈したことを、俺本人の内心として審査されるなら、かなり変です」


 山辺先生が聞いた。


「異端審問の問題ですか」


「そうです」


 俺は山辺先生を見た。


「異端審問は、神の真理を守るように見えます。でも実際には、その時点の共同体が採用した神の解釈を守っています」


 山辺先生は黙った。


「それ自体は、共同体内部なら分かる。所属条件としてなら。でも、それを真理そのものとして、人の内心に押し当てると危ない」


 司教は静かに言った。


「あなたは、教会の権威を否定しますか」


「いいえ」


「では?」


「教会の権威が届く範囲を、狭く見ています」


 司教の目が鋭くなった。俺は続けた。


「教会は、教会の共同体を守れる。教義を守れる。所属条件を決められる。でも、人間の内心そのものや、神そのものを所有することはできない」


 神父が息を止めた。法務担当はペンを置いた。山辺先生は、何も書かなかった。司教だけが、俺を見ていた。


 長い沈黙の後、司教は言った。


「それは、とても危険な言葉です」


「分かります」


「しかし、とても福音的でもあります」


 その言葉に、部屋の空気が変わった。山辺先生が司教を見た。神父も驚いた顔をした。


 司教は続けた。


「教会は、神を所有しません。神に仕えます」


 ゆっくりと。


「それを忘れる時、教会は神の名を使って、自分を守る組織になります」


 俺は何も言わなかった。司教は目を伏せた。


「私たちは、何度もそれをしてきました」


 その声には、二千年分の疲れがあった。


 休憩になった。応接室の隣の小部屋で、お茶が出された。日本茶だった。俺は湯呑みを持って、しばらく香りを嗅いだ。


「ワインじゃないんですね」


 神父が言った。


「朝からは出ません」


「水をワインにする要望、多いんですけど」


「しないでください」


「しません」


「本当にしないでください」


 神父の顔が真剣すぎた。


「もしできたとしても、今やると大変なことになります」


「奇跡禁止ですか」


「現代では、奇跡はすぐ動画になります」


「信仰の証しでは?」


「炎上の燃料にもなります」


 現代、難しすぎる。俺は湯呑みを置いた。


「神父様」


「はい」


「もし俺が奇跡を見せないなら、信じてもらえないんですかね」


 神父は少し考えた。


「見せても、信じない人は信じません」


「それは昔もそうでした」


「見せれば、利用する人も出ます」


「それも昔からです」


「そして、奇跡を求める人は、次の奇跡を求めます」


「それも昔からですね」


 神父は小さく笑った。


「人間はあまり変わっていないのかもしれません」


「技術は変わりました」


「はい」


「石がコメントになりました」


「その表現は少し刺さります」


 俺たちはしばらく黙って茶を飲んだ。


 その時、廊下が少し騒がしくなった。法務担当が小部屋に入ってきた。


「問題が起きました」


「何ですか」


 神父が立ち上がる。法務担当はスマホを見せた。画面には、新しい動画のタイトルがあった。


 【独自】自称キリスト、司教館入り 教会が極秘審査か


 写真もあった。司教館の門。車から降りる俺。横に神父。俺は自分の後ろ姿を見た。


「撮られてる……」


 法務担当は早口で言った。


「門の外に数名集まっています。報道ではありません。配信者のようです」


「配信者」


「現代の預言者みたいなものですか」


 俺が聞くと、法務担当はきっぱり言った。


「違います」


 神父は窓の外を見た。門の向こうに、数人の人影があった。スマホを構えている。


 神父が低く言った。


「まずいですね」


 法務担当は俺を見た。


「このまま帰るのは危険です。裏口から出ましょう」


 俺は窓の外を見た。そこにいる人たちは、遠くから何かを叫んでいた。


「本物ですかー!」

「奇跡見せてくださーい!」

「教会は隠すなー!」

「イエスさーん!」


 名前を呼ばれる。知らない声で。期待と疑いと好奇心が混ざった声で。


 俺は、遠い昔の群衆を思い出した。癒やしてほしい人。救ってほしい人。罠にかけたい人。王にしたい人。殺したい人。ただ見たい人。人間は変わっていない。ただ、今は手にスマホを持っている。


