第11話 温泉は清めだけでなく癒しらしいです
車は、サービスエリアを出てからもしばらく走った。
高速道路の景色は、単調なようでいて、少しずつ違っていた。山が近づいたり、遠ざかったりする。畑が見える。川が見える。大きな看板が流れていく。時々、遠くに町が見える。
俺は窓の外を眺めていた。
ナザレさんとして、日本を移動している。
それだけなら、少し楽しいと言えたかもしれない。
うどんはおいしかった。ソフトクリームもおいしかった。サービスエリアは、昔の市場に似ていた。人は救いを求めるだけでなく、昼にはうどんを食べる。
人間は、それでいいのだと思う。
だが、楽しいだけでは終わらない。
俺は、今も保護対象者だった。
榊原さんは隣で端末を見ている。時々、画面を切り替える。移動経路。宿泊先。連絡。ニュース。SNS。たぶん、俺についての情報も見ている。
自分についての世間の反応を、隣の人が監視している。
なかなか不思議な状況だった。
「また出ていますか」
俺が聞くと、榊原さんは画面から目を離さずに答えた。
「出ています」
「どんなものが」
「見ない方がいいです」
「だいたい、そう言われますね」
「見る必要がありません」
「俺のことなのに」
「あなたのことだからです」
この言い方にも、少し慣れてきた。
俺のことだから、俺に見せない。俺の名前だから、俺に使わせない。俺の移動だから、俺に行き先を知らせない。
現代の保護は、少し変わっている。
「反応は、悪いですか」
俺は聞いた。
「悪いものもあります」
「良いものも?」
「あります」
「それは、見てもいいですか」
「よくありません」
「良いものも?」
「はい」
榊原さんは、ようやく画面から顔を上げた。
「良い反応も、危険です」
「どうして」
「期待になるからです」
俺は黙った。
「悪意は傷つけます。期待は縛ります」
彼女は淡々と言った。
「あなたは、悪意だけでなく、善意や期待からも距離を取る必要があります」
「善意からも」
「はい」
それは少し寂しい言葉だった。
だが、分かる。
母親が、病気の子を連れてきた時のことを思い出した。俺に治してほしいと願った。あれは悪意ではない。むしろ、祈りに近かった。
でも、その祈りは俺を縛った。
治せるのか。治せないのか。治すべきなのか。治さないなら、なぜなのか。
人の願いは、時々縄になる。
「では、俺は誰の期待にも応えない方がいいんですか」
「そうではありません」
「では」
「期待に応えるかどうかを、期待された瞬間に決めないでください」
榊原さんは言った。
「一度、距離を取ってください」
「距離」
「はい」
「それで、今、移動しているんですね」
「はい」
移動。距離を取る。時間を作る。
そのために、俺はナザレさんになった。そして、行き先を知らされずに日本を走っている。
しばらくして、車は高速道路を降りた。
一般道に入ると、景色が変わった。道の脇に田んぼが広がっている。古い家。新しい家。小さなスーパー。ガソリンスタンド。学校。川沿いの道。
空が広かった。
「ここはどこですか」
「県名までは言えます」
「では、お願いします」
「長野県です」
「長野」
天啓にある。山が多い県。内陸。避暑地。そば。善光寺。温泉。りんご。軽井沢。冬は寒い。
知識はある。
だが、窓の外の空気までは知らなかった。
「山が近いですね」
「はい」
「この国は、山が多い」
「そうですね」
「山の神さまには挨拶した方がいいですか」
前の座席の神父が、少しだけ振り返った。山辺先生が、胃薬の箱を握り直した。
榊原さんは即答した。
「現地の慣習に従う範囲でお願いします」
「キリスト教的には」
「私の管轄ではありません」
「法務的には」
「地元の方との関係を損なわない範囲であれば問題ありません」
「便利ですね、管轄」
「便利です」
やがて車は、小さな町に入った。
観光地というほど賑やかではない。だが、古い宿がいくつか並んでいる。道路沿いに小さな川が流れていた。橋がある。古い看板。足湯らしきもの。湯気。
「温泉ですか」
「はい」
「天啓で知っています」
「そうですか」
「地中から湧く温かい水。入浴や療養に用いられる。日本では観光資源でもある」
「説明は合っています」
「ただ、入ったことはありません」
「そうでしょうね」
「湯に入ること自体は、知らないわけではありません」
俺がそう言うと、山辺先生が後ろを向いた。
「清めのための水浴ですか」
「はい。そういうものはありました」
