第1話 本人確認からお願いします
イエス・キリスト本人が現代日本に再誕し、自分を信仰する宗教に入信しようとする話です。
本人より、本人についての教義の方が強いという問題に直面します。
気づけば、見慣れない場所にいた。公園らしかった。ベンチに座っている。周りの人々の服装が変だ。いや、変なのは私の方か?
手の中に、見慣れない板切れがある。白く光を放っていた。私は目をつぶる。この感覚は——ああ、懐かしい。かつて啓示を受けた時の様だ。今回賜ったのは、この時代の言葉と常識。それから、この板切れ——スマホというらしい——の使い方。そして、あれから二千年以上が経っているということ。
私、いや、俺はゆっくりと目を開いた。手を見る。若い。あの時より、だいぶ若い。二十五くらいか。服も変わっていた。薄い布の上着と、藍色の厚い布の下穿き。足元は白い靴。ローブではない。ポケットに手を入れると、財布が入っていた。生活には困らないだろう。たぶん。
「今回はなんか偏ってるな」
思わず声に出た。啓示というものは、もっと重大なことを告げるものだと思っていた。山が震え、光が降り、使命が与えられる。そういうものだ。なのに今回は、スマホの使い方。これで調べればよいということだろうか。
俺はスマホを手に取った。指が、自然に動く。検索窓に、なぜか自分の名前を入れていた。
『イエス・キリスト』
検索結果は、すぐに出た。画像。解説。動画。宗教。世界史。絵画。映画。十字架。教会。神の子。救世主。三位一体。第二位格。受肉した神。
「……俺、めちゃくちゃ有名になってない?」
しかも、ただ有名なだけではなかった。世界宗教。信徒数、約二十数億人。
「二十数億?」
声が裏返った。俺は公園のベンチで正座した。スマホの画面を見つめる。二十数億。多い。多すぎる。いや、待て。俺はそんな大規模展開を頼んだ覚えがない。弟子たちには話した。群衆にも話した。たとえ話もした。祈り方も教えた。でも、二十数億人規模の国際組織になるとは。
しかも検索結果の肩書きが重い。神の子。救世主。受肉した神。三位一体の第二位格。
「名刺に入りきらないだろ、これ……」
俺はさらに画面をスクロールした。キリスト教。カトリック。正教会。プロテスタント。聖公会。福音派。改革派。ルーテル派。バプテスト。メソジスト。ペンテコステ派。
「分裂しすぎでは?」
俺がいない間に、俺をめぐって、人類は細かくなっていた。しばらく検索を続けた。公会議。教義論争。異端。破門。神学。贖罪論。原罪。三位一体論。キリスト論。
「……俺の話、難しくなりすぎだろ」
俺は頭を抱えた。隣人を愛せ。敵のために祈れ。貧しい者は幸いである。そういう話だったはずだ。簡単な話ではないが。でも、少なくとも、こんな専門用語の山ではなかった。
ひとしきり確認した、その日の午後、俺は近所の教会に行くことにした。せっかくだ。俺を信じる宗教に、自分で入信してみよう。これほど確認が簡単な入信希望者もいないだろう。本人だし。
そう思っていた。その時点で、俺はかなり甘かった。
教会は、思っていたより小さかった。大きな石造りでもない。丘の上でもない。商店街から少し外れた、住宅地の中にある白い建物。入口には十字架があった。俺はそれを見て、少し足を止めた。
「……それ、シンボルにしたのか」
検索した時に気になったが、確信になった。胸の奥が、軽くざわついた。もちろん、今の人たちに悪気がないのは分かる。十字架は、救いの象徴になったのだろう。信仰の印になったのだろう。でも本人からすると、やはり少し複雑だった。処刑具である。
俺は深呼吸して、中に入った。受付にいた女性が、にこやかに顔を上げた。
「こんにちは。初めての方ですか?」
「はい。初めてです」
これは嘘ではない。少なくとも、この教会は初めてだ。
「礼拝の見学ですか?」
「ええと、できれば入信について知りたくて」
女性の顔が明るくなった。
「まあ。ありがとうございます。神父様をお呼びしますね」
ありがとうございます、というのも不思議だった。俺が入るのに、なぜ相手が礼を言うのか。
しばらくして、穏やかな顔の男性が現れた。黒い服。白い襟。神父らしい。
「ようこそ。お名前を伺っても?」
「イエスです」
神父は一瞬止まった。
「……イエス、さん?」
「はい」
「外国の方ですか?」
「そうですね。かなり昔の中東出身です」
神父は、丁寧に笑った。
「ああ、なるほど。洗礼名として、イエスという名に親しみをお持ちなのですね」
「いえ。本名です」
「本名」
「はい」
沈黙が落ちた。俺も、これは少し面倒な始まり方だったかもしれないと思った。
神父は椅子を勧めてくれた。小さな面談室。机の上には聖書が置かれている。
「では、信仰に関心を持たれたきっかけを伺ってもよろしいですか?」