「逃げましょう」


 神父が言った。俺はしばらく黙った。逃げる。それは悪いことではない。神社の老人も、神父も、逃げていいと言った。災害からは逃げる。群衆も、時に災害になる。


 でも。俺は法務担当に聞いた。


「裏口はありますか」


「あります」


「そちらにも人は?」


「今のところ確認されていません」


「なら、俺だけ裏口から出ます」


 神父が言った。


「それがいいです」


「ただし、神父様たちは表から出てください」


「え?」


「その方が、追う人たちはそちらを見るでしょう」


 法務担当が眉を寄せた。


「危険です。囮を立てるようなものです」


「俺が一番囮に向いています」


「だから危険なのです」


「大丈夫です。俺は逃げるの得意ではありませんが、迷子になるのは得意です」


 神父が真顔で言った。


「何一つ安心できません」


 その時、司教が部屋に入ってきた。


「表に人が集まっているそうですね」


「はい」


 法務担当が答える。司教は俺を見た。


「あなたはどうしたいですか」


「逃げます」


「よろしい」


 あっさりだった。


「ただ、逃げる前に一つだけ」


「何ですか」


 司教は、俺の前に立った。


「あなたが本物かどうか、私はまだ分かりません」


「はい」


「しかし今日、あなたの言葉で一つ思い出しました」


「何を?」


「教会は、神を所有しない」


 司教は静かに頭を下げた。


「それを思い出させてくれたことに感謝します」


 俺は困った。そんなふうに頭を下げられると、こちらが困る。


「俺も、教会を少し分かりました」


「どのように?」


「本人より教義が強い時がある。でも、それは悪意だけではない」


 司教は目を細めた。


「どういう意味ですか」


「本人がいない間も、誰かを支える必要があった」


 司教は黙った。


「だから、教義は杖なんだと思います」


 俺は言った。


「でも、杖で人を殴ると危ない」


 司教は、ゆっくり頷いた。


「その言葉は、記録しても?」


「俺の名言集に入りますか」


「入るかもしれません」


「では、やめてください」


 司教は初めて少し笑った。


 裏口は、建物の奥にあった。狭い通路。古い扉。外には小さな駐車場。法務担当が先に周囲を確認する。


「今なら出られます」


 神父が俺に帽子とマスクを渡した。


「これを」


「変装ですか」


「はい」


「神の子、変装する」


「神の子かどうかは未確定ですが、変装はしてください」


 俺は帽子をかぶり、マスクをつけた。鏡を見る。ただの怪しい人だった。


「これ、逆に目立ちませんか」


「現代では普通です」


 現代、便利だ。俺は裏口から外に出た。雨は上がっていた。空は薄く曇っている。


 法務担当がタクシーを呼んでくれていた。


「行き先は?」


 運転手に聞かれた。俺は一瞬迷った。ホテルに戻れば、たぶんすぐ見つかる。教会も危ない。司教館も危ない。行く場所がない。


 その時、昨日の小さな神社を思い出した。なんもないから、祀っとくんだよ。


 俺は言った。


「あの、小さい神社の近くまで」


「住所は?」


 分からない。スマホの地図を開く。昨日の履歴を見る。あった。


 タクシーが走り出す。後ろの窓から、司教館が遠ざかっていく。門の前にはまだ人がいる。神父が表に出たのが見えた。配信者たちが一斉にそちらへ向かう。神父は、何かを話している。


