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第2話 俺についての会議に本人が出る

 翌朝、俺はスマホのアラームで目を覚ました。あの小さな板は、本当に優秀だった。時間になると鳴る。地図になる。本になる。財布になる。鏡にもなる。そして、人類が俺について二千年かけて積み上げた解釈を、数秒で突きつけてくる。


「便利って、優しくないな……」


 俺はベッドの上でスマホを眺めながら、昨日のメールをもう一度読んだ。次回は教区の神学担当者も同席いたします。神学担当者。俺について詳しい人だ。俺より。


「いや、さすがに本人の方が詳しいだろ」と一瞬思ったが、すぐに自信がなくなった。俺が知っているのは、俺が言ったこと、俺が見たこと、俺が感じたことだ。でも、俺が死んだ後、人々が何を受け取ったのかは知らない。俺が蒔いたものが、どんな枝を伸ばしたのか。どんな実をつけたのか。どこで腐ったのか。どこで誰かを救ったのか。それは、俺の知らない俺だった。


 朝食は、ホテルの一階で取った。パン。卵。コーヒー。サラダ。バイキング形式というらしい。人々は列に並び、皿に好きなものを取っていく。俺はそれを見て、少し感心した。


「パンが増える奇跡、毎朝やってる……」


 厨房の人たちに感謝しながら、俺はパンを二つ取った。食べる前に、周りを見た。誰も特に祈っていない。手を合わせる人もいる。黙って食べ始める人もいる。スマホを見ながらコーヒーを飲む人もいる。俺は小さく言った。


「いただきます」


 いい言葉だと思った。誰かに命じられているわけではない。教義でもない。でも、食べ物と作った人と場に対して、少し頭を下げる。こういう祈りもあるのかもしれない。


 パンをかじりながら、俺は思った。この国では、神はあまり前に出てこない。だが、ところどころに小さな礼がある。食べる前。店を出る時。神社の前を通る時。墓の前。災害の後。季節の祭り。誰も大声で神を証明しない。でも、完全に消えてもいない。俺はそれが少し好きだった。


 教会に向かう途中、俺は書店に寄った。昨日、自分の入門書を買ったことで、少し妙な勇気が出ていた。自分について知らないと、入信も異端判定もできない。


 宗教書の棚には、俺に関する本がたくさん並んでいた。『はじめてのキリスト教』『よくわかる聖書』『イエスとは誰か』『史的イエス研究入門』『三位一体とは何か』『キリスト論の展開』『異端の歴史』『教会史』


「俺の棚、広いな……」


 その中から、薄そうな本を選んだ。厚い本は怖かった。自分についての分厚い本は、自分の人生より重い気がする。レジに持っていくと、店員が表紙をちらりと見た。『イエスとは誰か』店員は何も言わなかった。さすが日本。不問の力が強い。俺は安心して店を出た。


 教会に着くと、昨日の受付の女性が俺を見て少しだけ固まった。


「あ、イエスさん」


「はい。昨日はどうも」


 自分の名前を呼ばれるたびに、少し周囲の空気が揺れる。


 奥の部屋に案内されると、昨日の神父のほかに、もう一人いた。眼鏡をかけた中年の男性。灰色のジャケット。机にはノートパソコンと分厚い本が置かれている。神父が紹介した。


