第13話 偽装上は交際関係です
榊原さんの運転は、静かだった。
急に曲がらない。急に止まらない。速度も変に上げない。山道を下りながら、必要な分だけハンドルを切り、必要な分だけブレーキを踏む。
運転にも、その人の性格が出るらしい。
「榊原さん」
「はい」
「運転にも法務が出ますね」
「出ません」
「安全確認が多いです」
「運転では必要です」
「やはり出ています」
「安全運転です」
「法務さんらしいです」
「褒め言葉として受け取っておきます」
車は山を下り、少し広い道へ出た。
神父と山辺先生がいなくなると、車内はずいぶん静かになった。
神父の祈りの気配も、山辺先生が胃薬の箱を触る音もない。前の座席に誰もいない。ただ、榊原さんが運転し、俺が助手席に座っている。
世界宗教の中心人物かもしれない青年と、その保護担当者。
外から見ると、たぶんただの男女二人に見える。
それが良いのだろう。
そして、たぶん少し危ない。
「先ほどの話ですが」
榊原さんが言った。
「関係性の整理ですね」
「はい」
「旅館の玄関先で話す内容ではない、と言っていた」
「はい」
「今は車内です」
「はい」
「話せますか」
「話します」
榊原さんは前を見たまま、少しだけ息を吸った。
「ここから先、対外的には、私たちは交際関係にあることにします」
車内が静かになった。
いや、車は走っている。エンジン音も、タイヤの音も、風の音もある。
だが、俺の中では一度静かになった。
「交際」
「はい」
「関係」
「はい」
「交際関係」
「はい」
「男女の?」
「はい」
「偽装上」
「はい」
榊原さんは、まっすぐ前を見たまま答えた。
俺はしばらく考えた。
「恋人、ということですか」
「対外的には」
「恋人」
「偽装上です」
「偽装上の恋人」
「はい」
現代は難しい。
名前を変えたばかりなのに、今度は関係まで変わるらしい。
「理由を聞いても?」
「もちろんです」
榊原さんは、少しだけ速度を落とした。前方の信号が赤になった。
「まず、保護対象者と担当者という実態は出せません」
「はい」
「宗教関係者と同行者という説明も危険です」
「はい」
「仕事関係だと、勤務先や業務内容を聞かれる可能性があります」
「なるほど」
「兄妹設定は、見た目上かなり不自然です」
「それはそうですね」
「友人同士でも成立はしますが、宿泊先や移動先で詮索される場合があります」
「友人ではだめなんですか」
「だめではありません。ただ、説明が増えます」
「説明が増える」
「はい」
信号が青になり、車が進む。
「男女二人で旅行している場合、交際関係として受け取られる方が、説明コストが低いです」
「説明コスト」
「はい」
「愛ではなく」
「説明コストです」
「分かりました」
分かってはいない。
ただ、榊原さんがそう判断したのなら、たぶん必要なのだろう。
「俺は、何をすればいいんですか」
「基本的には、これまで通りで構いません」
「これまで通り」
「不用意な発言をしない。奇跡を起こさない。行き先を聞きすぎない。教会関係の話題を外で出さない」
「それは交際関係というより、保護対象者ですね」
「実態はそうです」
「偽装上は?」
「自然にしてください」
「普通に続いて、自然が来た」
「はい」
「一番難しいものが二つあります」
「慣れてください」
榊原さんは、道路沿いのコンビニを横目で確認した。
「具体的には、人前で私を法務さんと呼ばないでください」
「榊原さん」
「はい」
「玲子さんは」
「段階を踏んでください」
「偽装上は恋人なのに」
「偽装と呼称の段階は別です」
「難しい」
「社会生活です」
「社会生活、難しいですね」
「はい」
俺は窓の外を見た。
山が少し遠くなっている。道沿いに田畑が広がり、ところどころに古い家がある。二人で旅行している男女。
そう見えるのだろうか。
俺は神の子と呼ばれ、救い主と呼ばれ、主と呼ばれ、今はナザレさんと呼ばれ、偽装上の恋人になった。
人間の関係は、名前と同じくらい増える。
「必要に応じて、手をつなぐ場合があります」
榊原さんが言った。
「手を」
「はい」
「つなぐ」
「はい」
「必要に応じて」
「はい」