水に入ること。身を洗うこと。清めること。水は、ただの水ではなかった。人は水に意味を持たせる。汚れを落とす。穢れを落とす。過去を落とす。神の前に立つために、身を整える。
だが、窓の外に見える湯気は、少し違う気がした。
人々が、清めのためというより、休むために湯へ向かっているように見える。
「温泉に入るんですか」
「宿泊先に温泉があります」
榊原さんは、端末を確認しながら答えた。
「ただし、入浴作法については山辺先生から説明を受けてください」
「先生から?」
「はい」
「榊原さんではなく?」
「私は女湯です」
「なるほど」
「当然です」
「はい」
榊原さんは、そこだけ少し強く言った。
旅館は、古い木造の建物だった。
玄関に暖簾がかかっている。中に入ると、畳の匂いがした。田村家とは違うが、少し近い。靴を脱ぎ、スリッパに履き替える。受付には、年配の女性がいた。
「いらっしゃいませ」
榊原さんが前に出る。
「予約していた榊原です」
「はい。榊原様ですね。四名様で」
「はい」
「お部屋は四室で承っております」
「ありがとうございます」
四室。少し安心した。いや、何に安心したのかは自分でもよく分からない。
受付の女性が俺を見た。
「こちらの方は、外国の方ですか」
「はい」
俺は答えた。
「日本語、お上手ですね」
「天啓で」
榊原さんの視線が、横から刺さった。
「勉強しました」
俺は言い直した。
「まあ。すごいですね」
女性は笑った。
天啓は、一般向けではない。
「こちらにご記入をお願いします」
宿帳が出された。榊原さんが代表者として記入する。神父と山辺先生も、それぞれ記入した。俺の番になり、ペンを持つ。
苗字の欄に、ナザレ。
名前の欄に、ヨシュア。
ナザレ・ヨシュア。
自分ではないようで、自分でもある。
イエスとは書けない。キリストとも書けない。空欄も不自然だ。
現代では、人は書類に入るために名前を分けるらしい。
「ナザレ・ヨシュア様ですね」
「はい」
返事をする。
俺は、また少し別人になった。
部屋へ案内された。
和室だった。畳。低い机。座布団。窓の外に川。隅に茶器。押し入れ。床の間には花が生けてある。
旅館の部屋は、部屋というより、小さな場だった。客を休ませるために整えられている。
俺は荷物を置いた。
神父は隣の部屋。山辺先生はその向こう。榊原さんは同じ階の少し離れた部屋らしい。
「榊原さんは、別の部屋なんですね」
「当然です」
「なぜ当然なんですか」
「当然だからです」
「説明になっていません」
「説明が必要なことではありません」
「はい」
俺は素直に頷いた。
しばらくして、山辺先生が俺の部屋に来た。手には、紙が一枚ある。
「ナザレさん。入浴前に説明しておきます」
「お願いします」
「まず、ここから先は男湯です。榊原さんは来ません」
「それは分かります」
「念のためです。現代では念のためが大事です」
「榊原さんみたいなことを言いますね」
「影響を受けています」
山辺先生は、少し疲れた顔で言った。
「それと、こちらは榊原さんからの注意事項です」
「ここにも書類が」
「はい」
紙には、きれいな字で箇条書きがされていた。
一、湯船で泳がないこと。
二、湯船で歩かないこと。
三、水上歩行、または湯上歩行を試みないこと。
四、声に出して祈らないこと。
五、他者の病気や傷に触れないこと。
六、湯をワインにしないこと。
七、「聖なる湯」と断定しないこと。
「かなり具体的ですね」
「あなたの場合、具体的にしておいた方がよいそうです」
「湯をワインにする可能性を疑われている」
「疑われています」
「温泉を?」
「疑われています」
「しません」
「それを先に言ってください」
「しません」
山辺先生は頷いた。
「では、作法の説明に入ります」
「はい」
「脱衣所で服を脱ぎます。浴場に入ります。湯船へ入る前に、まず体を洗います」
「汚れを落とすんですね」
「はい。清潔のためです」
「それは分かります」
「その後、湯船に入ります」
「また水に」
「湯です」
「湯に」
「はい」
「なぜですか」
「温まるためです。疲れを取るためでもあります」
俺は少し考えた。
「清めだけではないんですね」
「はい」
山辺先生は、少しだけ言葉を選ぶようにして続けた。
「日本の湯浴みは、清めでもありますが、癒しでもあります」
「癒し」
「汚れも落とします。けれど、それだけではありません。体を温める。疲れをほどく。何も決めない時間を作る。そういうものでもあります」