 俺は、少し胸が痛くなった。また誰かが、俺の代わりに前に出ている。


 神社の近くで降りた。昨日の老人はいなかった。小さな社。賽銭箱。雨上がりの匂い。


 俺は帽子とマスクを外した。誰もいない。静かだった。


 俺は賽銭箱の前に立つ。小銭を入れる。手を合わせる。今日も、何を祈るべきか分からない。ただ、昨日より少しだけ、言葉があった。


「人間が俺を使って、人間を傷つけませんように」


 それは、祈りというより願いだった。返事はない。だが、返事がないことがありがたかった。


 その時、後ろから声がした。


「また来たのか、兄ちゃん」


 振り返ると、昨日の老人がいた。竹ぼうきを持っている。


「はい。逃げてきました」


「何から」


「俺についての人たちから」


 老人は首をかしげた。


「有名人か?」


「たぶん」


「大変だな」


「はい」


 老人は俺をじろじろ見た。


「で、兄ちゃんは何の神さまなんだ」


 俺は固まった。


「え?」


「昨日から変なこと聞くし、さっきの祈りも変だしな。なんかの神さまかと思って」


 俺はしばらく迷った。この老人に言うべきか。言わないべきか。でも、どうせ信じない気もした。


「一応、キリストです」


 老人は黙った。俺も黙った。老人はしばらく俺を見て、それから言った。


「外来種か」


「その分類なんですか」


「いや、神さまにもいろいろあるだろ。天神さんとか稲荷さんとか八幡さんとか。キリストさんは外国のやつだな」


「外来の神ですか」


「まあ、ちゃんと場所決めて祀ればいいんじゃないか」


「そんな感じでいいんですか」


「暴れなきゃな」


 俺は笑ってしまった。暴れなきゃいい。現代で聞いた俺への評価の中で、一番可能だった。


 老人は社の横に腰を下ろした。


「座るか」


「はい」


 俺たちは、神社の縁石に並んで座った。


「神さまってのはな」


 老人は言った。


「偉いかどうかより、厄介かどうかだ」


「厄介」


「祀らんとまずいとか、粗末にするとまずいとか、来ると困るとか、逆にいてくれないと困るとか」


「助けてくれるかどうかではなく?」


「助けてくれたらありがたい。でも、まずは怒らせないことだな」


 俺は小さな社を見た。


「俺は、だいぶ怒らせる神にされているかもしれません」


「なんで」


「俺の名前で、正しい人と間違った人を分けた人たちがいます」


「まあ、人間は分けるの好きだからな」


「俺は、そんなつもりじゃなかった」


「でも、言葉を残したんだろ」


「はい」


「なら、しょうがないな」


 また、しょうがない。この国の「しょうがない」は、逃げではなく、時々ものすごく深い穴の底から聞こえる。


「しょうがない、で済ませていいんですか」


「済まんこともある。でも、全部は背負えんだろ」


 老人は竹ぼうきを膝に置いた。


「山に道を作ったやつがいても、その道で転ぶやつまで全部責任取れんだろ」


「でも、道が危なかったら?」


「直せるところは直せばいい」


「直せないところは?」


「看板立てる」


「それでも落ちたら?」


「祀る」


 俺は黙った。あまりにも日本だった。直す。看板を立てる。それでも落ちたら祀る。神学ではない。でも、かなり強い。


「兄ちゃん」


 老人が言った。


「自分が神さまなら、なおさら寝とけ」


「寝るんですか」


「起きて動く神さまは、大体めんどくさい」


「俺、今起きてるんですが」


「だから人が集まるんだろ」


 その通りだった。神は、寝ているくらいがちょうどいい。起きると、みんなが意味を求める。奇跡を求める。裁きを求める。救いを求める。そして、神を使って他人を殴る。


「でも、困っている人がいたら?」


 俺は尋ねた。老人は俺を見た。


「助けりゃいい」


「神として?」


「人として」


 あまりにも簡単に言われた。俺はしばらく、その言葉を持って座っていた。神としてではなく、人として助ける。それならできる気がした。


 夕方、俺は神社を離れた。老人は最後に言った。


「キリストさん」


「はい」


「ここでは暴れるなよ」


「はい」


「あと、賽銭はもうちょい入れろ」


「現代の貨幣価値がまだ分からなくて」


「勉強しろ」


「はい」


 神に対しても容赦がない。俺は少し元気になった。


 しかし、スマホを見ると、現実は元気ではなかった。通知が大量に来ていた。知らないアカウントからのメッセージ。動画の切り抜き。考察。陰謀論。応援。罵倒。祈りの依頼。奇跡の依頼。討論の依頼。コラボの依頼。


 そして、一つの大きな見出しが目に入った。


 自称キリスト問題、海外メディアも報道 バチカン関係者「慎重に見守る」


「早い」


 早すぎる。


 神父から電話が来た。


「イエスさん」


「はい」


「どこにいますか」


「小さい神社です」


「なぜ神社に」


「落ち着くので」


「分かるような、分からないような」


 神父は疲れた声だった。


「司教様からです。今夜、もう一度お話しできますか」


「また審査ですか」


「いえ」


 神父は一拍置いた。


「今度は、お願いです」


「お願い?」


「逃げる準備をしてください」


 俺は空を見上げた。夕方の雲が、少し赤かった。


「どこへ?」


「まだ決まっていません」


「国外ですか」


「可能性があります」


「ローマ?」


「逆です」


「逆?」


 神父は低い声で言った。


「あなたをローマに送る前に、ローマがあなたを呼ぶかもしれません」


「同じでは?」


「違います。こちらが送るのと、向こうが呼ぶのでは、意味が違います」


「教会政治ですか」


「はい」


 俺は目を閉じた。二千年後も、人間は政治をしている。


「神父様」


「はい」


「俺、人として助けるところからやり直したいんですが」


 電話の向こうで、少し沈黙があった。


「それは、とても良いと思います」


「でも、無理そうですね」


「今は、難しいです」


「神である可能性があると、人でいるのが難しくなるんですね」


「はい」


 神父の声は、少し悲しそうだった。


 俺は神社を振り返った。小さな社は、何も言わずに立っていた。寝ている神。何も命じない神。暴れなければそれでいい神。


 俺はつぶやいた。


「うらやましいな」


「何がですか」


「寝ていられる神さまが」


 神父は答えなかった。


 俺はスマホを握り直した。


「分かりました。今夜、教会に戻ります」


「迎えに行きます」


「表から?」


「いいえ。裏から」


「俺、また逃げるんですね」


「はい」


 電話の向こうで、神父は言った。


「今は、逃げることも信仰です」


 俺は笑った。


「それ、名言ですね」


「あなたのものにしないでください」


「しません」


 電話が切れた。


 俺は、最後にもう一度、神社に頭を下げた。そして、現代の街へ歩き出した。神としてではなく。人として。


 ただし、その人間を、世界が神として追いかけ始めていた。


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