第12話 教会関係者は目立ちます
翌朝、目が覚めると、体が軽かった。
奇跡ではない。
温泉だった。
榊原さんならそう言うだろう。
窓の外では川が流れていた。昨日と同じ音だった。ローマの石畳とも、日本の空港のざわめきとも違う。流れる水の音は、あまり人間に説明を求めない。
俺は布団の上でしばらく座っていた。
神の子、温泉で癒される。
もし見出しにされたら、榊原さんに怒られるだろう。
身支度をして部屋を出ると、廊下に山辺先生がいた。
「おはようございます」
「おはようございます」
先生は、昨日より少し顔色が良かった。
「先生、胃はどうですか」
「温泉とうどんのおかげで、少し持ち直しました」
「うどんは偉大ですね」
「はい。神学より胃に優しいです」
山辺先生は、そう言ってから少し考え込んだ。
「今の発言は、神学者としてどうなんでしょうね」
「記録しなければ大丈夫です」
「あなたも法務さんに似てきましたね」
「それは良いことですか」
「状況によります」
食事処へ行くと、すでに神父と榊原さんがいた。
朝食は、夕食ほど祭りではなかった。だが、やはり器が多かった。
焼き魚。卵。海苔。漬物。味噌汁。ご飯。小さな野菜。湯豆腐。
「朝から、かなり整っていますね」
「旅館なので」
榊原さんは、昨日と同じ答えをした。
「旅館、強いですね」
「はい」
神父は静かに手を合わせた。山辺先生も手を合わせる。俺も手を合わせた。
「いただきます」
この言葉には、毎回少し助けられる。
食事の前に、何かを決めなくていい。食べ物を作った人、生き物、土地、場に向けて、短く頭を下げる。誰が正しい神かを決めなくても、言える。
かなり便利で、かなり強い。
食事の途中、榊原さんは小さな封筒を机の端に置いた。
「食後に、短い会議をします」
「会議」
山辺先生の箸が止まった。神父が静かに顔を上げた。
「はい」
「今後の移動についてですか」
「はい」
榊原さんは、味噌汁を一口飲んでから言った。
「同行体制を変更します」
食卓が、少し静かになった。
俺は焼き魚を見た。今、魚をほぐしている場合なのかどうか、少し迷った。
榊原さんが視線だけで言った。
食べてください。
たぶん、そういう意味だった。
俺は魚を食べた。
会議は、朝食後に山辺先生の部屋で行われた。
旅館の一室に四人で集まると、少し不思議だった。
低い机。座布団。急須。窓の外には川。
ここで話す内容は、世界宗教の中心人物かもしれない青年の今後の身の振り方である。
部屋が、少し生活に寄りすぎている。
でも、ローマの会議室よりは息がしやすかった。
榊原さんが資料を広げた。
「ここから先、同行人数を減らします」
「減らす」
神父が言った。
「はい」
「私たちは、同行しない方がよいということですか」
「はい」
榊原さんは、はっきり答えた。
神父は黙った。山辺先生は、胃薬の箱をそっと机の上に置いた。
「理由を聞いても」
「もちろんです」
榊原さんは、資料を一枚こちらへ向けた。
「現在の同行体制は、外から見て非常に目立ちます」
「外国人青年、日本人女性、神父、神学者」
山辺先生が言った。
「はい」
「目立ちますね」
「かなり」
神父は少し困った顔をした。
「私は普通にしているつもりですが」
「服装と雰囲気で分かります」
「雰囲気」
「はい」
「神父の雰囲気」
「あります」
神父は少しだけ肩を落とした。
俺は言った。
「神父様は、神父様に見えます」
「あなたに言われると、少し不思議ですね」
「俺もナザレさんに見える練習中です」
「それは、かなり大変そうです」
「はい」
榊原さんは続けた。
「さらに、教会関係者が同行し続けることは、教会がナザレさんを管理している、あるいは囲い込んでいるという印象を与えます」
山辺先生が頷いた。
「実態が保護であっても、外からは囲い込みに見える」
「はい」
「そして、囲い込みに見えた瞬間、教会との距離を取るという方針と矛盾する」
「その通りです」
神父は目を伏せた。
「では、私たちが一緒にいること自体が、彼の危険になる」
「可能性があります」