「何も決めない時間」
「はい」
山辺先生は俺を見た。
「今日のあなたには、たぶん清めより癒しが必要です」
俺は、すぐには答えられなかった。
清め。
人は、汚れを落としたがる。罪を落としたがる。過去を落としたがる。神の前に立つために、自分を整えたがる。
でも、疲れはどうするのか。
疲れは、罪ではない。
疲れた人を、清める必要はない。休ませる必要がある。
「分かりました」
俺は言った。
「癒されてきます」
「はい。ただし、湯上歩行はしないでください」
「しません」
「祈りも、声には出さないでください」
「沈黙の祈りは?」
「周囲に影響しない範囲で」
「法務さんの許可が必要なんですね」
「念のためです」
俺は笑った。
念のため。現代の祈りであり、榊原さんの信仰告白である。
浴衣に着替え、山辺先生と廊下を歩く。
神父は少し後で入ると言っていた。どうやら、時間をずらすらしい。神父がいると、浴場の空気まで教会になってしまうかもしれない。
男湯の暖簾をくぐる。
脱衣所。籠。扇風機。体重計。鏡。水の音。誰かの話し声。
服を脱ぐという行為は、いつでも少し不思議だ。人は服で身分や役割をまとっている。神父は神父の服を着る。法務さんは法務さんの服を着る。俺は、いつの間にか白い服を着せられることが多い。
だが、脱衣所では、それらを脱ぐ。
神父も、学者も、旅人も、保護対象者も、ナザレさんも、少し薄くなる。
浴場に入ると、湯気が立っていた。
石の床。洗い場。椅子。桶。鏡。蛇口。シャワー。奥に大きな湯船。
人が数人いた。地元の人らしい。旅行者もいる。誰も俺を見ていない。いや、少しは見ているかもしれないが、すぐに視線を戻す。
裸の人間は、他人を見すぎないらしい。
「まず、ここで体を洗います」
山辺先生が小声で説明した。
「はい」
俺は見よう見まねで椅子に座り、体を洗った。
泡。湯。桶。シャワー。
現代の水は、蛇口から出る。いつでも出る。しかも温かい。
これを奇跡と言わないのは、少し無理がある気もした。
だが、仕組みがあるらしい。仕組みのある奇跡は、奇跡とは呼ばれない。
体を洗い、湯船の前に立つ。湯気が顔に当たる。
「入って大丈夫です」
山辺先生が言った。
「はい」
俺は、ゆっくり足を入れた。
熱い。思ったより熱い。
「熱いです」
「最初はそう感じるかもしれません」
「これは、罰ではないんですよね」
「違います」
「少し修行に近い」
「違います。無理をしないでください」
ゆっくり体を沈める。湯が肩まで来る。
熱い。だが、すぐに少し慣れた。
体の表面から、何かがほどけていく。
汚れが落ちるというより、力が抜ける。
何かを決めなければならない、という感覚が少し遠ざかる。
ローマでの沈黙。教皇様の目。神父の祈り。山辺先生の胃薬。榊原さんの書類。田村さんの風呂敷。塩むすび。俺の名前。
イエス。キリスト。ナザレ。ヨシュア。
どれも、湯気の向こうへ少し遠ざかった。
「どうですか」
山辺先生が、湯船の端で聞いた。
「清めではなく、ほどける感じです」
「良い表現ですね」
「記録しますか」
「今はしません」
「珍しい」
「裸ですから」
「裸だと記録しないんですね」
「できれば、神学も記録も服を着てからにしたいです」
俺は笑いそうになった。湯船では、大きく笑うのも少し違う気がして、静かに息を吐いた。
湯の中で、目を閉じる。
祈りの言葉は出さなかった。声に出して祈らないこと。榊原さんの注意事項にあった。
だから、黙っていた。
でも、黙っていることが、少し祈りに近かった。
この湯が、誰かの疲れをほどきますように。
この場所に来た人が、少しだけ軽くなりますように。
俺のように、名前が重くなりすぎた者にも、湯気の向こうで少しだけ休む時間がありますように。
それは、声には出さなかった。
しばらくして、山辺先生が言った。
「そろそろ上がりましょう。長湯は危険です」
「長く入ると危険なんですか」
「のぼせます」
「癒しにも限度がある」
「はい」
「救いも、聞きすぎると人を疲れさせるのかもしれませんね」
言ってから、俺は少し黙った。山辺先生も黙った。湯気の中で、先生の顔色がさらに悪くなった気がした。
「今のは、神学的に危険ですか」
「かなり」
「すみません」
「いえ」
山辺先生は、ゆっくり息を吐いた。
「でも、忘れない方がいい言葉だと思います」
湯から上がり、体を拭き、浴衣に着替える。
浴衣は、着方が少し難しかった。山辺先生が説明してくれた。
「左前にしないでください」
「なぜですか」
