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第10話 安全確保のための一時的移動です

 行き先を知らされない旅は、思ったより不安だった。


 荒野を歩いたことはある。湖を渡ったこともある。人の家に泊まったこともある。行く先で何が起きるか分からないことには、昔から慣れているつもりだった。


 だが、現代の移動は違う。


 道が多い。


 高速道路。一般道。鉄道。空港。バス。タクシー。徒歩。地図の上には線が無数に引かれていて、そのどれもがどこかへつながっている。


 昔は、道はもっと単純だった。町から町へ。井戸から井戸へ。丘を越え、谷を抜ける。道は、人が歩いたあとにできていた。


 現代では、人が歩く前から道がある。


 しかも、記録される。


 どこで乗ったか。どこで降りたか。どこに泊まったか。誰といたか。何を買ったか。どのカメラに映ったか。


 現代では、旅をすると足跡が残る。


 そして俺の足跡は、残ると困るらしい。


「ナザレさん」


 隣の榊原さんが言った。


「はい」


「移動中の基本確認をします」


「基本確認」


「はい」


 榊原さんは、端末ではなく紙の資料を取り出した。


「スマホは原則として私が管理します」


「俺のスマホですか」


「はい」


「天啓で使い方を教わったのに」


「現代のリスク管理上、預かります」


「神からの導線が、法務さんに止められています」


「位置情報が漏れるよりはましです」


 正論だった。


「連絡はどうしますか」


「必要な連絡は、私の端末を経由します」


「教皇様からメールが来た場合は」


「私が確認します」


「メル友なのに」


「その表現は控えてください」


「はい」


 榊原さんは紙を一枚めくった。


「次に、奇跡についてです」


 神父が前の座席で小さく肩を動かした。山辺先生は、膝の上で胃薬の箱を握った。


「奇跡は原則として行わないでください」


「はい」


「特に、水をワインに変える行為、食品を増やす行為、病気や負傷に対する直接的な治癒行為、水上歩行、死者蘇生は、事前確認なしに行わないでください」


「具体的ですね」


「想定されるリスクが大きいので」


「死者蘇生は、事前確認があればいいんですか」


「ありません」


「では、なぜ事前確認なしにと」


「文書上の表現です」


「表現は大事ですね」


「はい」


 表現は大事だったのだろう。


 俺の言葉は、俺がいない間にずいぶん大きくなり、ずいぶん揉めた。


 榊原さんは続けた。


「宗教的な発言についても注意してください」


「俺の発言は、だいたい宗教的に見えますね」


「はい」


「困りますね」


「困っています」


 即答だった。


「たとえば、誰かに『救われますか』と聞かれた場合」


「はい」


「その場で断定しないでください」


「分かりました」


「『神は見ています』も、場面によっては危険です」


「かなり昔から使われてきた言い方ですが」


「現代では、録画されます」


「それは危険ですね」


「はい」


 榊原さんは、淡々としていた。


 だが、彼女が言っていることは、よく分かった。


 俺の言葉は、もう俺だけのものにならない。誰かが切り取る。誰かが広げる。誰かが祈りに使う。誰かが武器にする。誰かが商売にする。誰かが誰かを黙らせる。


 言葉は、昔からそうだった。ただ、現代では速い。


「では、何を話せばいいんですか」


 俺が聞くと、榊原さんは少し考えた。


「天気、食事、移動の感想、一般的な観光の話題」


「神の国の話は」


「避けてください」


「隣人愛は」


「状況によります」


「悔い改めは」


「避けてください」


「父の話は」


「絶対に避けてください」


「父、避けられるんですね」


「今は避けてください」


 神父が前の席で深く息を吐いた。山辺先生は、低い声で言った。


「神学的には非常に複雑ですが、危機管理としては妥当です」


「ありがとうございます」


 榊原さんが言った。


「褒めてはいません」


「承知しています」


 山辺先生は胃薬を飲んだ。


 車は高速道路を走っていた。


 都市の景色が少しずつ遠ざかっていく。ビルが低くなり、看板が減り、遠くに山が見え始めた。


「どこへ向かっているんですか」


 俺は聞いた。


「現時点ではお答えしません」