「こちらは教区で神学を担当している山辺先生です」


 山辺先生は立ち上がり、丁寧に頭を下げた。


「山辺と申します」


「イエスです」


「存じております」


 存じられていた。山辺先生は椅子を勧めた。


「昨日、神父からお話を伺いました。ご自身をイエス・キリストであると主張されていると」


「はい」


「まず確認しますが、それは比喩ではなく、文字通りですか」


「文字通りです」


「ナザレのイエスであると」


「はい」


「一世紀のユダヤに生まれ、十字架刑に処された、あのイエスであると」


「はい」


「復活されたという理解でよろしいですか」


 俺は少し考えた。


「復活というより、再起動に近いです」


 神父が咳払いした。山辺先生はメモを取った。


「再起動、と」


「そこ、記録するんですか」


「一応」


 俺は不安になった。これは後で教義化されないだろうか。『第二の再起動論』とか言われたら困る。


 山辺先生は顔を上げた。


「では、いくつか質問させてください」


「どうぞ」


「あなたは、ご自身を神であると認識していますか」


 いきなり重い。俺は天井を見た。


「その質問、昨日から何度も考えているんですが」


「はい」


「俺は、自分が神であるというより、神と特別な関係にあるとは思っていました」


「神の子、という意味ですか」


「それに近いです。ただ、あなたたちの言う『神の子』が、俺の感覚とどれくらい同じなのかは分かりません」


 山辺先生は黙って頷いた。


「では、三位一体についてはどうお考えですか」


「正直に言うと、用語が難しいです」


「父と子と聖霊が、三つの位格でありながら唯一の神である、という教義です」


「聞けば聞くほど、俺抜きで会議した感じがします」


 神父が目を閉じた。山辺先生は少しだけ口元を緩めた。


「実際、公会議で整理されました」


「やっぱり」


「ただし、それは教会が勝手に作ったというより、聖書と信仰体験をもとに、誤った理解から信仰を守るために定式化したものです」


「なるほど」


「たとえば、あなたをただの人間とする理解、あるいは神に見えるだけで本当の人間ではないとする理解、その両方を退ける必要がありました」


「俺の人間性と神性を守るために」


「そうです」


「俺本人に確認せずに」


 山辺先生は沈黙した。俺も沈黙した。神父が少しだけ胃を押さえた。


「確認できなかったので」


 山辺先生は、静かに言った。


「教会は、残された証言と信仰によって理解するしかなかったのです」


 その言葉は、思ったより重かった。確認できなかった。そうだ。俺はいなかった。彼らは俺抜きで進むしかなかった。俺の言葉、俺の死、俺を見た人々の証言。それを握って、二千年を歩いた。俺がいない場所で、俺の意味を失わないようにした。


 それは、傲慢なのか。それとも、誠実なのか。俺には、すぐに判断できなかった。


 質問は続いた。


「あなたは、原罪をどう理解していますか」


「人間が最初から背負っている壊れやすさ、みたいなことなら分かります」


「アダム以来の罪としての原罪は?」


「そこまで体系立てて話した覚えはないです」


「では、贖罪については?」


「俺の死が人々に何かを開くとは思っていました。でも、その後の説明はかなり複雑ですね」


「あなたの十字架の死は、人類の罪を贖うためだったと教会は信じています」


「はい。検索しました」


「検索」


「現代人はすぐ検索しますね。あれは危ないです」


「便利ではあります」


「便利すぎて、祈る前に検索してしまう」


 山辺先生は少し笑った。


「それは現代の課題ですね」


 俺は机の上の十字架を見た。


「俺の死が、誰かの救いになったなら、それを否定したくはありません」


「はい」


「でも、俺が苦しんだから神が満足した、みたいに聞こえる説明は、少し怖いです」


 神父が顔を上げた。山辺先生のペンが止まった。


「それは、贖罪論の一部に対する批判としては理解できます」


「批判というより、違和感です」


「神の義と愛の関係は、非常に深い問題です」


「深くしすぎて、穴になってませんか」


 山辺先生は黙った。俺はすぐに謝った。


「すみません。言い方が悪かったです」


「いえ。率直でよいです」


 神父はよくなさそうな顔をしていた。山辺先生はページをめくった。


「では、あなたにとって救いとは何ですか」


 俺は少し考えた。


「神の前で、自分が完全ではないと知って、それでも捨てられていないと知ること」


 部屋が静かになった。山辺先生は、今度はメモを取らなかった。神父も黙っていた。俺は続けた。


「人は、自分を正しくしようとしすぎると、他人を裁き始めます。自分が清いと確認したくなって、汚れた人を探す。自分が正しいと証明したくなって、間違った人を必要とする」