榊原さんは、少しだけ声を落とした。
「また、お二人にも危険が及びます」
「私たちに」
「はい。身元が特定されれば、取材、接触、誹謗中傷、教会内部からの問い合わせが集中する可能性があります」
「問い合わせは、すでに少し来ています」
山辺先生が小さく言った。
「昨日の夜、メールが三十七件」
「先生」
「見てしまいました」
「見ないでください」
「法務さんに言われると、非常に説得力があります」
「見ないでください」
「はい」
榊原さんは、山辺先生を見た。
「山辺先生には、今後リモートで神学的確認をお願いする可能性があります」
「現場同行ではなく、後方支援ですね」
「はい」
「その方が胃に優しいかもしれません」
「ぜひ、そうしてください」
神父が静かに言った。
「私は」
「神父様には、教会側の窓口として残っていただきます」
「窓口」
「はい。ナザレさんが教会と完全に断絶した、という誤解を避けるためです。ただし、物理的には同行しない方がよいです」
神父は、しばらく黙った。
その沈黙は、祈りに似ていた。
やがて、神父は俺を見た。
「あなたは、どう思いますか」
どう思うか。
それは、かなり難しい質問だった。
一緒にいてほしい気持ちはある。
神父がいると、俺は自分が完全に教会から切り離されたわけではないと思える。山辺先生がいると、俺の言葉が神学的にどのくらい危険か、誰かが教えてくれる。
でも、榊原さんの言うことも分かる。
彼らがそばにいる限り、俺は「教会案件」に見える。
俺は教会を壊さないために、距離を取る必要がある。
なら、教会の人たちとも少し離れなければならない。
「寂しいです」
俺は正直に言った。
神父が、少しだけ目を細めた。山辺先生は胃薬の箱を見つめた。
「でも、必要だと思います」
俺は続けた。
「俺が教会から距離を取ると言いながら、神父様と先生にずっと守られていると、たぶん誰かが意味を付けます」
「そうですね」
山辺先生が言った。
「意味は、すぐ発生します」
「はい」
「そして今回は、発生速度が速い」
「はい」
神父は、静かに息を吐いた。
「分かりました」
榊原さんが、わずかに頭を下げた。
「ありがとうございます」
「ただし」
神父は、榊原さんを見た。
「彼を一人にしないでください」
「しません」
即答だった。
「彼は、自分のことよりも先に、周囲を壊さないことを考えてしまう」
「承知しています」
「そのせいで、自分が壊れることに気づかないかもしれません」
「承知しています」
「なら、お願いします」
「はい」
神父は俺に向き直った。
「ナザレさん」
まだ少し言いにくそうだった。
「はい」
「私たちは、同行しません。ですが、見捨てるわけではありません」
「分かっています」
「祈っています」
俺は少し迷った。
祈られることは、今でも少し怖い。期待になるからだ。
だが、神父の祈りは、俺を縛るためのものではないように思えた。
「ありがとうございます」
俺は言った。
「ただ、俺のために祈りすぎないでください」
神父が少し驚いた顔をした。山辺先生が目を伏せた。榊原さんは俺を見た。
「祈りすぎると、神父様も疲れるでしょう」
俺はそう続けた。
神父は、やがて少し笑った。
「分かりました。ほどほどに祈ります」
「ほどほどの祈り」
「日本にいると、そういう言い方も許される気がしますね」
山辺先生が小さく咳をした。
「神学的には危険ですが、精神衛生上は必要かもしれません」
「先生」
榊原さんが言う。
「今の発言は記録しません」
「ありがとうございます」
それから、今後の連絡方法が決められた。
神父とは、必要時のみ榊原さん経由で連絡する。
山辺先生には、宗教的・神学的に危険な発言が発生した場合、確認を依頼する。
教皇様からのメールについても、内容によっては山辺先生に相談する。
「教皇様からのメールは、まだ続くんですね」
山辺先生が、やや青い顔で言った。
「たぶん」
俺は答えた。
「メル友なので」
「その表現はやめてください」
榊原さんが即座に言った。
「はい」
「教皇様との非公式連絡と表現してください」
「長いですね」