「どのような場合に必要ですか」
「人混み、詮索回避、移動誘導、迷子防止」
「最後は子ども扱いでは」
「あなたは行動が読みにくいので」
「否定できません」
俺は自分の手を見た。
昔、人に触れることはよくあった。病人に触れた。子どもに触れた。友人と食卓を囲んだ。足を洗った。裏切る者とも同じ卓についた。
だが、偽装上の交際関係として手をつなぐ、というのは初めてだった。
同じ手でも、意味が違う。
人間は、同じ行為にずいぶん多くの意味を入れる。
「榊原さん」
「はい」
「俺は、あなたに迷惑をかけていますね」
「はい」
即答だった。
「少し迷ってもよかったのでは」
「事実です」
「そうですね」
「ただし、迷惑だからやめたいという話ではありません」
「では」
「必要だからやっています」
「それも、少し寂しい言い方ですね」
「必要でなければ、ここまではしません」
榊原さんは、横断歩道の前でゆっくり止まった。
小学生らしき子どもたちが、列になって渡っていく。黄色い帽子。ランドセル。誰かがこちらを見た。俺と目が合い、すぐにそらした。
普通の車。普通の旅行者。そうであればいい。
「榊原さんは、なぜここまでしてくれるんですか」
「昨日も似た質問をされました」
「名前を聞いたから、もう少し聞いてもいいかと思いました」
「段階を踏んでいるんですか」
「たぶん」
子どもたちが渡り終え、車が動き出す。
榊原さんは少し黙ってから言った。
「最初は、変な外国人の対応だと思っていました」
「かなり正直ですね」
「事実です」
「今は?」
「今も、変な外国人ではあります」
「そこは変わらないんですね」
「はい」
「では、何が変わったんですか」
「放っておいていい人ではないと分かりました」
車内に、また少し静けさが落ちた。
俺は彼女を見た。榊原さんは前を見ていた。
「あなたは、選べない状況にいます」
「神の子なのに」
「はい。だからです」
「俺の選択は、俺一人のものにならない」
「はい」
「榊原さんは」
「私も、もう選べない側にいます」
その言葉は、思ったより重かった。
「なぜ」
「最初にリスクを見てしまったからです」
「見なかったことには」
「できません」
「法務だから?」
「それもあります」
「それ以外も?」
榊原さんは、すぐには答えなかった。
車は橋を渡った。下に川が流れている。昨日の旅館の川とは違う川だ。だが、水の音は少し似ている気がした。
「あなたが誠実だからです」
榊原さんは言った。
「誠実だと、危険なんですよね」
「はい」
「でも、放っておけない」
「はい」
「それは、職務ですか」
「職務です」
「それ以外は」
「今は、職務です」
今は。
その言葉を、俺は聞き逃さなかった。
だが、聞き返さなかった。
聞き返すと、何かが進みすぎる気がした。
距離が、今回のすべてだ。
近づきすぎても、遠ざかりすぎてもいけない。
「分かりました」
俺は言った。
「偽装上、俺たちは交際関係です」
「はい」
「外では、俺はあなたを榊原さんと呼ぶ」
「はい」
「必要に応じて手をつなぐ」
「はい」
「俺は、自然にする」
「はい」
「自然とは」
「普通にしてください」
「難しいものが二つ並びました」
「慣れてください」
しばらくして、車は小さな町に入った。
古い宿場町のようだった。道の両側に古い建物が並び、観光客が歩いている。土産物屋。甘味処。古民家を改装した店。看板。石畳に似せた道。
「ここで少し歩きます」
「観光ですか」
「はい」
「安全確保なのに」
「人目のある場所の方が安全な場合もあります」
「昨日も聞きました」
「何度でも言います」
「法務さんも繰り返しを嫌がりませんね」
「必要なら」
駐車場に車を停め、俺たちは外へ出た。
榊原さんは周囲を確認する。人の流れ、カメラ、出口、駐車場の位置。俺はそれを見ていた。
「榊原さん」
「はい」
「旅行者は、こんなに周囲を確認しますか」
「しません」
「では、自然ではないのでは」
「私が自然を担当すると不自然になります。あなたが自然にしてください」
「役割分担が難しい」
「はい」
歩き始める。