「朝、目が覚めたら公園にいて、自分が神様になっていると知ったので」
神父は静かに瞬きをした。
「……比喩として、でしょうか?」
「いえ。かなり文字通りです」
「あなたは、ご自分がイエス・キリストであると?」
「はい」
「それは困りました」
「俺も困ってます」
神父はしばらく俺を見ていた。怒ってはいない。ただ、どう扱うべきか迷っている顔だった。
「こういう場合、普通は少し慎重に進めます」
「分かります。俺でもそうします」
「ただ、入信について知りたいということでしたら、まずキリスト教の基本からお話ししましょう」
「お願いします」
神父は聖書に手を置いた。
「キリスト教は、イエス・キリストを神の子、救い主と信じる信仰です」
「そこからもう少し相談したいです」
「はい?」
「神の子、という表現は分かります。でも、それを後世の人たちがかなり厳密な概念にしたようで」
「三位一体のことでしょうか」
「たぶん、それです」
神父は少し表情を引き締めた。
「三位一体は、父と子と聖霊が唯一の神であるという、キリスト教の中心教義です」
「中心なんですね」
「はい」
「俺、それをその用語で説明した覚えがないんですが」
神父は沈黙した。俺も沈黙した。部屋の空気が少し重くなった。
「あなたが本当にイエスであるかどうかは別として」
神父は慎重に言った。
「今のお言葉は、かなり危ういです」
「危うい」
「三位一体を否定するように聞こえます」
「否定というか、本人確認です」
「本人確認」
「俺が言ったことと、俺について後世が整理したことを、いったん分けたいだけです」
神父は深く息を吐いた。
「それは、神学的には大変な問題です」
「俺の存在より?」
「場合によっては」
「本人より教義が強いんですか?」
神父は答えなかった。その沈黙が、答えだった。
入信面談は、思ったより難航した。神父は親切だった。本当に親切だった。俺の話を頭から否定しなかった。警察も呼ばなかった。精神科のパンフレットも、少なくとも目の前には出さなかった。ただ、質問が進むたびに、俺はどんどん危ない人になっていった。
「あなたは、イエス・キリストが真の神であり真の人であると信じますか?」
「その言い方は、後から整理された感じがします」
「では、信じないのですか?」
「本人としては、当時そんな分類で自分を見ていなかったというか」
「本人として、という言い方は一度置きましょう」
「はい」
「では、教会の信仰として受け入れますか?」
「受け入れる、とは?」
「教会が伝えてきた信仰に同意するということです」
「自分についての後世の解釈に同意する、ということですか?」
「……そう言われると、少し変な響きになりますね」
神父は額に手を当てた。俺は申し訳なくなった。この人は悪くない。むしろ誠実だ。ただ、俺がここにいること自体が、制度に対する嫌がらせみたいになっている。
「では、こうしましょう」
神父は言った。
「あなたが本当に何者であるかは、今は判断しません。ただ、洗礼を受けるには、教会の信仰を受け入れる必要があります」
「つまり、俺が俺であっても、教義に同意しないと入れない」
「そうなります」
「なるほど」
俺は妙に納得した。これは信仰というより、所属条件なのだ。教会という共同体に入るなら、その共同体が採用している言葉と理解を受け入れる必要がある。それは分かる。ただ問題は、その共同体の中心にいるはずの俺が、その所属条件に引っかかっていることだった。
「ちなみに」
俺は尋ねた。
「俺が、俺についての教義に一部同意できない場合、どうなりますか?」
神父は一拍置いた。
「異端的と判断される可能性があります」
「本人なのに?」
「本人かどうかは、教会が判断する必要があります」
「教会が俺を判断する」
「はい」
「人間が作った俺についての解釈で、俺を判断する」
神父は、今度ははっきり困った顔をした。
「言い方を変えていただけると助かります」
「俺も助かりたいです」
帰り道、俺は商店街を歩いていた。夕方の光が、アスファルトに長く伸びている。自転車が通る。小学生が笑いながら走っていく。パン屋から甘い匂いがする。世界は、俺が知っていた頃よりずっと複雑で、ずっと便利で、ずっと騒がしい。
けれど、人の顔はあまり変わらなかった。急いでいる人。疲れている人。誰かを待っている人。一人で歩く人。誰かと笑う人。
俺はコンビニの前で足を止めた。店内には雑誌が並んでいた。表紙の一つに、俺らしき人物が描かれていた。白い服。長い髪。優しい目。光の輪。
「……俺、そんなに髪きれいだったかな」
中に入って雑誌を手に取る。宗教入門特集。初心者にもわかるキリスト教。俺は買った。自分の入門書を買うのは、なかなか不思議な経験だった。