「亡くなった方の着せ方になります」
「それは避けたいですね」
「はい」
俺は慎重に着た。
死に関わる作法は、国ごとに違う。それもまた、人間らしかった。
廊下に出ると、少し涼しかった。湯上がりの体に、空気が気持ちいい。
部屋へ戻る途中、自動販売機があった。中に、瓶の牛乳が並んでいる。
「これは」
「湯上がりに飲む人が多いです」
「なぜ」
「文化です」
「また文化」
「はい」
俺は牛乳を買った。硬貨を入れる。ボタンを押す。瓶が出てくる。
少し奇跡に近い。だが、仕組みがある。
瓶の蓋を開け、飲む。冷たい。湯で温まった体に、冷たい牛乳が入る。
「これは、かなり強いですね」
「日本の温泉文化です」
「日本、強い」
「今日は温泉の話です」
部屋に戻ると、榊原さんが廊下にいた。
いつもの服ではなく、宿の浴衣だった。
俺は少し驚いた。
「榊原さんも、温泉に?」
「はい」
「癒されましたか」
「業務上の回答としては、疲労軽減効果がありました」
「業務外では?」
榊原さんは、少しだけ間を置いた。
「気持ちよかったです」
「よかったです」
彼女は、俺を見た。
「問題行動はありませんでしたか」
「ありません」
山辺先生が頷いた。
「湯上歩行はありませんでした」
「声に出した祈りは」
「ありません」
「湯をワインに」
「していません」
「よかったです」
榊原さんは本当に少し安心した顔をした。
俺は、その表情を見て思った。
この人は、湯に入っても法務さんなのだ。
でも、少しだけ榊原さんでもある。
夕食の時間になった。
部屋ではなく、個室の食事処だった。四人で同じ部屋に案内される。低い机に、小さな器がたくさん並んでいた。
魚。野菜。漬物。鍋。ご飯。味噌汁。茶碗蒸し。
「これは、祭りですか」
「夕食です」
榊原さんが言った。
「夕食が祭りのようです」
「旅館なので」
「旅館、強いですね」
「はい」
仲居さんが料理の説明をしてくれた。
地元の野菜。川魚。きのこ。味噌。米。
料理は、ただの食べ物ではないらしい。土地の説明でもある。
食事が始まる前、俺は手を合わせた。
「いただきます」
榊原さんも、神父も、山辺先生も、手を合わせた。
「いただきます」
その瞬間、少し安心した。
今日、俺はいろいろな名前を持った。
ナザレ。ヨシュア。保護対象者。旅行者。外国の方。
だが、食事の前には同じ言葉で済む。
いただきます。
この国の祈りは、やはり少し強い。
食事の途中、神父が静かに言った。
「温泉は、どうでしたか」
「清めだけではありませんでした」
「そうですか」
「癒しでもありました」
神父は、少し微笑んだ。
「それは、よかった」
山辺先生はうなずいた。
「今日のあなたには、必要だったと思います」
榊原さんは、何も言わずに鍋の火を見ていた。
俺は言った。
「榊原さん」
「はい」
「ありがとうございました」
「私は説明していません」
「でも、休ませてもらいました」
「それは、宿の効能です」
「榊原さんが、ここを選んだんでしょう」
榊原さんは、少しだけ黙った。
「安全上、適切だったので」
「はい」
「温泉があることは、副次的要素です」
「そうですか」
「はい」
彼女は、少しだけ視線を逸らした。
「ただし、疲労回復は必要でした」
「俺の?」
「全員です」
山辺先生が深く頷いた。
「特に私の胃に」
「先生はうどんも食べましたしね」
「明日もできればうどんがいいです」
神父が笑った。榊原さんも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
夕食が終わり、それぞれの部屋へ戻る。
廊下は静かだった。窓の外から川の音がする。
俺は自分の部屋へ入り、布団を見た。
一組だけ敷かれている。当然だ。
だが、その一組の布団を見て、少しだけ安心した。
今日は、一人で眠る。
誰かに祈られるわけでもない。誰かに見張られるわけでもない。もちろん、廊下のどこかで榊原さんは確認を続けているのだろうが、それでも部屋の中は静かだった。
布団に入る。体がまだ温かい。
湯に入ることは、清めだけではなかった。
汚れも落とす。疲れも落とす。決めなければならないことを、少しだけ遠ざける。
俺は目を閉じた。
ローマから帰ってきた。家はない。名前も変えた。行き先も知らない。
でも、今日は湯に入った。
湯は、俺を裁かなかった。教義も求めなかった。奇跡も求めなかった。
ただ、温かかった。
それで十分な夜もあるのだと、俺は初めて知った。