町並みは、静かだった。観光客はいるが、大声を出す人は少ない。古い木の家が並び、軒先には暖簾が揺れている。店先で団子を焼いている。甘い匂いがした。
「これは」
「五平餅かもしれません」
「ごへいもち」
「地域によって違いますが、米を潰して串に付け、味噌だれなどを塗って焼くものです」
「食べ物ですね」
「はい」
「食べたいです」
榊原さんは、少しだけ俺を見た。
「昨日から、食べたいと言うのが早くなりましたね」
「良いことですか」
「たぶん」
「たぶん」
「食べましょう」
店先で五平餅を買った。
熱い。香ばしい。味噌の匂いがする。手で持つと、少し重い。
一口食べる。
「これは、米なんですか」
「米です」
「米、形を変えすぎでは」
「日本ではよくあります」
「日本、米が強い」
「はい」
榊原さんも一口食べた。
その姿が少し普通だった。
いや、普通に五平餅を食べているだけなのだが、いつもの端末や書類を持っていない分、少しだけ榊原さんが榊原さんに見えた。
「何ですか」
「いえ」
「また見ています」
「自然確認です」
「不自然です」
「難しい」
歩いていると、店の前にいた年配の女性が声をかけてきた。
「あら、外国の方? 彼女さんと旅行?」
来た。
俺は口を開かず、榊原さんを見た。学習している。
榊原さんは、一瞬だけ止まった。そして、少しだけ笑った。
「はい。少し旅行で」
「いいわねえ。日本語上手ね」
「勉強しました」
俺は答えた。天啓とは言わなかった。
榊原さんの足が、今回は俺を踏まなかった。たぶん合格だ。
「仲良くね」
女性は笑った。
「ありがとうございます」
榊原さんが言った。
「ありがとうございます」
俺も言った。
女性は満足したように店の中へ戻っていった。俺たちは少し歩いた。
「今の対応は」
「良好です」
「やりました」
「ただし、嬉しそうにしすぎないでください」
「嬉しそうでしたか」
「少し」
「褒められたので」
「評価です」
「褒めではなく」
「評価です」
榊原さんは前を向いていた。
だが、耳が少し赤い気がした。
気のせいかもしれない。
確認すると問題行動になりそうなので、確認しないことにした。
しばらく歩くと、小さな橋があった。
橋の下には細い川が流れている。水は浅い。石が見える。子どもが一人、川べりで何かを探していた。
「ここなら、歩いて渡れそうですね」
俺が言うと、榊原さんがすぐに反応した。
「渡らないでください」
「水上歩行ではありません。浅瀬です」
「念のためです」
「靴が濡れるだけでは」
「濡らさないでください」
「はい」
水を見ると、昔のことを思い出す。
湖。嵐。船。怖がる弟子たち。水の上を歩いた時のこと。
あれは、今なら動画に撮られるのだろう。
そして、何度も再生され、切り取られ、疑われ、信じられ、真似され、誰かが溺れる。
榊原さんが止める理由は、やはり正しい。
「ナザレさん」
「はい」
「何か考えていますね」
「昔、水の上を歩いたことを」
「歩かないでください」
「今は歩きません」
「今後も、事前確認なしには歩かないでください」
「事前確認があれば」
「原則ありません」
「文書上の表現ですね」
「はい」
俺は橋の上で川を見た。
水は、ただ流れていた。
歩かれることも、祈られることも、証明に使われることも求めていない。ただ流れている。
少しうらやましかった。
昼を過ぎる頃、榊原さんは俺を小さな喫茶店へ連れて行った。
木の扉。古い椅子。窓際の席。コーヒーの匂い。
「休憩ですか」
「はい」
「安全確認ではなく」
「安全確認も含みます」
「含むんですね」
「はい」
席に座る。店員がメニューを持ってくる。
「ご注文は」
榊原さんはコーヒーを頼んだ。俺はメニューを見た。
「これは」
「クリームソーダですね」
「知っています」
「飲みますか」
「飲みたいです」
「昨日から甘いものが続いています」
「現代の甘いものが強いので」
「それは否定しません」
クリームソーダが来た。
緑色の飲み物。泡。上にアイスクリーム。赤いさくらんぼ。
「これは、かなり祭りですね」
「飲み物です」
「飲み物に氷菓が乗っている」
「はい」
「現代人、境界を越えますね」
「食文化です」
一口飲む。甘い。冷たい。しゅわしゅわする。