近くの公園のベンチに座って、ページを開く。そこには、俺の言葉が載っていた。
『汝の隣人を愛せよ』
それは言った。これは言ったと思う。
『右の頬を打たれたら、左の頬をも向けなさい』
これも、たしかに言った。言ったが、こうして活字になると、なんだか武術の構えみたいだった。
さらにページをめくる。
『神は乗り越えられない試練を与えない』
俺は止まった。
「……俺、これ言った?」
記憶を探る。言っていない気がする。少なくとも、その文面では言っていない。検索すると、どうやら聖書のどこかの言葉が、だいぶ変形して広まっているらしい。
「俺の言ってない名言集、あるなこれ」
怖くなって検索した。あった。大量にあった。俺の名前で、俺の言っていない言葉が、世界中に転がっていた。
「毎朝、神に感謝して笑顔で始めましょう」
言った覚えがない。
「愛とは、相手を変えようとしないことです」
いいことではあるが、俺ではない。
「成功するまで祈り続けなさい」
それは少し商売の匂いがする。
「主はあなたの夢を応援しています」
誰だ、主。俺か。俺なのか。
俺はベンチで頭を抱えた。しかし、その時だった。隣のベンチに座っていた老婦人が、ぽつりと言った。
「その言葉、好きなの?」
俺は顔を上げた。老婦人は、俺の雑誌を見ていた。
「ええと、確認中です」
「確認?」
「自分が言ったかどうかを」
老婦人は少し笑った。
「変な人ね」
「よく言われます。今日だけで」
老婦人は鞄から小さなロザリオを取り出した。
「私はね、夫を亡くした時、その言葉に助けられたの」
「どの言葉ですか?」
「神は乗り越えられない試練を与えない、って」
俺は黙った。
「本当は、聖書そのままの言葉じゃないらしいけどね」
老婦人はロザリオを指でなぞった。
「でも、その時の私は、それで立っていられたの。朝起きて、ご飯を食べて、葬式の手続きをして、役所に行って。何もできないと思ったけど、あの言葉があったから」
俺は、何も言えなかった。俺の言っていない言葉だった。でも、その人を救っていた。「言ってないから偽物です」と言えるのか。言えなかった。俺の言葉ではない。でも、俺についての物語から生まれた言葉だ。そして、その物語の中で、人がなんとか生きていた。
老婦人は俺を見た。
「あなたも、何かつらいことがあるの?」
「あります」
「祈るといいわ」
「誰に?」
老婦人は少し考えて、笑った。
「神さまに」
「その神さまが、だいぶ俺の知らない姿になっていたら?」
「それでも、聞いてくださるんじゃない?」
俺は空を見上げた。夕方の雲が、少し赤くなっていた。俺は、神が聞いているかどうかを考えた。それから、自分が聞かれている側なのか、聞く側なのか、分からなくなった。
夜、俺は安いビジネスホテルの部屋にいた。この時代では、どうやらスマホ一つで宿が取れるらしい。奇跡のような仕組みだ。いや、奇跡と言うと語弊がある。これは人間の技術だ。人間すごい。
二千年で、こんなことになっていた。水道。電気。空調。ネット。冷蔵庫。自動販売機。電子レンジ。深夜でも明るい街。俺がいない間に、人間はずいぶん遠くまで来ていた。
そして、俺もずいぶん遠くまで運ばれていた。神の子。救い主。教義。宗派。戦争。宣教。植民地。慈善。病院。学校。迫害。祈り。音楽。絵画。名言。異端。
俺はベッドに座り、今日買った雑誌を閉じた。
「俺は、俺について何を信じればいいんだ?」
変な問いだった。本人なのに、自分についての信仰に追いつけない。
けれど、今日見た老婦人の顔が頭から離れなかった。あの人は、俺の言っていない言葉で立っていた。それを偽物と切り捨てることは、俺にはできない。でも、だからといって、何でも俺の言葉にされるのも困る。
後世の解釈。制度。教義。救い。誤読。祈り。それらは全部、俺から離れて育っていた。
俺は小さくつぶやいた。
「……俺、入信できるのかな」
その時、スマホが震えた。画面には、昼間の教会からのメールが届いていた。件名。
『面談の件について』
本文は短かった。本日はお越しいただきありがとうございました。神父様より、改めてお話を伺いたいとのことです。ただし、次回は教区の神学担当者も同席いたします。
俺は画面を見つめた。
「増えた」
一人では処理できなくなったらしい。つまり、俺についての会議が始まる。俺抜きで進んできた二千年分の会議に、ついに本人が呼ばれる。
俺はベッドに倒れ込んだ。
「また裁かれるのか、俺」
天井は白かった。知らない天井。知らない時代。俺について、俺より詳しい人たちの世界。
そして俺は、現代で初めて、心から祈った。
「父よ」
そこで止まった。この呼び方も、今ではかなり神学的に重い。俺はしばらく考えて、言い直した。
「……誰でもいいから、明日ちょっと助けてくれ」