 二人は聞いていた。


「でも、神の前では、みんな足りない。だから、互いに完全性を要求しなくてよくなる。俺は、そういう方向を見ていました」


 山辺先生は、静かに言った。


「それは、とてもキリスト教的です」


 俺は苦笑した。


「本人なので」


 神父も、今度は少し笑った。


 しかし、和やかな時間は長く続かなかった。山辺先生は、パソコンに何かを打ち込み、画面をこちらに向けた。そこには、いくつかの項目が並んでいた。


 主な懸念点


 一、三位一体教義への明確な同意がない。

 二、贖罪論について一部表現に抵抗を示す。

 三、本人性の主張が強く、教会の教導権との関係が不明。

 四、既存教義を「後世の解釈」と表現する。

 五、「再起動」という独自概念を使用。


「五番、消してもらえませんか」


「記録としては残します」


「絶対に後で揉めるやつです」


 山辺先生は画面を戻した。


「正直に言えば、あなたを洗礼志願者として扱うのは難しいです」


「やっぱり」


「通常の求道者であれば、教義を学び、受け入れていく過程があります。しかし、あなたの場合、ご自身が教義の対象であると主張されている」


「はい」


「そのため、教義を受け入れるというより、教義を検査する立場に立ってしまう」


「それは、まずいんですね」


「教会に属するという意味では、かなりまずいです」


 神父が補足した。


「信仰は、個人の理解だけでなく、教会の共同体に入ることでもあります」


「共同体」


「はい。自分だけのイエス理解ではなく、教会が受け継いできた信仰に加わることです」


 俺は、少しうつむいた。自分だけのイエス理解。本人なのに、自分だけ扱い。おかしい。でも、おかしくない。教会は二千年、俺を一人にしなかった。俺を物語にした。祈りにした。歌にした。制度にした。救いにした。その共同体から見れば、突然現れた俺は、むしろ異物だ。


「つまり」


 俺は言った。


「今の教会に入るには、俺は俺本人である前に、教会が伝えてきた俺を信じる必要がある」


 山辺先生は、答えにくそうにした。神父は目を伏せた。俺は笑った。


「大丈夫です。分かります」


 本当に分かった。悲しいくらい、分かった。


 面談が終わるころ、山辺先生が言った。


「一つ、お願いがあります」


「何ですか」


「あなたの主張が外に出ると、混乱が起きます」


「俺がイエスだという話ですか」


「はい」


「まあ、そうでしょうね」


「信徒の中には、傷つく人もいるでしょう。信仰を揺さぶられる人もいる。逆に、あなたを利用しようとする人も出るかもしれない」


「利用」


「宗教商法、陰謀論、新宗教、政治運動、ネット炎上。現代にはいろいろあります」


 現代、怖い。


「ですので、しばらくは慎重に行動してください」


「つまり、俺は黙っていた方がいい」


「少なくとも、自分がイエスだとSNSに投稿するのは避けてください」


「SNS」


「現代の群衆です」


 それは分かりやすかった。山辺先生は続けた。


「昔なら、山の上で話せば、その場にいる人に届きました。今は、一言が世界中に届きます。そして文脈を失って拡散します」


「俺の言ってない名言集が増えますね」


「増えます」


 俺は身震いした。


「分かりました。投稿はしません」


「ありがとうございます」


 教会を出る時、神父が玄関まで見送ってくれた。


「また来てもいいですか」


 俺が尋ねると、神父は少し驚いた顔をした。


「もちろんです」


「入信できなくても?」


「教会は、祈る人を拒みません」


「異端気味でも?」


 神父は苦笑した。


「そこは、祈りながら考えましょう」


「便利な保留ですね」


「信仰には保留も必要です」


 それは、いい言葉だった。たぶん、この人の言葉だ。俺の名言集に混ぜないようにしよう。


 教会を出ると、外は曇っていた。雨が降りそうだった。スマホの天気予報を見る。午後から雨。降水確率七十パーセント。人間は、雨の可能性まで数字にするようになっていた。すごい。でも、雨は止められない。予測して、傘を持つ。逃げる。備える。やり過ごす。それは、昔と変わらない。


 駅前のコンビニで傘を買った。透明なビニール傘。開いてみると、空が透けて見えた。俺はそのまま歩いた。


 途中、小さな神社があった。ビルとビルの間に押し込まれるように、鳥居が立っている。誰もいない。賽銭箱。しめ縄。小さな社。


 俺は足を止めた。


「あなたは、誰ですか」


 もちろん、返事はない。しかし、その返事のなさが、少し落ち着いた。


 俺が知っている神は、語る。言葉があり、啓示があり、契約があり、命令がある。でもこの小さな神社の神は、何も言わない。ただ、ある。いるかどうかを証明しようともしていない。人間を救うと約束しているわけでもない。世界の意味を説明しているわけでもない。ただ、そこに場所があり、人がたまに来て、頭を下げる。