「俺、誘拐されているみたいですね」


「保護移動です」


「言葉が違うだけでは」


「大きく違います」


「どう違うんですか」


「あなたが同意しています」


「行き先を知らされていませんが」


「必要な範囲で同意しています」


「現代の同意、難しいですね」


「はい」


 榊原さんは窓の外を見た。


「不安ですか」


「少し」


「申し訳ありません」


 その言葉は、少し意外だった。


「謝るんですか」


「はい」


「榊原さんが決めたことなのに」


「必要だと思って決めています。でも、不安を与えていることは事実です」


 俺は、しばらく彼女を見た。


 彼女は冷たくない。


 冷たく見えるようにしているだけだ。


 冷たくしないと、たぶん止められない。俺も、周囲も、教会も、教皇様すらも。


 その役割は、かなり重い。


「俺は、不安です」


 俺は言った。


「はい」


「でも、榊原さんがいるなら、少しましです」


 彼女は、すぐには返事をしなかった。


 山辺先生が、また咳をした。神父が前を向いたまま、静かに祈り始めた気配がした。


「そうですか」


 榊原さんは、ようやく言った。


「はい」


「では、その信頼を裏切らないようにします」


「ありがとうございます」


「ただし」


「はい」


「信頼と問題行動の許可は別です」


「分かっています」


「水をワインにしないでください」


「今は水もワインもありません」


「念のためです」


 念のため。現代の祈りに近い言葉だと思った。


 しばらく走ったあと、車はサービスエリアに入った。


 ここで休憩するらしい。


 サービスエリア。天啓で知識はあった。高速道路の途中にある休憩施設。トイレ、食事、土産物、給油、休憩。


 だが、実際に見るのは初めてだった。


 広い駐車場。大型トラック。観光バス。家族連れ。自動販売機。ラーメン。そば。ソフトクリーム。地域限定のお菓子。犬を連れた人。眠そうな運転手。


「ここは、町ですか」


 俺が言うと、榊原さんが振り返った。


「休憩施設です」


「休憩施設にしては、かなり生きていますね」


「表現が独特です」


「昔なら、市場に近いです」


「確かに、機能としては少し近いかもしれません」


 俺は入口の前で立ち止まった。


 人が多い。


 だが、誰も俺を見ていない。俺はただの外国人に見えるのだろう。少し背の高い、中東系の顔をした、若い男。隣に日本人の女性。後ろに神父と胃の悪そうな学者。


 十分目立つ気もするが、それでも「イエス・キリスト本人」よりはずっと目立たない。


「ナザレさん」


「はい」


「自然にしてください」


「自然」


「はい」


「自然とは」


「普通に歩いて、普通に買い物をして、普通に休憩してください」


「普通が一番難しいですね」


「慣れてください」


 俺たちは中へ入った。


 食券機があった。人々がボタンを押している。押すと券が出る。それを渡すと食事が出るらしい。


「少し奇跡に近くないですか」


「流通と厨房です」


「現代、奇跡っぽいものが多いですね」


「だいたい仕組みがあります」


「仕組みのある奇跡」


「それを奇跡とは呼びません」


 榊原さんは厳しい。


 俺は食券機の前に立った。


 メニューが多い。うどん。そば。カレー。ラーメン。定食。唐揚げ。親子丼。牛丼。コーヒー。


「何を選べばいいんでしょう」


「食べたいものを」


「選択肢がありますね」


「ここではあります」


 その言い方に、俺は少し笑った。


 ここでは選べる。


 ローマに残るか。教会に入るか。黙るか。語るか。奇跡を起こすか。


 それらは選べなかった。


 でも、うどんかそばかは選べるらしい。


「では、うどんにします」


「理由は」


「優しそうなので」


「食事選択としては妥当です」


 榊原さんは、自分の分の食券を買った。


「榊原さんは何を」


「カレーです」


「意外です」


「なぜですか」


「もっと、書類みたいなものを食べるかと」


「食べません」


「ですよね」


 食券を渡し、番号を呼ばれるまで待つ。


 その間、俺は周囲を見ていた。


 家族がいる。子どもがいる。高齢の夫婦がいる。作業服の男性がいる。旅行中らしき若者がいる。誰も、俺に救いを求めていない。誰も、俺の前で罪を告白しない。誰も、俺に奇跡を求めない。