「メル友より安全です」
「安全な言葉」
「はい」
表現は大事だったのだろう。
俺の言葉は、俺がいない間にずいぶん大きくなり、ずいぶん揉めた。
会議が終わると、神父と山辺先生は荷物をまとめることになった。
二人は別の車で戻る。
俺と榊原さんは、別ルートで移動を続ける。
旅館の玄関で、神父が俺の前に立った。朝の光が差していた。
「あなたを、何と呼べばよいか、まだ迷います」
「俺も、何と呼ばれればいいか、まだ迷っています」
「では、今は」
神父は、少し考えてから言った。
「ナザレさん」
「はい」
「どうか、無事で」
「はい」
握手をした。神父の手は温かかった。
彼は俺を主とは呼ばなかった。呼ばないようにしていた。
それは、俺を軽く扱ったのではない。たぶん、俺を守るためだった。
山辺先生は、俺に小さなメモを渡した。
「これは」
「危険な表現リストです」
「また書類が」
「私が確認した限り、現代日本語で避けた方がよい言い回しをまとめました」
「ありがとうございます」
「特に、『私は道であり』から始める発言は避けてください」
「言いそうですか」
「言いそうです」
「気をつけます」
メモを受け取る。
俺の言葉を、俺自身が注意するためのメモ。
かなり不思議だった。
「先生」
「はい」
「胃を大事にしてください」
「あなたも、発言を大事にしてください」
「はい」
山辺先生は、少し笑った。
「では、お互いに」
「はい」
二人の車が出ていく。
俺は、旅館の前に立って見送った。
少しずつ、車が小さくなる。やがて角を曲がって見えなくなった。
教会との距離が、目に見える形で生まれた。
隣には、榊原さんだけが残っている。
「ナザレさん」
「はい」
「ここから先は、私とあなたの二人で移動します」
「はい」
「今まで以上に、行動には注意してください」
「はい」
「不安ですか」
「少し」
「私もです」
その答えは、意外だった。
「榊原さんも?」
「はい」
「法務さんでも?」
「法務担当でも、不安はあります」
「そうなんですね」
「はい」
榊原さんは、旅館の駐車場を見た。
「ただ、不安だからこそ、手順を守ります」
「手順」
「はい」
「祈りではなく」
「今は手順です」
「それも、必要なんですね」
「必要です」
俺は頷いた。
昨日の湯を思い出す。
清めだけではなく、癒し。
今日の別れを思う。
拒絶ではなく、距離。
日本語は、似たような言葉が少しずつ違う。
その違いで、人は壊れたり、救われたりする。
「これから、どこへ」
「直前までお答えしません」
「まだですか」
「はい」
「でも、二人で行く」
「はい」
榊原さんは、少しだけ言葉を選んだ。
「それに伴い、対外的な関係性を整理する必要があります」
「関係性」
「はい」
「保護対象者と担当者では」
「出せません」
「旅行者と同行者では」
「詮索されます」
「では」
榊原さんは、ほんの少しだけ間を置いた。
「次の移動中に説明します」
「今ではなく」
「はい」
「なぜ」
「旅館の玄関先で話す内容ではありません」
「それは、かなり気になる言い方ですね」
「車に乗ってください」
「はい」
俺たちは、榊原さんが手配した車に乗った。
榊原さんが運転するらしい。
「運転もできるんですね」
「日本では、できる人は多いです」
「現代人、強いですね」
「運転免許です」
車がゆっくり動き出す。
旅館が後ろへ流れていく。
神父も、山辺先生も、もういない。
教会関係者は目立つ。
だから、下りた。
俺は少し寂しかった。
でも、少しだけ軽くもあった。
教会との距離ができた。
その距離は、逃げではない。保護でもある。
神父が祈りすぎないように。先生の胃が壊れないように。教会が俺を抱え込みすぎないように。俺が、教会を壊さないように。
車は山道へ入った。木々の間から、朝の光が落ちてくる。
隣で、榊原さんがハンドルを握っている。
俺は前を向いた。
神の子、家なき子。
教会関係者を下ろし、法務さんと二人になった。
これは逃避行ではない。安全確保のための一時的移動である。
今のところは。