 俺は賽銭箱の前に立った。現代のお金をまだよく分かっていなかったが、小銭を一つ入れた。手を合わせる。何を祈ればいいのか分からなかった。この神に、俺の問題を相談しても困るだろう。俺が俺についての宗教に入れない問題は、かなり特殊だ。


 しばらく考えて、俺は言った。


「お邪魔しました」


 それだけだった。すると、後ろから声がした。


「兄ちゃん、外国の人?」


 振り返ると、作業着姿の老人が立っていた。手には竹ぼうき。神社の掃除をしていたらしい。


「はい。昔の中東から来ました」


「へえ。観光?」


「まあ、そんなところです」


 老人は社を見た。


「ここ、なんもないよ」


「なんもないのに、祀ってるんですか」


「なんもないから、祀っとくんだよ」


 俺は少し驚いた。老人は竹ぼうきで落ち葉を集めながら言った。


「なんかあるところは、放っといても人が見るだろ。なんもないところは、忘れるからな」


「忘れないために?」


「そんな立派なもんでもないけどな。昔からあるから、掃除してるだけ」


 昔からあるから、掃除している。それは、祈りに似ていた。


「神さまは、何かしてくれるんですか」


 俺が聞くと、老人は笑った。


「さあな。なんかしてくれたら儲けもんだな」


「怒ったりは?」


「するかもしれん」


「怖くないですか」


「地震みたいなもんだろ。怖いけど、引っ越せないしな」


 俺は黙った。老人は続けた。


「まあ、寝ててくれりゃいいよ」


「寝てる神さま」


「起きると面倒だからな」


 俺は、思わず笑った。ゴジラみたいだ、と思った。普段は寝ている。起きると暴れる。倒せない。だから、寝ていてもらう。それは、俺の知っている神とは違った。だが、妙に分かる気もした。


「あなたの神さまは、何を命じるんですか」


 老人は首をかしげた。


「命じる?」


「はい」


「別に」


「では、何のために祀るんですか」


 老人は少し考えた。


「しょうがないからだな」


「しょうがない」


「山も川も天気も、こっちの都合じゃ動かんだろ。だから、まあ、よろしくお願いしますって言っとく」


 よろしくお願いします。それは、契約ではない。服従でもない。説明でもない。もっと生活に近い。


 俺は小さな社を見た。もし神が、命令する上位者ではなく、人間の生活圏に重なる巨大な力なのだとしたら。もし祈りが、従うことではなく、距離を取って暮らすことなのだとしたら。俺は、少しだけ軽くなった。


 少なくとも、この神社では、俺が何者かを問われなかった。神であるか。神の子であるか。三位一体に同意するか。正統か異端か。何も聞かれなかった。俺はただ、小銭を入れて、手を合わせて、帰る人だった。


 ホテルに戻るころ、雨が降り始めた。透明な傘に、雨粒が当たる。パラパラと音がする。


 俺はスマホを取り出し、今日のメモを書いた。教会は俺を判断する。神社は俺を放っておく。書いてから、少し乱暴だと思った。教会が悪いわけではない。教会には教義がある。共同体がある。守ってきたものがある。だから、問う。あなたは何を信じるのか。あなたは誰なのか。あなたは正統か。


 神社は、少なくとも今日の小さな神社は、問わなかった。そこにある。来る人は来る。去る人は去る。何かが起きないように、掃除する。


 俺は、どちらが正しいのか分からなかった。ただ、今の俺には、問われない場所が少しありがたかった。


 その時、スマホが震えた。知らないアプリの通知だった。昨日、調べ物をしているうちに、なぜか宗教関連の動画が大量におすすめされるようになっていた。画面には、派手なサムネイル。


