第14話 知識には、音がありませんでした
夕方が近づくにつれて、道の両側に建物が増えてきた。
大きな町ではない。けれど、人が暮らしている気配がある町だった。
スーパー。薬局。古い酒屋。床屋。小さな郵便局。バス停。学校帰りの子ども。犬を散歩させる人。畑の端に立つ軽トラック。
俺は助手席からそれを見ていた。
ローマの石畳も、人の暮らしの上にあった。
だが、日本の地方の町は、もう少し低いところにある気がした。
歴史がないという意味ではない。
威圧してこない。
人が洗濯物を干し、買い物をし、車を止め、犬を連れ、明日のゴミの日を気にしている。
そういう生活が、道路の横にそのままある。
「今日は、ここに泊まるんですか」
俺が聞くと、榊原さんは前を見たまま答えた。
「はい」
「今度も旅館ですか」
「今日はビジネスホテルです」
「ビジネス」
「はい」
「仕事の宿」
「おおむね、そうです」
「俺たちは仕事中ですか」
「安全確保中です」
「かなり仕事ですね」
「はい」
榊原さんは、信号で車を止めた。
「ただし、夜に少し外へ出ます」
「外へ?」
「はい」
「危なくないんですか」
「人が多い場所です。ルートも確認済みです」
「何があるんですか」
「花火です」
花火。
天啓にある。
火薬を用いて光と音を発生させる観賞用の催し。祭り、祝い、夏の風物詩。日本では各地で花火大会が行われる。
知識としては、知っている。
だが、見たことはない。
「火薬の存在は天啓で知りました」
「はい」
「用途も、危険性も、法規制も、だいたいは」
「では、危険なことはしないでください」
「しません。火薬は、俺の死後のものですから」
榊原さんは一瞬だけ黙った。
「言い方が重いです」
「そうですか」
「普通は、昔にはなかった、くらいでいいです」
「昔にはなかった」
「はい」
「その方が軽いですね」
「はい」
俺は頷いた。
現代では、言い換えで重さを調整するらしい。
ホテルに到着した。
前の旅館とはまったく違う建物だった。縦に高く、無駄が少ない。ロビーは明るく、受付は小さく、椅子も机も直線的だった。
「ここは、旅館ではないんですね」
「はい。ビジネスホテルです」
「部屋に畳は」
「ありません」
「夕食の祭りは」
「ありません」
「温泉は」
「ありません」
「かなり削られていますね」
「その分、機能的です」
「機能」
「はい」
受付では、榊原さんが手続きを進めた。
今回は二室だった。隣り合った部屋。
俺は少しだけ安心した。何に安心したのかは、やはりよく分からない。
「ナザレ様」
受付の人が俺を見た。
「はい」
「こちら、カードキーです」
「鍵が紙の札ではないんですね」
「カードです」
俺がカードを受け取ると、榊原さんがすぐ横から言った。
「なくさないでください」
「はい」
「財布に入れてください」
「はい」
「ポケットだけに入れないでください」
「はい」
「洗濯しないでください」
「俺は子どもですか」
「カードキーを洗濯する人は大人にもいます」
「現代人、意外と弱いですね」
「はい」
部屋は小さかった。
ベッド。机。椅子。テレビ。冷蔵庫。湯沸かし器。小さな浴室。窓。必要なものが、きれいに詰め込まれている。
「これは、箱ですね」
俺が言うと、榊原さんが部屋の入口から答えた。
「宿泊用の部屋です」
「人が休むための箱」
「だいたい合っています」
「旅館とは違いますね」
「目的が違います」
「目的が違うと、部屋も変わる」
「はい」
俺はベッドに腰を下ろした。柔らかい。
だが、旅館の布団とは違う。
「少し休んでください」
榊原さんが言った。
「花火は夜ですか」
「はい」
「楽しみにしてもいいですか」
そう聞くと、榊原さんは一瞬だけ表情を緩めた。
「はい」
「業務ではなく?」
「安全確認を含みます」
「含むんですね」
「はい」
「でも、楽しんでもいい?」
「はい」
俺は頷いた。
「では、楽しみにします」
榊原さんは、何か言いかけてやめた。
「どうしました」
「いえ」
「言ってください」
「あなたが楽しみにすることは、良いことだと思います」
俺は少し驚いた。
「そうですか」
「はい」
「法務上?」
「人としてです」
それだけ言って、榊原さんは少し気まずそうに視線を逸らした。
「一時間後に出ます。準備してください」
「はい」
扉が閉まる。俺は一人になった。
部屋は静かだった。
机の上に、ホテルの案内が置いてある。非常口の位置。朝食会場。館内設備。Wi-Fi。コインランドリー。
現代の宿は、かなり説明が多い。
説明が多い世界では、説明できないものが危険になる。
だから俺は、危険なのだろう。
一時間後、ロビーで榊原さんと合流した。