「これは、少し危険です」
「なぜですか」
「楽しいです」
「それは危険ではありません」
「俺にとっては、少し危険かもしれません」
榊原さんは、コーヒーを置いた。
「どういう意味ですか」
「楽しいと、忘れそうになります」
「何を」
「自分が逃げていることを」
「逃げているのではありません」
「安全確保のための一時的移動」
「はい」
「でも、少し逃げています」
「はい」
榊原さんは、今回は否定しなかった。
「逃げることが、必要な時もあります」
「法務さんがそれを言うんですね」
「撤退も危機管理です」
「なるほど」
「ただし、逃げ続けることはできません」
「いつか決める必要がある」
「はい」
俺は、クリームソーダの上のアイスを見た。少しずつ溶けている。
甘いものも、溶ける。
当たり前のことなのに、少しだけ寂しい。
「榊原さん」
「はい」
「俺は、いつかどこかに定住できるんでしょうか」
「そのために移動しています」
「移動しているのに」
「はい。居場所を作るための時間です」
「居場所」
「はい」
「教会ではない場所に?」
「おそらく」
榊原さんは、窓の外を見た。
「まだ分かりません。ただ、教会の中では近すぎる。完全に外だと遠すぎる。どちらでもない場所が必要です」
「そんな場所がありますか」
「探します」
「俺も探すんですか」
「はい」
俺は頷いた。
居場所を探す。
神の子なのに。
神の子だから。
喫茶店を出る頃には、午後の光になっていた。
駐車場へ戻る道で、若い男性がこちらを見ていた。
スマホを手にしている。
榊原さんの歩く速度が、ほんの少し変わった。
「ナザレさん」
「はい」
「自然に」
「普通に」
「はい」
男性はこちらへ近づいてきた。
「あの、すみません」
俺は足を止めそうになった。榊原さんが、半歩だけ前に出た。
「何でしょうか」
「外国の方ですよね。写真、いいですか」
写真。
普通の観光客として珍しかったのか。どこかで見た顔だと思ったのか。分からない。
榊原さんは、すぐに答えた。
「すみません。写真はお断りしています」
「あ、そうなんですか」
「はい」
「彼氏さん?」
男性は軽い調子で聞いた。榊原さんは、ためらわなかった。
「はい」
俺は反応しなかった。よく耐えたと思う。
「そうなんですね。すみません」
「いえ」
男性は去っていった。
榊原さんは、しばらくその背中を見ていた。
「大丈夫ですか」
俺が聞く。
「はい」
「写真は危険」
「危険です」
「彼氏さんという答えは」
「説明コストが低いです」
「なるほど」
車に乗る。しばらく二人とも黙っていた。
エンジンがかかる。駐車場を出る。
「榊原さん」
「はい」
「先ほどの、はい、は上手でした」
「評価しないでください」
「すみません」
「いえ」
「でも、助かりました」
榊原さんは、前を見たまま言った。
「私も、あなたが反応しなくて助かりました」
「学習しています」
「良いことです」
「褒めですか」
「評価です」
「評価でも嬉しいです」
「そうですか」
車は町を出た。夕方が近づいている。山の影が少し長くなってきた。
俺は、助手席で今日のことを考えていた。
偽装上、交際関係。
説明コストが低い。
手をつなぐ可能性がある。
写真は断る。
彼氏さんと聞かれたら、状況によって否定しない。
現代の旅は、奇跡より難しい。
「榊原さん」
「はい」
「これは、いつまで続きますか」
「分かりません」
「偽装上の交際関係も?」
「必要な間は」
「必要がなくなったら?」
「解除します」
「解除」
「はい」
「契約みたいですね」
「偽装ですので」
「なるほど」
俺は窓の外を見た。
夕方の光の中で、田んぼが金色に見える。
必要がなくなったら解除される関係。
それは、少し寂しい気がした。
だが、そう思ったことは言わなかった。
言えば、何かが進みすぎる気がした。
距離が、今回のすべてだ。
近づきすぎても、遠ざかりすぎてもいけない。
俺は、ナザレさんとして、日本を移動している。
隣には、榊原さんがいる。
偽装上は、交際関係。
実務上は、安全確保のための一時的移動。
そして俺は、クリームソーダが少し好きかもしれない。