 【衝撃】現代にキリスト再臨!? 教会関係者が困惑か


 俺は固まった。


「……早くない?」


 動画を開く。顔を隠した誰かが、興奮気味に話していた。


「ある地方教会に、自分をイエス・キリストだと名乗る人物が現れたという情報が入りました。教区の神学担当者も動いているとのことです」


 俺はスマホを落としそうになった。


「山辺先生、SNSに気をつけろって言った本人側が漏れてない?」


 いや、誰が漏らしたかは分からない。受付かもしれない。通行人かもしれない。ただの偶然かもしれない。現代の情報網は怖すぎる。


 コメント欄が流れていた。


「ついに再臨きた?」

「本物なら奇跡見せろ」

「どうせ炎上商法」

「教会が隠してるのでは」

「異端審問不可避」

「本人確認どうすんの」

「マイナンバーある?」


 俺は頭を抱えた。


「現代の群衆、石を投げる代わりにコメントを投げるのか……」


 そして、一つのコメントで手が止まった。


「本物なら、今の教会をどう思うか聞きたい」


 俺は画面を見つめた。それは、俺も知りたかった。今の教会を、俺はどう思うのか。俺の言葉を守ろうとした場所。俺の言葉を固めすぎた場所。俺の名で人を救った場所。俺の名で人を傷つけた場所。俺抜きで俺を語り続けた場所。一言で答えられるはずがなかった。


 スマホがまた震えた。今度は、教会からの着信だった。俺は少し迷って、出た。


「はい」


 神父の声がした。


「イエスさん、今どちらに?」


「ホテルです」


「動画を見ましたか」


「見ました」


「こちらでも確認しました。申し訳ありません。誰が情報を出したのかは分かりません」


「大丈夫です。二千年前も、噂はすぐ広まりました」


「ただ、今回は速度が違います」


「はい。怖いです」


 神父は少し黙った。


「実は、教区から正式に連絡がありました」


「俺、破門ですか。まだ入ってませんけど」


「違います」


 神父は深く息を吸った。


「明日、司教様がお会いしたいそうです」


 司教。また増えた。


「……神学担当者の次は司教ですか」


「はい」


「その次は?」


 神父は黙った。俺は天井を見た。


「まさか、ローマまで行きます?」


 神父は、さらに黙った。


「行くんですか?」


「可能性は、あります」


 俺はベッドに倒れ込んだ。


「俺についての会議、グローバル化してる……」


 電話の向こうで、神父が小さく言った。


「イエスさん」


「はい」


「逃げても構いません」


 その言葉に、俺は少し驚いた。


「逃げる?」


「はい。あなたが何者であれ、これは大きすぎます。人々があなたを利用するかもしれない。傷つけるかもしれない。あなた自身も、傷つくかもしれない」


 神父の声は、昨日よりずっと人間らしかった。


「教会はあなたを見極めようとするでしょう。社会はあなたを追いかけるでしょう。信徒はあなたに答えを求めるでしょう。でも、あなたにそれを全部背負う義務があるのか、私には分かりません」


 俺は黙って聞いていた。


「だから、逃げても構いません」


 俺は窓の外を見た。雨が降っていた。台風ではない。災害でもない。ただの雨。それでも、人は傘を差す。


「神父様」


「はい」


「俺、昔も逃げた方がよかったんですかね」


 電話の向こうで、息を呑む気配がした。俺はすぐに言った。


「すみません。困る質問でした」


 神父は、少し時間を置いて答えた。


「私は、神学的には答えを持っています」


「はい」


「でも、人間としては、分かりません」


 それは、今まで聞いたどんな教義より、俺に近かった。


「明日、司教様に会います」


 俺は言った。


「逃げないんですか」


「傘は買いました」


「え?」


「逃げる準備ではなく、雨に備える準備です」


 神父は少し笑った。


「では、明日お迎えに上がります」


 電話が切れた。俺はスマホを置いた。


 外では雨が続いていた。俺についての噂は、もう広がり始めている。教会は動き出している。現代の群衆はコメント欄に集まり始めている。


 俺は、透明な傘を部屋の隅に立てかけた。明日は司教に会う。その先は分からない。


 ただ一つだけ、今日分かったことがある。神が来たとき、人間は問う。あなたは本物か。あなたは教義に合うか。あなたは奇跡を見せるか。あなたは私たちを救うか。


 でも、小さな神社の老人は言った。寝ててくれりゃいい。


 俺はベッドに横になり、目を閉じた。


「父よ」


 また言葉が止まった。父。神。俺。教義。祈り。どれも重い。だから、今日はこう祈ることにした。


「明日、できれば炎上しませんように」


 そして俺は、現代で二度目の眠りについた。


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