彼女は、昼間と少し違う服装だった。動きやすそうな服。鞄は小さめ。端末と書類は、おそらく中に入っている。
「浴衣ではないんですね」
「ビジネスホテルなので」
「花火には浴衣では?」
「人混みでの移動を優先します」
「安全確保」
「はい」
俺も、白い服ではなく、目立ちにくい服を着せられていた。
外国人であることは消せない。だが、少なくとも宗教画から出てきたようには見えないらしい。
「今日の俺は、ナザレさんに見えますか」
「見えます」
「イエスには?」
「見えません」
「それは良いことですか」
「今は、とても良いことです」
俺たちはホテルを出た。
花火会場へ向かう道には、すでに人が多かった。
家族連れ。浴衣の若者。手をつないだ子ども。屋台の匂い。焼きそば。たこ焼き。かき氷。りんご飴。人の声。提灯。
祭りだった。
「これは、かなり人が多いですね」
「はい」
「安全ですか」
「相対的には」
「相対的」
「人目があることは安全です。ただし、はぐれると危険です」
「では、俺はどうすれば」
榊原さんは、少しだけ間を置いた。
「手を」
「手」
「つなぎます」
偽装上。安全上。迷子防止上。
たぶん、いくつかの理由がある。
榊原さんは、手を差し出した。
俺は、その手を見た。
人の手。書類をそろえる手。端末を持つ手。俺の袖を引く手。危険な発言を止める手。ハンドルを握る手。
俺は、そっと握った。小さく、温かかった。
「強く握らないでください」
「はい」
「離さないでください」
「はい」
「勝手に立ち止まらないでください」
「はい」
「何か見つけても、急に行かないでください」
「はい」
「返事は良いですね」
「学習しています」
「良いことです」
人混みを歩く。
榊原さんの手を握っていると、確かに歩きやすかった。流れに乗れる。人の隙間を抜けられる。立ち止まるタイミングが分かる。
それに、少し安心した。
俺は彼女を守っているのではない。彼女が俺を人混みから守っている。
神の子、手を引かれる。
かなり見出しに向かない。
屋台の前で、俺は立ち止まりかけた。
「ナザレさん」
「はい」
「何を見ましたか」
「金魚すくいです」
「見たいですか」
「見たいです」
「行きましょう」
金魚すくい。
水の中に赤い魚が泳いでいる。子どもたちが紙の道具でそれをすくおうとしている。紙はすぐ破れる。魚は逃げる。子どもは真剣だ。
「これは、命をすくう遊びですか」
「そういう重い解釈をしないでください」
「でも、すくっています」
「金魚すくいです」
「人間は、すくうことも遊びにするんですね」
「今日は金魚の話です」
俺は頷いた。
今日は金魚の話。それ以上にしてはいけない。
榊原さんは、俺を別の屋台へ連れて行った。
「りんご飴です」
「知っています」
「食べますか」
「食べ方が分かりません」
「そこは天啓に入っていなかったんですか」
「概念だけでした」
りんご飴は赤く、つやつやしていた。
かじると、硬い。そして甘い。
「これは、かなり強い皮ですね」
「飴です」
「中にりんごがある」
「はい」
「隠れていますね」
「はい」
「人間は、果物まで包む」
「食文化です」
榊原さんは、少し笑った。
手は、まだつないだままだった。
りんご飴を片手で持つのは少し難しい。
それでも、手を離さなかった。
離さないでください、と言われたからだ。
それだけだ。
たぶん。
やがて、河川敷に着いた。
人々がシートを敷いて座っている。屋台の灯りが並んでいる。川の向こう側は暗く、その上に広い夜空があった。
「ここで見ます」
榊原さんが言った。
「はい」
少し離れた場所に腰を下ろす。
榊原さんは周囲を確認し、避難経路を確認し、端末で何かを確認した。
俺は夜空を見た。まだ何もない。ただ暗い。
「花火は、どこから」
「あちらです」
「上がるんですね」
「はい」
「火が空へ」
「はい」
「落ちてきませんか」
「安全距離が取られています」
「現代、火を空へ上げても安全距離を取るんですね」
「それが重要です」
しばらく待つ。
人々がざわざわしている。子どもの声。誰かの笑い声。屋台の発電機の音。川の音。
そして突然、音がした。
ひゅう、と空へ何かが上がる音。
次の瞬間、夜空が開いた。
白い光が、丸く広がった。
少し遅れて、腹の底に響く音が届いた。
どん。
俺は、言葉を失った。
知識には、音がなかった。
知識には、空気の震えもなかった。
知識には、隣で人が息をのむ気配もなかった。
火薬を使うことは知っていた。
色が出る仕組みも、爆発の原理も、危険性も、法規制も、天啓でだいたい知っていた。
でも、これは知らなかった。
人が一斉に空を見上げること。