 ただ、うどんを待っている。


 人間は、救われたい時もある。でも、昼にはうどんも食べたい。


 その事実が、少しありがたかった。


「ナザレさん」


 榊原さんが言った。


「番号、呼ばれています」


「あ、はい」


 うどんを受け取る。湯気が立っていた。


 席につく。神父はそばを食べていた。山辺先生はうどんを選んでいた。


「先生も、うどんですか」


 俺が聞くと、山辺先生は箸を持ったまま頷いた。


「胃に優しそうなので」


「同じ理由ですね」


「あなたの存在は、胃に厳しいので」


「すみません」


「謝らないでください。余計に胃が痛くなります」


 神父がそばをすすりながら、小さく笑った。榊原さんは、カレーを食べる準備をしていた。


「いただきます」


 俺は手を合わせた。榊原さんも、少し遅れて手を合わせた。


「いただきます」


 うどんは温かかった。


 やわらかく、塩気があって、出汁の香りがした。パンとは違う。魚とも違う。味噌汁とも違う。だが、どこかで田村家の食卓を思い出した。


「おいしいです」


「よかったです」


「榊原さんのカレーもおいしいですか」


「はい」


「辛いですか」


「普通です」


「普通の辛さ」


「はい」


「普通は難しい」


「食べますか」


 榊原さんが、少しだけ皿をこちらへ寄せた。俺は驚いた。


「いいんですか」


「味見程度なら」


「ありがとうございます」


 スプーンで少しもらう。カレーは、思ったより複雑な味がした。辛い。甘い。香りが強い。米に合う。


「これは、かなり強い食べ物ですね」


「日本では一般的です」


「日本、強いですね」


「それはたぶん、カレーの話です」


 俺は少し笑った。


 食事を終え、外へ出ると、土産物売り場の前に小さな屋台があった。


 ソフトクリーム。


 天啓で知っている。冷たい甘い乳製品。観光地でよく売られる。人はなぜか寒い日でも食べる。


 俺はそれを見た。


「ソフトクリームですね」


「はい」


「知っています」


「食べますか」


「食べたいです」


 言ってから、自分で驚いた。


 食べたい。


 かなり単純な言葉だった。


 救いたい。赦したい。祈りたい。確かめたい。壊したくない。


 そういう言葉ばかりを考えていた。


 食べたい、という言葉は軽い。でも、口にすると少し楽だった。


 榊原さんは売り場を見た。


「時間はあります」


「では」


「ただし、服にこぼさないでください」


「子ども扱いですね」


「現代の白い服は汚れます」


「白い服は昔から汚れます」


「なら、なおさらです」


 ソフトクリームを買った。


 白く、冷たく、手の上で少しずつ溶けていく。


 一口食べる。


 甘い。冷たい。不思議だった。


「どうですか」


 榊原さんが聞いた。


「知識より、冷たいです」


「それはそうでしょう」


「天啓に温度は入っていませんでした」


「便利なようで不便ですね」


「はい」


 俺は、もう一口食べた。


「榊原さん」


「はい」


「これは、かなり良いです」


「よかったです」


 彼女は少しだけ笑った。


 ほんの少しだった。


 だが、俺は見た。


 記録には残さない方がいい笑いだった。


 車へ戻る途中、売店の女性が俺たちに声をかけた。


「外国の方? 旅行?」


 俺は一瞬止まった。榊原さんが、すぐに答えようとした。


 だが、その前に俺は口を開いていた。


「はい。安全確保のための一時的移動です」


 榊原さんが固まった。売店の女性も固まった。神父が遠くを見た。山辺先生が胃薬を探した。


 榊原さんは、静かに俺の袖を引いた。


「ナザレさん」


「はい」


「その説明は、一般向けではありません」


「そうなんですか」


「はい」


 榊原さんは、売店の女性に向き直った。


「旅行です」


「あら、そうなの。楽しんでね」


「ありがとうございます」


 女性は笑って、手を振った。俺も小さく手を振った。


 車に戻ると、榊原さんは深く息を吐いた。


「外では、旅行で通します」


「安全確保のための一時的移動ではなく」


「はい」


「表現が変わりましたね」


「相手によって変えます」


「それでいいんですか」


「必要です」


「真理は一つでは」


「今は旅行です」


 神父が咳をした。山辺先生が、少しだけ笑った。俺も笑った。


 旅行。


 俺は旅行をしている。


 逃げているのではない。いや、少し逃げているのかもしれない。守られている。隠れている。時間を作っている。


 でも、うどんを食べた。ソフトクリームを食べた。誰かに旅行かと聞かれて、そうですと答えた。


 それは、たぶん嘘ではない。


 車が再び走り出す。


 行き先はまだ知らない。


 でも、少しだけ分かったことがある。


 神の子、家なき子。


 ナザレさんとして、日本を移動中。


 表向きは旅行。


 実務上は、安全確保のための一時的移動。


 そして俺は、ソフトクリームが好きかもしれない。


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