光が消えたあと、少しだけ夜が深くなること。
音が胸に残ること。
隣の榊原さんの手が、まだ俺の手にあること。
また一つ、花が開いた。
赤。青。金。白。
火が、空に花を咲かせている。
「……人は」
俺は小さく言った。
「火薬で、花を作るんですね」
榊原さんは、夜空を見たまま答えた。
「はい」
「戦にも使えるものを」
「はい」
「祈りにも似たものにした」
榊原さんは、少しだけ黙った。
それから言った。
「今日は、ただ綺麗だと言ってください」
俺は夜空を見上げた。
大きな金色の花が開き、ゆっくり落ちていく。
「綺麗です」
「はい」
本当に綺麗だった。
火薬は、人を殺すこともできる。
それを空に上げ、光にして、音にして、誰かと見上げるものにする。
人間は、残酷なものを、ときどき祈りに変える。
それが救いなのか、忘却なのか、俺にはまだ分からない。
でも、その夜空は確かに綺麗だった。
花火が続く。
榊原さんは、隣で黙って見ていた。
いつものように端末を見ることも、周囲を確認することも、その瞬間だけ少し減っていた。
俺は、つないだ手に力を入れすぎないように気をつけた。
彼女も、手を離さなかった。
花火の途中で、近くの子どもが言った。
「すごいねえ」
その母親が笑った。
「綺麗だね」
それだけの会話だった。
でも、それで十分だった。
神の国について語る必要はない。
罪についても、救いについても、教義についても、今は語らなくていい。
花火が綺麗。
それだけで足りる時間がある。
最後に、大きな花火が連続で上がった。
夜空が白くなる。音が重なる。人々が拍手をした。
俺も、片手で拍手をしようとした。
だが、片手は榊原さんとつながっていた。
どうするか迷っていると、榊原さんが少しだけ手を離した。
俺たちは拍手をした。
花火が終わり、夜空が戻る。
暗さが戻ったのに、少し明るく感じた。
人々がゆっくり動き出す。
榊原さんは立ち上がった。
「混雑する前に移動します」
「はい」
「手を」
「はい」
俺たちはまた手をつないだ。
帰り道は、人が多かった。
だが、俺はあまり不安ではなかった。
榊原さんがいる。
それは、かなり大きい。
ホテルに戻る途中、俺は言った。
「榊原さん」
「はい」
「知っていることと、見たことは違いますね」
「はい」
「天啓は便利ですが、音まではくれませんでした」
「音は、現地確認です」
「現地確認」
「はい」
「法務さんらしい言い方ですね」
「事実です」
俺は少し笑った。
「では、今日は現地確認をしてよかったです」
「はい」
「榊原さんにも、そういうことはありますか」
「何がですか」
「知っていたけど、見たら違ったこと」
榊原さんは、少しだけ歩く速度を緩めた。
「あります」
「何ですか」
「言いません」
「業務外ですか」
「はい」
「では、いつか」
「段階を踏んでください」
「段階、多いですね」
「社会生活です」
ホテルに着く頃には、夜はすっかり深くなっていた。
ロビーを通り、エレベーターに乗る。人は少ない。
部屋の前で、榊原さんが足を止めた。
「今日は、問題行動は少なかったです」
「評価ですか」
「評価です」
「嬉しいです」
「ただし、金魚すくいの解釈は重すぎました」
「すくうという言葉が」
「今日は金魚です」
「はい」
「花火の解釈も、少し重かったです」
「戦にも使えるものを、と言ったところですか」
「はい」
「すみません」
「でも」
榊原さんは、少しだけ目を伏せた。
「綺麗だと言えたので、良かったです」
「はい」
「綺麗でした」
「はい」
廊下の灯りが、静かに二人を照らしている。
さっきまでの花火の音が、まだ胸の奥に残っていた。
「榊原さん」
「はい」
「今日は、ありがとうございました」
「安全確認です」
「現地確認では」
「それも含みます」
「含むものが多いですね」
「はい」
榊原さんは、自分の部屋のカードキーを取り出した。
「明日は移動します。朝は早いです」
「分かりました」
「カードキーをなくさないでください」
「財布に入れています」
「よろしい」
「子ども扱いですね」
「大人でもなくします」
「現代人、弱い」
「はい」
俺は自分の部屋に入った。
ベッドに腰を下ろす。窓の外に、花火はもうない。
だが、音は残っている。
知識には、音がなかった。
知識には、隣で人が息をのむ気配もなかった。
知識には、手をつないで人混みを歩く感覚もなかった。
天啓は、俺に多くを教えた。
だが、人として生きるには、どうやらそれだけでは足りない。
俺は、今日初めて花火を見た。
そして、火薬で作られた花を、綺麗だと思った。
それは、たぶん大事なことだった。




